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高松宮は四親王家の一つ、[[有栖川宮]]の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承したのには故がある。大正2年([[1913年]])、有栖川宮10代[[有栖川宮威仁親王|威仁親王]]が後嗣・[[栽仁王]]に先立たれたまま危篤となったが、当時すでに皇族の養子縁組は禁じられていた(養子縁組そのものは出来たが、それを行った時点で[[臣籍降下]]を余儀なくされた)ため、有栖川宮家の断絶は決定的となった。しかし、[[有栖川宮幟仁親王|幟仁]]・[[有栖川宮熾仁親王|熾仁]]・威仁三親王の幕末以降の功労に鑑んだ大正天皇が、威仁親王の死去に先立ち同年[[7月6日]]特旨をもってまだ成人前であった第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与えたことで、有栖川宮家の祭祀は受け継がれた。その時から、威仁親王の外孫にあたる徳川喜久子([[1911年]]生)と、宣仁親王との婚姻が約束されたという。 |
高松宮は四親王家の一つ、[[有栖川宮]]の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承したのには故がある。大正2年([[1913年]])、有栖川宮10代[[有栖川宮威仁親王|威仁親王]]が後嗣・[[栽仁王]]に先立たれたまま危篤となったが、当時すでに皇族の養子縁組は禁じられていた(養子縁組そのものは出来たが、それを行った時点で[[臣籍降下]]を余儀なくされた)ため、有栖川宮家の断絶は決定的となった。しかし、[[有栖川宮幟仁親王|幟仁]]・[[有栖川宮熾仁親王|熾仁]]・威仁三親王の幕末以降の功労に鑑んだ大正天皇が、威仁親王の死去に先立ち同年[[7月6日]]特旨をもってまだ成人前であった第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与えたことで、有栖川宮家の祭祀は受け継がれた。その時から、威仁親王の外孫にあたる徳川喜久子([[1911年]]生)と、宣仁親王との婚姻が約束されたという。 |
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大正9年([[1920年]])4月、[[学習院中等科]]三年退学、[[海軍兵学校 (日本) |海軍兵学校]]予科入学。大正10年([[1921年]])[[8月24日]]、海軍兵学校本科に編入(52期)。大正13年([[1924年]])[[7月24日]]、海軍兵学校卒業、少尉候補生となったが9月赤痢のために、候補生遠洋航海は断念。大正14年([[1925年]])[[12月1日]]、海軍少尉に任官。昭和5年([[1930年]])[[2月4日]]に喜久子と婚儀。しかし、生涯子女を設けなかった。昭和7年([[1932年]])[[11月29日]]、海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]の分隊長に補される。昭和9年([[1934年]])[[11月10日]]、海軍大学に入学(甲種学生34期)、昭和10年([[1935年]])[[11月15日]][[海軍少佐]]に進級。昭和11年([[1937年]])[[11月26日]]、海軍大学卒業、同年[[12月1日]]軍令部出仕兼部員に補される、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを勤務。昭和15年([[1940年]])[[4月29日]]、支那事変従軍記章と功四級金鵄勳章を受けらる、同年[[7月3日]]戦艦[[比叡 (戦艦)|比叡]]砲術長、[[11月15日]][[海軍中佐]]進級。昭和16年([[1941年]])[[4月5日]]、「なるべく近くに」と昭和天皇の内意より、横須賀空教官に補される、[[太平洋戦争]]開戦前夕の[[11月20日]]、軍令部部員と大本営海軍参謀を務め、昭和17年([[1942年]])[[11月1日]][[海軍大佐]]に昇る。 |
大正9年([[1920年]])4月、[[学習院中等科]]三年退学、[[海軍兵学校 (日本) |海軍兵学校]]予科入学。大正10年([[1921年]])[[8月24日]]、海軍兵学校本科に編入(52期)。大正13年([[1924年]])[[7月24日]]、海軍兵学校卒業、少尉候補生となったが9月赤痢のために、候補生遠洋航海は断念。大正14年([[1925年]])[[12月1日]]、海軍少尉に任官。昭和5年([[1930年]])[[2月4日]]に喜久子と婚儀。しかし、生涯子女を設けなかった。昭和7年([[1932年]])[[11月29日]]、海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]の分隊長に補される。昭和8年年末から約1年間[[呉市]]新宮町で暮らす。(荘の名前は「俊山荘」)昭和9年([[1934年]])[[11月10日]]、海軍大学に入学(甲種学生34期)、昭和10年([[1935年]])[[11月15日]][[海軍少佐]]に進級。昭和11年([[1937年]])[[11月26日]]、海軍大学卒業、同年[[12月1日]]軍令部出仕兼部員に補される、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを勤務。昭和15年([[1940年]])[[4月29日]]、支那事変従軍記章と功四級金鵄勳章を受けらる、同年[[7月3日]]戦艦[[比叡 (戦艦)|比叡]]砲術長、[[11月15日]][[海軍中佐]]進級。昭和16年([[1941年]])[[4月5日]]、「なるべく近くに」と昭和天皇の内意より、横須賀空教官に補される、[[太平洋戦争]]開戦前夕の[[11月20日]]、軍令部部員と大本営海軍参謀を務め、昭和17年([[1942年]])[[11月1日]][[海軍大佐]]に昇る。 |
