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フランスのマルクス主義者[[:en:Charles Bettelheim|シャルル・ベテルハイム]]も、マルクス主義における決定論的な見方に対して、「歴史にはその目的は書き込まれていない」として、歴史は未決定であり、社会改良のチャンスは可能性であって、必然性ではないと批判した<ref>安田尚「[http://hdl.handle.net/10513/1007 P.ブルデューとマルクス理論]」上越教育大学研究紀要 17(1) 133-148.1997年</ref>。 |
フランスのマルクス主義者[[:en:Charles Bettelheim|シャルル・ベテルハイム]]も、マルクス主義における決定論的な見方に対して、「歴史にはその目的は書き込まれていない」として、歴史は未決定であり、社会改良のチャンスは可能性であって、必然性ではないと批判した<ref>安田尚「[http://hdl.handle.net/10513/1007 P.ブルデューとマルクス理論]」上越教育大学研究紀要 17(1) 133-148.1997年</ref>。 |
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政治学者の[[藤原保信]]は、ヘーゲルの「逆立ち」した弁証法をただすという<ref>『資本論』第二版(1873)「あとがき」</ref>マルクスによる唯物弁証法を批判する<ref name="huji"/>。マルクスによれば、理念は、人間の脳に転移された物質的なものであるにも関わらず、ヘーゲルでは、理念の名のもとの思考が、現実の造物主とされ、現実は思考の外的現象にすぎない<ref name="huji"/>。しかし、藤原は、このようなマルクスの理解は一面的であり、ヘーゲルの意図ではないと批判する<ref name="huji">[[藤原保信]]『西洋政治理論史』(早稲田大学出版部、1985年,p514-518.</ref>。ヘーゲルは、存在の論理が思惟の論理となるような[[絶対知]]を把握しようとしたが、マルクスにおいても物質的なものの自己運動が、思惟を介して把握されるのであり、両者の距離はマルクスが考える以上に近いと藤原は指摘する{{Refnest|group="注"|ただし、ヘーゲルは存在と精神の宥和をみたのに対して、マルクスが存在を矛盾を媒介とした転化の過程においてみたので、両者の位相は根本的に異なる。}}<ref name="huji"/>。藤原は、マルクスのように、[[存在]]が[[思惟]]によって把握され、存在が思惟と一つとなり、歴史の運動法則が把握されるという[[必然主義|必然論]]的な法則観は、他者との[[コミュニケーション]]による相互批判と相互克服の道を閉ざす危険が内包しており、マルクス主義は、近代の人間中心的な主体性の形而上学を抜けきっていないと批判した<ref name="huji/>。 |
政治学者の[[藤原保信]]は、ヘーゲルの「逆立ち」した弁証法をただすという<ref>『資本論』第二版(1873)「あとがき」</ref>マルクスによる唯物弁証法を批判する<ref name="huji"/>。マルクスによれば、理念は、人間の脳に転移された物質的なものであるにも関わらず、ヘーゲルでは、理念の名のもとの思考が、現実の造物主とされ、現実は思考の外的現象にすぎない<ref name="huji"/>。しかし、藤原は、このようなマルクスの理解は一面的であり、ヘーゲルの意図ではないと批判する<ref name="huji">[[藤原保信]]『西洋政治理論史』(早稲田大学出版部、1985年,p514-518.</ref>。ヘーゲルは、存在の論理が思惟の論理となるような[[絶対知]]を把握しようとしたが、マルクスにおいても物質的なものの自己運動が、思惟を介して把握されるのであり、両者の距離はマルクスが考える以上に近いと藤原は指摘する{{Refnest|group="注"|ただし、ヘーゲルは存在と精神の宥和をみたのに対して、マルクスが存在を矛盾を媒介とした転化の過程においてみたので、両者の位相は根本的に異なる。}}<ref name="huji"/>。藤原は、マルクスのように、[[存在]]が[[思惟]]によって把握され、存在が思惟と一つとなり、歴史の運動法則が把握されるという[[必然主義|必然論]]的な法則観は、他者との[[コミュニケーション]]による相互批判と相互克服の道を閉ざす危険が内包しており、マルクス主義は、近代の人間中心的な主体性の形而上学を抜けきっていないと批判した<ref name="huji" />。 |
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=== 構造的決定論 === |
=== 構造的決定論 === |
2023年9月11日 (月) 01:16時点における版
マルクス主義 |
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マルクス主義批判(マルクスしゅぎひはん、英: Criticism of Marxism)または反マルクス主義 (英: Anti-Marxism)は、社会思想家カール・マルクスの思想およびそれを継承発展させたマルクス主義に対する批判である。マルクス主義は、歴史、経済、政治、哲学の分野に及ぶ思想体系であり、さまざまな政治的イデオロギーや学問的見地からの批判がある。マルクス主義における教条主義、内的整合性の欠如のほか、決定論とそれに伴う個人の権利・人権・自由の抑圧の是非、マルクス経済学における価値理論の歪み、インセンティブの低下の問題、その他、哲学的・認識論的な問題などが議論されている[1][2][3][4]。また、レーニン・トロツキー・スターリンが作ったソビエト連邦の共産主義体制(レーニン主義、マルクス・レーニン主義、トロツキズム、スターリニズム)、毛沢東やポル・ポトへの批判も含む。
なお、マルクス自身はフランス労働党に対して「私はマルクス主義者ではない」とのべたことがある[5]。
社会主義の潮流における批判
社会主義には、マルクス主義を含めて様々な潮流があるが、政策方針や政治的態度、資本主義の分析などをめぐって相互に議論と批判がなされてきた。社会民主主義者や民主社会主義者は、階級闘争とプロレタリア革命を通してのみ社会主義が実現するとするマルクス主義を批判する。民主社会主義は共産主義の権威主義にも反対する。唯物史観や労働価値説といったマルクス主義理論の基礎を拒絶したうえで、社会主義を目指す社会主義者もいる。
エンゲルスとも親交のあったドイツの社会民主主義者ベルンシュタインは、独占資本の形成が資本と労働の敵対関係を変化させたとして、剰余価値論、資本蓄積論、貧困化論などを批判し、またプロレタリア独裁の観点を排撃し、民主主義的改良による社会主義を唱えた。ベルンシュタインは『社会主義の諸前提と社会民主主義の諸課題』『進化論的社会主義』(1899)[6]などで、マルクスの予言は数十年の発展によって誤っていたことが証明されたし、農民は没落しないし、中産階級も消滅しない、貧困と隷属は増加してはいないとして、社会主義は議会活動を最大限に利用すべきだと主張した[7]。カール・カウツキーらこれを修正主義として批判して排斥し、論争になった[7][8]。
アナキズムはプロレタリア独裁に反対した。アナキストは、中央集権的な共産主義は必然的に強制と国家による支配の強化につながると主張している。ロシアの無政府主義者バクーニンは、マルクス主義政権が実現すれば、共産党員がやがて新たな貴族となり、貴族制による専制政治をもたらすだろうと批判し、この新しい貴族制は、プロレタリア階級の中から生まれたとしても、新たに創設された権力は社会の見方を変容させ、「普通の労働者大衆」を見下すようになるだろうと批判した[9]。また、バクーニンは「マルクスには自由の衝動が欠落していた。マルクスは頭のてっぺんからつま先まで権威主義者である」として、共産主義の権威主義的精神や中央集権主義・国家是認論を批判した[10]。これに対してマルクスらは、バクーニンは「無政府」というアイデアを社会主義理論から盗み、すぐに国家を廃止しようと主張するが、階級の廃止が到達されたら、国家権力は廃止されるのでなく、消滅するのであり、バクーニンの国家の廃止とは新しい国家の樹立にすぎないと反論した[11][12]。しかし、法哲学者ハンス・ケルゼンによれば、このバクーニン批判は公正ではない。なぜなら、マルクスにおいても、プロレタリアの政権掌握後の独裁は、無政府・共産の社会ではなく、国家であるからだ[12]。なお、ケルゼンは、バクーニンは経済理論においてマルクス主義者であり、マルクスは政治理論において無政府主義者であって、両者の相違は性格の相違であったと述べ、共産主義を無政府主義の一種とする[10]。
また、イタリアの共和主義者で革命家のジュゼッペ・マッツィーニは、第一インターナショナルに参加したが、資本家と労働者の友愛的連合を理想とし[13]、マルクスの社会主義を神と財産を否定するものとして批判した[14]。
マルクスは、資本主義による発展は収奪をもたらし、必然的に労働者が窮乏していくという窮乏化理論を歴史の法則として主張した[15]。しかし、マルクスの予想に反して、19世紀末にブルジョア国家は、重要な政治的社会的経済的改革に着手し、資本主義は崩壊するどころか、強化された[16]。マルクス主義は、グローバル化と急速な社会的変化に苦しむ人々の精神的状況に歩調を合わせることができず、代わって登場したのは、自由資本主義によって引き起こされた混乱と腐敗した非道徳的なブルジョア世界に終止符を打ち、目的意識と団結の感覚を回復することを約束するナショナリスト運動だった[16]。このような状況のなか、マルクス主義は以下の三つに分岐していったと政治学者シェリ・バーマンはいう[16]。
- 正統派マルクス主義は、資本主義の崩壊が差し迫っているという予言についてはマルクスが間違っていたかもしれないが、資本主義は無期限に存続できないと主張したことは基本的に正しいと主張した[16]。
- レーニンらの修正主義者[注 1]は、マルクス主義の経済的決定論と受動性を拒否し、より良い世界を革命によって創造しなければならないと主張し、実際にロシア革命を起こし、ソビエト連邦を建設していくなかで、残忍な手段を正当化し、恐怖政治への道を開いていった[16]。
- 社会民主主義は、民主主義国家の政治力を利用することで、資本主義の欠点を最小限に抑えながら利点を最大化することが可能であると主張した[16]。
法哲学者ケルゼンも、社会民主主義が民主主義を支持し続けたのに対して、共産主義は民主主義と絶縁したことで、共産主義と社会民主主義は分離したという[18]。
戦間期の大恐慌という世界的な危機的な状況に対してマルクス主義は、経済は政治よりも強力であり、経済への干渉は事態を根本的に変えることはなく、逆効果でさえあるとし、資本主義の危機に対応してできることはほとんどないと信じていたため、なんの対策も提案しなかった[16]。たとえば、ドイツ社会民主党のヒルファディングは、歴史の原動力は「資本主義の論理」であるため、大恐慌を政治が自力で解決できないとして、経済政策は役に立たないと主張するだけだった[16]。
これに対して、ベルギー労働党のヘンドリック・デ・マンは、大恐慌に対する政府の積極的な対応と資本主義の変革を提案し、スウェーデン社会民主党は、資本主義を内部から再構築するための野心的な試みを開始した[16]。こうした一部の現実主義的な社会民主主義は、ファシズムとナショナリズムの支持層の不満に対応しない危険性を認識し、階級闘争戦略ではなく、人々の共通の利益を重視し、階級を超えた戦略を主張し、経済の社会化に取り組んだ[16]。
世界大戦が終了すると、西側諸国は、大恐慌から世界大戦に至った歴史的経緯を反省し、国家と市場の新しい関係の必要性を認識した[16]。モーゲンソー米国財務長官は、ブレトンウッズ会議で、大恐慌による苦難は、ファシズムと戦争をもたらしたが、各国は資本主義の悪影響、市場の混乱から人々を守るために市場を規制していく必要があると主張した。アメリカ主導のブレトン・ウッズ体制のもと、西側は急速な経済成長を遂げ、かつ恩恵も広く分配された[16]。この「社会民主主義的」な資本主義は、19世紀から20世紀初頭にかけてのゼロサムゲーム的な資本主義にとって代わり、極左と極右への支持を弱め、民主主義への支持を高めた[16]。
しかし、1970年代には、戦後経済秩序は勢いを失い、さらに共産主義が自壊していくと、市場は放っておいたときに最もよく機能するとして市場への政府の干渉を少なくしようとする市場主義を促進する新自由主義が台頭した。20世紀の終わりまでに、新自由主義は、戦後秩序が市場に課した制限を少しずつ取り除き、ゆっくりとした不公平な成長をもたらした[16]。21世紀にかけて、各国は、市場、テクノクラートに対して徐々に力を失い、民主主義的な不満が高まり、システムの解体を約束する大衆主義の右翼運動への支持が高まると同時に、マルクス主義も再び流行しているが、その一部は再び経済の優位性に基づく議論に戻ることによって、資本主義を取り返しのつかないものと非難して、現在の危機に反応している[16]。経済社会学者ヴォルフガング・シュトレークは、現在の危機の本質は、資本主義市場と民主主義政治との対立であり、2つが和解できると仮定するのはユートピア的なファンタジーだと主張する[16]。
このような議論に対して、政治学者シェリ・バーマンは、20世紀の世界大戦後に、資本主義と民主主義が、社会民主主義的和解によって友好的に共存できることが証明されたのは、政治の優位性への信念を通してのみであったとし、マルクス主義は最終的に政治を無視したことが致命的な欠陥であったと批判する[16]。バーマンによれば、社会民主主義は、マルクス主義の経済決定論と自由放任主義に反対して、資本主義のマイナス面を最小限に抑えながら、プラス面を最大化するために政治権力を利用することを主張し、その結果、今日ヨーロッパの基本的な社会民主主義秩序を形作った[16]。バーマンは、資本主義による経済成長がなければ、欧米の生活水準の劇的な改善は不可能だったし、国家による市場の制限と社会的保護がなければ、資本主義の利益は広く分配されず、社会的安定を達成することは不可能だっただろうと述べ、この社会民主主義的妥協の成功が日常になったことで、それがどれほど変革的であったかは忘れられていることは危険であるという[16]。
唯物史観への批判
唯物史観(史的唯物論)はマルクス主義の基礎をなしており[19][20]、人間の歴史の発展、労働、生産の役割、経済社会構造、階級、国家、イデオロギー、革命論など多岐にわたって論じられる[21]。個々の問題については、後続する各節で扱い、この節では、後続する各節では扱われないもの、および基本概念について扱う。
土台と上部構造
唯物史観では、生産様式の進歩は、必然的に生産関係(生産の社会的関係)の変化につながり[22]、社会の経済的「土台」は、文化、宗教、政治、および人々の社会意識といったイデオロギーの上部構造を下支えし、またそこへ反映され、影響を与える、と主張される[23]。
唯物史観は、人類の歴史における発展と変化の原因、経済的・技術的・物質的な要因、ならびに部族、社会階級、および国家間の利益の衝突を探求し、そこでは、法、政治、芸術、文学、道徳、宗教といった全ての文化事象は、社会の経済基盤の反映として上部構造を構成するとされる。多くの批判者は、これは社会の性質を過度に単純化したものであると主張し、マルクスが上部構造と呼んだ文化事象は、経済的基盤と同じくらい重要であると批判する。こうした批判に対して、エンゲルスは「唯物史観によると、歴史の最終的な決定要素は、実生活の生産と再生産である。 これ以上のことを、マルクスも私も断言していない。マルクス主義は経済的要素を唯一の決定的な要素であると主張しているという言い方は、歪曲であり、無意味で抽象的な命題に言い換えているだけだ。」と、社会の経済的基盤が唯一の決定要素であるとは主張していないと手紙で述べているが[24]、マルクスは土台と上部構造との関係を因果関係ではなく決定関係であると主張している[25]。
しかし、こうした批判はマルクス主義にとっても別の問題を引き起こす。上部構造が土台に影響を与えるのならば、歴史は階級闘争の1つであるというマルクスの主張は必要なくなってしまう。またこれは、土台と上部構造はいずれが先になるかという、鶏が先か、卵が先かという古典的な因果性のジレンマの議論になる。哲学者ピーター・シンガーは、この問題を解決する方法は、マルクスが経済基盤を最終的現実と見なしたことを理解することにあるという。マルクスにとって重要なのは生産手段であり、したがって人間が抑圧から解放される唯一の方法は、その生産手段を支配することであると信じていた。マルクスによれば、これが歴史の目的であり、上部構造は解放の道具とみなされる[26]。
マルクスは上部構造は下部構造に規定されるという下部構造決定論を説いたが、現実には政治体制と経済体制にはズレが生じる場合がある。吉本隆明は上部構造は下部構造から幽霊のように疎外された共同幻想であり、宗教・法・国家はその本質の内部において、社会の生産様式の発展史とは関係がないと主張している。また、アルチュセールは、政治体制は下部構造だけでなく、もっと重層的な要素で決定されるという重層的決定を説いている。
フランシス・フクヤマも、購買力平価ベースの一人当たりGDPが8,000-10,000ドルあたりまで経済発展すれば民主化するという共通点を経験的に指摘できるが、経済体制と政治体制の相関関係は十分解明されていないと述べている[27]。ほか、フロイトは政治的儀式が経済性とは関係のない性的要素を含んでいることを指摘している。
哲学者のバートランド・ラッセルは、哲学的唯物論は、経済的原因が政治において基本的であるということを証明していないという[28]。たとえば、ヘンリー・バックルは風土を決定的要因とし、フロイトは性に還元するが、これらは唯物論と矛盾しないし、マルクス主義的な方式でなくとも、哲学的な意味での唯物論的な歴史観は無数にある。哲学的唯物論が真理であっても、唯物論的な歴史観は虚偽であるかもしれないし、哲学的唯物論が虚偽であっても、すべての政治的事件の根底に経済的原因があるかもしれない。経済的原因は人々の所有欲を通じて作用するが、もしこの欲望が最高であるならば、たとえ欲望が哲学的な観点から唯物論によって説明できなくても、経済的原因が最高ということになる。要するに、哲学的唯物論と唯物史観との間には、どちらの側からも論理必然的な関係はない[28]。このことが重要なのは、マルクス主義においては、政治理論についての賛否が無関連な理由で論じられ、人間性の具体的事実にかかわる問題を決定するのに理論哲学の議論が用いられるなどし、こうした混同は、哲学と政治学の双方にとって有害なのである[28]。
ある国の政治を決定するうえで、経済的事実が重要であるにせよ、非経済的な要因を無視すれば、致命的な過ちを犯しかねない。たとえば、ナショナリズム、ネーションの形成を決定するのは、一般的に経済的動機ではない[注 2]戦時中、賃金労働者はナショナリズムの感情に身を委せ、「万国の労働者よ、団結せよ!」という共産主義の伝統的な国際的な呼びかけを無視した。マルクス主義は、彼らは資本家に騙され、資本家は戦場での殺戮で利潤をあげたと説明するが、それは神話であり、多くの資本家も戦争で滅び、若者は労働者と同じ比率で戦死した[29]。資本家もプロレタリアも同じく民族的本能にとらえられており、どちらの階級も、一部は戦時利得を得たが、全国民の戦争への意志は、利得からではなく、別の本能の体系であり、マルクス主義はその認識に失敗しているとラッセルはいう[30]。
