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{{出典の明記}}'''尾崎 彰春'''(おざき あきはる、[[1930年]][[6月6日]] - )は、[[ヤクザ]][[指定暴力団]]・六代目[[山口組]]顧問、[[心腹会]]会長。 本名'''尾崎 昭治'''。
'''尾崎 彰春'''(おざき あきはる、[[1930年]][[6月6日]] - )は、[[日本]]の[[ヤクザ]][[指定暴力団]]・六代目[[山口組]]顧問、[[心腹会]]会長。 本名'''尾崎 昭治'''。


1953年の[[鶴田浩二#.E8.A5.B2.E6.92.83.E4.BA.8B.E4.BB.B6|鶴田浩二襲撃事件]]の実行犯のひとりとして逮捕されている。


三代目山口組舎弟・[[安原政雄]]が率いる[[安原会]]で副会長を務めていたが、安原が「[[第一次頂上作戦]]」で[[逮捕]]されていた[[1967年]]に突如、会を解散したことを受け、安原会の残党を集めて同年12月に心腹会を結成。 [[1968年]]11月、山口組直参に昇格した。


== 来歴 ==
[[1984年]]6月、四代目山口組の発足に伴い、同組舎弟に直
[[昭和]]5年([[1930年]])6月6日、尾崎彰春は生まれた。
[[2005年]]8月、六代目山口組の発足に伴い、同組顧問に就任。

昭和22年([[1947年]])12月13日、三代目[[山口組]]・[[田岡一雄]]組長は、[[新居利治]]の養子・[[新居良男]]に舎弟[[盃]]を与えた。新居良男は、二代目[[小天竜組]]を襲名した。

昭和25年([[1950年]])、尾崎彰春は、[[新開地]]・[[稲荷市場]]ある元・魚屋「蛸文」だった下宿屋に住んだ。この下宿屋の主は、田岡一雄の[[舎弟]]・[[中坂文八]]だった。[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]](後の三代目山口組若頭)、[[前田豪]]、[[益田佳於|益田芳夫]](後の益田佳於。後の五代目山口組顧問)、[[益田啓助]](益田芳夫の弟。後の五代目山口組[[舎弟頭]])、[[大平一雄]](後の三代目山口組若頭補佐)が、中坂文八の下宿屋に下宿していた。

昭和27年([[1952年]])7月、田岡一雄は、[[東映]]京都撮影所で、[[鶴田浩二]]のマネージャー・[[兼松廉吉]]に、[[神戸芸能社]](山口組興行部)での鶴田浩二の実演興行を打診した。兼松廉吉は、神戸芸能社での鶴田浩二の実演興行を、その場で断った。

同年、鶴田浩二、[[高峰三枝子]]、[[水の江竜子]]らは、[[大阪]]・千日前の[[大劇]]で、翌年新春からの舞台「百万ドルショー」に出演することが決まった。

同年暮れ、兼松廉吉は、山口組を訪れ、田岡一雄に5万円と浅草のり一缶を渡した。田岡一雄は、兼松廉吉からの5万円と浅草のり一缶の受け取りを拒否した。同年12月31日夜、鶴田浩二は「百万ドルショー」出演のため、大阪に入った。鶴田浩二は、[[大阪市]][[天王区]]大道町の旅館・[[備前屋]]の2階東隅にあった「桔梗の間」に宿泊した。

