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*1894年(明治27年)7月14日 - [[長崎県]][[西彼杵郡]]浦上山里村中野郷(現・[[長崎市]]橋口町)で誕生{{Efn|父、山口愛吉は江戸時代の終わりから明治時代の初めにおきた[[キリシタン]]弾圧、いわゆる「[[浦上四番崩れ]]」によって500名あまりの信徒とともに[[金沢市|金沢]]へ流配された。明治政府は欧米各国から抗議を受け、[[1874年]]に[[禁教令|キリシタン禁制]]を終わらせる。これにより、やっと[[1874年]]に長崎に戻った{{Sfn|宮崎広和|2021|p=17}}。 }}。<br>山里尋常高等小学校を卒業し、[[長崎カトリック神学院|長崎公教神学校]]哲学科に入学{{Sfn|高瀬毅|2009|p=163}}。 |
*1894年(明治27年)7月14日 - [[長崎県]][[西彼杵郡]]浦上山里村中野郷(現・[[長崎市]]橋口町)で誕生{{Efn|父、山口愛吉は江戸時代の終わりから明治時代の初めにおきた[[キリシタン]]弾圧、いわゆる「[[浦上四番崩れ]]」によって500名あまりの信徒とともに[[金沢市|金沢]]へ流配された。明治政府は欧米各国から抗議を受け、[[1874年]]に[[禁教令|キリシタン禁制]]を終わらせる。これにより、やっと[[1874年]]に長崎に戻った{{Sfn|宮崎広和|2021|p=17}}。 }}。<br>山里尋常高等小学校を卒業し、[[長崎カトリック神学院|長崎公教神学校]]哲学科に入学{{Sfn|高瀬毅|2009|p=163}}。 |
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*[[1919年]] [[長崎カトリック神学院|長崎公教神学校]]を卒業後、[[イタリア]]に留学、[[ローマ]のヴァチカン布教聖庁が運営するウルバノ大学で学ぶ。ここで、人種、国籍の差別のない、隔のない間柄で共同生活を体験する{{Sfn|宮崎広和|2022|p=17}}。 |
*[[1919年]] [[長崎カトリック神学院|長崎公教神学校]]を卒業後、[[イタリア]]に留学、[[ローマ]]のヴァチカン布教聖庁が運営するウルバノ大学で学ぶ。ここで、人種、国籍の差別のない、隔のない間柄で共同生活を体験する{{Sfn|宮崎広和|2022|p=17}}。 |
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*[[1923年]][[12月24日]] - [[ローマ]]ウルバノ大学(現・ウルバニア大学)で学んだ後、ローマで[[司祭]]に[[叙階]]される{{Sfn|宮崎広和|2022|p=18}}。 |
*[[1923年]][[12月24日]] - [[ローマ]]ウルバノ大学(現・ウルバニア大学)で学んだ後、ローマで[[司祭]]に[[叙階]]される{{Sfn|宮崎広和|2022|p=18}}。 |
2023年9月29日 (金) 00:03時点における版
パウロ 山口愛次郎 Paulus Aijirō Yamaguchi | |
---|---|
カトリック長崎大司教 | |
教会 | カトリック教会 |
大司教区 | カトリック長崎大司教区 |
着座 |
1937年11月7日 (大司教昇任 1959年9月27日) |
離任 | 1968年12月19日 |
前任 | 早坂久之助 |
後任 | 里脇浅次郎 |
他の役職 | 鹿児島使徒座知牧区長(1936年 - 1937年) |
聖職 | |
司祭叙階 | 1923年12月24日 |
司教叙階 | 1937年11月7日 |
個人情報 | |
出生 |
1894年7月14日 長崎県西彼杵郡浦上山里村 |
死去 | 1976年9月24日(82歳) |
山口愛次郎(やまぐち あいじろう、1894年(明治27年)7月14日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、カトリック教会の司教。カトリック長崎大司教区の司教・大司教を務めた。洗礼名は「パウロ」。
