薔薇園 (書籍)
著者 | サアディー |
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言語 | ペルシア語 |
出版日 | 1258年(ヒジュラ暦656年) |
『薔薇園』(ばらえん、ペルシア語: گلستان)は、1258年(ヒジュラ暦656年)にシーラーズ出身の詩人・旅行家のサアディー(1210年頃生 - 1291年または1292年没)が著した書籍である。『グリスターン』や『ゴレスターン』などの日本語訳もある。さまざまな言語に翻訳されて現在でも読まれており、『果樹園(ブースターン)』と共にサアディーの代表作として知られる。各地を旅した見聞や体験をもとにした思索が、散文と詩の様式で書かれていて、簡潔な表現による格言や金言も数多い[1]。
表題の薔薇園を意味するگلستان(Gulistan)はペルシアで一般的な名詞であり、gul(花、薔薇)とstan(富めるところ)を合わせている。日本の国文学で「花」が桜を指すように、ペルシア文学でgulは薔薇の花を意味する[2]。
時代背景・著者
[編集]サアディーが生まれた当時のシーラーズは、アタベクの政権であるサルガル朝の統治下にあった。父親は君主サアド・ブン・ゼンギー(Atābak ʿIzz al-Dīn b. Saʿd)(1195年-1226年)に仕えており、サアディーの幼少時に亡くなったが、その教育や道徳観は彼に大きな影響を与えた。母親も若くして失ったサアディーは、サアド・ビン・ゼンギーによってバグダードのニザーミーヤ学院に留学をして1226年頃まで各種の学問を習得し、ペルシア語に加えてアラビア語にも堪能になった[3]。
バグダードの学究生活を終えると、サアディーは各地を旅するようになる。旅費を工面するために托鉢をして質素な生活を行い、詩作をしながら各地を旅し、権力者から一般の人々まで広く交友した。旅の期間は1226年頃から1256年までの約30年間にわたり、このため彼は大旅行家としても知られているが、旅行記のたぐいは書いていない[注釈 1][5]。1256年に故郷のシーラーズに帰ったサアディーは『果樹園』(1257年)と『薔薇園』(1258年)を執筆し、晩年までシーラーズの郊外で暮らした。シーラーズでの交友には、イル・ハン朝の宰相シャムス・ウッディーン・ムハンマド・ジュワイニーと、バグダード太守も務めた学者アラー・ウッディーン・アター・マリク・ジュワイニーの兄弟がおり、サアディーは生活を保障されて暮らすことができた[6]。
内容
[編集]- 序
- 第1章 王者の行状について
- 第2章 托鉢僧の特性について
- 第3章 満足の徳について
- 第4章 沈黙の利について
- 第5章 愛と青春期について
- 第6章 衰弱と老齢について
- 第7章 訓育の効果について
- 第8章 交際の作法について
構成
[編集]散文を中心としつつ、詩句を各所に織り込んでいる。散文は簡潔で整っており、逸話や題材は洗練されたものから世俗のものまで多岐にわたる。第1章から第7章まではテーマ別に物語が集められており、第8章には格言が集められている[8]。サアディーはイスラームの神秘主義者でもあり、詩作にも神秘主義が含まれている。同時代の神秘主義の詩人ルーミーと比べると、ルーミーは思弁的であり、サアディーの詩は実践道徳と結びついている[9]。
旅の経験
[編集]サアディーが旅をした地域は、東はホラーサーン、トルキスタン、カシュガル、ガズニー等、南はパンジャーブ、ソームナート、グジャラートからアラビア半島、北はアゼルバイジャン、西はイラク、パレスティナ、シリアやエジプトなど北アフリカに及んだ。メッカへの巡礼(ハッジ)は14回行い、多く訪れた土地としてはイスファハーン、タブリーズ、バスラ、クーファ、アレキサンドリアなどがある。こうした各地での見聞やサアディー自身の経験が随所に書かれている[5]。
ダマスカスでは十字軍と思われるフランク人に捕まってトリポリで強制労働をさせられた体験なども記している。アレッポの有力者だった知人に救われ、彼の娘と結婚したが、妻になったその女性が喧嘩早く口が悪いためにサアディーは難渋した[10]。旅の苦難はたびたび書かれており、盗賊にあった時は所持品を全て奪われている[11]。メッカの荒野では睡眠不足のあまり置き去りにしてくれと同行者に頼んだこともあった。サアディーはこうした苦難から教訓を得て語っている[12]。水売りや通訳、裁判の同席など仕事や頼まれごとの体験も多数にのぼる[13]。旅が長年におよぶにつれて名を知られるようになったことが、彼自身の体験談からも分かる[14]。
政治・経済
[編集]第1章を中心に、支配者のあり方について逸話を通して論じている。たとえば第1章の物語28では、「羊は牧羊者(ひつじかい)のためにあるのではなく、牧羊者こそ羊のためのもの」という詩句によって、羊を民衆、牧羊者を王にたとえている[15][16]。また、支配者のささいな行為が民衆にとって大きな損失になりうる点を警告し、「民の園から、王者が1個の林檎を食べたなら、その下僕(しもべ)はその木を根から掘り起そう」という詩句に表している[17]。実在の君主の逸話としては、ハールーン・アッ=ラシードなどが登場する[18]。