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戦争中は開戦当初から和平を主張して軍部や政界の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した。側近の[[細川護貞]]によれば、一時は信任する[[高木惣吉]][[海軍少将]]や[[神重徳]]海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める[[東條英機]]首相の暗殺さえ真剣に考えていたが<ref>細川護貞『細川日記』上(中公文庫、2002年改版) ISBN 4122040728 昭和十九年七月十一日条より p266</ref>、他方、昭和天皇は宣仁親王のことを戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し<ref>『昭和天皇独白録』(文春文庫、1995年) ISBN 4167198037 第二巻 鈴木内閣 (一一)八月十二日の皇族会議より p152</ref>、戦後、親王が発表した手記に激怒したともされている。<ref>[[吉田裕]]『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年) ISBN 4004302579 III 宮中の対GHQ工作 2 高松宮の政治活動より p74~p75</ref> |
戦争中は開戦当初から和平を主張して軍部や政界の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した。側近の[[細川護貞]]によれば、一時は信任する[[高木惣吉]][[海軍少将]]や[[神重徳]]海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める[[東條英機]]首相の暗殺さえ真剣に考えていたが<ref>細川護貞『細川日記』上(中公文庫、2002年改版) ISBN 4122040728 昭和十九年七月十一日条より p266</ref>、他方、昭和天皇は宣仁親王のことを戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し<ref>『昭和天皇独白録』(文春文庫、1995年) ISBN 4167198037 第二巻 鈴木内閣 (一一)八月十二日の皇族会議より p152</ref>、戦後、親王が発表した手記に激怒したともされている。<ref>[[吉田裕]]『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年) ISBN 4004302579 III 宮中の対GHQ工作 2 高松宮の政治活動より p74~p75</ref> |
2007年3月9日 (金) 15:37時点における版
高松宮 宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、(明治38年(1905年)1月3日 - 昭和62年(1987年)2月3日)は、大正天皇の第3皇子、昭和天皇の同母弟。母は貞明皇后。妃は公爵徳川慶久の次女喜久子。勲等・功級は大勲位功四級。最終階級は海軍大佐。墓所は豊島岡墓地、墓碑銘(縦書き)は「大勲位宣仁親王」。
略歴
明治38年(1905年)1月3日、当時の皇太子嘉仁親王の三男として青山東宮御所で御降誕。幼称を光宮(てるのみや)といった。
高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承したのには故がある。大正2年(1913年)、有栖川宮10代威仁親王が後嗣・栽仁王に先立たれたまま危篤となったが、当時すでに皇族の養子縁組は禁じられていた(養子縁組そのものは出来たが、それを行った時点で臣籍降下を余儀なくされた)ため、有栖川宮家の断絶は決定的となった。しかし、幟仁・熾仁・威仁三親王の幕末以降の功労に鑑んだ大正天皇が、威仁親王の死去に先立ち同年7月6日特旨をもってまだ成人前であった第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与えたことで、有栖川宮家の祭祀は受け継がれた。その時から、威仁親王の外孫にあたる徳川喜久子(1911年生)と、宣仁親王との婚姻が約束されたという。