昭和28年([[1953年]])1月4日午後5時、田岡一雄は、山口組若衆・[[梶原清晴]](後の三代目[[山口組]][[若頭]])と神戸芸能社番頭・[[西本一三]]を、[[神戸市]][[生田区]][[橘通り]]2丁目の山口組事務所に呼んだ。3人は鶴田浩二襲撃を密談した。梶原清晴が現場で指揮を取ることになった。同年1月5日午後7時ごろ、梶原清晴、西本一三、山口組若衆・山本健一、山口組若衆・[[清水光重]](後の三代目[[山口組]][[若頭補佐]])、益田芳夫(益田佳於)、尾崎彰春は大阪市[[南区 (大阪市)|南区]]灘波新地4丁目の「コトブキ興行社」で落ち合った。それから、梶原清晴ら4人は、西本一三の案内で、タクシーを使って大道町に行き、備前屋を下見した。梶原清晴と西本一三らは、車の待機場所や逃走経路などを決めた。同年1月6日午後6時すぎ、山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、備前屋を訪ねたが、鶴田浩二はまだ帰っていなかった。同日午後7時、鶴田浩二が備前屋に帰ってきた。山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、ファンらに「鶴田浩二のサインを貰ってきてあげる」と云って、ファンらとともに備前屋に上がりこんだ。山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、備前屋の桔梗の間で、鶴田浩二をウィスキー瓶やレンガで殴った。山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、備前屋から飛び出すと、黒塗りの乗用車に乗って逃亡した。鶴田浩二は、救急車で、近くの[[早石病院]]に搬送された。大阪市[[警視庁]]は、[[天王寺警察署]]に捜査本部を設置した。捜査本部は、眉に入った入れ墨から、鶴田浩二襲撃犯の1人を、山本健一と断定した。同年2月24日、山本健一は[[徳島県]][[小松島市]]内の競輪場で逮捕された。同年3月17日、梶原清晴、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、山口組幹部・[[安原政雄]]に付き添われて、天王寺警察署に自首した。天王寺警察署は、現場の聞き込みから、西本一三が鶴田浩二襲撃前に、梶原清晴らと下見をしていたことを突き止めた。西本一三は指名手配された。同年4月2日、大阪警視庁は、[[姫路市]]内の旅館で、西本一三を逮捕した。西本一三の取調べには、大阪市警視庁[[捜査三課]]・[[奥野一雄]][[警部補]]が当たった。奥野一雄は、西本一三から「鶴田浩二襲撃が田岡一雄の指示によるものだった」と云う自供を引き出した。同年4月17日、天王寺警察署と[[大阪地方検察庁|大阪地検]]は、田岡一雄の逮捕状を、[[大阪地裁]]に請求した。同年4月18日、奥野一雄は、田岡一雄の逮捕状を持ち、ジープ1台と警察輸送車2台の天王寺警察署捜査本部一隊を連れて、山口組事務所を捜査した。[[神戸市警察署]]も応援の警官隊を送り、[[山口組]]事務所前を警戒した。[[田岡一雄]]はすでに逃亡していた。田岡一雄は全国に指名手配された。同年4月23日昼すぎ、田岡一雄は、[[永田貞雄]]に付き添われて、天王寺警察署に自首した。同年5月3日、天王寺警察署と大阪地検は、田岡一雄の件を協議した。同年5月4日、田岡一雄は処分保留のまま釈放された。西本一三も処分保留で釈放された。梶原清晴、山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は起訴された。まもなく、西本一三は神戸芸能社番頭を辞めた。山本健一は、[[大阪地方裁判所]]において、鶴田浩二襲撃事件で、[[懲役]]10年、[[執行猶予]]3年の判決を受けた。([[鶴田浩二#襲撃事件|鶴田浩二襲撃事件]])

昭和29年([[1954年]])9月3日、尾崎彰春と[[小田芳一]]('''小田吉一'''とも名乗った。後の三代目山口組若頭補佐)は、東川崎のマージャン店に入った。尾崎彰春は、[[谷崎組]]若頭・[[野沢修]](後の山口組[[山健組]]の客分)と口論となった。尾崎彰春と小田芳一は、マージャン店の外で、野沢修と決闘することにした。マージャン客の多くが野沢修の身内だった。尾崎彰春と小田芳一は、野沢修たちに暴行を受けた。2人は重傷を負った。通報を受けた警官が、野沢修らが尾崎彰春と小田芳一を暴行している現場に駆けつけた。野沢修らは逃走した。尾崎彰春は警察に逮捕された。