ラッセルは、マルクス主義は、「群れ」としての階級について、同じ階級利益を持つ人々と団結すると想定しているが、これはきわめて部分的にしか真実ではない[31]。たとえば宗教は、人々の行動の決定要因であり、カトリックの労働者は、無神論の社会党員よりもカトリックの資本家に投票するだろう[注 3]。また、唯物史観では、政治意識のある人は、自分の財貨を増大させたいという唯一つの願望に支配されており、願望を実現させる方法は、個人的な持分だけでなく、自分の階級の持分を増やすことであると前提するが、これは真実とはいえず、人々は、権力を欲し、誇りや自尊心の充足を求め、対立する相手に勝つことを欲し、勝利のためには対立関係をでっちあげることもある、これらすべてが経済的動機と交差しており、この交差の仕方が重要である[31]。マルクス主義は、本能的生活を硬直化して捉えており、唯物史観はこの硬直性の一例であるとラッセルは批判した[32]。
イデオロギー論
マルクスにとってイデオロギー的信念とは、階級社会において広く共有され、長期にわたって支配的あるいは優位な考えを指す[33][34]。マルクスは、階級分化した社会で深刻な階級対立がないことに困惑したが、イデオロギーによって階級分化した社会の「安定性」は維持されていると考え、また個人がイデオロギー的な思考様式に永久に囚われるとは考えなかった[34]。しかし、多くの論者は、マルクスのイデオロギー論には競合し、矛盾する説明が混在していると指摘する[35][34]。たとえば、マルクスのイデオロギー論には、ある集団の信念を人類学的に研究する記述的な説明、集団の成員に意味とアイデンティティを与える世界観としての説明、個人を解放しようとする批判的説明の三種があると指摘される[36][34]。
マルクスのイデオロギー論は広く影響力を持ったが、実際にはマルクスの著作にイデオロギーに関する記述はほとんどなく、僅かな所見も不完全で不明瞭である[34]。死後出版された『ドイツ・イデオロギー』草稿などで、イデオロギーはカメラ・オブスクラ(像を逆さまにして内部のスクリーンに映し出す光学装置)のように個人と社会状況との関係の反転を伴うものと論じられ、読者を魅了したが、一方でイデオロギーは必ずしも光を生み出すことはないとも語られている[37][34]。哲学者ジョナサン・ウルフとD.レオポルドは、マルクスの著作には、イデオロギーに関する明確で持続的な論説が存在しないと述べている[34]。
また、法学者ハンス・ケルゼンは、マルクスおよびマルクス主義は「社会的真実」としての社会主義の正義を主張するが、その「社会的真実」も社会的現実のなかへ投げ入れられた彼自身のイデオロギーにほかならず、こうした前提は、事実に絶対的価値が内在しているという自然法論と同様の自然主義的誤謬に陥っていると批判する[38][39]。
社会学者ダニエル・ベルは「イデオロギーの終焉」(1960)で、マルクス主義は窮乏化による階級闘争論を唱えるが、現代社会は技術革新によって生産力の飛躍的な発展をとげており、労働者の経済的貧困が解消に向かうことで、政治は絶対的な帰依を求めるイデオロギーではなく,利益集団間の妥協による市民政治に姿を変えていくと論じ、マルクス主義のような青写真に従って社会全体を変革するという思考様式や絶対的信念は破産したと批判した[40]。
アンソニー・ギデンズは、マルクス主義は、それ自体がイデオロギーになりやすいことを実証してきたし、この弱点を克服することもできなかったと指摘している[41]。
社会学による批判
エミール・デュルケーム、パレート、議会制を否定した社会思想家ジョルジュ・ソレル、ベネデット・クローチェらもマルクス主義批判を行った[42][43]。
デュルケーム
マルクス主義を研究したフランスの社会学者エミール・デュルケームは、社会主義の暴力的性格、階級的性格、政治的性格を批判した[7]。デュルケームによれば、社会主義は、未来を志向するひとつの理想であって、現実に存在する対象に目を向けておらず、したがって、科学的な性格を持たない[7]。社会主義は反省を呼び起こし、科学的活動を刺激するが、諸科学から借りてくるデータは少なく、そこから引き出される実践的結論との間にはたいへんな不均衡がある[7]。マルクスの『資本論』における事実の観察は議論の的となるもので、研究は理論建設のために企てられたが、その理論は研究の結果として出てきたものではなく、その体系を貫くのは、完全な正義への渇望であり、社会主義は科学というよりも苦痛の叫びであるとみなした[7]。デュルケームは、抽象的思弁ではなく、留保と慎重熟慮の態度が唯一の誠実な社会科学の態度であるとし、経験的なデータに基づく社会学を構築していった[7]。
イタリアでの批判
イタリアの政治学者ガエターノ・モスカは『支配階級』(1896)で、あらゆる社会は、支配する階級と支配される階級に分かれるとし、支配階級は少数者であるがゆえに強固な組織を持つ。支配階級が時代の変化に適応できなければ革命が起きるが、そこで新しい政治階級が生まれるとした[44]。モスカによれば、豊かで教養ある中産階級が没落し、無能で狭い関心に閉じこもった「大衆」が登場すると、民主主義の主張する平等の幻想によって大衆迎合 (ポピュリズム)が蔓延し、代議制は危機的な状態に陥っている。このような大衆民主主義は、金権的独裁か、軍事的官僚的独裁をもたらすとされた[44]。モスカは、社会主義革命は、新たな政治階級による絶対主義的な官僚支配をもたらすことを見通すとともに、議会制に残された自由を葬り去るファシズムも批判した[44]。
イタリアの哲学者ベネデット・クローチェによれば、マルクス主義は、ヘーゲル主義者がイデーを神格化したように、物質を神格化し、マルクスは自分が科学的解明をしていると考えているが、科学的解明とは一般に適用しうる普遍的な定式に到達することを意味するのであり、マルクスの場合は、その中核となる理論が、革命家の情熱と結ばれていたために、歴史的知識をはるか遠くに拡大させ、いかなる既知の社会とも関係のない理想的で図式的な定義に行き着いてしまった[45][7]。クローチェは、科学的法則では現実を知覚できず、具体的な経験データと確実な関係を持ち得ないとし、マルクス主義は、実証主義によるペシミズムの空虚を埋め、歴史研究に生気を吹き込んだが、それ以上の意義を持たないものであった[7]。
経済学者・社会学者のヴィルフレド・パレートは、社会主義の聖典である『資本論』は、聖典の特質である曖昧模糊性を最高度に備えているとした[7]。階級闘争は、「民衆」に対する貴族の戦いではなく、歴史を通じて、民衆の指導者とは、現実の権力から疎隔された不満分子であり、革命は、新しいエリートが古いエリートにとってかわる闘いにほかならない[7]。革命において民衆は兵隊の役割を担うが、そこで賭けられていたのは、新しいエリートの階級的ないし個人的な利益であった[7]。したがって、資本家と労働者との闘争の終焉が、階級闘争に終焉をもたらすと考えるのは幻想であり、集産主義社会においても、労働者間に、インテリと非インテリとの間に、政治家と被統治者との間に、葛藤は発生するのであり、社会主義の黙示録は蜃気楼のように消え去る[7]。パレートは人間には「結合の本能」(狐の支配)と「集合体の維持」(獅子の支配)とがあり、個人は多様であるが、社会的異質性からエリートと大衆が分化し、エリートが生み出されるが、エリートは力による支配(獅子の支配)を忘れ、狐型となり、新しいメンバー補充を怠れば革命によるエリート交代が起こるというエリート周流論を提唱した[44]。パレートによれば、階級闘争においては感情や理想、非論理的な動機づけが支配的な役割を演じるが、もし大衆が受動的な道具になりえないとすれば、マルクスの科学者的な側面からは、社会主義を志向する必要もなくなり、史的唯物論は、保守的エリートに新しい強さを付与することにもなりえる[7]。マルクス主義による社会主義が最終的に勝利するという進歩史観に対して、革命後も少数者による多数者支配は継続するというパレートのエリート周流論は、循環史観と呼べる[44]。
ドイツ出身でイタリアで活躍した社会学者ロベルト・ミヒェルスはドイツ社会民主党に入党していた社会主義者であったが幻滅し、組織運営において決定権が一部の人間に委譲され、メンバーがそれに服従し、執行業務の複雑化による専門化によって指導部が固定化され、組織は中央集権化し、民主主義は風化するという寡頭制の鉄則を『現代民主主義における政党の社会学-集団活動の寡頭制的傾向についての研究』(1911年)で提唱した[44]。モスカ、パレート、ミヒェルスによるエリート理論に対してブハーリンは、レーニンによる民主集中制などの前衛党理論をもって回答した[44]。
ヴェーバー
ドイツの社会学者のマックス・ヴェーバーは、共産党宣言を「第一級の科学的業績」であると評価しながら、ヴェーバーは歴史を仮説的な性格をもつものであって、永遠の真理とはみなさなかったため、マルクスらの唯物論哲学を原理上ことごとく拒否し、歴史の客観的な法則を発見したと称するのは詐欺であると痛烈に批判した[46]。『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(1904)では、「世界観としての唯物史観」とは「手を切るべきである」と主張した[46]。1906年にはロベルト・ミヒェルスへの手紙で「人間に対する人間の支配が除去できるとはユートピアにすぎない」と社会主義を批判[46]。他方でヴェーバーは最大限の政治的自由を勝ち取ろうとするあらゆる政治運動に共感を示した[46]。
1917年にヴェーバーは、社会主義体制への移行論に対して、国営化された経営管理も官僚制的なものになるとして反対した[46]。ヴェーバーは、マルクスの資本家と労働者への分極化テーゼに対して、新しい産業官僚、職員層が増大しており、また中間層でも労働者層でも分化過程が進行していると反論し、また、生産手段の労働者からの分離は、私的所有制度にもとづく社会秩序に固有のことではなく、あらゆる近代的社会秩序一般にあることだとし[46]、人間の疎外の原因は、私的所有制度や財産の不公平な分配ではなくて、「全能」の官僚制的支配構造がその根本原因であるとヴェーバーはみなした[46]。ヴェーバーにとって官僚制は、「死んだ機械と手を結んで」「未来の隷従の容器をつくり出す働き」を持つものであった[46]。社会主義でもまた、全労働者の収奪は克服されることはなく、体制内部の利害状況が移動するにすぎず、生産手段の国有化は、むしろ疎外を悪化させるとみなし、人間に対する人間の支配が除去されることはないと論じた[46]。さらに、社会主義による生産手段の社会化によって変わるのは、経済の中枢を握る階級の組み立てにとどまり、階級闘争を終わらせるものではない[46]。現在の資本主義では、国家官僚とカルテル・銀行・大企業の経済官僚が別々の団体として並列しているため、政治権力によって経済権力を抑えることができるが、社会主義のもとでは、この二つの官僚層が、ひとつの団体を形成するため、統制は不可能になるだろうとヴェーバーはみた[46]。
ヴェーバーは、禁欲や勤勉を推奨するプロテスタンティズムの倫理が資本主義を成立させた要因のひとつではないかと代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で考察したが、1918年のウィーン大学講義では「マルクス主義的歴史把握のポジティブな批判」と題されていた[46]。
ヴェーバーは、マルクス主義のように「階級の利害は不動である」というような「階級」や「階級利害」の概念を擬似科学のやりかたで扱ってはならないとして、財産の処理、財貨や給付の市場利用の機会、社会的地位といった観点から、「財産階級(Besitzklassen)」「営利階級(Erwerbsklassen)」「社会階級(Sozial Klassen)」の三つに区分し、階級状況は本来多層的であり、限界的な場合においてのみ一義的であるにすぎないとした[46]。
ヴェーバーは経済的にも社会的にも自由競争を最大限可能にするような体制を主張し、高度の社会的移動を伴う拡張的資本主義体制を理想とし、経済成長と社会的移動が、労働者の地位向上を極大化するとみた[46]。ヴェーバーにとって国家は、社会が官僚制化し硬直化していくことを矯正する手段であるべきで、国家は支配階級に奉仕する道具以上のものであった[46]。ヴェーバーにとって社会主義体制は、中央集権化された国家経済的制度としてのみ存続するもので、形式的合理性(能率)が著しく低下するなど、その欠陥は明白であり、経済における最高の形式的合理性は交換経済において発揮するもので、資本主義を経済上の操作を形式的に合理化する体制とみた[46]。ただし、これは資本主義の単なる称賛ではないとされる[46]。ヴォルフガング・モムゼンは「ヴェーバーは、理論の平面でカール・マルクスの最大の敵役を演じた」と評した[46]。
ギデンズ
イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは『唯物史観の現代的批判:権力、所有、国家』(1981)で、社会構造が社会システムを構成する実践の媒体と結果の両方であり(構造の二重性)、人間の行動は、意図のほか、社会についての実践的な知識を含むもので、無自覚な条件と行為の意図しない結果の中間に位置づけられると論じて、マルクス主義における機能主義、還元主義、社会進化論を批判する[47]。ギデンズによれば、マルクス主義における土台と上部構造のメタファーは、機能的説明の一種である。アルチュセールによって導入された再生産や構造的因果性なども機能主義的説明であり、イデオロギー装置も、生産関係を再生産する条件によって説明される[47]。しかし、ギデンズは、社会的全体は機能主義ではなく、偶発的に再生産される社会システムとして分析されるべきであり、マルクス主義は生産様式に基づいて社会的全体を経済あるいは階級へ還元するが、社会の形態は時間-空間の多次元概念に基づいて認識されるべきであると批判する[47]。
さらにギデンズは『社会の構成』(1984)において、機能主義を批判し、構造化理論を打ち立てるなかで、マルクス主義を例証として検討する[48]。マルクスは資本主義を分析するうえで、「私的所有:貨幣:資本:労働契約:利潤」の構造群を論じ、資本主義においては、商品形式が普遍化し、貨幣によって、商品を購入し、販売することで利潤を得ていくとした[48]。マルクスは、貨幣をM (Money)、商品をC (commodity)、 購入をM-C、販売をC-Mとし、商品流通のもっとも単純な形式を、C-M-C (商品 - 貨幣 - 商品)と表し[48][注 4]、さらに、貨幣の商品への転化、商品の貨幣への再転化、売るために買うという変換関係をM-C-M (貨幣 - 商品 - 貨幣)で表した[48]。ギデンズは、この流通における貨幣は、資本に転化するが、これは剰余をあげる拡大的過程なので、M-C-M関係は、M-C-M1関係と表すべきであるとする[48]。このM-C-M1関係は、商業資本だけでなく、産業資本も表すものであり、資本の一般的定式である[48]。
しかし、ギデンズによれば、この資本の一般的定式には、労働力が商品であることが与えられていない[48]。ギデンズの構造化理論では、社会システムの構造特性は、行為者の活動の媒体であり、かつ結果である[48]。行為の反省的モニタリングは社会統合を投錨する特徴でもあるが、状況づけられた相互行為の条件や結果は、状況をはるかに超えていくのであり、社会システム再生産の条件を理解することも、システム再生産の条件の一部となる[48]。このような理論からすれば、マルクスのC-M-C関係、つまり、商品の所有者が貨幣の所有者と接触し、貨幣が商品の一時的な等価形態となり、そしてもう一つの商品の購入の起源となる、という構造群の分析は、マルクス自身も述べるように、不十分である[48]。構造関係はそれを人格化する対応する個人の活動と同型的ではない[48]。マルクスにおいては、構造特性どうしの関係が、持続的な再生産の条件としてではなく、孤立した独自の内的力学をもつ機能的必要性として扱われる[48]。従って、歴史的に条件づけられた個人の活動は冗長なものとなり、システム再生産の条件は、その条件が依拠する構造関係によって保証されることもない[48]。マルクスのような仮想的な時間空間における構造関係の分析は、なぜそうした構造関係が生起するのかを説明することにはならないとギデンズは批判する[48]。
また、マルクス主義は、労働運動の目的に歴史性を取り込ませてきたが、労働運動は「歴史」への解決策を与えることはないとギデンズはいう[49]。労働運動は、敵対する資本主義者が資本蓄積を達成しようとする生産力を、平等主義的なやりかたで向上させることを課題としており、労働運動における諸観念は、資本主義を支える観念とほぼ同一となった[49]。歴史性もかつての卓越性を喪失しており、マルクスにとっての労働運動は、社会の全面改革を背負うものであったが、もはやこうした見方の限界は明らかである[49]。企業は、近代組織の典型であるとともに、環境革新の源泉でもあり、そこでは、再生産の条件が反省的にモニタリングされている[49]。マルクスは、企業内の反省的な自己規制は、経済体制全体に対する反省とはならないとみたが、ウェーバーが複式簿記の研究で証明したように、この企業内の反省的自己規制はますます重大な意味を持つようになった[49]。しかし、こうした組織の近代化によって、搾取的な支配様式から解放されるかどうかは課題のままである[49]。
ギデンズは、唯物史観には進化論的な思想が含まれており、単系的圧縮、相同的圧縮、規範的幻想、時間的歪曲の4つの問題があると指摘する[50]。
- 単系的圧縮とは、一般的進化を特定の進化へと圧縮する傾向であるが、マルクスは、封建主義から資本主義へと必然的に発展するとした。しかし、先行する封建主義が、資本主義の進化における一般的な段階になることはない[50]。
- 相同的圧縮では、社会進化と個人のパーソナリティの発達とのあいだに相同性を考える[50]。フロイトは、「文明」を動物の生活と区別して、人間を自然から保護し、その相互関係を調整する規則の総体として定義し、これをマルクス主義哲学者マルクーゼは援用して、「未開」においては人は満足し、受動的で、抑圧もないが、資本主義的な文明においては、満足は遅延され、快楽は制限され、生産性が重視され、安全が保証されていくと対比した[注 5]。しかし、ギデンズは、「原始社会」の「原始性」は文化人類学によって取り除かれ、文明が口承文化よりも複雑だという想定にも慎重であるべきであり、こうした見解は間違っていると批判する[注 6]。
- 規範的幻想とは、権力の優位性を倫理的な優位性と重ね合わせる傾向のこと[50]。
- 時間的歪曲とは、歴史が社会変動としてのみ記述可能であるとする傾向で、時間の傾向が変動と同一視される[50]。
ギデンズは、マルクス主義の「人間が歴史をつくる」という見解は支持できるが、マルクス主義による社会発展の図式には、上の4つの問題点をすべて含んでおり、有害な二次的含意をともなうと批判する[50]。たとえばマルクスは西洋よりもアジアが停滞しているのは、アジア社会が生産力の発展に適応できず、あるいは許容しないためと説明した(アジア的生産様式)[50]。マルクスの進化論は、「世界成長の物語」であり、単系的圧縮と時間的歪曲という欠陥を抱えているが、しかし、こうした欠陥を修正することはもはや不可能であるとギデンズはいう[50][注 7]。なぜなら、社会変動を説明する上で、単一の至上のメカニズムを特定することはできないし、人間の社会発展の神秘を解明し、それを一元的な定式に還元する鍵は存在しないからである[50]。
