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*[[ボリス・ユガイ]]:キルギスの軍人。参謀総長
*[[ボリス・ユガイ]]:キルギスの軍人。参謀総長
*[[南日]]:朝鮮人民軍高官。外相。
*[[南日]]:朝鮮人民軍高官。外相。
*[[キム・ビョンファ]]:有名なコルホーズ経営者。


== 参考資料 ==
== 参考資料 ==

2007年8月10日 (金) 08:28時点における版

高麗人
総人口
約45万人
居住地域
ロシアウクライナ中央アジア
言語
ロシア語, 高麗語
宗教
東方正教会プロテスタント仏教
関連する民族
朝鮮民族

高麗人(こうらいじん、コリョイン、고려인)は、旧ソビエト連邦の領内に住み、現在は独立国家共同体 (CIS) 諸国の国籍を持つ朝鮮民族の人々の自称名である。

高麗とは朝鮮半島10世紀から14世紀まで存在した朝鮮半島国家で、日本では江戸時代まで多くの場合「朝鮮人」ではなく高麗人と呼んでいた。「高麗人参」はその名残である。また、非漢字圏では朝鮮民族のことを英語ではコリアンKoreanロシア語ではカリェーエツкореецというように、朝鮮民族の呼称として「高麗人」にあたる語が広く用いられている。「朝鮮半島=高麗」といった世界認識があったと言えよう。旧ソ連の高麗人は、その他称としての「高麗人」が自称に転化したものである。

もともとの居住地は朝鮮と境を接した沿海州(沿海地方)であったが、第二次世界大戦中に中央アジアに追放された。現在の主な居住地はカザフスタンウズベキスタンである。ウズベキスタンに住む朝鮮系の人口は110万人ほどで同国の人口の5%近くを占め、カザフスタンにも30万人ほどが居住する。

韓国は、高麗人を在外同胞とみなして支援を行っている。

歴史

高麗人すなわち旧ロシア帝国領の朝鮮民族は、中国朝鮮族と同じく主に19世紀以降に、李氏朝鮮北部から国境を越えて沿海州に住み着いた。半島北部はもともと農業に厳しい気候であった上、、ひとたび飢饉が起こると農村は疲弊し、きびしい生活を逃れるために窮乏農民が北へと流入したと考えられている。

1910年大日本帝国大韓帝国(李氏朝鮮の改称)を併合し植民地支配を開始。1924年にロシアでは共産主義を掲げるソビエト連邦が成立すると、日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で境を接するソ連ときびしく対立し、かつては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の間は閉鎖された。

やがてソ連のヨシフ・スターリン体制は、日本の支配する朝鮮を通じて、沿海州に住む朝鮮民族が日本との間でスパイ行為をはたらくことを疑うようになった。また、日本と対立していた中国共産党との協力体制を構築するためにも、自国内にスパイの恐れのある民族を留まらせておくわけには行かなかったとも言われる。第二次世界大戦が勃発すると、日ソはお互いを仮想敵国とみなしたのでスパイへの怖れがより高まり、朝鮮民族のほとんどは日本の活動に無関係であったにもかかわらず、対日協力の疑いで中央アジアに集団追放された。当時の沿海州には20万人の朝鮮人がいたが、そのすべてが強制移住の対象となった。

強制移住させられた中央アジアの乾燥地帯は、農地に向かない酷い土地で、20万人いた高麗人は数年後には10万人まで減った。しかし、他の場所から強制連行されてきたドイツ人チェチェン人トルコ人らと協力し合いながら、不毛の大地を一大農業地帯に変えていった。その姿勢は評価され、ソ連共産党から模範的社会主義者として表彰される者もあった。

高麗人に対する評価の変化に伴い、第二次世界大戦末期、対日戦争をにらんで、ソ連当局は、一部の高麗人を軍・共産党に受け入れ始めた。彼らは、終戦後、北朝鮮の経済再建や朝鮮人民軍の創設に大きく貢献したが、ほぼ全員が粛清された。

戦後も、軍事的な要地である沿海州に高麗人が戻って不安定要素が生ずることを望まない、ヨシフ・スターリン体制当局の意向によって、高麗人は、沿海州や朝鮮に帰還する権利を認められず、その後も多くの朝鮮系の人々がそのまま中央アジアに住みつづけた。スターリンの死後、法的には移動の自由が認められたが、一般のソ連人と同様、移動の許可を得るには多大な労力を要し、また、高麗人の現地への定着が進んでいたため、沿海州に帰還する者はほとんどなかった。

ヨシフ・スターリン体制時代、高麗人は、公式の場での朝鮮語を禁じられ、子供への教育もすべてロシア語で行われた。スターリンの死後、そのような制限はなくなったが、ソ連社会に同化した高麗人は、進学や社会的栄達に有利なロシア語を母語としていた。子供を持つ高麗人の両親の中には、朝鮮語をもはや不要なものと考え、朝鮮語の授業の廃止を要請する者もいた。しかし、インターナショナリズムを標榜するソ連当局は、これら一部の高麗人の両親達の訴えを退けた。フルシチョフ及びブレジネフ時代、朝鮮語紙「レーニンの旗幟」(1938~1989年発行)が発行され、朝鮮語で上演される朝鮮劇場が中央アジア各地を巡業した。よって、スターリン時代を除けば、ソ連で朝鮮語が弾圧されたというのは、事実に反する。但し社会的な圧力があったことは否定できない。

ペレストロイカとグラースノスチの訪れと共に、短期間の朝鮮民族復興運動が始った。ソ連の各共和国には、朝鮮民族協会が設立され、朝鮮語を学ぶ高麗人の若者が増加した。高麗人の知識人層の中では、沿海州への帰還運動も起こったが、実際に沿海州に移住したのは数千人に過ぎなかった。

ソ連崩壊後、50年を経て生活基盤が中央アジアに完全に定着してしまった高麗人の多くは、そのまま中央アジアに住み続けているが、中央アジア諸国は、いずれも民族主義的志向が強く、ロシアに流出する傾向にある。例えば、ソ連時代、モスクワの高麗人の人口は数千人に過ぎなかったが、90年代末には1万5千人にまで達している。

彼らは自主的に朝鮮語教育を再開し、朝鮮語新聞を発行するなど、民族としての意識向上を図っているが、若年世代の朝鮮語離れは依然として続いている。それにともなって他民族との結婚も増え、高麗人の共同体維持は厳しい状況に置かれている。この点在日コリアンとも類似した問題を抱えている。

なお彼等の話す朝鮮語は、ロシア語の影響を極めて強く受けた高麗語と呼ばれるものであり、本国の朝鮮語との乖離は特に日常の話し言葉において甚大である。韓国、北朝鮮、延辺朝鮮族自治区で話される朝鮮語はどれもほとんど問題なく互いの意思疎通が出来るが、高麗語や在日朝鮮語の場合は意思疎通は無理ではないにしろかなりの困難さを伴う。

見出し

在樺太高麗人

北朝鮮に帰還した高麗人

高麗人の著名人

参考資料

関連項目

外部リンク

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