同日、小田芳一は、山口組事務所に戻った。山本健一と梶原清晴と北山悟が、山口組事務所にいた。山本健一は拳銃を持参し、梶原清晴はドスを持参して、北山悟とともに、谷崎組事務所に殴り込んだ。谷崎組事務所は無人だった。山本健一、梶原清晴、北山悟は、山口組事務所に引き返した。山本健一、梶原清晴、北山悟は、山口組組員から、野沢修の自宅に案内してもらった。山本健一と北山悟は、野沢修の家の正面から入り、梶原清晴は、野沢修の家の裏側から侵入することになった。山本健一は、野沢修宅の玄関が開かなかったため、野沢修宅の裏に回った。梶原清晴は、野沢修宅の裏から侵入し、ドスを持って、野沢修に襲い掛かった。山本健一は、野沢修の頭と腹部に向けて1発ずつ拳銃を発射した。2発とも、野沢修に命中した。梶原清晴は、野沢修を十数回斬った。野沢修は重傷だったが、一命を取り留めた。その後、谷崎組は瓦解した。山本健一は、懲役3年の実刑判決を受けて、[[加古川刑務所]]に服役した。

昭和32年([[1957年]])、[[本多会]]系[[平井組]]が、[[小松島市]]の目抜き通りに、パチンコ店「アルプス」をオープンさせた。平井組は、組事務所をパチンコ店「アルプス」の2階に置いた。同年7月12日、新居良男は、小天竜組組員3人を平井組事務所に遣わし、話し合いを持とうとした。小天竜組組員3人は、ドスを持参して、平井組事務所に入った。小天竜組組員3人は、平井組組員と斬り合いとなった。小天竜組組員1人が死亡し、小天竜組組員2人が重傷を負った。[[徳島県]][[県議会]][[議員]]2人と本多会幹部が、和解に奔走した。同年7月16日、小天竜組と平井組は、手打ちをした。同年10月13日、平井組と兄弟分だった[[福田組]](組長は、[[福田栄]]。上部団体は[[本多会]])の組員・[[枝川邦二]]は、小天竜組事務所前で、男と喧嘩になった。枝川邦二は、男を殴り倒し、海に突き落とした。このとき、小天竜組組員・[[渡辺武男]]が、小天竜組事務所を訪れた。渡辺武男は、海に浮かんだ男を発見した。渡辺武男は、男と枝川邦二との喧嘩の現場にいたものから、枝川邦二が男を海に突き落としたことを、知らされた。渡辺武男は、枝川邦二を海に突き落とした。まもなく、福田組事務所には、兄弟分の平井組組員や上部団体の[[徳島市]]の[[勝浦組]]組員が集結した。小天竜組も組員全員を、小天竜組事務所に集めた。その後、新聞記者が、福田組との対立の取材で、小天竜組事務所を訪れた。新居良男は、新聞記者の取材を受けた。新居良男は、取材の途中で、新聞記者に暴行を加えた。新居良男は、[[威力業務妨害]]容疑で、1ヶ月ほど拘置された。同年11月17日、新居良男は、小天竜組組員1人とともに、神戸の山口組本部に向かった。同年11月18日、新居良男は、山口組本部で、地道行雄と面会した。同日、地道行雄は、[[福原]]の料亭で、本多会幹部と会った。地道行雄と本多会幹部は、手打ちを約束した。同年11月20日、新居良男は、[[小松島港]]に戻った。小松島港は、出迎えの小天竜組や福田組組員がいた。[[小松島警察署]]の警官5人が、小松島港の警備に当たった。新居良男は、小松島港に着いたとき、福田組組員・[[竹内勇夫]]から銃撃を受け、脇腹と胸部と大腿部を撃たれた。小天竜組組員・[[新田理一]]は、拳銃で応射して、竹内勇夫を撃った。竹内勇夫は、腹部を撃たれて、死亡した。新居良男は重体で、病院に搬送された。小松島警察署は、[[徳島東警察署]]と[[西鳴門警察署]]から200人の警官を応援に送ってもらった。小松島警察署は、警官隊を福田組事務所と小天竜組事務所に配置した。小松島警察署は、小松島市内にも警備体制を敷いた。地道行雄は、田岡一雄に、新居良男が竹内勇夫に撃たれて危篤状態に陥ったことを報告した。田岡一雄は、地道行雄に、小松島での抗争の指揮を任せた。地道行雄は、安原政雄、吉川勇次、山本健一、尾崎彰春ら115人の山口組組員を集め、山口組組員は武器を持たせずに、[[神戸港]]に送った。[[兵庫県警]]は、江原警部補の警官隊を神戸港に送った。安原政雄は、「新居良男を見舞いに行くために、小松島市に渡る」と主張した。江原警部補の警官隊は、山口組組員115人の身体検査をしたが、武器は発見できなかった。江原警部補の警官隊は、山口組組員115人の乗船を許可し、山口組組員115人の乗り込んだ汽船に、同乗した。また、本多会副会長・[[酒井吾意知]]も本多会組員2人を連れて、山口組組員115人の乗り込んだ汽船に、同乗した。[[徳島県警]]本部は、兵庫県警から山口組組員115人が小松島市に向かったとの連絡を受け、小松島港に警官隊を待機させた。徳島県警の警官隊は、小松島港で、山口組組員115人の身体検査を行った。武器は発見されなかった。警官は、酒井吾意知と話し、小松島警察署署長と面会する約束を取り付けた。徳島県警は、400人の警官隊を小松島市内に配置した。山口組組員115人は、福田組事務所に向かった。警官隊は、福田組事務所前で、山口組組員115人に対して、道路の通行止めを行った。小松島警察署署長は、酒井吾意知と会い、本多会が和解したい意向であることを確認し、その後、安原政雄を小松島警察署に呼び、本多会の意向を伝えて、本多会と和解するように説得した。山口組組員は、30人を小松島市に残して、撤収した。酒井吾意知は神戸に戻った。同年11月24日、山口組と本多会は、[[自民党]][[議員]]・[[小西寅松]]の仲裁で、和解した。([[小松島抗争]])。