さらにギデンズは『唯物史観の現代的批判2巻:国民国家と暴力』(1985)では、マルクスは、倹約につとめる人々が富を蓄積し、困窮する人々に生計手段を与えていくといったような従来の経済学の説明は、「征服、隷従、強奪、殺人」が大きな役割をもった社会変動や階級関係を隠蔽するものだと批判し、資本主義を非合理的な存在だと主張した[51]。しかし、ギデンズは、こうした主張はあまりも安易であり、いくつかの点で完全に間違いであるとする[51]。マルクスの説明は、階級還元主義といってよく、また、工業資本主義が安定するために集めた授権的資源や、労働関係から駆逐された暴力手段の実態を解明していないし[52]、資本主義と工業主義を明瞭に区別していない[53]。工業資本主義の発達は、社会の経済基盤の変容を活発化させ、また、国民国家での行政上のまとまりを増大させ、階級分断社会の分節化された状態を最終的に解消する一助となったとギデンズはいう[52]。
ギデンズによれば、現代の先進工業社会では、福祉体制も整備され、労働運動やシティズンシップ(市民的権利)も重要な役割を持っており、すでに19世紀の資本主義とは異なっている[54]。複雑化した経済における計画経済生産は、達成が難しいことが証明されたし、地球規模の脱希少性経済は出現する可能性はないように見える[54]。また、マルクスは、国家の強制力に対抗する武装労働者という考えを漠然といだいていたが、これと近い状況が米国やラテンアメリカの一部で見出すことができるが、賞賛できるものでなく、武装闘争という考えは時代遅れとなっており、マルクスによる資本主義を超える提言は、いまや妥当性を欠いた[54]。
ギデンズは、マルクス主義は、恵まれない人々や搾取されてきた人々こそが解放者となり、社会運動の担い手であると強調して、道徳的に人を惹きつけてきたが、社会変革の実現を担う特権的主体などどこにも存在しないし、歴史は固有の目的論をもたないと批判し[55]、マルクス主義は、不平等や搾取を説明するうえで、資本主義と階級闘争を過度に重視し、搾取的支配の分析においても、それに打ち克つための穏当な行動計画の提示にも欠陥をかかえていると結論する[56]。
その他
社会学者・思想家のジャン・ボードリヤールは『象徴交換と死』(1976)などでマルクス主義の終焉を主張した[57]。
政治社会学者のG.W.ドムホフは2005年の論考で、史的唯物論は、時間と空間にまたがる権力構造の複雑さと多様性を理解するには、視野が狭すぎると批判する[58]。権力が生産手段の所有に根ざし、階級闘争が歴史の原動力となっているという思想は、たとえば、ほとんどの財産が国家によって所有されていた紀元前3000-2300年の初期文明には適合しないし、2500年にわたる軍事帝国も存在しないし、ローマ帝国以降900年間続き、資本主義と国民国家を準備したキリスト教世界 (Christendom)にも適合しない[58]。マルクス主義は、生産様式の優位性を主張するが、経済力が主要ではない歴史もあるし、また、階級闘争よりも、支配階級の活動が歴史の発展を理解する上ではるかに重要であった時代もあると批判する[58]。
H.B.アクトンの批判
イギリスの政治哲学者ハリー・バローズ・アクトンは1955年に発表した『The Illusion of the Epoch (新時代という幻想:信条としてのマルクス・レーニン主義)』において総合的な批判を行った[59]。アクトンによれば、唯物史観では、生産力、生産関係、政治的・法的・イデオロギー的上部構造などの社会的要素の相互関係について言及し、生産力が主動因であると主張し、事実の裏付けがあるとも主張するが、これらの要素は、理論的にも事実の裏付けにおいても区別されてもいないし、分離されていないので、統計的な評価もできず、理論の真偽を決定する手段がない[60]。
唯物史観では、「物質的」という表現を頻繁に用いて、生産関係における物理的変化が社会的変化を引き起こすと考えるが、マルクス自身、唯物論の教義に支配される以前の1846年には、道具や機械が社会的に継承されることを強調し、社会は「人間の相互活動の産物」であると言っていたし[61]、良い法律、良い道徳、良い政府は生産を助けることができ、社会の「物質的または経済的基礎」は、人間の法的、道徳的、政治的関係と別のものとして観察できない[60]。そうである以上、唯物史観は、根拠の足りない仮説であるのだが、にもかかわらず、唯物史観が支持されたのは、この理論が定式化した言葉の中に隠されているトートロジー (同語反復)のためであり、この同語反復によって、理論が事実に基づいているように錯覚されてきたとアクトンはいう[60]。
マルクス主義は、これまでの道徳も法律も政治制度も、宗教も哲学も、現実を歪んだ形で表現する思想体系とみなし、キリスト教道徳、法律、トーリズム (Toryism)、リベラリズム、主権論や政治的多元主義、観念論などは、ブルジョアジーがプロレタリアートを搾取しやすくするための世界観であり、階級の優位の継続を主張しているにすぎず、こうした思想体系を受け入れる人々は、自分が本当は何をしているのか分かっていない、騙されているのだと主張した[62]。マルクス主義によれば、共産党のために働いている者だけが、イデオロギーを科学的に見抜ことができ、唯物史観は他のすべての見解を修正する見解であり、科学的であるため偏見に影響されないとされる[62]。
エンゲルスは『反デューリング論』で、これまでの社会主義は資本主義を批判したが、それらを説明できず、したがってそれらを支配することはできず、単に悪として拒否することしかできまなかった[63]として、唯物史観と剰余価値論の発見によって、社会主義は科学になったと主張した。エンゲルスは「支配 (mastery)」というが、マルクス主義によれば、自然科学は自然に対する権力であり、社会科学は社会に対する権力であり、科学は、自然や社会を支配する力として善であるとされる。しかし、自然や社会に対する支配は、それを利用することによって、善にも悪にもなりうる。化学は病気を治すことができるが、敵を毒殺することもできるし、社会機構についての知識は、賢明な専制君主によって人々を奴隷化することもできる[64]。すべての社会的プロセスに対して自己意識的に支配を達成するという考えは、およそ現実的ではないとアクトンは批判する[64]。
医学は、死を先延ばし、痛みを和らげ、気象学はハリケーンを予測して対策でき、人間は、科学によって予知し、快適に過ごすことができる[64]。マルクスのアナロジーでは、資本主義の崩壊とプロレタリア革命は、死のようなもので、経済体制の死を予知することで武装して、その間の惨めさを少なくできるという。しかし、気象学者はハリケーンを止めることも遅らせることもできないし、医学も死を最終的に避けられない[64]。アクトンは、「マルクス主義は、これまでの社会システムはすべて最終的に崩壊しており、資本主義も例外ではないと主張する。しかし、これは、前世代の人間はすべて死んだので、私たちも死ぬといったような明確な議論ではない。(略)人間は、死については明確な概念を持っているが、社会システムの崩壊について明確な概念は持たない。ある歴史的時代と別の時代との区別は、地層間の区別とは異なり、人間と動物間の区別とも似ていない。歴史的新時代(エポック)のような曖昧な概念では、明確に区別できる個体が多数存在する場合に可能な予測を行うことができない。人の死亡判定基準については医学的に同意されているが、資本主義の崩壊をどのように判定するのだろうか。人類、遺伝子、気体、星についてと同様に、社会、文明、革命、階級、社会秩序について予測できると仮定することは、空虚な言葉で自分自身を欺くことになるだろう。」と批判し[64]、マルクス主義は哲学的な寄せ集め(farrago)であるという[65]。
日本では哲学者川合貞一の「マルクシズムの哲学的批判」(1932年)、哲学者岩崎武雄の「弁証法」(昭和29、1954)、佐野学の「唯物史観批判」(昭和23)などが唯物史観を批判した[66]。
市村真一によると、マルクス主義はイデオロギーとして巧妙に無謬性を守るようにできている。それは、マルクス経済学・唯物史観・唯物弁証法の三面からなり、経済の議論で破綻をきたすと、歴史の流れを無視していると反論し、歴史の実証で弱みを暴露すると、哲学を知らぬと反駁し、哲学論争で敗れれば、経済の現実を知らぬと反駁する。いつも論破されたと思わず、次の聖域に逃げ込める構造になっている。これをオックスフォード大学のシートン教授は「重層防御構造」と表現した[67]。
恐怖政治と暴力 - ファシズム・全体主義としての批判
マルクスとエンゲルスは暴力革命とプロレタリア独裁を主張し、社会主義国家は自由のためでなく、敵を抑圧するための暴力装置であると言っており[68]、レーニンも 「どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力に依拠する権力」[69]を掌握することでプロレタリアート独裁のソヴェト国家をつくると述べ、スターリンもまたこの路線を忠実に進んだ[70]。そして、実際にレーニンは政権掌握後、議会の選挙を行ったが、その結果、ボリシェヴィキ(共産党)が少数派となると、議会を解散させて、共産党による一党独裁を確立した[71]。
マルクスの理論に基づいて、レーニンやスターリンが作ったソビエト連邦の共産主義体制(レーニン主義、スターリニズム)は、共産主義を科学だと自称し、他のイデオロギーを非科学的、反革命的だと弾圧した。レーニンは、階級敵に対する容赦なき弾圧や殺害(クロンシュタットの反乱の兵士やニコライ二世の子供たちを含むロマノフ家の殺害など)を実行したほか、秘密警察チェーカー(反革命運動、怠業、および投機取締非常委員会)を作り、反革命と認定された者を逮捕処刑し、集中収容所 (グラーグ)に収容するなど、弾圧を行い、こうした恐怖政治をスターリンは引き継いだ[70]。したがって、レーニンがスターリンよりはるかに人間的で寛容だったとはいえないと鈴木はいう[70]。レーニンは、「人民の敵、社会主義の敵、勤労者の敵には、なんの容赦もいらない。金持とその寄食者であるブルジョア・ インテリゲンチャに必死の闘いを宣言せよ」と主張し、「金持ちとぺてん師」は、「資本主義にそだてあげられた寄生虫」であり、社会主義の主要な敵であって、「全人民の特別の監視のもとにおかれなければならず、社会主義社会の規則にすこしでも違反したならば、容赦なく制裁しなければならない」存在であるとし、レーニンも反革命的な党外の反対者に対して極めて非寛容であった[72][70]。
政治学者カール・フリードリッヒは、全体主義は、古くからの専制政治とも、西欧型民主制とも異なる以下の6つの特徴を持つという[73][74]。
- 全体主義イデオロギー
- 独裁者が率いる唯一の政党
- 最大限に発達した秘密警察
- マスコミの独占的管理
- 軍用兵器の独占的管理
- 経済組織などすべての組織の独占的管理
この定義が最もあてはまるのは、スターリン時代のソ連であり、スターリン以降のソ連も基本制度は全体主義のままであったとギデンズはいう[75]。スターリン時代のソ連は、ファシスト党のイタリアや、ナチ党のドイツに類似して、恐怖政治(テロ)を特徴とし、支配力を強化するためにイデオロギー的基礎を作り上げ、それに付随して反対意見を弾圧するために強制力を広範囲に用いた[75]。大粛清では、約100万人が殺害され、さらに強制労働収容所で約200万人がなくなり、スターリン時代だけで約2000万人が政治的弾圧で殺害された[76]。フリードリッヒの定義する全体主義は、ポル・ポトの民主カンプチアにもあてはまる[77]
さらに、マルクスは階級廃絶を主張していたが、ソヴィエトでは党官僚という偽善的な新階級「ノーメンクラトゥーラ」「赤い貴族」を生み出してしまい、富は公平どころか特権階級に集中したとも批判された[78][79][80]。
革命下における社会と犯罪
ロシア社会革命党員としてロシア革命で活躍した社会学者ピティリム・ソローキンは、レーニンに反対したため弾圧され、1922年にアメリカに亡命したが、その体験から暴力革命やソ連の共産主義には否定的であり、ナチズムと同一水準に論じて批判した[81]。ソローキンは、思想家としてのレーニンは、マルクスらの思想を単調に繰り返しているにすぎず、オリジナルなものがない、知的乞食であると批判する[82]。また、目的を実現させて国家を建設したかレーニンは偉大だという評価もあるが、国家建設のための犠牲者は、ボリシェヴィキの公式記録からしても、内戦で200万人、1500万人が革命によって引き起こされた飢餓と病気で、合計1700万人が死亡した[82]。ロシアの産業も革命前の20-25%の規模に激減し、農業も40-45%に減少し[82]、労働者の平均賃金も半減した[注 8]。さらに犯罪率も革命前より高くなり[注 9]、教育財政も大幅に縮小し[注 10]、多くの教員が粛清され、弾圧され、収監され、解雇され、代わりに教育の経験のない共産党員が教員となった[82]。革命によって、共産主義を称賛する新聞と集会以外は禁止され、出版の自由も、集会の自由もなくなり、民主主義の原則である選挙もブルジョワ的偏見であるとして否定され、人々は政府の許可なしに就職もできず、衣食住の獲得も、旅行も、自由な読書もできなくなった[82]。このように、ロシアの共産主義体制における労働者と農民の搾取は、資本主義やツァーリ時代の搾取よりも厳しいものとなり、自由の代わりに、限度のない独裁政治、(少数の特権的な「貴族」が支配する) 貴族制、専制政治が登場した、とソローキンは証言した[82]。
ロシア革命によって、帝政時代の司法制度や警察制度が崩壊し、犯罪が多発し、社会の混乱が極度に進んだ[83]。
二月革命が勃発すると、大量の武器が、蜂起した民衆や解放された囚人にわたり、また警察が破壊され、代わって民警が登場したが、民警や軍事委員を偽装して財産を押収する犯罪が頻発し、ほぼ無政府状態となった[83]。3月に死刑が廃止され、囚人には大赦が与えられたが、犯罪者が一夜にして模範的な市民に転ずることはなかった[83]。民警も摘発をおこなったものの、武装抵抗や暴動・蜂起などで反撃された[83]。また、私刑(サモスード)が横行し、「人民裁判が最も公正で、最も迅速」であるとして、その場で満場一致で死刑判決を下し、殺害する事件も多発した[83]。6月には元内務大臣ドゥルノヴォ邸が「搾取者を搾取する」と称して襲われるなど、貴族の邸宅も襲撃され、殺害される伯爵もいた[83]。
七月事件以降は、工場で爆発や放火事件が発生し、また会社や博物館への強盗事件が多発し、10月には二日間で800件、一週間で1360件発生した[83]。七月事件以降は、政治的意見の違いで殺人にまで発展した事件が頻発し、政治的意見の違いを意見交換や相互の譲歩ではなく、暴力で解決しようとするような社会の暴力化が進行した[83]。
革命の過程において公共の秩序と市民の安全を保障すべき公的な暴力機関は崩壊し、暴力が野放しになった[83]。究極的制裁手段 (ultima ratio) を欠く政治体制には、法統治は不可能であり、紛争解決の唯一の手段が暴力となった[83]。このような社会の暴力化は、市民を残忍にしていった[83]。旧世界の価値観が排除され、善悪の観念が混乱し、合法性と犯罪性の違いもあいまいになった。 マルクス主義の政治的イデオロギーは、抑圧からの解放という面にとどまらず、抑圧者つまり階級敵に対する憎悪と復讐という側面も強く、階級憎悪と復讐心を煽り立て、社会の犯罪化に拍車をかけていった[83]。ボリシェヴィキは、階級憎悪の制度化を推進し、国家による市民社会の破壊を遂行し、その目的を達成するために暴力も正当化していった[83]。
マルクスは、プロレタリアートを、「あらゆる階級の解消である階級」、つまり、「人間性の完全な喪失であり、人間性の完全な救済を通じてでなければ自己を救済することのできないような」社会の解消を行う特殊な階級であるとした[84][83]。歴史学者長谷川毅は、ロシア革命は、あまりにも見事にマルクスの予見を実現したがゆえに、マルクス主義の危険な限界をしめしたと評する[83]。
初期の論説
ラッセル
社会主義者で哲学者のバートランド・ラッセルは、1920年にイギリス労働党代表団とともにソビエトロシアに滞在し[85]、帰国後に著した『ロシア共産主義』(1920年9月)において、ロシア革命は歴史的な英雄的事件であるが、失敗であったと述べる[86]。
ラッセルは、ボルシェヴィキのように、投票で表明された多数尊重の原則を放棄し、暴力的な権力奪取を認めてしまうことは、法の放棄であり、文明が抑制している原始的欲情と利己主義を野放しにすることになるとして、暴力革命に反対する[87]。法の遵守という考えが可能になるために何世紀もの努力を要したが、殺人、強姦、暴力による強盗が普通であるような無法の暴力状態においては、我々が生活するうえで予期している様々な良いことの多くが消滅する。文明はもともと不安定で、解体させることもできるが、文明国は、内戦に代わるものとして、争いを暴力に頼らずに解決する方法として、民主的政府を承認した[87]。だが、ボルシェヴィストは、暴力を避けるどころか、暴力それ自体を喜ばしいものとみなしており、恩恵を与えることより敵を傷つけることに熱心な人からは、善は期待できないとラッセルはいう[88]。
ボルシェヴィキは、新しい革命で放り出されるまでは、何かと口実を設けて権力の地位に居座り続けるだろうし、暴力と少数派による力の支配で作り出された体制は、必然的に専制と搾取をもたらすとラッセルはいう[89]。ソビエトロシアは、労働者の階級利益を体現しているかのように装うが、むしろ、資本家的な心理を取り込み、支配階級が旧体制よりも一層強化されている[89]。ボルシェヴィキには、自由への愛着がなく、国家に対立する個人の重要さの自覚もなく、個人のなかの最も価値あるものを犠牲にするような対立を自制することもできないし、国民は権力の材料として利用され、国民の解放は無限に先に延ばされることになるだろう[90]。権力が平等化されないまま、富の平等化を行っても、不安定な成果となるし、政治的悪のなかで最悪なものである権力の不平等は、階級闘争と一党独裁によっては治癒できない[91]。ボルシェヴィキを信じる共産主義者は、すべての財貨が共有になれば完全な自由が実現すると信じるが、現実のロシアでは、行政権力を持つ官僚がおり、軍を支配する少数派は、専制的権力を行使している[92]。
ソ連は、農民が生きるうえで最低限必要なもの以上は、政府が生産物のすべてを強制的に徴発したため、農民の生産意欲は打ち壊された[93]。工業の崩壊と、食糧難は同時に進行し、都市の労働者は田舎に戻り農民になろうとすれば、投獄され、流刑労働を罰せられた[93]。都市では人が飢え、農村では食糧を政府が徴発していくので、都市と農村双方で、共産党員の評判は悪いため、ボルシェヴィキは、軍事力と非常委員会に頼り、労働者の徴用、ストライキの禁止や怠業者にたいする禁固刑によって労働者を束縛し、政治的不満のあらゆる気配を密告させ、スパイの大群が人民を常時監視する状態をつくりだした[94]。人々は決まった方法で考えることだけを教えこまれ、自由な知性はタブーとなり、あらゆる自由が、ブルジョワ的であるとして禁じられた[95]。これが、ラッセルが目撃した、プロレタリアートの名で統治していると公言しているロシア共産主義体制の現実であった[96]。
ラッセルによれば、ボルシェヴィキは憎悪によってかき起てられ、新しい善を築こうという願望より古い悪を倒したいという破壊願望の方が大きく、ボルシェヴィキの人生観とは、憎悪の独断論であり、人間の本性を力によって完全に変えられると信じていると批判した[97]。
ラッセルは「自由と組織」 (1934年)で、マルクスにおいても愛よりも憎しみが重視されたと指摘する[98]。マルクスは、階級対立は人類愛よりも強力であり、「このままであってはならない。これは変えなくてはならない」という鉄のごとき要請こそが、社会主義への道をひらくと主張し[99]、戦争や闘争で勝つためには、愛よりも憎しみこそが正当な心理となるというマルクスの気質を、マルクス主義者たちは模倣した[98]。ラッセルによれば、マルクスの本には、羨望と悪意が満ち満ちており、甘やかされた憎しみは、習癖となり、永久に新しい犠牲者を生み出していくことになる[98]。マルクスの階級闘争論では、階級の分岐点が必要以上に低いところにおかれ、また、生産と分配を組織する科学的な方法ではなく、資本階級への復讐の教説を説いたために、熟練労働者を社会主義の味方につけることができないどころか、敵に回してしまった[100]。
