風間繁松
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風間 繁松(かざま しげまつ、明治4年1月13日(1871年3月3日) - 1955年9月14日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍軍曹、酒田風間氏分家・東美家第七代当主。号は触水。
略歴
[編集]- 1871年(明治4年)3月3日 - 羽前国飽海郡(現・山形県酒田市)に、東美家・第五代当主の父:風間玄達と母:風間糸の長男として生れる。
- 1873年(明治6年) - 両親が離婚し、父の玄達は婿であったため家を出る。
- 母と市川操(市川其楽の次男)が結婚し、操が酒田風間氏 東美家・第六代当主となる。
- 繁松は、このころから酒田町会議員の青塚岩治(元酒田市長・青塚恒治の父)の家に預けられ育てられる。
- 若い頃は東京市本郷区に住んでいた。
- 1891年(明治24年)2月 - 酒田に戻り商業を始める。
- 日清戦争に従軍。
- 1898年(明治31年) - 青塚岩治の長女:照と結婚。1899年 長男・彦男 誕生。1902年 次男・英二 誕生。1904年 長女・冨美 誕生。
- 日露戦争に従軍。階級は陸軍歩兵軍曹。この頃、異父弟の風間馨が陸軍軍医となる。
- 1908年(明治41年) - 酒田風間氏 東美家 第七代当主となる。
- 1925年(大正14年) - 米穀取引業で財をなし、酒田市出町39番地内に家を新築する。
- 戦時中は生命保険代理店を営む。
- 戦争激化により家の裏の畑に防空壕を作る。
- 1945年(昭和20年)2月3日 - 彦男が「ルソン島の戦い」で戦死。
- 1946年(昭和21年) - 孫の風間吉也が、私立岩手医学専門学校(現・岩手医科大学医学部)に入学。この時、繁松は大いに喜んだという。それは、自家は初代・東美の父・閑斎から繁松の父の五代目・玄達まで6代続く医者の家系だったが、自分と息子達が医者になれなかった為、孫が医者になるので嬉しかったという。
- GHQによる戦後改革により財産の大半を失ってしまう。
- 1948年(昭和23年) - この頃に出町の家を売却し酒田市稲荷小路に転居。出町の家は岸田医院となり、その後、高層マンションが建つ。
- 小間物商売業を営む。
- 1955年(昭和30年)9月14日 - 死去。享年85、法名「開善」
- 没後に繁松の記した「備忘録」と「先祖記録」などが発見される。これらを基にして孫の光彦と吉也が共著『風間系図と酒田・東美系風間氏』を執筆する。
親族
[編集]- 父:風間玄達 - 東美家五代目、医師、岡野宗眠 次男。
- 母:風間糸 - 風間仲徳(東美家四代目) 長女。
- 養父:風間操 - 東美家六代目、糸の後夫、市川其楽 次男。
- 妻:風間照(1882年(明治15年) - 1961年(昭和36年)) - 酒田市長・青塚恒治 姉
- 長男:風間彦男 - 陸軍歩兵中尉
- 義娘:風間花井(1903年(明治36年) - 1983年(昭和58年)) - 余目町長・佐藤清三郎 六女
- 次弟:風間馨 - 陸軍軍医中佐
- 三弟:風間阜 - 北京新聞社社長
- 義妹:大屋いはほ - 加茂町町長・大屋雄三 妻、酒田市長・青塚恒治 妹
- 甥:風間駿 - 日本文理大学工学部教授
- 孫:風間光彦 - 酒田信用金庫監事
- 孫:風間吉也 - 医師、医学博士
出典・参考文献
[編集]- 『風間家の歴史』 2008年 風間吉也(著)