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「地蔵田遺跡」の版間の差分

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秋田市御所野地蔵田にある遺跡
'''地蔵田遺跡'''(じぞうでんいせき)は、[[秋田県]][[秋田市]]四ツ小屋末戸松本字地蔵田に所在する[[旧石器時代]]・[[縄文時代]]・[[弥生時代]]の遺跡である。特に、[[台地]]上に築かれた[[柵|木柵]]に囲まれた弥生時代前期の集落として知られている。国指定[[史跡]]。日本初の「[[市民]]の手づくり史跡整備」の例としても知られる。
[[画像:jizouden1.jpg|350px|right|thumb|復元された地蔵田遺跡(柵で囲まれたムラと出入口)]]

== 遺跡の発見と調査 ==
[[御所野台地]]は秋田市南東部に位置する標高30m-40m前後の広い台地である。台地は[[雄物川]]とその[[支流]][[岩見川 (秋田県)|岩見川]]の合流点をのぞむ[[丘陵]]が開析を受けて形成されたものであるが、ここは、従前より[[土器]]や[[石器]]の[[遺物包含層|散布地]]として知られていた。[[1970年代]]以降、台地一帯約380haに「秋田新都市開発整備事業」と名付けた[[ニュータウン]]計画構想が打ち出され、[[1981年]]([[昭和]]56年)より開発行為に先立って、台地上に立地する31遺跡を対象として、秋田市教育委員会が事前の[[発掘調査#土地開発行為にともなう発掘調査|緊急発掘調査]]をおこなった。その結果、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、[[平安時代]]など各時代の遺跡が確認され、当時の人びとの生活を知るうえで貴重な[[資料]]を得ることができた。地蔵田遺跡はそのなかのひとつであり、当初は「地蔵田B遺跡」と呼ばれ、[[1985年]](昭和60年)と[[1986年]](昭和61年)の2カ年にわたって約12,000m<sup>2</sup>が調査され、発掘調査報告書も同名で発行された。

== 遺跡概要 ==
地蔵田遺跡は、弥生時代前期の遺跡として著名であるが、旧石器時代、縄文時代中期にも人びとの生活が営まれた[[複合遺跡]]である。

縄文時代では、中期後半の[[竪穴住居]]32軒、[[土坑]]などを検出している。出土遺物には[[東北地方]]北部に多い[[円筒土器文化圏|円筒上層a式土器]]、東北地方南部に多い大木7a式土器、[[北陸地方|北陸]]系の新保・新崎様式の土器があり、特に北陸系の[[高坏|高坏形土器]]の出土が注目される。なお、縄文住居の分布は弥生住居にくらべ拡散傾向にある。縄文時代の地蔵田遺跡は、検出遺構、出土遺物ともに御所野台地遺跡群のなかでは[[下堤A遺跡]]と共通点が多い。

=== 柵で囲まれたムラとその出入口 ===
地蔵田遺跡の弥生集落は、居住域の周囲を木柵で[[楕円形]]に囲み、その周辺に[[墓]]域や[[捨て場]](不用品の廃棄場)を配しており、弥生時代における西日本の[[環濠集落]]の基本的な構造と類似する<ref>堀をともなわないので環濠集落とはいえないが、基本的に防御施設をともなわない縄文時代の集落に比較すると際だった対照性を有する。</ref>。防御施設をともなう弥生時代の遺跡としては[[日本列島]]で最も北に所在し、また、木の柵がめぐる構造の集落は[[東北地方]]はもとより全国的にもあまり他に類例がなく、この遺跡の大きな特徴となっている。

居住区(ムラ)を区画する木柵は、直径20cmから30cmの材木を密に立て並べたもので、一部では二重にめぐり、内側のものが長径61m、短径47m、外側では長径64m、短径50mという規模である。木柵の北西部分で柵列が一部途切れ、そこから外側へ2列の柱列が延びており、それがムラの主要な出入口となっていたものと考えられる。この他にも、西部、南部、東部、南東部に柵の途切れるところがあり、やはりムラの出入口と考えられる。このうち、南東部の出入口は、遺構配置全体から考慮して墓域へつづく墓道と推察され、他は勝手口にあたると考えられる。なお、ムラの外側では6本柱の[[掘立柱建物]]跡が東方より見つかっており、弥生時代に属するものと考えられているが、性格等の詳細は不明である。