19世紀なかばまでのイギリスの雇用環境は、どんな人も義憤を感じざるをえないもので、マルクスの憎しみも当然であったが、その憎しみは、経済の科学的研究や、資本主義に代わる制度建設理論の基盤としては、優れたものではなかったし[101]、マルクス主義は、プロレタリアの憎しみに訴えかけることで、中産階級をおそれさせ反動化させ、多くの味方を失い、むしろ19世紀の自由主義を殺したのであるとラッセルはいう[98]。
ケルゼン (暴力革命批判)
法哲学者ハンス・ケルゼンは、オーストリア・マルクス主義のオットー・バウアーやマックス・アドラーとも交流し、社会民主主義に共感していたが[102]、ロシア革命の実態が徐々に明らかになるにつれて、民主主義を否定するボルシェヴィズムおよびマルクス主義を『社会主義と国家』(1920)や『民主主義の本質と価値』 (1920/1929年)において批判した。
ケルゼンは、マルクス主義の暴力革命論を批判する。共産党宣言では、民主主義政党との協調に努めるとしながらも、共産主義者の目的は、「既存のあらゆる社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ達成できる」と暴力革命論を宣言した[103]。また、マルクスは『資本論』で「暴力は、旧社会が新たな社会をはらんだ時の助産婦である。暴力それ自体が一つの経済的な力である」と述べ[104]、エンゲルスは「反デューリング論」でこれを援用して、実力こそ革命的方法の革命的方法たる所以であるといい[105]、レーニンも引用している[106]。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』においてマルクスは、革命は、議会権力を打倒したあとは、行政権力に向けて革命の破壊力をそこに向けて集中するとし、官僚制的軍事的機構の破砕こそが現実的な人民革命の条件であると述べた[107]。レーニンは、これらの言葉から、プロレタリアの任務とは、国家の完成ではなく、国家の破壊であり、革命後の行動指針についてのマルクス主義の中心的教説であるとという[107]。マルクスらは、万人が自己の意思にのみ服するという完全な自由を有するならば、国家秩序は存在しえず、また規範さえも棄て去られ、階級対立のなくなった完全に一体化した集団では対立する意思を統一するという問題も存在せず、多数決原理も国家も不要になり、無政府な社会となると主張する[108]。
しかし、マルクスは資本主義的階級国家に代わるのは、プロレタリア階級の国家だと説いており、したがって、革命とは支配党派の変動にすぎないのだが、マルクス主義者はこの点を排撃した[109]。ケルゼンによれば、マルクスは国家の廃止を唱えるが、それは再び階級国家を樹立するためのものである[109]。
マルクスにとってのパリ・コミューンの本質は、君主政体に代わって、直接民主制的要素を加えた民主的共和制的国制がとられたこと、および、国家秩序の執行者、国家権力の行使者の更迭が行われたことだった[110]。マルクスはコンミューンは、常備軍を廃止して、武装人民をもってこれに代えたというが、これは軍事力の廃止でなく、軍事力の一つの形態を廃したにすぎないとケルゼンはいう[111]。
マルクスは警察はその「政治的性格」を剥奪されるというが、警察の「政治的」性格とは、それが国家権力の道具、すなわち強制手段たるところにある[112]。それに、マルクスはコミューンを「政治的」形態、つまり一政体とよんでいるが、これは権力であり、したがって、コンミューンの警察が「政治的性格」を持たないというのは自己欺瞞であるとケルゼンは批判する[112]。
エンゲルスは階級がなくなれば弾圧の対象もなくなると述べた。しかし、ケルゼンは、共産主義社会秩序に反対する集団は、資本主義下でプロレタリアが受けているのと同様の抑圧を受けることは避けられないと指摘する[113]。マルクス主義者は、資本主義社会は協同性のない社会とよび、強制秩序たる国家を抑圧装置だとよぶが、ケルゼンによれば、共産主義社会もまた同様に協同性のない強制秩序、つまり国家たらざるをえないのである[113]。
プロレタリア独裁について、ソビエト連邦共産党のニコライ・ブハーリンは、共産主義が実現するまでは、革命後においてもなお外部の敵と内部の敵に対して強力な闘争を継続せざるをえないとして、「独裁ーそれは敵を容赦しない鉄の如き力である。労働者階級の独裁ーそれはブルジョワジーや地主を圧殺する労働者階級の国家権力である」とプロレタリア独裁の必要性を説いた[114]。ブハーリンは、労働義務の導入を主張して、各人は専門や能力に応じて労働者として登録され、労働者は義務を自覚した巨大な労働軍団を形成するとし、他方で、労働における粗漏や虚偽申告は「労働者階級自身に対する犯罪」とし、ノルマを達成しないものは「怠業者」「社会主義秩序の破壊者」「共産主義への道の妨害者」であると述べた[114]。レーニンも習熟をもたらす手段は自由でなく、強制であるとし、労働義務の違反者に対しては迅速かつ厳正な処罰を行うべきだとする[115]。その後、実際にソ連は強制労働収容所を設置し、「体制の敵」とみなされた人々を拘束し、強制労働に従事させた[116]。
ケルゼンは、搾取と階級対立が廃絶されれば、人間性が根本的に変化し、万人が自発的に労働するようになるか疑問であり、また、不可避の例外や、生産関係以外の動機から生じる違反に対しては強制をもって社会秩序を守る必要が生じるし、搾取と階級対立の消滅が、宗教的情熱、嫉妬、名誉欲、性欲などの社会的均衡を撹乱する非経済的諸要因を消滅させることにはならないという[117]。マルクスらは一切の国家的強制からの解放を主張するが、むしろ人間の自然な不平等が発現することにもなるだろうとケルゼンは述べる[118]。
一方でマルクスとエンゲルスは、一定の条件下でなら資本主義民主制の発展によってプロレタリア国家に到ることも可能とも考えていた[119]。カウツキーはプロレタリアが権力を掌握した後は、あらゆる団体に普通選挙権を付与し、完全な出版の自由、結社の自由を保障しなければならないとしたが、ケルゼンはこれこそが本来のマルクス主義の精神に適うものであるとした[120]。
ところがレーニンはカウツキーを修正主義だと批判して[121]、「ブルジョワ国家を廃してプロレタリア国家に到ることは暴力革命なしには不可能である」と主張し[119]、さらに「隷従状態に置かれた人々の前衛の組織」すなわちプロレタリア独裁のみが「資本主義的搾取者の抵抗を撃滅しうる」と主張する[122]。プロレタリア独裁においては、「搾取者・抑圧者・資本家」は例外で、「人類を賃金奴隷制から解放するために彼らを抑圧せねばならず、その抵抗は実力をもって破砕せなばならぬ。抑圧の存在するところ、実力支配の行われるところに自由がなく、民主制がないことは明らかである。」とされる[122]。
しかし、ケルゼンは、生産手段の私有の廃止と生産の国営が人民議会で議決したならば、もはや資本家は存在しないし、集団の成員が万人と同等の地位に置かれているのならば、「例外」を設定する必要はないと批判する[122]。レーニンは「資本家が消滅し、いかなる階級も存在しなくなった時初めて国家が存在しなくなり、自由を語りうるようになる」「ここで初めて民主制が可能となり、いかなる例外もない真に完全な民主制が可能と貫徹される」というが、他方で「国家が死滅するや否や民主制も消滅する」ともいっており、レーニンは混乱した不明確で矛盾に満ちた主張をしているとケルゼンはいう[122]。
ボリシェヴィキは、普遍的自由の要求はブルジョワ国家の支配下においては、労働者が自己に有害な新聞を廃刊しえないから正当だが、プロレタリア独裁下においては普遍的自由を要求すべき理由がないため、メンシェヴィキや社会革命党などの反革命分子には、自由を要求することはできないとと規定された[123][124]。しかし、カウツキーは、これは「階級支配」であり、また「党の独裁」であると批判した[124]。
レーニンは「革命運動の歴史において、個人の独裁は屢々、革命的階級の独裁の代弁者・担い手・先導者であった」とし、専制制の原理を援用している[125]。レーニンによれば、プロレタリア独裁の意義とは、ブルジョワに対する永久戦争であるところにあり[126]、共産主義者の暴力行為について騒ぎ立てている連中は、すべて本来の独裁を忘れており、革命的権力はその階級的内容によって正当化されると主張した[127]。
このようにボルシェヴィズムにおいては民主制は否定されており、ソヴェト制とは貴族政体であり[128]、政治的絶対主義であるとケルゼンはいう[129]。ロシアのボリシェヴィキだけでなく、マックス・アドラーなどのヨーロッパのマルクス主義者も、プロレタリアは特定の階級ではなく、全社会の代表者であると説いたが、ケルゼンは、プロレタリアが唯一の政治的権利の享有者であり、共産党員のみが選挙権を享有するという主張は、特定の社会観の政治的理念を独断的に絶対化したもので、貴族制的・専制制的支配の用いる典型的な擬制であり、神権制のイデオロギーであると批判する[130]。「人民代表機関が真の共同体意志を表明する」という主張は、社会主義の諸党派が互いに激烈に対立することからも、甚だ疑わしいとケルゼンはいう[130]。
ケルゼンによれば、プロレタリア独裁は、民主制に対立する専制制の一形態であり、正義について絶対的価値を前提とする立場であり、相対的な価値を認める批判的・相対主義的世界観と対立する[131]。民主制とは、国家意思すなわち法秩序が、その支配を受ける者によって、多数決原理によって形成される政体である[132]。民主制における不可避の強制秩序は、その強制秩序の適用を受ける者の過半数の同意がなければ正当化しえないし、この秩序においては、少数者も絶対的不正ではないゆえに、無権利状態に置かれることなく、いずれは多数者にさえなりうる[131]。民主制は、その時々の多数者の意思に支配権を委ねるが、その多数意見が絶対的な善・絶対的正義であるという保障を与えないし、民主制における多数者の支配においては、少数者の存在を前提するのみならず、政治的に承認し、それに保護さえも加え、あらゆる政治的信念の価値は相対的である[131]。民主制では、政治的信念や政治理念の絶対的妥当性は不可能であり、他を排除して特権を独占するような政治的絶対主義は否定される[131]。民主制とは、政治的絶対主義に対立する政治的相対主義の政体であるとケルゼンはいう[131]。
世界大戦以後の論説
経済的自由主義者のミーゼスの弟子ハイエクは『隷従への道』(1944年)で、社会主義、共産主義、ナチズム、ファシズムは同根的な集産主義(collectivism)であり、計画経済や社会主義・共産主義が「独裁制の全体主義」に陥るのは、必然的なことだったと指摘した[133]。
哲学者のカール・ポパーは1945年に『開かれた社会とその敵』を発表し、全体主義の根源にヘーゲルとマルクスがあるとし、20世紀の共産主義を批判した。ポパーによれば、共産主義は「完全に統制された、全体主義的な社会を作ること」を目的としており、これはナショナリズムと共通する[134]。共産主義社会では、同じ信念と目的を持ち、国家の絶対的な権威に完全に服従する「均質な住民」から成り立っており、正しいと信じられる共産主義思想に同意しない人々は、「明らかな真理を受け入れることを、悪意から拒否している」人々、つまり「明らかな真理に対する敵」とみなされ、暴力を用いて弾圧され、こうして共産主義には非人間性、自由に対するその固有の敵意があると指摘される[134]。ポパーによれば、共産主義思想では、地上の楽園を作ることが主張され、試みられてきたが、「しかし、それはいつも、むしろ地獄に似たものを確立するに至った(…)なぜなら、無垢な社会という、美しいヴィジョンに鼓舞された人々は失望せざるをえないからだ。そして、失望したときに、彼らは、その失敗を、犠牲者や人間の悪魔に押し付けるのである。そういったものたちは、悪意をもって、千年王国が到来することを邪魔しようとたくらむ者どもであり、それ故、根絶されなければならない人々」とされるのである[134]。ポパーは共産主義の重大な誤りとは「ロベスピエールの恐怖政治のように、素朴で過度の楽観主義の致命的な結果なのである。共産主義は、奴隷制、予防的恐怖、そして予防的拷問さえ再導入した。そしてわれわれはこれを黙認してはならないし、許してもならない」と警告する[134]。ポパーによれば、共産主義国家建設の経験は、地上に楽園を作る試みの恐るべき危険を例証しているのであり、従って、「われわれが地上に楽園を作ることができないということを明らかにすることが、すべての理性的な政策の第一原理のひとつでなければならない」、「われわれは、自由を馬鹿馬鹿しい値段で、あるいは最高度に可能な生産性と効率性を得るという見込みのために、売り払うべきではない」とする[134]。ポパーは、貧困は大きな害悪だが、貧困と富裕の対比よりも重要なのは、自由とその欠如との対比、すなわち、新たな階級、新たに支配を握った独裁政権と、強制収容所などへ追いやられる恵まれぬ市民との対比であると主張する[135]。
作家の坂口安吾は1947年に、次のように自由主義にもとづいて共産主義を批判している。
私は共産主義は嫌ひであつた。彼は自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた。
我々の一生は短いものだ。我々の過去には長い歴史があつたが、我々の未来にはその過去よりも更に長い時間がある。我々の短い一代に於て、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対し、無限なる進化に対して冒涜ではないか。あらゆる時代がその各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる。
私にとつて必要なのは、政治ではなく、先づ自ら自由人たれといふことであつた。 — 坂口安吾「暗い青春」(1947)[136]
政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換へらるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性質のもので、政治はたゞ現実の欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ。
その各々の訂正が常に時代の正義であればよろしいので、政治が正義であるために必要欠くべからざる根柢の一事は、たゞ、各人の自由の確立といふことだけだ。
自らのみの絶対を信じ不変永遠を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。
私は革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。
ドイツの哲学者カール・ヤスパースは『現代における理性と反理性』(1950)で、マルクス主義は、精神分析と同様に、反理性の代表であるとして批判する[137][138]。ヤスパースによれば、マルクス主義は、科学を自称するが、ヘーゲル的な全体知であり、憶測の知識であり、信仰を憶測の科学として擁護しているような、独善的な信仰である[138]。マルクスの政治活動は、信仰の活動であり、弁証法は、全体を規定する単一の因果性として効果的な詭弁となり、マルクスは暴力革命によって権力を勝ち取ることを訴えた[138]。マルクスは、神に見捨てられた世界に復活した予言者であって、その予言は、神話的思考あるいは強大な魔法であり、魔法をかけられた者は、反理性の不条理を真剣に受け入れ、理性の哲学と対立する。しかし、理性とは開放性であり、人間相互の交わりを可能にするような、実存となる根拠であり、理性を放棄することは、自由を放棄することであるとヤスパースは論ずる[138]。
ヤスパースは続けて『新しいヒューマニズムの可能性』(1952)において、マルクスの共産主義革命によっては疎外は克服されないどころか、現存するものは精算され、廃墟から新しいものが生まれるという空想は、人間を奴隷化する反ヒューマニズム的なものになると論じ[139][140]、さらに『原子爆弾と人間の未来』(1958)において、マルクスは、独断的な予言者として疑似科学的に暴力行為を正当化しており、その思考は全体知であり、全体的支配に通じるもので、マルクス主義的思考は、絶対化された悟性の反理性であると批判する[141]。ヤスパースによれば、マルクス主義的な全体的支配においては、唯一の組織が権力を持ち、憶測の絶対的真理を復唱させ、調教し、威嚇することで、すべての 人々が一つの全体計画に服従させられるのであり、自由も、理性も、真理も存在しないという[141]。
アーレント
哲学者ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』(1951年)や『革命について』(1963年)のなかで、ナチズムの国民社会主義とソ連の共産主義・ボリシェヴィズムの大粛清や恐怖政治の起源をフランス革命に見いだして批判した[141]。アーレントは、ナチズムとスターリンのボルシェヴィズムの全体主義がそれまでの専制政治とは異なるところは、両者ともに世界征服を目指しており、秘密警察と強制収容所が国家の中核にあり、人間をテロル(恐怖政治)の鉄の箍に押し込んだと指摘する[141]。アーレントによれば、スターリン体制の犯罪性は、数百から数千の著名な政治家や文学者の殺害にだけあったのではなく、何ぴとも、スターリンですらも「反革命的」活動の嫌疑をかけることは不可能だった数百万の無告の民の殲滅にこそあった[142]。フルシチョフによるスターリン批判は、むしろスターリン体制の犯罪性を矮小化するものであり、隠蔽するものだった[142]。全体主義のテロルは、すべての組織的反対勢力が死滅し、支配者がもはや恐れる必要のあるものは何ひとつないことを知ったときにはじめて解き放たれるものであった[142]。 ボリシェヴィキは、「社会主義国に失業はない」というイデオロギーを貫徹するために、失業給付を廃止し、これにより、「ソ連には失業がない」という嘘は、事実となった[143]。ソ連の全体主義的独裁では、イデオロギー教義とそこから生まれた嘘を本物の現実に変えるためにテロルが用いられ、スターリンはロシア革命史の書き換えのために旧版の著者を抹殺した[143]。
アーレントによれば、ボリシェヴィズム運動は、ナチ運動とよく似ているが、例えば、ナチスがユダヤ資本による世界陰謀というフィクションから出発しているように、ボリシェヴィキもトロツキスト陰謀、「三百家族」の世界陰謀、帝国主義、コスモポリタン、資本家の陰謀といった陰謀論フィクションを必要とし、1930年代以降はこうした陰謀論にもとづいて内政外交を行った[144]。
イデオロギーに賛同するかしないかによって敵味方を規定することは、全体主義運動の本質である[145]。この規定は、当の人物の友好性や敵対性とは関係がないため、警察も特別の調査を必要とせず、イデオロギーによって規定される敵は、自然もしくは歴史の法則によって「客観的に」認定される[145]。ナチスにおける人種的劣等者(ユダヤ人)も、ソビエトにおける死滅する階級(ブルジョワ)も、体制側の政策によってのみ認定される「客観的な敵」であり、その犯罪は、「主観的因子」を参酌することなしに「客観的」に決定された[145]。「客観的な敵」は、「客観的な基準」に従って、当人がどういう人間であるかということからいえばまったく恣意的に選定されたが、過去の暴君支配にも、これほど効果的かつ徹底的に人間の自由を否定したものはなかった[146]。ソ連やナチスの全体的支配は、罪の概念を廃棄する代わりに、「望ましからぬ者」「生きる資格のない者」という新しい概念を持ち出し、彼らは、あたかもかつて存在したことがなかったかのように地表から抹殺されていった[147]。