財産や富者・貧者については第2章を中心に書かれている。富や成功を得ることは、自分の能力だけでなく幸運に恵まれているという点を説くために、「猟人は常に豺(さい)をばもたらすまい いつの日か猛豹が彼を貪り食うだろう」などの詩句で表現している[19]。第7章の物語20では、富者と貧者についての論争で、ワクフやザカートなどイスラームの制度についても語られている[20]。節制した生活の大切さとともに、豊かな者は施しをすることをすすめており、「貪欲漢はたとえ全世界を得ようと、飢えを忘れず、満足するものは一個の麵麭で十分と考える」[21]。「食って与える寛大の士は断食して蓄える行者に勝る」などと論じている[22]。
貿易など当時の経済活動を知る記録も含んでいる。キーシュ島の商人による話では、ペルシアで産出する硫黄を中国へ持ってゆくと高値で売れるという[注釈 2][24][25]。また、貝貨を指すコウリー貝についての言及がある[注釈 3][27]。
恋愛
[編集]第5章で書かれており、サアディー自身の恋愛体験も逸話として収められている。当時のイスラーム世界における男性の同性愛も題材となっている。「愛情をもって悪鬼を眺めたら 汝の眼には天使天童と映るであろう」という詩句[28]や、「愛人は一つの徳を認めて他を試みぬ」などの詩句がある。[29]。ペルシア文芸に関するものとして、『ライラとマジュヌーン』にまつわる逸話も収められている[注釈 4][31]。
家族の追憶
[編集]サアディーは信仰や学問で影響を受けた父親について、本書にも書いている。第2章の物語7では、自分が夜通しクルアーンを読んでいる時に他の人々が寝ていることに不満を表すと、父親に「他人の陰口を言うなら寝ている方がよい」という主旨の言葉で諭され、自惚れへの戒めとしている[注釈 5][33]。また、幼少期の教育の重要性について第7章の物語3をはじめしばしば強調しており、これも自身の体験から来ているとされる[34]。
父親を亡くしたのちに母親からも教育を受けたが、母親に向かって暴言を吐いたことの後悔も記している。サアディーは別の作品『果樹園』では、孤児の悲しさについて詩にしている[35]。
アダムの子ら
[編集]本書で最も有名な部分は、第1章の物語10に収録された『アダムの子ら』と呼ばれる詩句である。「アダムの子ら」とは人類を指している[36]。この詩句は、人類の一体性を示す言葉として現在でも引用される(後述)。
アダムの子らは互いに手足の如く
一つの宝に基づいて造られている!
何で、人たるの名に値しよう!
四肢の一つが運命(さだめ)のため悩んだら
他のものらが何で安心していられよう!
もし、汝が他人の苦痛を悲しまぬなら
[37]
影響
[編集]古来からペルシア語圏で読まれてきた作品であり、多大な影響を与えてきた[38]。サアディーの直筆の原稿は現存せず、写本は多数にのぼり、内容が一致するものは確認ができていない。信頼性の高い写本は、イギリスのグランヴィル卿所蔵の1320年本(ヒジュラ暦720年)、ロンドンのインド省の図書館の1327年本(ヒジュラ暦728年)、パリ国立図書館が所蔵する1366年(ヒジュラ暦768年)のものとなる。これらはサアディーの没後から比較的時間が経っていない[38]。1937年にはイランの民族的文化としてテヘランで活版本が記念出版され、イランの著作家・政治家のモハンマド・アリー・フォルーギーによる校訂が行われた[38]。
ニューヨークの国際連合本部ビルには、「アダムの子ら」の詩句を刺繍した絨毯が2005年からかけられている[39]。イランの外務大臣モハンマド・ジャヴァード・ザリーフによれば、国連本部ビルにサアディーの詩がかけられていると学校で習い、自分で探したが見当たらなかったため、国連と交渉をして実現したという。絨毯はイランで最も名のある絨毯工房の1つであるモハンマド・セイラフィアン(Mohammad Seirafian)のものである[40]
バラク・オバマは大統領時代の2009年、イランの人々に向けたノウルーズ(元日)のメッセージで「アダムの子ら」を引用した[41]。
音楽においては、コールドプレイがアルバム『エヴリデイ・ライフ』(2019年)の収録曲「バニ・アダム」で、「アダムの子ら」を歌詞に用いている[42]。
日本語訳
[編集]- 『ゴレスターン』澤英三訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1951年。
- 『薔薇園(グリスターン) イラン中世の教養物語』蒲生礼一訳、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1964年2月。
- 『薔薇園(ゴレスターン)』黒柳恒男訳、大学書林、1985年10月。
出典・脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ イスラームの著名な旅行記としては、サアディーよりも後の旅行家であるイブン・バットゥータの『リフラ』などが有名である[4]。
- ^ 中国では、宋の時代以降に火薬の原料として硫黄を輸入していた。ペルシアの他に日本、朝鮮半島、インドネシア、ジャワ島などからも硫黄が輸出されていた。カーリミー商人によってエジプトからインドへ運ばれた硫黄も、中国向けだった可能性がある[23]。
- ^ 13世紀以降、東南アジアや南アジア、アフリカにかけてタカラガイが貨幣として使われていた[26]。
- ^ 『ライラとマジュヌーン』はアラビア発祥の恋愛物語で、アラビア語の他に古来からペルシア語、トルコ語などでも読まれていた。ペルシア語版はニザーミーのものが有名で、物語にアラビア語版と異なる部分がある[30]。
- ^ ペルシア語やウルドゥー語の詩には、母親について詠った作品は多いが、父親についての作品は少ない[32]。
出典
[編集]- ^ サアディー 1964, p. 4, 9.
