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*タイトル
*タイトル
** 最優秀救援投手 1994年 1999年 2001年 2003年
** 最多セーブ投手 1994年 1999年 2001年 2003年


== 背番号 ==
== 背番号 ==

2007年2月19日 (月) 18:17時点における版

高津 臣吾たかつ しんご1968年11月25日 - )は平成期(1990年代~)のプロ野球選手。右投げ右打ち、投手。右横手から時速140km前後のストレートと130km/h台、110km/h台、100km/h台の3種類のシンカーを武器に、セーブポイント(SP)を重ね続けている(日本プロ野球界最多セーブ保持者)。ヤクルトファンからの愛称は『フィニッシャー』。

広島県広島市南区出身。段原中学の大先輩に張本勲、高校・県立広島工業高校の後輩に広島東洋カープ新井貴浩がいる。身長183cm、体重73kg。アメリカでの代理人はオクタゴン社のジョー・アーボン氏で、国内は水戸重之弁護士。また、日本でのマネジメントは、長谷川滋利石井一久らと同様、吉本興業スポーツ部が請け負っている。

来歴・人物

  • 幼少の頃から広島東洋カープのファンで、ミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。また、ドラフト会議のあった1990年はその山本浩二が監督をやっていたため広島入りを熱望していた。
  • 広島工業3年の時、春夏通じて甲子園に出場(春ベスト8、4番は新井貴浩の兄であった)したが、控え投手だったため登板機会はなし。金本知憲は同期で何度か広陵高校と対戦しているが、高津の方が控えで対戦は無い。ちなみに当時エースだった上田俊治はその後中国放送に入社して報道記者を務めている他、ローカル番組「KEN-JIN」の軟式野球の企画にも甲子園経験者という経歴を買われて出演していた。
  • 大学は亜細亜大学に在学。当時ナンバーワンの左腕、小池秀郎の影に隠れて二番手の扱いだった。特に特徴の無いピッチャーだったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。
  • 1990年 ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。入団当時は先発投手として活躍を期待されていた。
  • 1993年5月2日 プロ入り初セーブを達成。この年抑え投手に転向し、20セーブをあげてヤクルトのリーグ優勝に貢献。
  • 1994年 プロ入り初のタイトル、最多セーブ投手獲得。
  • 1997年 自らの不調、伊藤智仁の復活によって中継ぎとして起用される。翌年も中継ぎとしての起用は続いた。
  • 1999年 最多セーブ投手獲得。
  • 2001年 最多セーブ投手獲得。日本シリーズでは連続無失点。
  • 2003年 佐々木主浩の持つ229Sのプロ野球記録を更新。通算260Sは日本記録。最多セーブ投手獲得。
  • 2004年 FAで、シカゴ・ホワイトソックスに入団。メジャー初登板の最初の打者は松井秀喜ニューヨーク・ヤンキース)。抑え投手として活躍。
  • 2005年 救援失敗が続いた上、味方投手の好調に押し出されてWソックスを自由契約(戦力外)に。その後Wソックスとマイナー契約したものの、8月1日に解雇。その後、8月12日ニューヨーク・メッツとマイナー契約し後にメジャー昇格を果たすが、オフにFAとなり退団。
  • 2006年 当初球団は高津が入ったら支配下登録枠が全て埋まる事からすぐには契約しなかった。その後入団テストに合格し、3年ぶりにスワローズに復帰した。シーズン当初は中継ぎを任されたものの、抑え候補の石井弘寿木田優夫らの離脱により、いつの間にか抑えをつとめることに。
  • 2006年10月7日 対広島20回戦(神宮)で日米通算300セーブを達成。ホワイトソックスなどでプレーした2年間で27セーブを記録。今季から日本球界に復帰し、渡米前の260セーブと合わせて大台に達した。プロ野球でマークしている通算273セーブは歴代1位。