中華人民共和国についてもアーレントは批判しており、中国のプロレタリア独裁の初期段階では、相当な流血があり、推定1500万人が犠牲者となったとし、毛沢東の1957年の「百花斉放」政策でも知られる演説「人民内部の矛盾を正しく処理することについて」は、言論の自由を主張したものではなく、反対者は「思想矯正」によって鍛え直されるということが主張されたとする[148]。これ以降、「ブルジョア右派分子」を摘発する反右派闘争が開始され、55万人の知識人が「右派」のレッテルを貼られて職を失い、労働改造所などに送られ、共産党への批判は不可能となった[149]。中国共産党はイデオロギー的には不可謬でなければならず、政治的には世界支配を目指すインターナショナル運動を志しており、すべての国の革命運動に中国の手先を潜入させ、北京の指導のもとでコミンテルンを復活させようとする政策をとったとして、その全体主義的特質は最初から明白だったとアーレントはいう[150]。アーレントは文化大革命という名の党粛清では、大量殺戮も辞さないという威嚇が公然と行なわれていると述べ、毛沢東を、ヒトラーやスターリンと同様に批判している[151][141]。
また、アーレント は『革命論』(1963/65)において、フランス革命の革命家たちには当初、国家形態への情熱的関心や、人間の知識を駆使するといった誇りもあったが、やがて自暴自棄気味の感情に取って代わり、革命それ自体を失っていったと指摘したうえで、ロシア革命も比類なき希望を当初は世界にもたらした分、その後、世界をいっそう深い絶望に陥れたという[152]。アーレントによれば、ロシアの革命家は、事情も条件も変わっていたのに、フランス革命を模倣しなければならないと考え、これが粛清のための裁判において革命家が、判決に従順に従った理由ともなった[152]。革命後に「反革命容疑者」狩りが開始されると、ロベスピエールがダントンやエベールを粛清したように、革命家たちは両極端のグループに分裂し、急場を救う者が中間に位置すると称して、極右と極左の両方を粛清した[152]。フランス革命を念頭に置いて歴史劇を演じていったロシアの革命家たちは、権力に反抗する勇気と気高さを当初は持ちながらも、「歴史的必然」だと彼らが見なしたものにへりくだり、唯々諾々と従っていった[152]。アーレントは、そのありさまには「壮大な滑稽さ」があったとし、「彼らを道化役にしたのは、歴史であり歴史的必然であった。以来、革命は、道化よろしく愚弄されるという不幸に見舞われている。その不幸にあっては、自由は必然と化すのであり、行為し創設するという経験は、恐るべき無力さの感情を味わっては破滅する」と述べた[152]。
アーレントは、マルクスについて次のように論じた。マルクスは政治思想の伝統に挑戦するなかで、「暴力は、旧い社会が新しい社会を孕んだときにはいつでもその産婆となる。」[153]と暴力を賛美し、言論への敵意を主張した[154]。マルクスは、戦争と革命の暴力を通じてのみ人間の生産性を発展させる隠れた力が明るみに出るとし、歴史は暴力の時代にのみ真の顔をみせ、そこではイデオロギー上の偽善的な空論が一掃されると考えた[154]。政治思想の伝統において、暴力は、ティラニー(tyranny、暴政、僭主制)の特徴とみなされ、国家間の関係における最終手段であり、自国民へ向けられる暴力は最も不名誉なものとみなされてきたが、マルクスは、逆に暴力を、統治の不可欠な構成要素とみなし、政治的行為の領域を暴力の使用によって特徴づけた[154]。マルクスが知悉するアリストテレスは、ギリシア人と他民族バルバロイ(夷狄)と区別するために、人間を「ポリス的動物」、および「言葉を持つ動物」と定義し、ギリシア人は暴力に頼らない言論による説得を重視するのに対して、バルバロイは暴力によって支配され、奴隷は労働を強制された[154]。ギリシア人にとって労働は非政治的で私的な事柄であり、これに対して暴力は否定的であるが他者との交わりを確立するものであった[154]。こうしてマルクスは、ロゴスすなわち言論を否定し、それに付随して暴力を賛美した[154]。
また、マルクスが、労働と行為を賛美しながら、国家のない、労働のない社会を賛美するという根本的矛盾のある主張をおこなったが、これも政治思想の伝統の前提を根本から覆そうとしたためであった[155]。
アーレントによれば、マルクスが「人間は歴史を作る」と考えた背景には、政治と歴史の混同があったが、これはマルクスの追随者にとっては命取りとなった[156]。歴史家の態度と制作者の態度が結びつくことは危険であり、人間が知ることのできない「高次の目的」を、計画的・意図的な目的へと転換することが危険なのは、それによって意味が目的へと転化させられてしまうからである。このような転化は、ヘーゲルが歴史に込めた意味(自由の理念が現実化していく)を、マルクスが人間の行為の目的と考え、この目的を制作過程の最終生産物と見なしたときに生じた。しかし、自由や意味は、人間の活動様式の生産物ではありえない[156]。マルクスは、人間が「歴史を作る」ことが可能であるとすれば、歴史には終わりがあるという結論を逃れるわけにはゆかないということを自覚していた[157]。マルクスは、過去と未来という二つの無限に延びる時間意識に表れているような歴史過程を放棄し、弁証法的運動として決定可能で、階級闘争のようにその内実が発見可能であるような、始まりと終わりをもつ過程を考えた。この過程の最終目的は、それまでに起こった事柄をすべて打ち消し、無意味にする。階級なき社会においては、ただ廃棄されるためだけにのみ存在してきた不幸な事柄が忘却されるのであり、不幸な事柄の消失こそが目的である[157]。しかし、意味は真理と同様に、自らを開示し、自らを顕わにするだけであるため、人間が「意味」を作ることは不可能なのであり、人間が作ることができるのは「範型(パタン)」だけである[158]。アーレントによれば、マルクスは、範型を意味と取り違えた最初の歴史家だった[158]。さらにマルクスの追随者は、範型を、過去に対して勝手気ままに押し付け、その結果、「普遍的意味」によって、事実的なもの、個別的なものが滅ぼされ、事実の構造、事柄の継起の順序(クロノロジー)すら掘り崩されてしまったとアーレントは批判した[158]。
社会学者タルコット・パーソンズは『社会体系論』(1951)で、ナチスによる政権奪取を「カリスマ革命運動の高揚」と、ロシア革命後のソ連を「革命運動の適応的変容」として取り上げている[81]。パーソンズによれば、ソ連の共産党は、革命イデオロギーを鼓舞するとともに、否定したはずの愛国心を強調したように、強制的な手段にたよることは、革命体制の基本的な特徴であり、正常に安定した社会よりもはるかに強制的なものとなるとし、解放のためのイデオロギーが、支配のためのイデオロギーに変質すると指摘する[81]。パーソンズは、マルクス - レーニン - スターリンの関係は、イエス - パウロ -コンスタンティノス帝の関係と類似しており、マルクスの理想が、レーニンによって現実化され、スターリンによって全体主義となった過程を、キリスト教が布教を拡大し、ローマ帝国の国教になった過程と対照させた[注 11]。また、パーソンズは、共産主義体制も西側の資本主義体制も、権力の分配において分散型と中央集権型という違いはあるが、両体制とも、自由と福祉の促進を目指す近代化とよばれる社会変動にそって進んできたもので、将来収斂する可能性もあるとも論じた[81]。
このほか、吉本隆明は『マチウ書試論』(1954年)のなかで、「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。」と述べ、階級性に関係のない人間の自由意志の存在を指摘している[159]。
クロード・ルフォールもソ連の体制は、ナチスや東欧諸国とならんで全体主義であると批判した[160]。
ミシェル・フーコーは、マルクス主義によって政治的な想像力が貧困化し、枯渇したと批判し、その理由として、マルクス主義が権力の一様態にほかならないからであるとした[161]。
ズビグネフ・ブレジンスキーは「共産主義とファシズム、ナチズムは歴史的に関連があり、政治的にも類似している。いずれも、工業化時代の深刻な問題―何百万という根無し草のような労働者の出現、初期資産主義がもたらす不公平、そこから生じた階級対立など―への答えとして生まれたものである」「社会的憎しみを社会正義という理念で包み、社会を救済する手段として、国家の組織された暴力を正当化するにいたるのである。ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソビエト・ロシアは、のちに大規模な戦争を展開する」が、これは「共通の信念を持つ者同士の兄弟殺しの戦争であった」「スターリンがナチであったと同様、ヒトラーはレーニン主義者であったといっても過言ではない」と述べている[162]。
ソ連から西ドイツに亡命したミハイル・S.ヴォスレンスキーは、ソ連の「現存社会主義社会には、生産手段の『国有』ないし『社会有』以外に法的な所有形態は存在しないから、生産手段の所有を通じての支配・被支配の関係は生まれない」という主張はフィクションにすぎず、実際のソ連ではソビエト共産党の党員1,700万人中4パーセントの70万人が、指導者層のノーメンクラトゥーラを形成し、それが生産手段を超独占的に管理することによって、労働者階級を支配し搾取し、一党独裁による官僚制国家であると西側社会に報告した[163]。
ソ連崩壊以後
ソビエト連邦の崩壊前後には、マルクス経済学者らもソ連の体制を批判した。マルクス経済学者の高橋正雄は、ソ連と中国の社会主義は、レーニンの誤解から生まれた「空想的社会主義」でしかないという[164]。マルクスは、革命は高度資本主義社会で起こるとしたが、1917年当時のロシアは農民が8割で、国有、国営、計画経済ができるわけがなかったし、レーニンの国有、国営、計画経済という誤ちをスターリンは踏襲し、無理に無理を重ねていったという[164]。
マルクス経済学者の大内秀明は、欧州ではソ連社会主義を一般の社会主義と区別してボルシェヴィズムとよぶが、このボルシェヴィズムの失敗は明白であるという[164]。大内は、1986年1月の党大会において満場一致で採択された日本社会党の新宣言の作成に尽力し、これで社会党は正式にマルクスレーニン主義と決別した[165]。大内は、この宣言がソ連東欧の激変前に採択されてよかった、日本社会主義の面目がたったという[165]。大内は、ソ連東欧の激変は、革命方式にかわって、社会民主主義方式が社会主義建設の方式となることを明確にするもので、ソ連型社会主義の失敗は、社会民主主義の現実性を証明したと述べた[165]。
マルクス経済学者の鶴田満彦も、社会主義ではなく、ソ連型の中央集権的・指令的社会主義が失敗したという[164]。
マルクス経済学者の伊藤誠も、本来、マルクス理論では、社会主義は人民の自由を拡大し、民主的体制を徹底することを目指すものだったが、ソ連東欧では、中央集権体制のもと、人々の自由や人権が抑圧されたと指摘した[164]。
マルクス経済学者の降旗節雄は、ソ連のような広大な地域で計画経済を行うとすれば、完全な官僚支配にならざるをえず、膨大な生産物に総て価格をつけ、バランスをとらなければならない[165]。資本主義諸国のハイテク技術では、ワープロのようなものでも、半年たったら陳腐化する。五か年計画では、どんどん遅れるという[165]。降旗は、生産力が未熟だったロシアや中国での社会主義革命はもともと無理があった、ソ連型社会主義の破綻は、むしろ唯物史観の正しさを証明したという[166]。
東欧革命とソ連において崩壊した社会主義は、マルクスが予言した資本主義が成熟した果てに到来する社会主義ではなく、資本主義が未熟な国で国家が強引に資本蓄積を進めた際に生まれた強権的体制で、社会主義を騙った自称「社会主義」にすぎないという見方がある[167]。しかし、三土修平は、マルクスの思想にも、そうした強権的勢力によって騙られても仕方のない要素があり、たとえば、古典派経済学の費用価値説を絶対化して、需要供給の分析を行う経済学者をブルジョワ的偏見にとらわれた非科学的な学者だと攻撃したことは、マルクスの大きな過失であったし、雇用関係が支配関係に転化することを問うたマルクス理論は読み継がれるべきであるとしても、自分の思想的後継者を必要以上に不寛容にしてしまった責任は、マルクス自身にあったと批判する[167]。
歴史学者フランソワ・フュレは『幻想の過去―20世紀の全体主義』(1995年)において、共産主義は20世紀に全体主義体制として出現したが、フランス革命の記憶を利用して、進歩の先導者を自称し、世界を革命と反革命に分けたことで、共産主義への批判は困難になり、普遍主義は独善の論理に転化したと指摘した[168]。山下範久も同書書評において「世界の改造や社会の改革を叫ぶ普遍主義者が、「味方でなければ敵」というレトリックを振り回す状況が、決して過去ではない」と指摘した[168]。
1960年代には初期のマルクスは理想主義的な「ヒューマニズム」にあったが、後期マルクスはハードコアで、スターリン主義の萌芽があると区別する議論がなされた[169]。しかし、経済学者・政治哲学者マレー・ロスバードは、マルクスの思想は一貫して、人間の個性を破壊し、分業体制を破壊する、狂信的な救世主の目標に奉仕することによって支えられており、レーニン、スターリン、毛沢東、ポル・ポトなど20世紀の共産主義者による恐怖の歴史は、彼らの主人であるマルクスの狂信的で破壊的なビジョンの論理的な展開であると1995年の著書で指摘した[169]。
歴史学者ロバート・スキデルスキーは1995年の著書で、共産主義は、1930年代のロシア、1950・60年代の中国などの英雄的段階において、それが支配する人々に対して途方もないダメージを与え、また、その老衰期においては単に抑圧的で、停滞的で、無意味な存在となったとする[170]。共産主義体制の終焉は、旧来の問題を復活させつつあるが、新たに自由、エネルギーがもたらされ、機会が開放された[170]。資本主義的な民主主義体制は、システマティックに悪事を犯してはいないし、アメリカとその同盟国は、自由を守るために何万人も殺したが、共産主義諸国は、社会主義を促進するために数千万人を殺した[170]。こうした不均衡は、偶然の結果ではなく、思考と政治に関する、開かれたシステムと閉ざされたシステムとの間の内在的な差異に起因している[170]。国家において、公民権と政治的権利が堅く守られ、そして経済的安定性という公共財を提供し、国民総生産の30%以下しか支出しないとすれば、そうした民主主義国家は多くの善を実現でき、比較的わずかな害悪しか行わないだろうとスキデルスキーはいう[170]。
21世紀における批判
欧州評議会
欧州評議会議員会議は2006年1月25日の1481号決議において、「20世紀に席巻し、現在でも依然としていくつかの国で権力を握っている全体主義的な共産主義政権(The totalitarian communist regimes)は、例外なく、大規模な人権侵害を行なってきた。そこには、強制収容所、人為的な飢饉、拷問、奴隷労働およびその他の組織的暴力などによる個人および集団の殺害、また、民族的または宗教的迫害、良心や思想を表明する言論の自由と表現の自由への侵害、報道の自由の侵害、政治的多元主義の欠如などが含まれる。」「全体主義的共産主義体制における犯罪は、階級闘争理論とプロレタリア独裁の原則の名の下に正当化されてきた。共産主義の敵として排除された膨大な数の犠牲者は自国民であった。」「これらの犯罪は、ナチズムの犯罪のように、国際社会によっていまだ裁かれていない。その結果、共産主義政権の犯罪に対する諸国民の認識は非常に乏しく、一部の国では、共産党は合法政党であり、活動的な場合もある。」「欧州評議会は、共産主義体制の犯罪を強く非難するとともに、共産主義体制の犠牲者の苦しみに同情し、それを理解することは倫理的な責務であると考える。」と決議した[171]。
フリードバーグ
政治学者アーロン・L・フリードバーグによれば、ソビエト連邦と中華人民共和国は、マルクス・レーニン主義政党による一党独裁体制で、国民の生活のあらゆる側面の管理を目指し、世界の共産主義革命運動のリーダーであると称したが、共産主義を奉じた20世紀の全体主義大国の後継国家であるロシアと中国は、経済面では国家資本主義である[172]。
中国は、改革開放政策で市場経済を導入したが、天安門事件で民主化運動を弾圧して以降は、経済成長を約束する一方で、党への反対意見を押さえ込み、情報統制を強め、愛国主義教育キャンペーンによる新たな信念体系の創出に取り組んみ、1990年代末までに中国は、共産主義的全体主義体制から、権威主義的資本主義体制へ移行した[172]。
ソ連は1980年代に中央集権的な計画経済システムが破綻し、経済再建(ペレストロイカ)を党官僚から反対されたゴルバチョフがグラスノスチで情報公開や検閲を緩めると、共産党への批判が噴出し、一党独裁の正統性も崩壊し、ソ連崩壊となった[172]。1992年以降は、ソ連時代の価格統制や補助金を廃止し、資産の民営化が進み、国営企業も売却され、市場経済が獲得されていった一方で、価格統制の撤廃で急激なインフレが生じて、失業率が上昇し、長期的な景気後退に陥った[172]。エリツィンが辞任し、プーチンが大統領に就任すると、国家の権威主義体制を強化し、ガスプロムやロスネフチを政府管理に戻し、国家資本主義体制を確立した[172]。
ノーメンクラトゥーラも、新たに大富裕層オリガルヒを生み出し、「オリガルヒ資本主義」とも呼ばれる[173]。
マルクスとレーニン・スターリンとの関係
マルクス主義の正統としてのスターリン主義
労働運動に身を投じ、マルクス思想を研究した哲学者のシモーヌ・ヴェイユは、ソ連の国家体制の歪みについて、スターリニズムだけでなく、レーニン、さらにマルクスの理論的瑕疵にも原因があると考えた[174]。ヴェーユによれば、レーニンは、ロベスピエールと同様に、中央集権国家の独裁制を樹立し[注 12]、ロベスピエールがボナパルトの先導者となったように、スターリンの先導者となったとする[175]。
ヴェイユは、1933年8月の論文で、ロシア革命が起こって15年経ったが、本来の意味でのソヴィエト(労働者評議会)はどこにも存在しないし、革命によって成立した体制は、今やプロレタリアを絞殺していると批判する[176]。ソ連・ロシアでは、言論の自由はなく、見解を自由に発表するには流刑の覚悟がなければならず、共産党による一党独裁体制で、他の政党は監獄にあり、その共産党は書記局に牛耳られた行政機関に矮小化され、ロシア帝国時代よりも武装強化させた警察に市民は恒常的に監視されている[176]。トロツキーは、ソ連の体制を、「官僚主義的に歪曲されているが、プロレタリア独裁であり、労働者国家である」というが、労働者が官僚カーストの意のままに動かされる国家を労働者国家と呼ぶのは悪趣味な冗談だとヴェーユは批判する[176]。