昭和39年([[1964年]])1月、「[[暴力取締対策要綱]]」が作られた。

同年2月、[[警視庁]]は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「[[第一次頂上作戦]]」)を開始した。

尾崎彰春は、[[安原会]](組長は[[安原政雄]])副会長を務めていた。

昭和42年([[1967年]])、安原政雄は、安原会を解散した。

同年12月、尾崎彰春は、安原会の残党を集めて、心腹会を結成した。

昭和43年([[1968年]])11月、尾崎彰春は、山口組直参に昇格した。

昭和59年([[1984年]])]6月、尾崎彰春は、四代目山口組の発足に伴い、同組舎弟に直った

[[平成]]17年([[2005年]])8、尾崎彰春は、六代目山口組の発足に伴い、同組顧問に就任した



== 参考文献 ==
*[[飯干晃一]] 『山口組三代目 1.野望篇』[[徳間書店]]<文庫>、1982年、ISBN 4-146421-8
*溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5


== エピソード・人物 ==
*[[尾崎組]]組長・[[尾崎勝彦]](六代目山口組若中)は実子。
*五代目山口組舎弟頭・[[益田啓助]]([[益田(啓)組]]組長。[[名古屋市|名古屋]])と五代目山口組顧問・[[益田佳於]]([[益田組]]組長。[[横浜市|横浜]])の兄弟は従兄弟。


[[尾崎組]]組長・[[尾崎勝彦]](六代目山口組若中)は実子。
五代目山口組舎弟頭・[[益田啓助]]([[益田(啓)組]]組長。[[名古屋]])と五代目山口組顧問・[[益田佳於]]([[益田組]]組長。[[横浜]])の兄弟は従兄弟。


徳島を選挙区とする[[後藤田正晴]]が「尾崎君は紳士だ」と明言したのは有名。


{{先代次代|[[心腹会]]会長|初代: 1967-|[[安原政雄]]([[安原会]])|―}}
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2007年12月26日 (水) 19:51時点における版