- ^ 蒲生 1963, pp. 98–99.
- ^ サアディー 1964, pp. 10–16, 19.
- ^ サアディー 1964, p. 17.
- ^ a b サアディー 1964, pp. 17–19.
- ^ サアディー 1964, pp. 25–27.
- ^ サアディー 1964.
- ^ サアディー 1964, pp. 2, 4.
- ^ 黒柳 1964, p. 102.
- ^ サアディー 1964, pp. 150–151.
- ^ サアディー 1964, pp. 322–324.
- ^ サアディー 1964, pp. 125–126.
- ^ サアディー 1964, pp. 20–21.
- ^ サアディー 1964, pp. 268–271.
- ^ 蒲生 1952, p. 63.
- ^ サアディー 1964, p. 93.
- ^ サアディー 1964, p. 77.
- ^ サアディー 1964, p. 99.
- ^ サアディー 1964, p. 225.
- ^ サアディー 1964, p. 326-341.
- ^ サアディー 1964, p. 362.
- ^ サアディー 1964, p. 377.
- ^ 山内 2012, pp. 201, 207–209.
- ^ サアディー 1964, p. 201.
- ^ 山内 2012, p. 209.
- ^ 上田 2016, pp. 1472–1491, 1530-1549/4511.
- ^ サアディー 1964, p. 338.
- ^ サアディー 1964, p. 245.
- ^ サアディー 1964, pp. 251–252.
- ^ 岡田 1981, pp. 142–143.
- ^ サアディー 1964, pp. 275–277.
- ^ サアディー 1964, p. 12.
- ^ サアディー 1964, p. 118.
- ^ サアディー 1964, pp. 13, 304–305.
- ^ サアディー 1964, pp. 12–14.
- ^ サアディー 1964, pp. 56–57.
- ^ サアディー 1964, p. 57.
- ^ a b c サアディー 1964, pp. 2–3.
- ^ Gift from Islamic Republic of Iran(United Nations、2006年12月1日)
- ^ Zarif Narrates Story of Iranian Carpet Hung up on UN's Wall(IFP NEWS、2017年4月19日)
- ^ Obama, Peres and Colbert on the Persian New Year(New York Times、2009年3月20日)
- ^ 音楽は未来の武器!! コールドプレイ『エヴリデイ・ライフ』(ロッキンオン、2019年12月11日)
参考文献
[編集]- 上田信『貨幣の条件 - タカラガイの文明史(Kindle版)』筑摩書房〈筑摩選書〉、2016年。
- 岡田恵美子「「ライラとマジュヌーン」を廻って」『オリエント』第24巻第1号、日本オリエント学会、1981年、139-150頁、2020年8月8日閲覧。
- 蒲生礼一「シーラーズのサアディー著『薇薔園』(GULISTAN)に現われた動物について」『東京外国語大学論集』第2巻、東京外国語大学、1952年12月、59-80頁、ISSN 04934342、2020年8月8日閲覧。
- 蒲生禮一「シーラーズ (Shíráz) のサアディー (Sa'dí) 著 Gulistán (薔薇園) に現れた植物について」『オリエント』第6巻第1号、日本オリエント学会、1963年、95-121,127、doi:10.5356/jorient.6.95、ISSN 0030-5219、NAID 130000841337、2021年7月1日閲覧。
- 黒柳恒男「近世ペルシア文学における神秘主義詩人」『オリエント』第7巻第3-4号、日本オリエント学会、1964年12月、95-110,144、2020年8月8日閲覧。
- サアディー 著、蒲生礼一 訳『薔薇園 (グリスターン) イラン中世の教養物語』平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1964年。
- 山内晋次「日本史とアジア史の一接点 : 硫黄の国際交易をめぐって」『江南文化と日本 : 資料・人的交流の再発掘, 復旦大学(上海), 2011年5月27日-29日』、国際日本文化研究センター、2012年3月、201-211頁、2020年7月16日閲覧。
関連文献
[編集]- サアディー 著、黒柳恒男 訳『果樹園 (ブースターン) 中世イランの実践道徳詩集』平凡社〈平凡社東洋文庫〉、2010年。