ヴェーユによれば、マルクスは、解放への障碍が、官僚的軍事的国家であることを看破していたが、管理的職能が、所有権の独占とは別に、新しい抑圧段階を生むかどうかを問わなかったし、管理者への従属に基づく生産様式が官僚カーストによる独裁の発生を防止することが可能なのかも不明である[176]。何らかの独占を与えられた社会層は、自らの階層の基盤が崩壊するまで独占を保持するのであり、管理職能を与えられた階層が、独占的職能を大衆に開放し、労働者に国家運営や企業運営を学ぶことを許可することなどありえない[176]。官僚主義は、責任を負わない機械仕掛けであり、際限ない寄生状態を作り出し、「年次計画」は、資本主義的競争がつくりだす無秩序に匹敵する無秩序をもたらし、権力を行使する集団は人々の幸福のためにでなく、おのが権勢の増強のためにのみ働く[176]。資本主義は、生産労働を搾取し、プロレタリアートの解放こそしないが、あらゆる領域で、創意工夫、自由な検討、発明、天分にのびやかな飛躍を与えた[176]。これに対して、ソ連の官僚機構では、あらゆる判断と天分が排除され、権力を全体的に掌握し、誰も批判できない唯一の公的見解が提示され、個別的な価値のすべてを窒息させる国家崇拝が蔓延している[176]。この官僚機構は、「あらゆる自発性、あらゆる教養、あらゆる思考を殲滅していく体系」であり、資本主義、封建主義においてさえも残されていた個人や集団が自律的に発展する余地はなくなる[177]。
ヴェーユはまた、マルクスはあらゆる工業国に社会主義が建設されたときに闘争は終わるとしたが、革命は同時に万国で行われないし、一国で革命が行われると、他国より強くなるために労働者に対する搾取と抑圧が強化されることは、ロシア革命が示したのであり、ソ連では、あらゆる領域で国家権力が主権者となるような体制へ向かっている[178]。マルクスによる抑圧と生産力発展との関係についての分析は、みごとであるが、抑圧の発生は部分的にしか示されておらず、なぜ分業が抑圧に転化するのかは明らかにされていない。また、抑圧の終焉を期待することが必然的なものだとは証明されていないし、マルクス主義者はこの問題をどれひとつとして解決しなかったとヴェイユは批判する[178]。
20世紀後半にソ連体制の矛盾が明らかになってくると、政治学者ズビグネフ・ブレジンスキーは、ソ連共産主義体制の構造的欠陥について、ペレストロイカはスターリン主義の批判と修正という形で行われているが、検討は、レーニン主義への批判まで及ばなければならないと指摘した[71]。
歴史学者林健太郎は、スターリン主義への批判は、レーニン主義への批判だけでなく、おおもとのマルクス主義にまで及ぶべきであるとする[71]。マルクスは資本主義がいかに没落するかについて、「収奪者は収奪される」(資本論)という抽象的なことしかいわなかったが、レーニンはその「収奪」の実践を委任され、全ての搾取をなくす歴史的使命を背負ったプロレタリアートの政党による一党独裁はその「収奪」の実現であった[71]。
一方で、マルクス主義やマルクス・レーニン主義を信奉する者のなかには、ソ連や東欧の社会主義制度の崩壊はスターリン主義に基づいて形成されたためで、マルクスやレーニンが建設していれば自由で豊かな社会をつくっただろうし、大粛清などもスターリン個人の責任であり、マルクスやレーニンとは無縁であるとする中村静治らの主張がある[70][179]。
しかし、経済学者鈴木重靖は、レーニンがマルクス主義者であったように、スターリンも自他ともに認めるマルクス主義者であったとし、スターリンだけを例外として考えることは難しいと反論する[70]。スターリンは自分をマルクス主義者であり、レーニン主義者であると自認していたし、1950年代まではスターリンはレーニンやマルクスと同等の評価を国際的に受けており、スターリンは、マルクスとレーニンの思想にしたがってソ連建設に貢献した[70]。
レーニンとマルクスを比較すると、マルクスは社会主義革命は先進国において生じると考えたが、レーニンはロシアのような後進国でも革命は起こると主張し、実際に革命を起こした[70]。この結果、中国、朝鮮、キューバ、東欧などの後進国で革命が起こっていった[70]。レーニンは、ロシアが火蓋をきったあとは、ドイツ、フランス、イギリスなどの先進国で革命が起こるとして、世界同時革命を主張した[70]。
レーニンは、労働者階級が資本家階級に対して独裁権を行使して、資本家階級を一掃し、生産手段を社会的所有(国有化)させて計画経済を行い、資本家、地主、商品、貨幣のない社会主義社会を実現していくと考え、これはマルクスと同一の思想といっていいが、レーニンはこうした思想を1921年のネップによって商業取引や外資を導入し、放棄した[70]。ネップはマルクス主義からの「退却」といわれたが[注 13]、これによってレーニンをマルクス主義者ではなくなったと主張されることはない[70]。
スターリンはネップ政策を再修正し、「退却」を「前進」「突撃」に変え、共産主義への道をより速やかに進んで行くことを決意した[70]。スターリンは権力獲得後、レーニンのネップ政策を引き継いだものの、五か年計画でネップを放棄し、生産手段の社会化、農業の集団化、経済の計画化などの徹底、世界同時革命の主張という、むしろレーニンによって捨て去られたマルクスの基本思想に立ち返った[70]。これにより、スターリンは、内外の多くのマルクス主義者より、レーニン以上の本当のマルクス主義者であると当時称賛された[70]。マルクスの主な功績は思想であり、革命家としてはほとんど大衆に知られることはなかったのに対して[注 14]、スターリンは、国内はもちろん、国際的にも一般大衆に知られ、大衆を把握して動かす力は強大で、第二次世界大戦での役割や冷戦時代を形成したその影響力は、ナポレオンをも凌駕するもので、マルクスやレーニンよりも大きい影響力を当時は持っていた[70]。マルクスとエングルスは資本家・地主のいない社会、市場なき経済を目指し、スターリンはこの目標に向かって、生産手段の私的所有の廃止と経済の計画化を徹底的に遂行し、ソ連は20世紀で最も市場に依存しない経済制度であった[70]。カンボジアのポル・ポトも完全非市場経済の建設を試みたが失敗し、ユーゴスラビアは共同体所有に近い計画経済を実行したが失敗した[70]。
このように、レーニンよりもマルクスの思想に忠実であったスターリンがマルクス主義者ではないという主張は全く不当といわなければならないし、スターリンをマルクス、レーニンから切り離すことはできない、と鈴木はいう[70]。鈴木によれば、ロシアのような後進国が単独で、先進資本主義の国々に包囲されながら、社会主義社会を建設しようとするならば、遅かれ早かれスターリン型といわれるような中央集権的指令経済の独裁国家にならざるをえなかった[70]。マルクス型社会主義は商品経済を否定し、さらに共産主義の段階になれば分業さえもなくなるとする点で、スターリン型よりもさらに徹底した市場排除型社会主義経済である[180]。スターリン型・ソ連型社会主義の中央集権的独裁国家は、マルクスやレーニンの思想を忠実に実現しようとした結果生まれたものである[70]。スターリンを諸悪の根源だというならば、マルクスこそそのルーツであるといわなければならないと鈴木は述べる[180]。
S・ブラギンスキーとV・シュヴィドコーも、予言者マルクスのドグマをもとに社会をつくろうと思えば、スターリン型の社会しかつくれないと述べる[181][180]。
マルクスの「無法・無国家共同体」とレーニンによる実現
経済思想史研究者の太田仁樹によれば、マルクスらは、共産主義社会において諸個人の利害対立は消滅しているので、法や国家は不要とした(法の死滅・国家死滅[182])が、このような「無法・無国家共同体」思想は、ソ連のような、「法治主義」が欠如した、党エリート(ノーメンクラトゥーラ)の支配する「人治国家」を生んだとする[183]。
マルクスには、トマス・ホッブズやジョン・ロックのような、利害が対立する諸個人の共存を可能にする制度設計という問題意識は皆無であったが、このようなマルクスらの「無法・無国家共同体」思想は、利害対立を内包せざるをえない人間社会の実際から遊離したユートピア思想であったと太田は批判する[183]。
ヨーロッパの市民社会では、利害の対立する個人や集団が衝突しながらも、調整し共存していくことや、国家権力のチェック・システムとしての法制度が前提されている[183]。これに対して、マルクスらは法や国家を不要とみなすのであり、従って、マルクスらの思想を「市民社会の再建」として解釈する「市民社会的マルクス主義」やアソシアシオン論は、マルクス思想の正確な理解を妨げていると太田はいう[183]。
マルクスらは、プロレタリアートだけが真に革命的な階級であり[184]、歴史の進歩を体現する特権的な変革主体とみた[183]。それに対して、小工業者、小商人、手工業者、農民、ルンペン・プロレタリアートなどの中間身分(「その他の階級」)は、大工業の発展とともに衰え没落するものであり、著書でも口汚く悪罵を投げつけた[185]。太田によれば、マルクスらが自分たちを特権的なプロレタリアートと一体化させたのは、自分たちが亡命左翼の党派政治のなかで特権的な位置を占めることを正当化するための論理で、それはマルクスらの他の党派への論争作法に明らかである[183]。さらに、マルクスにとってプロレタリアートは、経済的には資本主義の担い手であるにもかかわらず、ブルジョア国家の政治の外側に排除された無力な存在であるゆえ、ここにブルジョアの支配に対する武力革命による転覆と権力獲得の根拠があると考えた[183]。
しかし、19世紀後半のイギリスの現実の労働者階級の主力は、ブルジョア政党を通じた改良を目指しており、マルクスらが期待したような「革命的なプロレタリアート」ではなかった[183]。マルクスらは、現実の労働者の意識がなぜそうなのかを解明したり、あるいは資本主義社会の認識を根本的に見直すことはせずに、彼らが頭のなかで思い浮かべた「プロレタリアート」というイメージを現実の労働者の「本来の姿」とみなしたうえで、イギリスの労働者はブルジョア的な「労働貴族」によって本来の革命性を歪められている現実の労働者を叱責した[183]。
マルクスらは、近代統治システムが、被支配者を政治や法から排除することでなく、被支配者が支配構造を再生産することで成立していることも認識できなかった[183]。 マルクスの政治活動は、亡命左翼内部でのヘゲモニー争いに終始するもので、一国の政治を左右する政治的アリーナと無縁のものであり、世界革命という空疎な革命的言辞を弄するにとどまり、改良政策を提起することもできなかった[183]。マルクスらの革命戦略とは、ブルジョア国家の外部に存在する「プロレタリアート」が、既存の国家を解体して自己の権力を打ち立てる 「プロレタリアート独裁」であったが、この独裁権力は、法によるチェックを受けるべきものとは考えられなかったし、そもそもマルクスらは、法を支配者によるプロレタリアートへの抑圧を正当化するものとみなしていた[183]。マルクスの革命構想は,現実の労働者を「革命的プロレタリアート」と誤認した、実現不可能な 欠陥革命思想であったと太田はいう[183]。
ベルンシュタインはドイツの現実の中でマルクス的な「革命的プロレタリアート」幻想は、認識として誤りであり、実践的にも有効な変革戦略を阻害する政治的な誤りでもあると批判し、亡命左翼の党派政治内でのみ通用する革命的言辞から訣別し、幻想的な目標ではなく、現実の活動を重視すべきであると説き、カウツキーもこの批判を支持した[183]。しかし、ヒルファーディング[186]やレーニン[187]らは、ベルンシュタインの問題提起を、近代的統治下での変革戦略の問題としてではなく、資本主義の発展は『資本論』の妥当性を失わせるかという発展段階論の問題に矮小化して受けとめた[183]。
アナキズムとも共通するマルクスらの「無法・無国家共同体」構想は、複雑な利害対立に悩まざるをえない資本主義社会の中心部では、また、法治主義を備えた近代的に統治された国家では、共鳴盤を見いだせなかった[183]。「近代的統治」は、法による国家権力のチェック機能(法治システム)を備え、被支配者が合意によって支配を受け入れるという特徴を持つものであり、労働者たちも既存の資本主義国家の中での権利拡大を目指し、国民として統合されていった[183]。マルクスはこのような統治システムを欺瞞的であると批判し、理解しようとはせず、労働者は国民共同体から排除されており、政権奪取によって初めて「国民」となることができると考えた[183]。マルクス「無法・無国家共同体」思想は、「近代的統治」や「法治主義」が根付いていない社会、「国民共同体」の成立していないロシアのような社会では、近代的労働者は少数だったが、知識人の心を掴んだ[183]。
ロシアで最初のマルクス主義者とされるゲオルギー・プレハーノフは、資本主義に対する闘争ではなく,順調な資本主義の発展のための専制の打倒、すなわち民主主義革命を当面の課題とした(非連続的二段階革命論)[183]。当初レーニンは、プレハーノフに同調し、ストルーヴェなどの「合法マルクス主義者」 と協力していたが、即時の権力獲得を目指すようになり、プレハーノフと訣別した[183]。レーニンは、革命的な知識人の党、すなわち革命党(前衛党[188])こそが「革命的プロレタリアート」であり、現実の労働者は革命党によって指導される場合、また革命意識が外部から注入される場合[189]にのみ「革命的なプロレタリアート」となりうると主張した[183]。
二月革命は,労働者・農民・被抑圧民族・兵士の革命であったが, 十月革命とその後の内戦においては、ボリシェヴィキに指導された兵士および労働者の政権の下へ、農民運動と民族運動が屈服させられていった[183]。内戦期には、市場と私有財産の廃絶、搾取者の一掃というマルクスのユートピア思想は、ボリシェヴィキのスローガンとして用いられ、戦時共産主義下での農民からの収奪を正当化する口実となった[183]。
ボリシェヴィキは、近代的統治のような法によるチェック機能(法治システム)を持たない、つまり、「法治主義」を欠如させた「人治国家」を実現したが、それはマルクスらの「無法・無国家共同体」思想がもたらす論理的必然の帰結であったと太田は指摘する[183]。
マルクスの市民社会論とレーニンの恐怖政治
ドイツ思想史研究者の神田順司は、マルクスの市民社会論はヘーゲルを歪曲して、既存制度の歴史的文脈を否定したものであるが、これがレーニンらによる暴力行使の理論的素地となったと指摘する[190]。
ソ連崩壊後に公開されたマルクス・レーニン主義研究所中央文書館やKGB中央文書館の極秘文書によれば、レーニンをはじめとしたボリシェヴィキの指導者たちの多くは、生活のために働いた経験もなく、党の資金に寄生して暮らす「労働者階級」とは無縁の存在であった[190][191]。しかもその資金のほとんどは、銀行強盗、現金輸送車の強奪、詐欺などで略奪されたもので、ボリシェヴィキの強盗団の頭目がスターリンだった[190]。こうした手法は1906年にロシア社会民主労働党第四回党大会でメンシェヴィキから批判されて否決されたが、その後もレーニンの指示で続けられた[190]。また、テロルによる恐怖支配は、レーニンが権力を強化するために用い、強制収容所や大量虐殺は、ボリシェヴィキの経済政策が破綻するなか、農民や労働者の反乱に戦慄したレーニンが独裁支配を維持するために導入したものだった[190]。
マルクスの革命論では、革命後の社会については不明瞭で、「プロレタリアの権利宣言」があっても、実効性のある制度としての法も人権もなく、権力の正当性についての制度的保証も責任規定もなかった[190]。レーニンはこうしたマルクス主義の粗暴な側面を明け透けに表明し、大衆を動員して「人民の敵」と決めつけ、暴力を行使していった[190]。レーニンは1917年12月に「革命の利益は憲法制定会議の形式的権利に優る」と宣言して、革命ロシアにおける民主主義の可能性を暴力によって粉砕した[190]。
マルクスは、ヘーゲルの法哲学批判において、ヘーゲルが「国家と市民社会の対立」を前提していると批判するが、実際にはヘーゲルはそのような主張をしていない[190]。ヘーゲルは市民社会を利害の闘争の場であるが、職業団体(同業者組合)は共通利益を国家に提示する一方で、官僚はそうした利害を調整することで、「近代国家の原理」の実現を目指すと考える[190]。マルクスは、ヘーゲルによる市民社会の国家との媒介のダイナミズム論を理解しようとせずに、「ヘーゲルは普遍的なものを独立させておいて、私的利害という経験的存在と混ぜこぜにし、それを無批判に理念の表現と見做す」と批判するが、これは外在的批判にすぎず、その後マルクスがヘーゲルの行政権論を論評ぬきで書き写している事実は、マルクスがヘーゲルを理解できないままに理論破綻していることを示すと神田順司は指摘する[190]。
マルクスはヘーゲルが国家と市民社会の「分離」から出発し、官僚制はこの分離に基礎を置いているとし、「職業団体は官僚制の唯物論であり、官僚制は職業団体の精神論である」「職業団体は市民社会の官僚制であり、官僚制は国家の職業団体である」「官僚制は国家の市民社会として、職業団体という市民社会の国家に対峙する」と論じるが、これらは「屁理屈としかいいようのない論理」であると神田は批判する[190]。マルクスはフォイエルバッハの批判を用いて、ヘーゲルは「国家と市民社会の対立」という「二元論」を前提しているとして批判したが、マルクスのいうこの二元論をヘーゲルは主張していないのであり、これは捏造にもとづく批判である[190]。
ヘーゲルは歴史的文脈を踏まえて近代市民社会の矛盾を考察し、既存制度の改革によってドイツをいかに近代化するかに腐心した[190]。これに対して、マルクスは憲法を「政治的国家と非政治的国家との妥協」とみたり、議会を「市民社会の政治的幻想」として否定し批判するが、制度的規定を欠いた「民主制」という現実から乖離した夢想をもって理論破綻している、と神田はいう[190]。さらにヘーゲルは、国家に悪意を前提するような見方は、「市民生活と政治生活とを相互に切り離し、政治生活をいわば宙に浮かしてしまう」立場であると批判していたが、まさにマルクスは、このヘーゲルの批判する立場にいたのであり、マルクスがこの箇所以降、書き写しや乱れをみせていることがマルクスの草稿に残っており、マルクスが当惑し、理論破綻していることを示すと神田はいう[190]。なお、現行のマルクス・エンゲルス全集では、こうした草稿における論評抜きの書き写しなどを削除しているが、これは史料への加工であり、問題である、と神田は批判している[190]。
こうした市民社会論以外でも、たとえばヘーゲル哲学における「理念」は、空虚な構想物ではなく、「概念とその現実態」としてヘーゲルは説明しているが、マルクスはこれを「抽象的ないし論理的な理念」として取り違え、その取り違えに基づいてヘーゲルを批判するなど、マルクスのヘーゲル理解は稚拙であると神田はいう[190]。
このように、マルクスのプロレタリア革命論は、その市民社会論を前提としているが、それはヘーゲルの法哲学の曲解と一面化して、近代的な法・政治的カテゴリーを排除するものであり、したがってまた、歴史的に形成されてきた法・政治制度・規範・モラルなどをまったく意に介さないレーニンの恐怖政治政策が生まれる理論的素地を用意するものとなっていった[190]。
革命戦争
ボルシェヴィキは、資本主義はその特権を守るためには武力を用いることは確実で、従って、体制の不正を正すならば、武力対立が必然的であると主張し、平和的手段によって共産主義が実現できるという人々は、偽りの友人、ブルジョワジーの隠れた味方であると攻撃する[192]。
1917年の10月革命以降、ソヴィエト政府は、全世界を相手に戦争を続け、国内では、内戦に直面した[193]。世界は大戦で疲弊しており、ロシアへの軍事的冒険に出ることはなく、ロシア帝政は、他の資本主義国家から国際的な支持を得なかった[193]。ロシアは広大な農業国であり、侵略と封鎖に耐えることができた[193]。このようななか、第3インターナショナルは、西欧の革命的プロレタリアートは、東方諸国(ロシアなど)の人民とともに、英米の資本主義に革命的闘争を開始すると宣言した[194]。
第一次大戦で非戦論を主張した哲学者バートランド・ラッセルは、革命戦争にも反対し、もしそのような革命戦争が世界中で開始することになれば、それは第一次大戦を前哨戦とした世界的規模の戦争となるだろうし、そこから生まれてくる国民は、野蛮で残酷で、統治体制も、むきだしの抑圧と残忍さの機械となるだろうという[194]。個々人の良好な関係、憎悪と暴力と抑圧からの自由、教育の普及、余暇の合理的な利用、芸術と科学の進歩などが、革命と戦争によって増進できるとは考えられないし、もし西欧諸国の社会主義者がボルシェヴィキ理論を採用したならば、長期の混乱となり、社会主義にも文明体系にも至ることなく、暗黒時代の野蛮に逆戻りするだけだろうとラッセルは指摘した[195]。
