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2008年2月22日 (金) 02:23時点における版
F1での経歴 | |
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国籍 | ブラジル |
所属チーム | フォルティ, リジェ, アロウズ, ザウバー |
活動時期 | 1995 - 2000 |
出走回数 | 99 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 10 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1995年ブラジルGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 2000年マレーシアGP |
タイトル | 0 |
ペドロ・ディニス(Pedro Paulo Falleiros dos Santos Diniz, 1970年5月22日 - )は、ブラジル出身の元F1ドライバー。サンパウロ出身。
ブラジル屈指のスーパーマーケットチェーン“ポン・デ・アスカール(Pão de açucar)”などを傘下に持ち、数々の事業を展開する企業グループの総帥として知られる、ブラジルでも有数の実業家アビーリオ・ディニスを父に持つ。
F1以前の経歴
1987年、17歳でカートを始め、翌年まで国内で選手権に出場、その後は4輪のレースに転向し、下記の通りのキャリアをたどったが、この間に特筆すべき成績は挙げていない。
1989年、フォーミュラ・フォード ブラジル選手権に参戦。
1991年から1992年にかけ、イギリスF3に参戦。
胎動
1993年、国際F3000にステップアップし、イタリアのフォルティ・コルセに加入した。
初年度はオリビエ・べレッタと、2年目は野田英樹とコンビを組んだ。
この時期も大した成績をあげたわけではないが、かねてよりF1にステップアップする計画を持っていたものの、資金の問題からステップアップできずにいた同チームは、ディニスの加入によって、それまでに比べてほぼ無尽蔵と言ってよい財源を得たことで、この計画に弾みをつけることとなった。実際、ディニスが在籍して以後、国際F3000から後のF1に到るまで、フォルティ・コルセはイタリアのチームでありながら、スポンサーはその大部分をブラジル企業が占めており、ディニス加入の影響は文字通り目に見えるものであった。
F1時代
筋金入りのペイドライバー
1995年、フォルティとともにステップアップし、F1にデビューした。
父アビーリオが経営するスーパーマーケットチェーンとの結びつきから、国際F3000時代から数々のブラジルの食品関連会社の援助を得ていた(※)が、F1進出にあたっては、他のスポンサーと同様の理由でイタリアの大手食品会社パルマラットもスポンサーとなり、ディニスは多額の資金援助を得ての参戦となった。これがため、必然的に「ろくな腕もないのに金でシートを買った単なるペイドライバーの一人」とみなされ、数年で消えるものと当初は思われた。
※スーパーマーケットチェーンへ製品を卸している取引会社にとっては、アビーリオに「息子を支援してくれないか」と迫られた場合、断る術が無いことは言うまでも無い
実際、初年度はフォルティの戦闘力の低さもあってディニスは際立った走りを示すこともなく、その走りは周囲のそうした低評価を裏付けるものであった。また、モータースポーツの最高峰であるF1においては、およそ聞いた試しの無い『ドライビング・アドバイザー』なるコーチ役(ルネ・アルヌー)を伴いレースに臨む姿は、F1ドライバーとしての能力を疑問視するには充分なものと言えた。そんな状況下、アルゼンチンGPでピットストップに際して車が炎上した際は、それがディニスの過失によるものではないにも関わらず、イギリスのサン紙で「ディニス丸焼け("Diniz in the Oven")」と題して写真記事が配信されるなど、半ばピエロのような扱いを受けもした。そうしたことから、翌年、中堅チームのリジェに移籍することが発表された際には、驚きとともにリジェへの批判の声も少なくなかった。言うまでもなく、この移籍はスポンサーの移籍を伴うものであり、ディニスという資金源を失ったフォルティは翌年途中でF1からの撤退を余儀なくされた。
1996年、リジェに移籍し、スペインGPで初入賞した際も、前戦モナコGPで当時のチームメイトオリビエ・パニスが優勝していたこともあり、大して注目されることもなかった。実際、この年までのディニスは、金でシートを買っただけの単なるペイドライバーとみなされても仕方のない水準にとどまっていたといって差し支えない。
覚醒…?