尾崎 彰春(おざき あきはる、1930年6月6日 - )は、日本ヤクザ指定暴力団・六代目山口組顧問、心腹会会長。 本名は尾崎 昭治


来歴 

昭和5年(1930年)6月6日、尾崎彰春は生まれた。

昭和22年(1947年)12月13日、三代目山口組田岡一雄組長は、新居利治の養子・新居良男に舎弟を与えた。新居良男は、二代目小天竜組を襲名した。

昭和25年(1950年)、尾崎彰春は、新開地稲荷市場ある元・魚屋「蛸文」だった下宿屋に住んだ。この下宿屋の主は、田岡一雄の舎弟中坂文八だった。山本健一(後の三代目山口組若頭)、前田豪益田芳夫(後の益田佳於。後の五代目山口組顧問)、益田啓助(益田芳夫の弟。後の五代目山口組舎弟頭)、大平一雄(後の三代目山口組若頭補佐)が、中坂文八の下宿屋に下宿していた。

昭和27年(1952年)7月、田岡一雄は、東映京都撮影所で、鶴田浩二のマネージャー・兼松廉吉に、神戸芸能社(山口組興行部)での鶴田浩二の実演興行を打診した。兼松廉吉は、神戸芸能社での鶴田浩二の実演興行を、その場で断った。

同年、鶴田浩二、高峰三枝子水の江竜子らは、大阪・千日前の大劇で、翌年新春からの舞台「百万ドルショー」に出演することが決まった。

同年暮れ、兼松廉吉は、山口組を訪れ、田岡一雄に5万円と浅草のり一缶を渡した。田岡一雄は、兼松廉吉からの5万円と浅草のり一缶の受け取りを拒否した。同年12月31日夜、鶴田浩二は「百万ドルショー」出演のため、大阪に入った。鶴田浩二は、大阪市天王区大道町の旅館・備前屋の2階東隅にあった「桔梗の間」に宿泊した。

昭和28年(1953年)1月4日午後5時、田岡一雄は、山口組若衆・梶原清晴(後の三代目山口組若頭)と神戸芸能社番頭・西本一三を、神戸市生田区橘通り2丁目の山口組事務所に呼んだ。3人は鶴田浩二襲撃を密談した。梶原清晴が現場で指揮を取ることになった。同年1月5日午後7時ごろ、梶原清晴、西本一三、山口組若衆・山本健一、山口組若衆・清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)、益田芳夫(益田佳於)、尾崎彰春は大阪市南区灘波新地4丁目の「コトブキ興行社」で落ち合った。それから、梶原清晴ら4人は、西本一三の案内で、タクシーを使って大道町に行き、備前屋を下見した。梶原清晴と西本一三らは、車の待機場所や逃走経路などを決めた。同年1月6日午後6時すぎ、山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、備前屋を訪ねたが、鶴田浩二はまだ帰っていなかった。同日午後7時、鶴田浩二が備前屋に帰ってきた。山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、ファンらに「鶴田浩二のサインを貰ってきてあげる」と云って、ファンらとともに備前屋に上がりこんだ。山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、備前屋の桔梗の間で、鶴田浩二をウィスキー瓶やレンガで殴った。山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、備前屋から飛び出すと、黒塗りの乗用車に乗って逃亡した。鶴田浩二は、救急車で、近くの早石病院に搬送された。大阪市警視庁は、天王寺警察署に捜査本部を設置した。捜査本部は、眉に入った入れ墨から、鶴田浩二襲撃犯の1人を、山本健一と断定した。同年2月24日、山本健一は徳島県小松島市内の競輪場で逮捕された。同年3月17日、梶原清晴、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は、山口組幹部・安原政雄に付き添われて、天王寺警察署に自首した。天王寺警察署は、現場の聞き込みから、西本一三が鶴田浩二襲撃前に、梶原清晴らと下見をしていたことを突き止めた。西本一三は指名手配された。同年4月2日、大阪警視庁は、姫路市内の旅館で、西本一三を逮捕した。西本一三の取調べには、大阪市警視庁捜査三課奥野一雄警部補が当たった。奥野一雄は、西本一三から「鶴田浩二襲撃が田岡一雄の指示によるものだった」と云う自供を引き出した。同年4月17日、天王寺警察署と大阪地検は、田岡一雄の逮捕状を、大阪地裁に請求した。同年4月18日、奥野一雄は、田岡一雄の逮捕状を持ち、ジープ1台と警察輸送車2台の天王寺警察署捜査本部一隊を連れて、山口組事務所を捜査した。神戸市警察署も応援の警官隊を送り、山口組事務所前を警戒した。田岡一雄はすでに逃亡していた。田岡一雄は全国に指名手配された。同年4月23日昼すぎ、田岡一雄は、永田貞雄に付き添われて、天王寺警察署に自首した。同年5月3日、天王寺警察署と大阪地検は、田岡一雄の件を協議した。同年5月4日、田岡一雄は処分保留のまま釈放された。西本一三も処分保留で釈放された。梶原清晴、山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春は起訴された。まもなく、西本一三は神戸芸能社番頭を辞めた。山本健一は、大阪地方裁判所において、鶴田浩二襲撃事件で、懲役10年、執行猶予3年の判決を受けた。(鶴田浩二襲撃事件