大正9年(1920年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。大正10年(1921年)8月24日、海軍兵学校本科に編入(52期)。大正13年(1924年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生となったが9月赤痢のために、候補生遠洋航海は断念。大正14年(1925年)12月1日、海軍少尉に任官。昭和5年(1930年)2月4日に喜久子と婚儀。しかし、生涯子女を設けなかった。昭和7年(1932年)11月29日、海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦高雄、戦艦扶桑の分隊長に補される。昭和8年年末から約1年間呉市新宮町で暮らす。(荘の名前は「俊山荘」)昭和9年(1934年)11月10日、海軍大学に入学(甲種学生34期)、昭和10年(1935年)11月15日海軍少佐に進級。昭和11年(1937年)11月26日、海軍大学卒業、同年12月1日軍令部出仕兼部員に補される、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを勤務。昭和15年(1940年)4月29日、支那事変従軍記章と功四級金鵄勳章を受けらる、同年7月3日戦艦比叡砲術長、11月15日海軍中佐進級。昭和16年(1941年)4月5日、「なるべく近くに」と昭和天皇の内意より、横須賀空教官に補される、太平洋戦争開戦前夕の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務め、昭和17年(1942年)11月1日海軍大佐に昇る。
戦争中は開戦当初から和平を主張して軍部や政界の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した。側近の細川護貞によれば、一時は信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條英機首相の暗殺さえ真剣に考えていたが[1]、他方、昭和天皇は宣仁親王のことを戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し[2]、戦後、親王が発表した手記に激怒したともされている。[3]
しかし、生涯を通してみると昭和天皇と宣仁親王(さらには秩父宮雍仁親王や三笠宮崇仁親王をあわせた四兄弟)の関係は非常に親密であった。昭和28年(1953年)に雍仁親王が肺結核で危篤となった際、昭和天皇は最後に一目会うことを願ったが、血を分けた兄弟とはいえ皇位にある立場で末期の伝染病患者に会うわけにも行かず、面会は叶わなかった。これを昭和天皇は大変悔やんだといわれ、後に宣仁親王が肺癌に倒れたときは、昭和天皇は三度にわたって自ら親王のもとへ足を運び見舞っている。そのうちの最後は昭和62年(1987年)2月3日、宣仁親王薨去の当日であった。昭和天皇が病室に到着した時すでに親王の意識はなかったが、喜久子の願いもあり、天皇は薨去の直前まで親王の手を握っていたという。
昭和天皇と今生の別れを行った約1時間後の13時10分、宣仁親王は肺癌のため東京・広尾の日本赤十字社医療センターで薨去。享年82。豊島岡墓地の、次兄・秩父宮雍仁親王の隣に葬られた。
宣仁親王はスポーツ、国際親善、厚生、美術工芸など、多岐にわたる活動を行った。中でもよく知られるのは競馬の「高松宮杯」(現・「高松宮記念」)で、病に倒れるまで同レースは毎年観戦し、自ら優勝杯の授与も行っていた。また、済生会などの総裁を務め、社会活動にも貢献した。なお、募金者に赤い羽根を渡すアメリカの習慣を日本に導入したのは宣仁親王だとされる。そのため、共同募金で赤い羽根を服に付けた第一号は宣仁親王である。
注記
- ^ 細川護貞『細川日記』上(中公文庫、2002年改版) ISBN 4122040728 昭和十九年七月十一日条より p266
- ^ 『昭和天皇独白録』(文春文庫、1995年) ISBN 4167198037 第二巻 鈴木内閣 (一一)八月十二日の皇族会議より p152
- ^ 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年) ISBN 4004302579 III 宮中の対GHQ工作 2 高松宮の政治活動より p74~p75
著作
- 『高松宮日記』
- 第一巻(中央公論社、1996年) ISBN 4124033915
- 第二巻(中央公論社、1995年) ISBN 4124033923
- 第三巻(中央公論社、1995年) ISBN 4124033931
- 第四巻(中央公論社、1996年) ISBN 412403394X
- 第五巻(中央公論社、1996年) ISBN 4124033958
- 第六巻(中央公論社、1997年) ISBN 4124033966
- 第七巻(中央公論社、1997年) ISBN 4124033974
- 第八巻(中央公論社、1997年) ISBN 4124033982
- 没後、平成3年(1991年)に宮内庁の職員が宮邸の倉庫から発見した日記(大正10年~昭和22年)が、妃喜久子の強い希望で中央公論社から一部編集を経て出版された。
伝記
- 「高松宮宣仁親王」伝記刊行委員会 編『高松宮宣仁親王』(朝日新聞社、1991年) ISBN 4022562781
参考文献
- 阿川弘之『高松宮と海軍』
- (中央公論社、1996年) ISBN 4120025497
- (中公文庫、1999年) ISBN 4122033918
- 『高松宮日記』編纂に携わった著者の日記編纂記前・後篇、時代と背景を解説する「海軍を語る」を併録。
- 宣仁親王妃喜久子『菊と葵のものがたり』
- (中央公論社、1998年) ISBN 4120028399
- (中公文庫、2002年) ISBN 4122039592