コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

田辺為三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田辺碧堂から転送)

田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年12月31日(元治元年12月3日[1][2][注釈 1])- 1931年昭和6年)4月18日[1][3][4])は、明治から昭和初期の実業家政治家漢詩人。衆議院議員。名・華、字・秋穀、号・碧堂[4]

経歴

[編集]

備中国浅口郡長尾村[1]岡山県[3]浅口郡長尾村[5][6]長尾町玉島市を経て現倉敷市玉島長尾)で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた[1][2]。7歳で父を失い[1]、母に養育され虚弱のため学校に通わず[1][6]、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた[1][6]。1879年(明治12年)3月、家督を相続した[2]

1888年(明治21年)玉島紡績会社に入社し[1][6]、1896年(明治29年)同社取締役に就任[1]。1890年(明治23年)児島郡味野村(現:倉敷市児島味野)の野﨑家の理事となり[1][6]、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え[1]、同家の塩業事業の発展に寄与した[1]

1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙(岡山県第4区、進歩党)で当選し[1][7]、同年8月の第6回総選挙(岡山県第4区、憲政本党)でも再選され[7]、衆議院議員に連続2期在任した[3][5][6]

また、野﨑家の貸費生出身の白岩龍平を補佐し[1]、1899年(明治32年)清国で大東汽船会社を設立し[1]、1903年(明治36年)湖南汽船会社も創立[1]。1907年(明治40年)清国内で航路を運航する日本企業4社が合併し日清汽船 (株) が設立すると監査役[注釈 2]に就任した[1][2][3][4][5][6]

漢詩を国分青崖に師事[4]大正になると政財界を引退し[1]、勝島仙波らと詩社・詠社を結成し[1]大東文化学院教授なども務めた[1][4]。墓所は多磨霊園[8]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『日本人名大辞典』1185頁では12月13日。
  2. ^ 『岡山県歴史人物事典』622頁では取締役。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『岡山県歴史人物事典』622頁。
  2. ^ a b c d 『人事興信録 第4版』た6頁。
  3. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』364頁。
  4. ^ a b c d e 『日本人名大辞典』1185-1186頁。
  5. ^ a b c 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』258頁。
  6. ^ a b c d e f g 『大日本人物誌』た之部622頁。
  7. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』103頁。
  8. ^ 田邊碧堂 / 田邊為三郎”. www6.plala.or.jp. 2024年11月28日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。