=== 住まいとその変遷 ===
[[画像:jizouden3.jpg|350px|right|thumb|復元された竪穴住居(第4号住居の外観)]]
柵列の内側には3軒の円形[[竪穴式住居|竪穴住居]]が、中央の[[広場]]をはさんでほぼ等間隔で並んで向かい合い、広場に向けて出入口を配する。住居は、壁のある「壁立式」で直径8mから9.1mの[[周溝]]をめぐらしている。また、総じて一般的な弥生時代の竪穴住居よりも規模が大きい<ref>復元したなかで最大の第4号住居の直径は9.1m、面積は65.5m<sup>2</sup>で、畳で換算すると約40畳に相当する。</ref>。住居中央には[[石囲炉]]をすえ、炉のまわりに4本の主柱を配している。周溝の途切れるところが住まいの出入口となっている。

こうした構造の弥生時代住居跡は、調査時点ではめずらしいとされていたが、その後の周辺遺跡の発掘調査により類例が増加しており、この地方における当時の一般的な住居構造であることが明らかになりつつある。年代が下ると住居数は4軒に増加し、元の住居も位置を少し変えて建て替えをおこなっている。その規模も直径9mないし13mに拡大しているが、それとともに木柵は取り払われている。建て替え回数は住居によって異なるが、少ないもので2回、多いもので6回の建て替えが認められる。

=== 墓域 ===
ムラの東側、木柵に接して径40mほどの範囲に墓域が設定されている。墓は北東群と南東群に分かれ、とくに南東群に密集する。墓には[[土器棺墓]]25基、[[土坑墓]]51基がある。

土器棺墓には
# [[壺|壺形土器]]を棺とし蓋形土器で覆うもの
# 壺形土器棺を[[鉢|鉢形土器]]で覆うもの
# 壺形土器棺を[[甕|甕形土器]]で覆うもの
# 壺形土器棺を扁平な自然石で蓋をするもの
# 2個の甕形土器の口を合わせるもの

の5つのタイプがある。棺の直径および高さは30cm-50cmである。棺内からは人骨や副葬品などは出土していないが<ref>日本列島は概して[[酸性]][[土壌]]に属し、温暖多雨の[[気候]]にあるため、長い年月には人骨は溶融してしまう。[[貝塚]]など[[カルシウム]]分や[[石灰]]質が豊富な遺跡や常に[[地下水]]の浸る[[低湿地]]を除くと縄文時代の人骨が遺存するケースは少ない。</ref>、子どもの墓と考えられている。

土坑墓は、成人の墓と考えられ、楕円形、長方形、隅丸長方形を呈するものがあり、楕円形のものが多数を占めるが不整形のものもある。規模は、長軸の長さが約1mから2mにおよび、1.5m未満のものが多い。人骨の出土はなかったが、224号土坑墓から[[凝灰岩]]製の小玉が、258号土坑墓から[[碧玉]]製の玉、擬灰岩製の[[管玉]]、[[玉髄]]製の[[勾玉]]が、227号土坑墓からは[[ベンガラ]]がそれぞれ出土している。

=== 捨て場/出土遺物 ===
ムラの北西出入口の西側と北東側には、多量の[[土器]]、[[石器]]とともに大量の自然[[礫]]を集積した一画があり、不用品がこの一画に廃棄された捨て場遺構と考えられる。

[[画像:jizouden2.jpg|350px|right|thumb|復元された竪穴住居(第3号住居の内部と市民による手づくり復元土器)]]

出土遺物には、甕形土器、鉢形土器、高坏形土器、壺形土器、蓋形土器で構成される[[弥生式土器|弥生土器]]のほか、[[石斧]]、[[石鏃]]、[[石錐]]、[[石匙]]、[[石棒]]、[[磨石]]、[[敲石]]、環状石斧、玉類などの石器・石製品、[[有孔土製品]]、[[土偶]]、[[紡錘車]]などの土製品がある。なお、土器には[[籾]]痕の残るものがあり、[[稲作]][[農耕]]の開始を裏づけている。その場合の[[田|水田]]としては、遺跡が台地縁辺部に立地するところから、台地下の[[沖積平野|沖積地]]が想定される。

このうち、土器棺に使用された壺形の土器は、西日本の前期弥生土器に共通する製作技法、器形、文様などの諸特徴を備え、[[九州地方]]北部を発祥地とする[[遠賀川]]系土器であり、この集落が[[紀元前3世紀]]の弥生時代前期に成立し、初期の稲作農耕文化を受容したであろうことを示している。これら遠賀川系土器には、他所から搬入したと考えられるものと縄文の施された在地系と考えられるものの2つのタイプがあり、このことは集落の成立過程や[[日本海]]を経由する文化の伝播や伝統を考察していくうえで興味深い情報を提供している。