 日米通算300セーブを達成している日本選手は、横浜ベイスターズと大リーグ、シアトル・マリナーズで活躍した佐々木主浩投手以来で、史上2人目。

略歴

  • 身長・体重:180cm 73kg
  • 投打:右投右打
  • 出身地:広島県広島市
  • 血液型:A型
  • 球歴・入団経緯:広島工高 - 亜大 - ヤクルトスワローズ(1991年 - 2003年) - シカゴ・ホワイトソックス(2004年 - 2005年途) - ニューヨーク・メッツ(2005年) - 東京ヤクルトスワローズ(2006年 - ) 
  • FA行使(日本):2003年(1回目)
  • プロ入り年度・ドラフト順位:1990年(3位)
  • 英語表記:TAKATSU
  • 推定年俸:3000万(2006年)
  • 守備位置:投手

日米通算成績・獲得タイトル

  • NPB通算(1991年~2003年,2006年~) 525試合 35勝39敗260S 695 1/3投球回 545奪三振 防御率3.13
  • MLB通算(2004年~2005年) 99試合 8勝6敗27S 98 2/3投球回 88奪三振 防御率3.375
    • AAA通算(2005年) 7試合 0勝1敗0S 7 2/3投球回 6奪三振 防御率3.375
  • 日米通算(1991年~) 584試合 43勝45敗300S 794投球回 633奪三振 防御率3.16
  • タイトル
    • 最多セーブ投手 1994年 1999年 2001年 2003年

背番号

エピソード

  • 100km/h台のシンカーは野村克也監督に「西武潮崎哲也のシンカーを盗め」と言われて完成させたもの。1992年、ヤクルトは日本シリーズで潮崎のシンカーに苦しめられた。このとき、高津にシンカーを教えたのが、キャンプで臨時コーチだった山田久志である。
  • プロ入り初セーブを上げた1993年5月2日、当時読売ジャイアンツ入団1年目の松井秀喜に、プロ入り第1号ホームランを献上した。これは野村監督が、スカウトが調べあげた松井秀喜の得意コースが本物であるか確かめるために、そこに球を放らせ続けたら見事にホームランを打たれた、というものであった。そのことから、高津の制球の良さがわかる。また、1996年オールスター第2戦、イチロー登板に際して松井秀喜にかわる代打に送られたりと、MLBでの初対戦含め松井秀喜とはちょっとした縁がある。
  • 登板時、得点圏までランナーをためるが後続をしっかり抑えるピッチングスタイルは「高津劇場」と呼ばれた。
  • 日本シリーズでの通算8セーブ、10SPはいずれも日本記録である。また、日本シリーズの登板11試合で、失点0。このためメジャーリーグに移籍した際は『Mr. Zero』と呼ばれた。
  • 上記のようなピッチングスタイルから、ホワイトソックス時代には、USセルラーフィールドに「イッツ・シンゴタイム!」の表示がともった。
  • シンカーの速度がアメリカの他の選手の投げるものより数段遅いため、解説者からはチェンジアップと呼ばれていた。
  • シーズン途中で解雇されたものの、その後ホワイトソックスがワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手している。
  • 2005年12月5日放送(大阪)の「クイズ!紳助くん」にてゲスト解答者として出演。このときは「プー(太郎)です」(現在どこの球団とも契約していない、という意味)と語っていた。
  • プロ野球選手をタレント的に扱った最初の雑誌『プロ野球ai』(1991年~)創刊時に一番人気があった選手だった。ルックスがいいわけではないが、当時は独身だったこともあり、人柄の良さと喋りの上手さ、面白キャラが受けて人気投票ではたいてい1位だった。
  • カラオケの十八番はクリスタルキングの「大都会」。オフのプロ野球選手が登場する番組でも、クリスタルキングのムッシュ吉崎のパートをものまねで歌っている。野球界では岩本勉(引退)、佐伯貴弘と並ぶ「芸達者」として知られる。
  • 選手名鑑の「趣味・特技」欄には、「マッチを使った手品はプロ級、将棋は初心者」と10年以上変わらずに掲載されている。

著書

関連項目


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