「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」の版間の差分
編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
4行目: | 4行目: | ||
ボヘミアの[[プロテスタント]]の小[[貴族]]の家に生まれるが、[[カトリック教会|カトリック]]に改宗して[[イタリア]]の[[パドヴァ大学]]に遊学した。 |
ボヘミアの[[プロテスタント]]の小[[貴族]]の家に生まれるが、[[カトリック教会|カトリック]]に改宗して[[イタリア]]の[[パドヴァ大学]]に遊学した。 |
||
帰国後に[[傭兵]]となる。 |
帰国後に[[傭兵]]となる。 |
||
[[1618年]]にボヘミア反乱が起こると[[神聖ローマ]]皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に味方し、軍資金不足の皇帝に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命された。 |
[[1618年]]にボヘミア反乱が起こると[[神聖ローマ]]皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に味方し、軍資金不足の皇帝に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命された。 |
||
[[1623年]]に北ボヘミアのフリートラント侯に任じられる。 |
[[1623年]]に北ボヘミアのフリートラント侯に任じられる。 |
||
陸上での戦争では[[デンマーク]]王[[クリスティアン4世]]などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。 |
陸上での戦争では[[デンマーク]]王[[クリスティアン4世]]などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。 |
||
功績が認められて[[メクレンブルク]]公となるが、旧来の帝国諸侯の反感をかい総司令官を解任された。 |
功績が認められて[[メクレンブルク]]公となるが、旧来の帝国諸侯の反感をかい総司令官を解任された。 |
||
その後、[[スウェーデン]]軍の侵入で後任の総司令官[[ティリー伯]]が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復活。この際、[[選帝侯]]位を要求したとも言われる。しかし |
その後、[[スウェーデン]]軍の侵入で後任の総司令官[[ティリー伯]]が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復活。この際、[[選帝侯]]位を要求したとも言われる。 |
||
しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、[[1632年]]には[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で[[スウェーデン国王]][[グスタフ・アドルフ]]を戦死させながらも皇帝軍は敗走し、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、皇帝軍将校に[[暗殺]]された。 |
|||
選帝侯位を得た後は、[[ボヘミア]]の王位を狙っているものとも[[噂]]された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。 |
選帝侯位を得た後は、[[ボヘミア]]の王位を狙っているものとも[[噂]]された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。 |
||
2007年2月25日 (日) 03:12時点における版
アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン(Albrecht Wenzel Eusebius von Wallenstein, Albrecht Václav Eusebius z Valdštejna, 1583年9月24日 ボヘミア - 1634年2月25日 ボヘミア・エーガー Eger(現ヘプ Cheb))は、中世の三十年戦争期のボヘミア(ベーメン)の傭兵隊長である。もとの姓はヴァルトシュタイン(Waldstein)。
ボヘミアのプロテスタントの小貴族の家に生まれるが、カトリックに改宗してイタリアのパドヴァ大学に遊学した。 帰国後に傭兵となる。
1618年にボヘミア反乱が起こると神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に味方し、軍資金不足の皇帝に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命された。 1623年に北ボヘミアのフリートラント侯に任じられる。 陸上での戦争ではデンマーク王クリスティアン4世などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。
功績が認められてメクレンブルク公となるが、旧来の帝国諸侯の反感をかい総司令官を解任された。 その後、スウェーデン軍の侵入で後任の総司令官ティリー伯が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復活。この際、選帝侯位を要求したとも言われる。
しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、1632年にはリュッツェンの戦いでスウェーデン国王グスタフ・アドルフを戦死させながらも皇帝軍は敗走し、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、皇帝軍将校に暗殺された。
選帝侯位を得た後は、ボヘミアの王位を狙っているものとも噂された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。
彼を題材にシラーが書き上げた戯曲「ヴァレンシュタイン」がある。