昭和29年(1954年)9月3日、尾崎彰春と小田芳一小田吉一とも名乗った。後の三代目山口組若頭補佐)は、東川崎のマージャン店に入った。尾崎彰春は、谷崎組若頭・野沢修(後の山口組山健組の客分)と口論となった。尾崎彰春と小田芳一は、マージャン店の外で、野沢修と決闘することにした。マージャン客の多くが野沢修の身内だった。尾崎彰春と小田芳一は、野沢修たちに暴行を受けた。2人は重傷を負った。通報を受けた警官が、野沢修らが尾崎彰春と小田芳一を暴行している現場に駆けつけた。野沢修らは逃走した。尾崎彰春は警察に逮捕された。

同日、小田芳一は、山口組事務所に戻った。山本健一と梶原清晴と北山悟が、山口組事務所にいた。山本健一は拳銃を持参し、梶原清晴はドスを持参して、北山悟とともに、谷崎組事務所に殴り込んだ。谷崎組事務所は無人だった。山本健一、梶原清晴、北山悟は、山口組事務所に引き返した。山本健一、梶原清晴、北山悟は、山口組組員から、野沢修の自宅に案内してもらった。山本健一と北山悟は、野沢修の家の正面から入り、梶原清晴は、野沢修の家の裏側から侵入することになった。山本健一は、野沢修宅の玄関が開かなかったため、野沢修宅の裏に回った。梶原清晴は、野沢修宅の裏から侵入し、ドスを持って、野沢修に襲い掛かった。山本健一は、野沢修の頭と腹部に向けて1発ずつ拳銃を発射した。2発とも、野沢修に命中した。梶原清晴は、野沢修を十数回斬った。野沢修は重傷だったが、一命を取り留めた。その後、谷崎組は瓦解した。山本健一は、懲役3年の実刑判決を受けて、加古川刑務所に服役した。