== 遺跡の保護と整備活用 ==
=== 国史跡指定 ===
地蔵田遺跡は、初期の稲作農耕文化をたずさえた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられ、木柵で囲まれた集落と墓地が複合して見つかった遺跡としてきわめて資料価値が高く、また、東北地方北部のみならず日本全体の稲作農耕の開始期を考究していく際にきわめて重要であるとして、[[1996年]]([[平成]]8年)[[11月6日]]、約6,046m<sup>2</sup>が[[文化庁]]により国史跡として指定された。なお、同年[[11月12日]]、史跡指定を記念して[[斎藤忠 (考古学者)|斎藤忠]]による講演会(第3回郷土秋田を考える文化講演会)が[[秋田市文化会館]]で開かれた。

=== 遺跡の整備と活用 ===
地蔵田遺跡の整備は、全国で初めて「市民の手づくり史跡整備」として行うこととなり、竪穴住居をはじめ、土器棺墓、土坑墓、700本の木柵などが多くの市民や生徒たちの手で復元された。史跡の愛称「御所野“弥生っこ村”」も[[2001年]](平成13年)に市民公募により決定したものである。

整備事業は、[[御所野ニュータウン]]内の郷土学習教材として2001年度から[[2006年]](平成18年)度にかけておこなわれ、竪穴住居3棟(第1号住居、第3号住居、第4号住居)と木柵が復元されている<ref>第2号住居は、[[切り合い関係]]の検討により、木柵が取り払われたあとに営まれたものと考えられているため、復元はなされていない。</ref>。復元後の維持や活用も市民の手で行っており、遺跡案内も市民[[ボランティア]]が中心となっている。また、市民が中心となった「弥生っこ村まつり」などのイベントも開催されている。

[[2007年]](平成19年)3月、秋田市教育委員会は地蔵田遺跡復元整備の記録として『国指定史跡地蔵田遺跡環境整備事業報告書 -市民と生徒による手づくり弥生っこ村-』を刊行した。現在、遺跡のボランティア団体である「弥生っこ村民会」が増刷し、頒布している。

=== 管理団体 ===
* 秋田市

=== 問い合わせ先 ===
* [http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/cl/Default.htm 秋田市教育委員会文化振興室](秋田県秋田市山王二丁目1番53号 山王21ビル4階)

== アクセス・周辺環境 ==
=== アクセス ===
* [[秋田自動車道]][[秋田南インターチェンジ]]から約5分
* [[JR]][[秋田駅]]から約20分
* [[秋田空港]]から約15分
* ([[バス (交通機関)|バス]]新都市交通広場前下車徒歩5分)

=== 周辺環境 ===
現在、御所野総合公園内の一施設「御所野“弥生っこ村”」として整備・活用がおこなわれている。御所野総合公園の他の施設としては、
* 球技広場
* 展望台
* ごしょのほたる橋
* 多目的広場
* テニスコート
* カリヨン時計
* 管理棟
がある。

なお、御所野総合公園の西側は[[秋田市立御所野学院中学校]]・[[秋田市立御所野学院高等学校|高等学校]]グラウンドがあり、北にはリフレッシュガーデン、[[秋田テルサ]]、[[イオンモール秋田]]などがあり、台地の縁にあたる南側は道路(新都市環状線)が通り、東側は住宅地となっている。

=== その他 ===
* 2007年(平成19年)[[7月15日]]、「[[秋田わか杉国体]]」の炬火地となった。弥生人に扮した市民が「マイギリ」と称する古代の発火具を用いて火を起こした。

== 脚注 ==
<references />

== 参考文献 ==
* 秋田市教育委員会『地蔵田B遺跡』秋田市教育委員会、[[1986年]]3月
* 日本第四紀学会・小野昭・春成秀爾・小田静夫 編『図解・日本の人類遺跡』[[東京大学出版会]]、[[1992年]]

== 外部リンク ==
* [http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/cl/Yt/Yt.htm 秋田市文化振興室「弥生っこ村」通信]
* [http://www.akitafan.com/new_binran/user/r_detail.htm?serial_no=3968 地蔵田遺跡スライドショー]

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[[Category:秋田県の史跡]]
[[Category:日本の考古遺跡]]
[[Category:弥生時代]]
[[Category:秋田市]]

2008年1月25日 (金) 14:59時点における版

秋田市御所野地蔵田にある遺跡

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