1997年、アロウズに移籍し、前年度のワールドチャンピオンであるデイモン・ヒルとコンビを組んだ。この年は、ディニスにとっての転機となった。ドライバーズサーキットとして知られるスパ・フランコルシャンサーキットで開催されたベルギーGPにおいて、このサーキットを得意なコースのひとつとしていたヒルを予選で上回るという快挙を演じるなど、何度か予選でヒルを上回ることに成功し、これにより、それ以前は半ば問題外とされていたドライバーとしての能力を見直させ、周囲からの評価を高めた。ディニス自身、後にこのシーズンを回想し、「ドライバーとしてヒルから学んだことは多かった」と成長の契機となったことを認め、ヒルに感謝の言葉を述べている。
翌1998年、ヒルに代わってミカ・サロをチームメイトに迎える。この年のアロウズは戦闘力に欠けたが、決して評価が低くないチームメイトに対して食い下がり、決勝ではモナコGPとベルギーGPの入賞2回を記録し、最終的に獲得ポイントでチームメイトと並んだ。この頃になると、もともとディニスが抱えるスポンサーは魅力的であっただけに、実力もそこそこと認められたことで、中堅チームからも加入の誘いが来るようになった。
ザウバー
1999年はザウバーに移籍。それほど目覚しい活躍をしたわけではなかったが、幾つかの幸運も味方につけ、年間ランキングでチームメイトのジャン・アレジを上回るポイントを獲得した。
2000年、ザウバーにとどまり、移籍してきたサロと再びコンビを組んだ。前々年同様、予選ではサロに分があり、この年は決勝でもサロが着実にポイントを積み上げたのに対して、ディニスはノーポイントに終わり、結果的に実力の差を見せつけたサロの前に完敗した。
突然の引退
ドライバーとしての評価は「極めて潤沢なスポンサーマネーを抱え、そこそこの走りも持っているドライバー」というあたりで完全に定着し、翌2001年のシートも、2000年末で切れるザウバーとの契約を延長して残留、あるいはフェラーリエンジンを搭載するため資金を欲していたプロスト・グランプリへ移籍するための仮契約を済ませている、などという数々の噂がささやかれた。
しかし、シーズンも終わり、年明けも間近に迫った12月初頭、ディニスは自身への評価と30歳というまだ若い年齢にも関わらず、ドライバーとしての引退を電撃的に発表。同時に、プロスト・グランプリの共同オーナーに就任することを明らかにし、周囲を驚かせた。
その後
前年末にプロスト・グランプリの株式40%を取得したことで、2001年は共同オーナーという形でプロストチームに参画したが、残りの株式を取得しチームの運営権を握ろうとしたところ、これにはアラン・プロストが一貫して拒否の姿勢をとったため、同年8月にはチームから手を引き、同チームがこの年限りで消滅することを見ることもなく、ブラジルに帰国した。
ブラジルに帰国するとディニスは自身の会社PPDスポーツ社を設立し、やがてルノーとの協力関係を築き、ブラジルで若手ドライバーを育成することなどを目的に、フォーミュラ・ルノー、クリオ・カップを移入し、2002年、PPDスポーツ社の主催の下、両選手権の初開催にこぎつけた。
大西洋にあるブラジル領の島で世界遺産でもあるフェルナンド・デ・ノローニャでホテルを経営するなど、ドライバー引退から間もない段階でモータースポーツ以外の分野においても実業家として活動するようになり、フォーミュラ・ルノー選手権などイベントの主催・運営からも2006年限りで手を引き、モータースポーツとの関係は徐々に薄くなっていっている。
引退が及ぼした影響
ディニスの突然のF1引退は後のF1の歴史にも若干の影響を与えている。当時有力候補だったディニスが引退し、ザウバーチームのシートのひとつが完全に空いたため、このシートは当時ザウバーの有力スポンサーだったレッドブルが推すエンリケ・ベルノルディと、チーム代表のペーター・ザウバーがかねて目をつけてこの頃チームのテストにも参加させていたキミ・ライコネンによって争われることとなった(もうひとつのシートは2000年9月の時点でニック・ハイドフェルドに決定していた)。
ザウバーが自身の希望を押し通したことでライコネンがシートを獲得し、フォーミュラ・ルノーを終えたのみに過ぎないこの若者が2001年シーズンに大いに活躍したことで、ジュニア・フォーミュラとしてのフォーミュラ・ルノー選手権の地位は向上を見、2002年にはブラジルも含め各国で選手権が初開催された。ディニスの進退に関わらずペーター・ザウバーがライコネンを起用した可能性もなくはないが、ディニスは自身の引退により、直接的な作用だけでなく、間接的にも後の自身の運命に小さな作用を及ぼしたといえる。
ライコネンは後にF1においてタイトル争いをしばしば演じるトップドライバーとなり、2007年にはチャンピオンを獲得した。