哲学者のシモーヌ・ヴェイユによれば、フランス革命によって革命戦争[注 15]という観念が生まれると、革命家にとって戦争が一種の威信をもつようになり、抑圧された人民のための反乱は、解放戦争として肯定されるようになり、マルクスもエンゲルスも労働運動が強力に行われている国を守り、反動的な国を壊滅することを目指すなか、労働者に参戦を呼びかけた[175]。1870年には、マルクスとインターナショナルは、相戦う二国の労働者に向かって、征服への抵抗と、自国の防衛を呼びかけ、エンゲルスも1892年にフランスとロシアが、ドイツに対して開戦したならば、全力で参戦するようドイツの社会民主主義者に呼びかけた[175]。これは労働運動が強力に行われている国を守り、反動的な国を壊滅することが目指されてのことだった[175]。
レーニンは民族戦争と革命戦争をのぞいて、労働者は、自国の敗北を希望し、自国の戦いをサボタージュすべきだと考えたが、ヴェーユは、各国の労働者が自国の敗北のために努力することは、敵国の帝国主義の勝利に力を貸すことになるのであり、こうした戦争観には統一性も明晰さもないと批判する[175]。革命戦争は革命の墓穴であるとヴェーユはいう[175]。なお、ロシア革命の当初は、旧軍隊は解体されていたが、白衛軍と外国の干渉の恐れのために、ロシアは戒厳令下に置かれ、旧軍の将校3万人が現役にくり入れられ、軍律や中央集権制が復活され、軍が再建され、これと並行して、官僚制と警察も再建された[175]
また、ヴェイユは、スペイン内戦で義勇兵として国際旅団に参加し、そこで義勇兵によって村人や司祭が明確な理由もなく殺害されていくのを目の当たりにした[196]。義勇兵であるインテリたちは、外見は人を殺しそうにもない、おとなしい人々であったが、食事会で司祭やファシストを何人殺したかを語り合い、彼らは血に塗りつぶされた雰囲気のなかに楽しげに浸かっていたことに衝撃を受けて[196]、ヴェイユは政治活動から離れることとなった[197]。
また、シグムント・ステインは、国際旅団がスターリンのプロパガンダに利用され、「(国際旅団に対して)革命という語に託されたイメージは共産党の最悪のウソのひとつであり、類をみないほどの事実の歪曲である」と指摘している[198]。
大戦で戦勝国となったソ連は共産主義の力を誇示することに成功し、戦後、東ヨーロッパ地域では、ユーゴスラビア連邦人民共和国(マケドニア人民共和国、セルビア人民共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア人民共和国、スロベニア人民共和国、モンテネグロ人民共和国の6つの国からなる連邦国家)をはじめ、1946年にブルガリア人民共和国とアルバニア社会主義人民共和国、1947年にポーランド人民共和国とルーマニア社会主義共和国、1948年にチェコスロバキア、1949年にドイツ民主共和国とハンガリー人民共和国などが続々と建国され、東アジアでも1945年にベトナム民主共和国、1948年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、1949年に中華人民共和国などが建国され、およそ地球の三分の一の面積が共産主義となった[199]。
1968年にチェコスロヴァキアで自由化運動(プラハの春)が起きると、共産圏からの離脱を恐れたソ連は、武力弾圧を行った[200]。ブレジネフは、制限主権論で東欧諸国に自己決定権は存在しないと主張し、ソ連による帝国主義的支配を公言した[199]。すでにポーランドとハンガリーはソ連への隷属からの解放をはじめていたのに対して、東ドイツはソ連に忠実だったが、これは東ドイツは戦争でソ連がドイツから無理に奪った地域であり、ソ連への服従以外に政府の存立根拠がなかったためであった[199]。
1960年代にソ連と中国が対立。1970年代にソ連は北べトナムと結んで、米国と結んだ南べトナムを敗北させたが、ヴェトナムはまもなく中国と対立し、中越戦争が起き、カンボジアとの戦争も起きた[201]。歴史学者林健太郎は、こうした共産国家相互に敵対関係が存在する以上、地球の三分の一の面積が共産主義となったという言辞は無意味なものとなったと指摘する[201]。
ギャラリー
イワン・ウラジミーロフによる、ウラジーミル・レーニン統治下でのロシアの世相を描いた一連の水彩画が現存しており、レーニンの政策の負の側面を窺い知ることができる。
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ボリシェヴィキによる農民からの穀物の徴発。
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チェーカーの地下室。
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ボリシェヴィキにより強制労働をさせられる人々。
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ニコライ2世の肖像の焼却。
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赤軍による冬宮の破壊。
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革命派によるワインショップの襲撃。
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ロシア飢饉 (1921年-1922年)で死んだ馬を食べる人々。
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ボリシェヴィキによる教会財産の接収(ロシア正教会の歴史#ソ連:無神論政権による弾圧の時代も参照)。
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革命派によって死刑を宣告される聖職者と地主。
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ボリシェヴィキの命令で強制労働に従事する聖職者。
宗教的予言としての批判
宗教家としてのマルクス
マルクスは無神論者であったが、マルクスには宗教的詩人の側面があり、博士論文を書いた頃の1841年の詩「狂乱の歌」では、「われらは鎖につながれ、粉砕され、空しく、おののく」「われらは冷酷な神のつくりなせる猿」と書き、作中の神は「人間にすさまじいいのろいを投げかけてやる」と言う[202]。マルクスはゲーテの「ファウスト」に出てくる悪魔メフィストフェレスのことばを好み、破局が切迫しているという終末論思想をもっており、『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)では、最後の審判の日に燃えさかる都市で大砲がとどろき、ギロチンが拍子をとり、大衆は叫び、自意識は街頭柱に吊るされると書き、1856年には歴史の審判はプロレタリアが執行すると演説した[202]。マルクスの終末論的な歴史ドラマは、資本主義の死と最後の審判の日がやってくると信じる読者をひきつける魅力を持っていたとジョンソンは指摘する[202]。
また、マルクスは高利貸しや質屋を強く憎悪しており、そこから、ユダヤ人およびユダヤ教への批判を行なっている[202]。マルクスは、ユダヤ人の神は貨幣であり、ユダヤ人は世界を証券取引所に変え、ユダヤ教の基礎は「私利私欲」であるとする[202]。マルクスによれば、貨幣は、人間の労働と存在から切り離された本質であり、あらゆる神を商品に変えて、世界から本来の価値を奪い、人間を支配し、人間はこれを崇拝する[202]。マルクスはこのような反ユダヤ主義を拡大させ、高利をむさぼるブルジョワ階級こそ悪であるとみなし、それに対比して、プロレタリアを階級ではない階級、なんの歴史の持たない救済力で歴史的な法則の埒外にあり、かつ歴史を終わらせるものとみなした[202]。ジョンソンは、こうしたマルクスの考えは、ユダヤ教的で、プロレタリアはメシアに相当しているという[202]。
宗教としてのマルクス主義
マルクスは「宗教は民衆の阿片である」と述べた。また、マルクスは共産主義は資本主義の止揚された段階であるゆえに、先進国で共産主義革命が起こると予言したが、実際に起こったのは発展途上国のロシアであった。
20世紀前半
哲学者のバートランド・ラッセルは、1920年に労働党代表団とともにソビエトロシアに一月ほど滞在し[85]、帰国後に著した『ロシア共産主義』において、ロシア革命は歴史的な英雄的事件であるが、失敗であったと述べ、その原因は、普通の男女の意見や感情に十分な準備をほどこさないままで新しい世界の創出を目指した短気な哲学に起因するとした[86]。ラッセルは、レーニンらのボルシェヴィズムは、政治理論というだけでなく、精緻な教義と霊感のこもった経典をそなえた一つの宗教であるとみた[203]。宗教とは、独断(ドグマ)として抱かれている信仰の体系であり、それは生活の振る舞いを支配し、証拠を超越し、あるいは証拠に反し、知的ではない、感情的ないし権威主義的な方法で教え込まれるものだが、ボルシェヴィズムもこの意味でまさに宗教であるとラッセルはいう[204]。ラッセルは、ボルシェヴィキとエジプトの隠者(キリスト教)は、ともに、世界に暗黒と無益な暴力をもたらす悲劇的な妄想の産物であるとする[205]。山上の垂訓は立派だが、キリスト教徒は、敵を愛することも、もう一方の頬を向けなかったどころか、宗教裁判と焚刑で敵を殺し、人間の知性を無知で狭量な僧侶に従属させ、芸術を堕落させ、科学を絶滅させた[205]。これは教えを熱狂的に信じたことの不可避な結果であり、共産主義も、かつてのキリスト教と同様に熱狂的に信奉されており、有害であるとする[205]。
レーニンと対談したラッセルは、レーニンは、強く自説にこだわり、偏狭なまでに正統的で、自由に対する愛着をほとんど持たない人で、彼の強さはマルクス主義の福音に対する信仰からきているという[206]。レーニンは、なにかの命題を証明したいとおもう時には、マルクスとエンゲルスの文章の引用によって証明しようとする[203]。また、哲学的唯物論は、精緻で独断的な信念によって成立しているが、ルネッサンス以降の近代世界は、客観的には疑わしい事柄についてまで戦闘的に確信するという習癖から次第に抜け出て、科学的な見方の骨組を成す建設的で懐疑論的な気質に移っていったのだが、ボルシェヴィズムは、自由な探究を閉ざし、人間を中世の知的牢獄に放り込む[203]。哲学的な唯物論が真実であるならば、それはすべての所で真実でなければならないとされ、ある哲学の帰結として政治を行うひとは、その哲学の政治への適用において絶対的で全面的となる[207]。マルクス主義の独断的性質は、その理論の哲学的基礎に支えられており、そこには、カトリック神学のような固定された確実性があり、近代科学のような常に変化する流動性、懐疑的な実際性がないとラッセルは批判した[207]。
ジョン・メイナード・ケインズは『ロシア管見』(1925年)などの著作で、ソ連は狂信的な少数者によって指導され、その政策は、宗教的熱情をもって採用されており、レーニン主義は、宗教・神秘主義的観念論の混合物とした[208]。
矢内原忠雄は「マルクス主義と基督教」(一粒社 1932)においてキリスト教とマルクス主義は類似しているが、マルクス主義はキリスト教に匹敵するところではないと批判している[209]。
小泉信三もマルクス主義を宗教として批判している[210]。小泉によれば、原始共産制から階級分化が起こり、やがて共産主義社会の到来で階級対立がなくなるという考えは、キリスト教的な千年王国待望論と同種の宗教的信仰であるとし、また、階級が消滅した後の世界についてマルクス主義は具体的なことをほとんど何も語っていないが、闘争のない一切が平和と幸福に満ちた停止した社会とすれば、それは皮肉にもマルクスが否定したユートピアのように聞こえる。未開社会やサルのような動物の社会でも、順位制という身分制度があり、原始共産制は見られない[210]。小泉信三は、社会主義は科学ではなく、労働者の資本家に対する体系化された嫉妬の情であると指摘している[210]。
マルクス主義の理論体系は倫理的指令によって決定づけられ、世界の隅々まで解明しつくすカトリック神学体系に匹敵するものだったともいわれ、神によって強者の富者が否定され,弱者の貧者が救済され、恩寵として両者が逆転するという「マリアの賛歌」や、「ヨハネの黙示録」などの思想を継承した「破局的な恐慌」をマルクスが述べるなど、マルクス主義はキリスト教的革命論の継承者とも指摘されている[211]。
保守党党首でイギリス首相だったスタンリー・ボールドウィンは1937年に「キリスト教国家は、人間の個性が最高であると考えるが、 奴隷国家はこれを否定する。 人間の魂の無限の価値との妥協は、野蛮への直行となり、横柄な支配と残酷な専制政治に行き着くことになる。 (マルクスのように)宗教をアヘンとして非難すれば、政治的自由と市民的自由をアヘンとして非難することになる。言論の自由は去り、寛容が続いて消え去り、正義も消える。」と批判した[212]
ボールドウィンのいう「奴隷国家」については、作家ヒレア・ベロックが『奴隷の国家』(1912年)で論じている。ベロックは、資本主義の不安定性を克服するために国家が資本主義の自由を取り除くような改革を行うと、奴隷国家に置き換わっていくと論じた[213]。 ベロックは小農の生活に基づく財産所有民主主義によって、さまざまな社会階級を結びつけることを提唱し[214]、「富の生産の統制とは、人の命そのものを統制することになる」と述べたが[215]、ハイエクは『隷属への道』でこれを引用した[216]。
哲学者のシモーヌ・ヴェイユは、革命感情は、最初は不正に対する反抗であるが、権力を奪取すると、やがて国家的帝国主義と類似する労働者帝国主義に変貌をとげ、その目的は、一つの集団による人類全体、人類生活の全局面にたいする全く無制限の支配であると論じ、以下のように述べた[217]
社会的不正に対する反抗であるかぎり、革命思想は好ましいものであり健全である。だが労働者の条件そのものに本質的な不幸に対する反抗であるかぎり、虚偽なのである。なぜなら、いかなる革命もこの不幸を根絶しないであろうからだ。けれどもこの虚偽は最大の力をもつ。そのような本質的な不幸こそ、不正そのものより生き生きと深く、悲痛に感じられるものだからである。(…)マルクスが宗教に与えた民衆の阿片という言葉は、宗教がみずから裏切っていたあいだは適当なものだったかもしれない。けれども本質的には革命にこそふさわしいものだ。革命の希望はつねに麻薬なのだ。 — シモーヌ・ヴェーユ「奴隷的でない労働の第一条件」[217]
またヴェイユは、革命について人びとがいつも変わらずいだき続けている錯覚として、力の被害者たちは、暴力については潔白なのだから、彼らが力を掌中にすればそれを正しく行使するだろうという思いこみがあるが、やがて被害者たちは、力によって穢され、権勢の座にのぼりつめ、変転に酔い痴れて、悪を行うとして、次のように述べる[218]。
民衆のアヘンは、宗教ではなくて、革命である。 — シモーヌ・ヴェーユ「重力と恩寵」[218]
作家イーヴリン・ウォーは1944年に「人民のオピエート(麻薬)としてのマルクス主義」と題した書評を発表した[219]。
20世紀なかば
作家エドマンド・ウィルソンは1946年の小説『ヘカテー地方の記録』で「マルクス主義は知識人の阿片である」と述べた[220]。
1948年、上智大学教授だったヨゼフ・ロゲンドルフはマルクス主義について「その見せかけの厳密な論理性の背後には、経済史の恐しい展開につれて一歩一歩近づいてくる最後の審判の黙示的な幻影の火が燃えている。実際、今世紀に於ける全体主義哲学はすべて、キリスト教会を追放した結果近代社会に出来た大穴を埋めるべく、反教会の旗印も鮮かに乗りこんできた異教なのである。宗教のみがそそり立てることのできる忠誠と献身と雄々しさの感情は悉く彼等の手中に帰した。彼等もまた、キリスト教と同じように殉教者も、祭式も行列も、そしてドストエフスキーがすでに予言しているように、大審問官の宗教裁判まで、取りそろえている」と書いた[221][209]。
猪木正道は『共産主義の系譜』(1949年)において「マルクスは教祖とし、資本論を聖典とする一大教会の形態をとり、法王、枢機官、僧正、司祭といった大小の聖職者を生み出し、僧侶の差別さえあらわれる。マルクス主義が負のキリスト教(Negative Christianity)と呼ばれるのはこのためである」とのべている[222][209]。
哲学者カール・ヤスパースは、マルクスのスタイルは研究者のものではなく、自分の理論に対立する実例や事実を考慮することもなく、自分が真理だと考えたものを強化する事実のみをとりあげ、信仰者がその信念にもとづいて主張するような方法で立証すると指摘する[223][224]。
ケインズサーカスのジョーン・ロビンソンは、1950年および1957年の論文などで、マルクス主義が宗教になってしまったと批判する[225]
レイモン・アロンは『知識人のアヘン』(1955)において、世界を救済するというマルクス主義(「救世的マルキシズム」)は、自己を無神論であると主張するが、信仰にそまっており、「彼ら(マルクス主義者)は、歴史の謎をとき、人類をアダムとイヴの堕落という思想から自己満足への道へと転回させるべく、全宇宙の力と社会全体とを支配しようともくろんでいる」[226]と述べたうえで、共産主義は、教会の権威の衰退に乗じて、政治経済学から発展してきたもので、他の時代なら純粋な宗教的信仰の形で表れた情熱が、政治的行動にそのはけ口を求めたものであるとする[227]。
アロンによれば、共産主義に精神的実質を与えているのはその「予言主義」である[228]。マルクスの予言は、ユダヤ・キリスト教の予言の典型的な型を模したもので、現在の状況を非とし、世界はいかにあるべきかの見取図を提示し、無価値な現在から輝かしい未来への道を切り開く使命を担うべき個人やグループを選別する[227]。「政治的革命なくして社会の進歩をもたらす階級なき社会は、理想的な千年説の夢に比べうるものである。プロレタリアが悲惨な境遇に置かれていることこそ、その使命を証明するものであり、党は教会となる。この教会は、福音に耳を貸そうとしないブルジョワすなわち異教徒や、みずからは長いこと前触れしていたのに革命を認めようとしない社会主義者すなわちユダヤ人と対立する。」[227]。
アロンによれば、党(共産党)は「救済のお告げを委任され、それを守る使命を帯びた教会に等しい存在」であり、「教会の門をくぐるものは、誰でも直ちに洗礼を受ける」が、信仰を拒否して教会に従わない労働者は、「選ばれた階級」から締め出される[229]。マルクス主義の教会は、「下部構造と上部構造」、特殊な意味、客観性の拒否、歴史の修正などに関して、強固な教義(ドグマ)としての煩瑣なスコラ哲学を作り上げ、「共産主義の理論体系に欠陥が見出されないようにするためにも、プロレタリアの党に対する委任は、全面的・無条件的でなければならない。」[230]。これに対して社会民主主義は、マルクス主義のスコラ哲学を非難するが、現実を無理に予言に一致させたり、概念の枠に閉じ込めようとしないために、信念や明快な未来を失うことになる[230]。共産主義は、些細な事柄でも、歴史の流れ全体に結びつけ、「知らぬことは何一つなく、間違うことすら決してない。なぜなら弁証法の技術が、ソビエトの現実のいかなる局面をも、自在に曲げられる教義と合致できるようにしてくれるからである」とアロンはいう[230]。アロンによれば、マルクス主義では、「プロレタリアと歴史への信仰、今日は苦難の道を歩んでいるが明日は世界を相続する人たちへの愛、未来は階級なき社会を出現させるという希望」といった「神学的な美徳」が支配的な位置を占め、これらの希望は自然発生的な力ではなく暴力によって達成され、さらに「苦悩する人々に対する愛は硬化し、弁証法によって否定される階級、国家、個人に対する冷酷さとなる。共産主義の信仰はどんな手段をも正当化し、共産主義の希望は神の王国に至る道が多種多様であるという事実を絶対認めず、共産主義の愛は共産主義の敵が名誉ある死に方をする権利さえ認めない。」とアロンは指摘する[230]。
