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'''袁 甲三'''(えん こうさん、''Yuan jiasan''、[[1806年]] - [[1882年]])、字は'''午橋'''は[[清]]末の官僚。[[袁世凱]]の大叔父にあたる,官拜兵部尚書, 太子少保
'''袁 甲三'''(えん こうさん、''Yuan jiasan''、[[1806年]] - [[1863年]])、字は'''午橋'''は[[清]]末の官僚。[[袁世凱]]の大叔父にあたる。


[[河南省]][[項城]]の人。[[1835年]]に[[進士]]となり、官位を登っていき兵科給事中となった。[[1853年]]、[[安徽省]]で[[団練]]を組織する補佐をしていたが、漕運総督[[周天爵]]の死去で、その軍を預かることとなった。翌年、左副都御史に抜擢された。[[1856年]]、河南[[巡撫]][[英桂]]に従って[[捻軍]]を攻撃し、太僕寺卿に任命された。[[1859年]]には、漕運総督・[[欽差大臣]]となった。[[1861年]]、捻軍の[[張楽行]]の部隊を破り、反復常なき[[苗沛霖]]の団練を解散させた。[[1862年]]には[[多隆阿]]とともに[[陳玉成]]の守る[[合肥市|廬州]]を攻略した。。端敏の[[諡号]]を贈られた。光緒八年初任兵部大臣,逝.著作に『袁端敏公奏議』がある。
[[河南省]][[項城]]の人。[[1835年]]に[[進士]]となり、官位を登っていき兵科給事中となった。[[1853年]]、[[安徽省]]で[[団練]]を組織する補佐をしていたが、漕運総督[[周天爵]]の死去で、その軍を預かることとなった。翌年、左副都御史に抜擢された。[[1856年]]、河南[[巡撫]][[英桂]]に従って[[捻軍]]を攻撃し、太僕寺卿に任命された。[[1859年]]には、漕運総督・[[欽差大臣]]となった。[[1861年]]、捻軍の[[張楽行]]の部隊を破り、反復常なき[[苗沛霖]]の団練を解散させた。[[1862年]]には[[多隆阿]]とともに[[陳玉成]]の守る[[合肥市|廬州]]を攻略した。翌年、陳州での作戦中に死去。端敏の[[諡号]]を贈られた。著作に『袁端敏公奏議』がある。


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2008年7月9日 (水) 12:10時点における版

袁 甲三(えん こうさん、Yuan jiasan1806年 - 1863年)、字は午橋末の官僚。袁世凱の大叔父にあたる。

河南省項城の人。1835年進士となり、官位を登っていき兵科給事中となった。1853年安徽省団練を組織する補佐をしていたが、漕運総督周天爵の死去で、その軍を預かることとなった。翌年、左副都御史に抜擢された。1856年、河南巡撫英桂に従って捻軍を攻撃し、太僕寺卿に任命された。1859年には、漕運総督・欽差大臣となった。1861年、捻軍の張楽行の部隊を破り、反復常なき苗沛霖の団練を解散させた。1862年には多隆阿とともに陳玉成の守る廬州を攻略した。翌年、陳州での作戦中に死去。端敏の諡号を贈られた。著作に『袁端敏公奏議』がある。

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