昭和32年(1957年)、本多会平井組が、小松島市の目抜き通りに、パチンコ店「アルプス」をオープンさせた。平井組は、組事務所をパチンコ店「アルプス」の2階に置いた。同年7月12日、新居良男は、小天竜組組員3人を平井組事務所に遣わし、話し合いを持とうとした。小天竜組組員3人は、ドスを持参して、平井組事務所に入った。小天竜組組員3人は、平井組組員と斬り合いとなった。小天竜組組員1人が死亡し、小天竜組組員2人が重傷を負った。徳島県県議会議員2人と本多会幹部が、和解に奔走した。同年7月16日、小天竜組と平井組は、手打ちをした。同年10月13日、平井組と兄弟分だった福田組(組長は、福田栄。上部団体は本多会)の組員・枝川邦二は、小天竜組事務所前で、男と喧嘩になった。枝川邦二は、男を殴り倒し、海に突き落とした。このとき、小天竜組組員・渡辺武男が、小天竜組事務所を訪れた。渡辺武男は、海に浮かんだ男を発見した。渡辺武男は、男と枝川邦二との喧嘩の現場にいたものから、枝川邦二が男を海に突き落としたことを、知らされた。渡辺武男は、枝川邦二を海に突き落とした。まもなく、福田組事務所には、兄弟分の平井組組員や上部団体の徳島市勝浦組組員が集結した。小天竜組も組員全員を、小天竜組事務所に集めた。その後、新聞記者が、福田組との対立の取材で、小天竜組事務所を訪れた。新居良男は、新聞記者の取材を受けた。新居良男は、取材の途中で、新聞記者に暴行を加えた。新居良男は、威力業務妨害容疑で、1ヶ月ほど拘置された。同年11月17日、新居良男は、小天竜組組員1人とともに、神戸の山口組本部に向かった。同年11月18日、新居良男は、山口組本部で、地道行雄と面会した。同日、地道行雄は、福原の料亭で、本多会幹部と会った。地道行雄と本多会幹部は、手打ちを約束した。同年11月20日、新居良男は、小松島港に戻った。小松島港は、出迎えの小天竜組や福田組組員がいた。小松島警察署の警官5人が、小松島港の警備に当たった。新居良男は、小松島港に着いたとき、福田組組員・竹内勇夫から銃撃を受け、脇腹と胸部と大腿部を撃たれた。小天竜組組員・新田理一は、拳銃で応射して、竹内勇夫を撃った。竹内勇夫は、腹部を撃たれて、死亡した。新居良男は重体で、病院に搬送された。小松島警察署は、徳島東警察署西鳴門警察署から200人の警官を応援に送ってもらった。小松島警察署は、警官隊を福田組事務所と小天竜組事務所に配置した。小松島警察署は、小松島市内にも警備体制を敷いた。地道行雄は、田岡一雄に、新居良男が竹内勇夫に撃たれて危篤状態に陥ったことを報告した。田岡一雄は、地道行雄に、小松島での抗争の指揮を任せた。地道行雄は、安原政雄、吉川勇次、山本健一、尾崎彰春ら115人の山口組組員を集め、山口組組員は武器を持たせずに、神戸港に送った。兵庫県警は、江原警部補の警官隊を神戸港に送った。安原政雄は、「新居良男を見舞いに行くために、小松島市に渡る」と主張した。江原警部補の警官隊は、山口組組員115人の身体検査をしたが、武器は発見できなかった。江原警部補の警官隊は、山口組組員115人の乗船を許可し、山口組組員115人の乗り込んだ汽船に、同乗した。また、本多会副会長・酒井吾意知も本多会組員2人を連れて、山口組組員115人の乗り込んだ汽船に、同乗した。徳島県警本部は、兵庫県警から山口組組員115人が小松島市に向かったとの連絡を受け、小松島港に警官隊を待機させた。徳島県警の警官隊は、小松島港で、山口組組員115人の身体検査を行った。武器は発見されなかった。警官は、酒井吾意知と話し、小松島警察署署長と面会する約束を取り付けた。徳島県警は、400人の警官隊を小松島市内に配置した。山口組組員115人は、福田組事務所に向かった。警官隊は、福田組事務所前で、山口組組員115人に対して、道路の通行止めを行った。小松島警察署署長は、酒井吾意知と会い、本多会が和解したい意向であることを確認し、その後、安原政雄を小松島警察署に呼び、本多会の意向を伝えて、本多会と和解するように説得した。山口組組員は、30人を小松島市に残して、撤収した。酒井吾意知は神戸に戻った。同年11月24日、山口組と本多会は、自民党議員小西寅松の仲裁で、和解した。(小松島抗争)。

昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。

同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。

尾崎彰春は、安原会(組長は安原政雄)副会長を務めていた。

昭和42年(1967年)、安原政雄は、安原会を解散した。

同年12月、尾崎彰春は、安原会の残党を集めて、心腹会を結成した。

昭和43年(1968年)11月、尾崎彰春は、山口組直参に昇格した。

昭和59年(1984年)]6月、尾崎彰春は、四代目山口組の発足に伴い、同組舎弟に直った。

平成17年(2005年)8月、尾崎彰春は、六代目山口組の発足に伴い、同組顧問に就任した。


参考文献 

  • 飯干晃一 『山口組三代目 1.野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-146421-8
  • 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5


 エピソード・人物 


先代
安原政雄安原会
心腹会会長
初代: 1967-
次代
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