近衛兼教
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 文永4年(1267年) |
死没 | 延元元年/建武3年9月2日(1336年10月7日) |
別名 | 猪隈入道准大臣、猪熊一位入道 |
官位 | 従一位、准大臣 |
主君 | 後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇 |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛基平、母:近衛兼経の娘[1] |
兄弟 | 家基、覚昭、位子、兼教、鷹司兼忠室、尋基 |
妻 | 鷹司基忠の娘、近衛家基の娘 |
近衛 兼教(このえ かねのり、旧字体:近󠄁衞 兼󠄁敎)は、鎌倉時代後半の公卿。関白左大臣・近衛基平の子。官位は従一位・准大臣。猪熊一位入道と号する。母は岡屋関白太政大臣・近衛兼経の女、すなわち基平の異母妹あるいは異母姉である[1]。
背景
[編集]兼教が誕生した頃、摂関家は近衞家と九条家からそれぞれ鷹司家、二条家、一条家が分立し始めた時代である。この摂関家の分立は近衞家と九条家それぞれの当主が夭折し、相続に問題が生じていたことが一因であるとする説がある。近衛家では兼教が誕生した翌文永5年(1268年)11月19日に、兼教の父・基平が弱冠23歳で薨去している[2]。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 弘安3年(1280年)7月3日に元服、同日従五位上に叙され禁色も許される。同月11日には右近衛少将に、10月1日には正五位下、12月7日には右近衛中将に任官される。
- 弘安4年(1281年)1月5日には従四位下、3月26日には従四位上、7月29日には正四位下。
- 弘安6年(1283年)1月5日に従三位となり公卿に列し、同日中将は元の如し。2月28日には美作権守を兼ねる。
- 弘安7年(1284年)1月13日には正三位に叙される。
- 弘安10年(1287年)1月13日に参議となる。右中将は元の如し。同年8月には一門の鷹司兼平が関白を、鷹司基忠が太政大臣をそれぞれ辞している。
- 正応元年(1288年)2月10日には伊予権守を兼任、3月8日には従二位、7月21日には権中納言となり右衛門督を兼ね12月20日には左衛門督に転じる。
- 正応2年(1289年)1月5日には正二位となる。前年右大臣となっていた異母兄・家基は4月13日に関白となっている。
- 正応3年(1290年)1月13日には権大納言に転じ同月17日には帯剣を許される。
- 永仁4年(1296年)6月19日に兄・家基が二度目の関白在任中に薨去する。
- 正安元年(1299年)12月17日、権大納言を辞任す。
- 正安2年(1300年) 3月6日に権大納言に還任するが4月7日に再び辞する。
- 延慶3年(1310年)4月7日に従一位に叙せられ、同月28日には大臣に准じて朝参するよう宣下がある。なお、兼教が出家したのは元亨3年(1323年)ではないかと推測される。
- 延元元年/建武3年(1336年)9月2日、薨去。
系譜
[編集]兼教の和歌
[編集]『玉葉和歌集』に次の和歌が作者名「従一位兼教」として入首している。兼教の心境をうかがうことができ興味深い。 なお、「近衛関白」とは兄近衛家基、「歓喜苑前摂政」とは正安3年(1301年)に薨去した一門の鷹司兼忠を指す。
- 鳴く鹿の聲のしるべもかひぞなき道踏みまがふ春日野の原 (秋歌上)
籠りゐて後五月五日菖蒲の根につけて大納言三位に遣はしける
- ねを添へて猶こそ忍べあやめ草忘れぬつまの今日の昔を (雑歌一)
近衛関白かくれて後籠りゐて年久しくなり侍りける頃、花の歌よみ侍りける中に
- 春しらぬ憂き身もかなし古につらねし枝の花に別れて (雑歌四)
歓喜苑前摂政かくれ侍りける秋、近衛関白の事にうち続きまたかかる事の哀れさへなど申すとて
- 見し夢のおなじ憂世のたぐひなき覚めぬ哀れぞいとど悲しき (雑歌四)