1945年(昭和20年)8月9日、長崎市への原子爆弾投下により、爆心地から至近距離(約550m)に在った浦上天主堂は全壊・全焼し破壊され廃墟となった。
戦後、被爆した天主堂遺構の保存が問題となったとき、カトリック長崎司教を務めていた山口愛次郎はその地に遺構を残すのではなく天主堂再建を決断する[1]。1955年から1956年、アメリカ・カナダを訪問し、建設資金獲得等に尽力する。1959年10月に新しい浦上天主堂は完成した[1][2]。戦後14年が経過していたが、信徒にとって「祈り」の場所、浦上天主堂は「復活」した。
→詳細は「カトリック浦上教会」を参照
来歴
- 1923年12月24日 - ローマウルバノ大学(現・ウルバニア大学)で学んだ後、ローマで司祭に叙階される[6]。
- 1924年 - 鯛ノ浦教会(南松浦郡新上五島町)の主任司祭となる[6]。
- 1926年 - 長崎公教神学校の教授となる[6]。
- 1930年 - 中町教会(長崎市)の主任司祭となる[6][注釈 2]。
- 1936年11月9日 - 鹿児島使徒座知牧区長に任命される[7]。
- 1937年7月1日に長崎司教に任命され、11月7日に司教に叙階される。
- 1943年 - 日本海軍要員としてインドネシアに赴任。現地信徒の司牧に携わる。
- 1945年8月9日、長崎市へ原子爆弾が投下される。
このとき、実母と弟家族を失った。実母は浦上天主堂内で犠牲になった[8]。
- 1946年1月、長崎へ帰国。
- 1948年 - 長崎市議会臨時会の中で、警察制度の改革に伴う初代の長崎市公安委員の1名[9]に推薦・選出される。また公安委員同士の互選により公安委員長に選出される。
- 1959年 - 長崎司教区が大司教区に昇格することにより、5月14日に長崎大司教に任命され、9月27日に長崎大司教に昇任。
- 1962年 - 6月8日 - 日本二十六聖人列聖記念100年祭のミサを大浦天主堂で挙行。
- 1968年 - 12月19日 - 長崎大司教を退任(在任期間は、長崎司教として22年、長崎大司教としては9年、計31年)。
- 1976年(昭和51年)9月24日 - 死去。(82歳)
その他
関連事項
脚注
注釈
出典
- ^ a b 高瀬毅 2009.
- ^ 長崎教区カトリック浦上教会 (2023年9月16日). “17.浦上天主堂再建(浦上小教区変革史)”. http://www1.odn.ne.jp/uracathe/. 長崎教区カトリック浦上教会. 2023年9月17日閲覧。
- ^ 宮崎広和 2021, p. 17.
- ^ 高瀬毅 2009, p. 163.
- ^ 宮崎広和 2022, p. 17.
- ^ a b c d e 宮崎広和 2022, p. 18.
- ^ カトリック中央協議会. “カトリック中央協議会-カトリック鹿児島教区(鹿児島県)-教区小史”. https://www.cbcj.catholic.jp/. カトリック中央協議会. 2023年9月17日閲覧。
- ^ 宮崎広和 2022, p. 15.
- ^ 他には肥塚与四郎、加藤錦の2名。
参考資料
- 「市制百年 長崎年表」(1989年(平成元年)4月1日, 長崎市役所)
- 高瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社、2009年7月11日。ISBN 978-4-582-82453-7。
- 宮崎広和『歴史と永遠のあいだ : カトリック長崎司教・山口愛次郎の決断と祈り』(PDF) 43巻、広島大学平和センター〈広島平和科学〉、2022年3月、13-35頁。doi:10.15027/52216。 NCID AN00213938 。2023年9月17日閲覧。
外部リンク
- カトリック長崎大司教区
- Archbishop Paul Aijirô Yamaguchi † - Catholic-Hierarchy Website (英語 / Language:English)
先代 早坂久之助 |
カトリック長崎大司教区 教区長 1937年 – 1968年 |
次代 里脇浅次郎 |