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見入山観音堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
見入山大悲閣から転送)
見入山観音堂
所在地 青森県西津軽郡深浦町追良瀬初瀬山草分
位置 北緯40度39分37秒 東経140度00分17秒 / 北緯40.66028度 東経140.00472度 / 40.66028; 140.00472座標: 北緯40度39分37秒 東経140度00分17秒 / 北緯40.66028度 東経140.00472度 / 40.66028; 140.00472
宗旨 真言宗
宗派 醍醐派
本尊 如意輪観音
創建年 康栄3年(1344年)
開基 藤原氏家
別称 大悲閣
札所等 津軽三十三観音霊場 第九番札所
見入山観音堂の位置(青森県内)
見入山観音堂
見入山観音堂
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見入山観音堂(みいりさんかんのんどう)は、青森県西津軽郡深浦町追良瀬にある寺院。 深浦町奥入瀬坂下から南に向かい、奥入瀬川に沿う林道を5kmほど行った山奥に、松原集落がある。集落に入る300m手前の左かたに、50mほどあろうかという岩山がそそり立っている。その断崖の突端近く、渓流を見下ろす洞窟に見入山観音堂はおさまっている[1]

観音堂

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不動堂と胎内くぐり

見入山観音堂は津軽三十三観音霊場に指定されている。宝永年間(1673年-1681年)から延享3年(1746年)にかけては、松井四郎兵衛によって14番札所に指定されている。寛延4年(1751年)に弘前本町の甚五郎によって書かれた『寛延巡礼記』には、9番に指定されている[2]

見入山観音堂は2間に3間の舞台づくりである。窟のなかに、はめこむように建てられていた。別名「窟観音」のいわれである。本堂左に小堂が3宇。前には赤い岩の破片が沢山積み上げている。本堂裏には3尺四面の堂宇が建ち、小さな如意輪観世音像が安置されている。この岩屋の奥行きは9m程である。本堂には、如意輪観音と聖観音、地蔵菩薩像が祀られ、絵馬などが納められている[3]

新暦の9月15日が例祭である。本尊は智証大師の作である。御詠歌は「補陀洛や岸うつ沢は奥入瀬の 見入の山にひびく谷川[4]」「深山路(みやまじ)や桧(ひ)原松原分け行けば やまと誓も深き谷山[5]」である。

歴史

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参道入口

室町時代の康栄3年(1344年)創建されたと伝えられる。明治初年まで古い棟札が残っていて、そのことが記されていた。一時は草案が結ばれたこともあったが、長く無住が続き、藩政時代には深浦円覚寺が寺務を執って山伏の修験場にあて、飛び地境内と呼んでいた。この縁から現在でも円覚寺が納経所になっている。『寛延巡礼記』によると、本尊は聖観音であってが、天明6年(1786年)以前から如意輪観音になった。数多い小宇堂には、毘沙門天、吉祥天、愛染明王、弁財天、不動明王、薬師如来、十二神将、地蔵菩薩などが祀ってあったといわれ、現在でもそうである。

明治初期に行われた神仏分離令でも、ここは純然たる仏堂であったため、何の影響も受けることがなく今に昔を伝えている。大正11年に巡礼たちが灯明を不始末して、観音堂を全焼してしまった。大正13年に再建して、いまにいたっている。再建にあたっては昔通りの様式にしたがったという[6]

康栄3年(1344年)の創建と伝えられているが[7]、安政2年(1855年)の神社微細社司由緒調書上帳には智證大師作で創建不明とある[8]

脚注

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  1. ^ 山上貢『新編津軽三十三霊場』、陸奥新報社、1973年、p.105
  2. ^ 山上貢『新編津軽三十三霊場』、陸奥新報社、1973年、p.33-39
  3. ^ 山上貢『新編津軽三十三霊場』、陸奥新報社、1973年、p.106-108
  4. ^ 「わがふるさと」
  5. ^ 「津軽俗説選」
  6. ^ 山上貢『新編津軽三十三霊場』、陸奥新報社、1973年、p.108-109
  7. ^ 津軽一統志
  8. ^ 『青森県の地名』