マルクスは「宗教は民衆の阿片である」と述べたが、アロンは、共産主義は知識人の宗教であり、「探求の自由、論争の自由、批判の自由、多数による決定を犠牲にする」もので[231]、「キリスト教の阿片は人々を消極的にさせるが、共産主義の阿片は暴動へ駆り立てる」と述べた[232]。
歴史学者スチュアート・ヒューズは、マルクスは自分を唯物論者だと見なしていたが、その言葉使いには宗教的心像があり、マルクスには科学者の面と予言者の面があったと指摘したうえで、マルクスは社会科学者としては公正でもあったが、予言者としては憤怒の人であり、敵に侮辱嘲笑を浴びせ、自己の主張の正しさに対するゆるぎない確信によって異質な哲学を総合させる一方で、外見上論理を追って多くの断定を並べ、その必然的連関については自分の道徳的確信以外にはほとんど根拠をあげなかったと批判した[7]。マルクスのあらゆる階級の終焉という黙示録的な観念にしても、19世紀の歴史思想に背く根本的に非歴史的な観念であったし、社会主義の勝利が労働者階級の優位を保証すると確信できないことについては、ソ連の経験で証明されたとヒューズは1958年の著書で総括した[7]。
1966年に清水幾太郎はマルクス主義などの19世紀の「大思想の分解を正面から認め,それに堪えて行かなければならない」と指摘した[233]。当時のアカデミズムはマルクス主義に制圧された時代であったため、清水は転向者とみなされた[211]。
哲学者の梅本克己は1967年に、マルクスは資本主義の崩壊を予測したが、20世紀に資本主義は発展する一方、革命によって成立した共産主義が前近代的独裁国家となっていることを背景に、厳密な意味でマルクスの予測は外れたので、崩壊しているのはマルクス主義の方だと指摘した[234]。こうした梅本の指摘は「神の死」に匹敵する「マルクスの死」とされた[211]。
20世紀後半から現在まで
社会学者のピエール・ブルデューは1987年に、マルクス主義者であるか否かは、宗教的な二者択一にすぎず、信者であるか、信仰告白するかを問うのは宗教であって、非科学的な態度であると批判した[236]。サルトルが「マルクス主義は乗り越え不可能な哲学だ」と述べたことに対して、ブルデューは、「マルクスに反対しつつ、マルクスと共に考えることができる」し、科学は乗り越えられるものであり、マルクスを乗り越えるためにマルクスを利用することがマルクスへの称賛となると批判した[236]。ブルデューによれば、マルクス主義哲学者は、哲学的貴族主義に毒されており、戦い(階級闘争)のなかで生み出された悪口や罵倒を、歴史から引き剥がして、本来の使用法とは無関係に論じ、永久化し、超歴史的な哲学的概念として扱っており、歴史を考えるための概念への歴史的考証や用語についての反省的検証を行っていない[注 16][237]。
国際関係学者の中村平八は1988年に、スターリン体制はあたかも宗教であったと批判した[238]。中村によれば、スターリンは権力を集中させ、決定権は行政府が専有し、スターリンに忠誠を誓う官僚が万般にわたる許認可権をにぎり、勤労民衆は抑圧された[238]。マルクスは国家は死滅すると述べたが、スターリンのソ連は、歴史上前例のない強力な集権国家として肥大していった[238]。反対派の社会主義論はすべて抹殺され、スターリンの社会主義論のみが唯一絶対の官許の教義として共産党の神殿に祭られ、社会科学者は神官になった[238]。このような「スターリン教」の教典は、 『レーニン主義の基礎につ いて』(1924)『レーニソ主義の諸問題によせて』 (1926)『弁証法的唯物論と史的唯物論について』 (1938)『 ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(1952)などであった[238]。ロシア革命のソ連の歴史は、スターリン監修の『ソ連共産党小史』(1938年)の枠内のみでなされた[238]。中村は、スターリンは、ロシアの従属的後進資本主義をつくりかえ、一気に社会主義を実現しようとしたが、ソ連で実現したのは途上国型の社会主義であり、マルクス的な 社会主義国ではなかったと指摘した[238]。
ズビグネフ・ブレジンスキーは「共産主義が20世紀の歴史にこれほど大きな位置を占めてきたのは教義の極度の単純化が時代に合っていたからだといえよう。あらゆる悪の根源が私有財産制度にあるとした共産主義は、財産を共有することで真に公正な社会が、したがって人間性の完成が達成できると仮定した。」「インテリにとって贖罪のための革命を推進する政治活動や合理的な計画によって公正な社会を実現しようとする国家統制は魅力的であった」とし、マルクス主義を宗教思想としみなし、「共産主義は理性の力を信じ,完全な社会を建設しようとした。高いモラルによって動かされる社会を作るために,人間へのもっとも大きな愛と,抑圧への怒りを結集したのである。それによって最高の頭脳,最良の理想主義的精神を持った人々の心をとらえた。にもかかわらず,共産主義は,今世紀はもちろん他の世紀にも類を見ないほどの害悪を生んだ」と批判した[162][211]。
歴史学者林健太郎は、マルクスは自らを科学的と称し、サンシモン、フーリエ、オーエンらを空想的であると批判したが、マルクスが他の社会主義者と異なる点は、マルクスが科学的であったからではなく、マルクスが持つ宗教的なカリスマ性(超自然的・超人間的な能力[239])にあったと指摘する[240]。マルクスの根本には、労働力を商品として売る以外に生きる道のない労働者は自己自身から疎外された存在であり、それゆえ資本主義を破砕し、一切の階級対立をなくすという固い信念があったが、これはキリスト教終末論、千年王国による救済説の継承であり、また、ユダヤ的、旧約聖書的メシアニズムの発現であったと林はいう[240]。マルクスは共産主義者同盟、1848年革命、第一インターナショナルなどの実践でも失敗し、またその信念の科学的証明も失敗したが、そのカリスマ性によって死後の労働運動、解放運動の教祖として仰ぎみられるようになり、「資本論」は権威とみなされた[240]。レーニンは、マルクスの教えを生かしたという意味で、最も忠実な弟子だった。マルクスはこうして、その思想の科学性でなく、宗教性において大きな影響を及ぼした[240]。マルクスの救済説は世俗化され、超越的な神への信仰を欠いたもので、人間能力の万全を信じるイデオロギーとしての擬似宗教となった[240]。共産主義国家では、「プロレタリアート」を体現すると称する政党、集団、個人が、すべてを命令し、人びとがそれに服従することがすなわち解放となるという背理を生み出し、自由が弾圧され、さらに計画経済では、国民のあらゆる動きを把握でき、万人の欲望を充足し、幸福を実現すると約束された[240]。林は、こうした体制が破綻したのは、現実の人間を誤認した独断性の結果であり、マルクスの誤りは、神なき救済を説いて、人間を神の位置におくその倨傲性にあったとし、共産主義の敗北とは、マルクスの敗北であったと結論した[241]。
経済学者小畑二郎は、マルクス思想の意義を評価するには、マルクスを無批判的かつ文字どおりに擁護することでなく、また都合のよい文脈だけを取り出して現代的解釈を加えることでもなく、徹底的な批判を加えることが必要だとし、また、社会主義運動の困難の原因を探ぐる原典としても読まれねばならないと指摘する[242]。
マルクスは、資本が蓄積されるにつれて労働者の状態は悪化せざるをえず、生産のための手段はすべて、生産者を支配し搾取するための手段となり労働者を不具にする(窮乏化、疎外)[243]。資本の集中が進むと、資本家の数は減る一方で、貧困と搾取は増大してゆくが、労働者階級の反抗も増大していく。「資本独占は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの 生産様式の梗桔となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮と調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(資本主義崩壊理論)[244][245]。
このマルクスの予言は、これまでのマルクス経済学において、非科学的として理論から除外されるか、あるいは歴史法則としてそのまま信じられてきた[245]。小畑は、そのような文字通り歴史法則として信じ込むような読み方では、「多くの人々が物質的欲望を至上のものとして、それに強い不満をもっていて、その限りない不満のはけ口を体制打倒運動に求めることが想定されており、また人々は歴史の必然性を認識し、生産力なる歴史の原動力につき従うたんなる手段(自動機械)となって、何かあるより大きな権威に対して隷属することを強制され(…略…) 一種の終末論的な歴史観を育て、人間の意志とは独立の物質的運動法則として、または歴史的必然性として社会主義社会への移行を無条件に人々に信じこませた結果、かえって革命後の社会主義建設における無為無策や既成体制に対する極端なシニシズムや破壊主義を育ててきてしまった」として、マルクスの主張を歴史法則として信じ込む読み方こそが、社会主義の挫折を生んだ元凶であると厳しく批判する[245]。小畑は、マルクスによる貧困の強調は、貧困に象徴される社会的関係および分配体制への批判として、すなわち、分配上の公正という倫理的批判として読まれるべきであり、また、歴史を人間の意思とは無関係な物理的運動の過程としてとらえるのは、市場の調整能力を無条件に信仰するのと同じく、マルクスが批判した物神崇拝にほかならないと批判する[245]。小畑によれば、マルクス主義は、社会主義建設への具体的方針の練り上げや、その理論的究明を怠ってきたとし、「一体いかなる責任をもって、綿密かつ考え抜かれた展望なしに人々 を社会変革への大事業へとこれまで誘うことができてきたのであろうか。分配上の公正や疎外とその克服に対する強い倫理的請求は、将来社会に対する精密な歴史的見通しと結合されて初めて人々に対して訴える力をもつことができるのである」と批判する[245]。
経済学者・政治哲学者マレー・ロスバードは、マルクスの哲学用語は曖昧で漠然としたものであり、マルクスの弁証法は根拠のない断言・決定論であり、マルクスの哲学体系は見せかけの誤謬の塊りであるとして批判する[169]。マルクスは前千年王国説のハルマゲドン (世界最終戦争)の予言のように、「歴史の法則」を「科学的に」発見したと主張するが、たとえば、労働者はますます貧困に苦しむとマルクスは予言したが、西側諸国の労働者の生活水準はおしなべて上昇した[169]。マルクス主義者は、貧困とは資本家階級との関係において存在すると反論したが、しかし、資本家が12隻のヨットを所有しているのに対し、労働者が1隻しか所有していないからといって、大量の殺人をともなう血なまぐさい革命を行う必要があるのか[169]。マルクス主義者は、人々の人生を決定論として技術的に説明しているだけで、もはや無効となった古びた主張を頑迷に保持するが、これは科学的または合理的な態度ではなく、神秘主義または宗教家の態度であるとロスバードは批判する[169]。
経済学者鈴木重靖によれば、マルクス主義では、自由に起業したり、自由な雇用関係、自由な売買、つまり資本主義社会で人々が通常考えているような「資本主義思想」に対して極めて排他的であり、マルクス主義には宗教に似た強い排他性 (排外主義)がある[70]。鈴木は、マルクス主義は政治権力を握らなければ実現しない思想であり、排外主義が国家権力と結びつくとき、全体主義や独裁政治と結びつくと論じた[70]。
政治学者加藤哲郎は、科学的社会主義を自称したマルクス主義においては、その体系が科学であるとして継承されたために、マルクスらの全言説が「絶対的真理」とされ、教条主義的信仰を生み出したと指摘している[246]。
決定論としての批判
社会思想家ジョルジュ・ソレルはドレフュス事件でドレフュス擁護派であったが、ドレフュス擁護派の勝利が派閥的な立身出世に利用され、社会主義と中産階級の民主主義者の統一に幻滅し、議会主義的民主制の批判と暴力の擁護に取り組んだ[7]。ソレルによれば、社会主義者は科学を「問題を注ぎ込んだら解決が出てくる粉ひき機械」のように考えているが、科学はもっと控えめな機能しか持っていない[7]。マルクスは階級闘争として葛藤を示したことは正しかったが、歴史運動の複雑さを考えようとしてしばしば正確を欠き、マルクスの後継者にいたっては、「歴史の必然性」とか「宿命」などと粗末に乱用し、問題を混乱させた[7]。ソレルは、社会科学に決定論を持ち込んではならず、抽象的言説としてのマルクス主義は、問題の半分も提示しえないとし、マルクス主義を宗教と同様の象徴的形式で表現された思想とみなした[7]。
歴史決定論
哲学者のカール・ポパーは、ヘーゲルやマルクスなどの「歴史法則主義」は、歴史には一元的な「計画(plot)」があるとし、旧来の歴史神学の伝統を引き継いだものであるとする[247][248]。ヘーゲルの絶対精神や、マルクスの生産力と生産関係などの全体論的かつ一元的な社会概念は、歴史神学における神または絶対者を置き換えたものであり、さらに、「歴史の法則」、「歴史の計画」といった概念が歴史を決定する万能者にされたとポパーはいう[248]。マルクスにおいて歴史の進歩に抵抗する者は、神に対する罪人のような犯罪者となり、神に代わって歴史が裁判官になる[248]。ポパーは、このように歴史に単一の計画があり、歴史に必然性があるとする歴史決定論(Historicism)を退ける[248]。
フランスの哲学者メルロ・ポンティによれば、自由主義政治が、政治体制の根源に内包される暴力を直視できず、暴力を非難するだけで、具体的に暴力を乗り越えることのできない抽象的で形式的なものであるのに対して、マキャヴェリの継承者であるマルクス主義は、人間の歴史的実践によって根源的暴力を乗り越えようとした[249]。しかし、歴史とは、人間の状況への内属と乗り越えの永続的過程であり、あらかじめ与えられた理性の実現に向かう必然的過程ではなく、したがって、「革命」も必然でも約束されたものでもありえず、マルクス主義は、歴史の全体的意味を読解し、歴史の論理を把握していると主張する歴史的独断論に陥っている[249]。メルロ=ポンティは、現実のマルクス主義政治において、中央集権と独裁、そして強制収容所や秘密警察、官僚制度による新しい支配と搾取などが出現したことを目のあたりにして、マルクス主義哲学の根本的再検討を行った[249]。メルロ=ポンティは『弁証法の冒険』(1955年)において[250]、歴史の真理がプロレタリアートのなかに即自的に存在するわけではなく、歴史的展望は誤謬と錯覚の可能性に開かれており、歴史の意味は、新たな出来事に直面するたびに現在と過去を捉え直すことによってやり直されなければならない未完結なものとする[249]。レーニン主義は、弁証法を外的実在に据えつけ、認識主体を歴史的状況から切断することによって絶対的存在への無時間的非歴史的に接近しようとする独断論であり、レーニン主義において「党」は、「弁証法」を正しく認識しているがゆえに誤謬も錯覚もありえない絶対的主体とされ、こうしてマルクス主義歴史哲学は、党とソヴィエト体制を絶対化し、外部からの異議申し立てを一切受けつけない絶対政治機構を正当化する独断論へと転落したとメルロ・ポンティは批判した[249]。メルロ・ポンティは、サルトルが、自己と歴史を無から創造しうるかのようにマルクス主義的な歴史の意味を絶対化したことに対しても、「ウルトラ・ボルシェヴィズム」と批判した[249]。
フランスのマルクス主義者シャルル・ベテルハイムも、マルクス主義における決定論的な見方に対して、「歴史にはその目的は書き込まれていない」として、歴史は未決定であり、社会改良のチャンスは可能性であって、必然性ではないと批判した[251]。
政治学者の藤原保信は、ヘーゲルの「逆立ち」した弁証法をただすという[252]マルクスによる唯物弁証法を批判する[253]。マルクスによれば、理念は、人間の脳に転移された物質的なものであるにも関わらず、ヘーゲルでは、理念の名のもとの思考が、現実の造物主とされ、現実は思考の外的現象にすぎない[253]。しかし、藤原は、このようなマルクスの理解は一面的であり、ヘーゲルの意図ではないと批判する[253]。ヘーゲルは、存在の論理が思惟の論理となるような絶対知を把握しようとしたが、マルクスにおいても物質的なものの自己運動が、思惟を介して把握されるのであり、両者の距離はマルクスが考える以上に近いと藤原は指摘する[注 17][253]。藤原は、マルクスのように、存在が思惟によって把握され、存在が思惟と一つとなり、歴史の運動法則が把握されるという必然論的な法則観は、他者とのコミュニケーションによる相互批判と相互克服の道を閉ざす危険が内包しており、マルクス主義は、近代の人間中心的な主体性の形而上学を抜けきっていないと批判した[253]。
構造的決定論
社会主義者エドワード・P・トムスンは、アルチュセールらの構造主義的マルクス主義に対して、人間を生産様式のたんなる支柱とみなす構造的決定論では、人間行為者の説明は不完全であり、人間は底なしに愚劣だという秘めた前提から出発していると批判した[254]。トムソンによれば、社会生活あるいは人間の歴史は、統御不能な実践として理解されるべきで、人間は目的と知識能力をもって行動するが、ふるまいの結果を予見することも制御することもできない[254]。ギデンズは、トムソンの説明でも、行為者性について明らかにしているわけではないという[254]。
発展論的決定論
マルクスとエンゲルスの経済発展段階説では、歴史のなかに一方通行の進化をみて、原始共産制→封建制→資本主義→社会主義、共産主義へ進化していくと主張された[255]。
経済学者ポール・サミュエルソンは、現実の歴史はマルクスとエンゲルスの考えたような発展段階論という物語とは一致しないし、歴史上の一段階が不可避的に特定の次の段階によって受け継がれるということが科学的に証明できるという説を信用することはできないと批判する[255]。中世以前でも非贅沢品の国際市場が存在し、古代バビロニアには複利が存在したし[256]、また1970年代でも重商主義の誤りを犯す国もある[255]。また、マルクスとエンゲルスは、ドイツとフランスでプロレタリア革命が起きると予言したが、実現しなかった。実質賃金も『資本論』が書かれた1867年以降、工業化された資本主義のもとで際立って上昇し、利潤率さえもマルクスの予言したような低下傾向の法則に従わず、はっきりとした趨勢もないまま上下の振動を続けた[255]。20世紀初頭には先進国において独占の芽生えが見られたものの、もっとも資本主義的なアメリカにおいてさえ、反トラスト法が作られ、カルテル、トラスト、コンツェルンなど大企業連合による独占活動は規制され、1930年代の世界恐慌後には、混合経済制度がレッセフェール (自由放任)に取って代わり、景気循環を緩和し、慢性的不況克服のために財政政策や金融政策が導入された[255]。20世紀の混合経済下における経済成長は、政府による計画やマクロ経済統制で補強された市場経済が、過去の資本主義的な時代、共産主義的な時代と比べて、すぐれた成果をおさめうることを示したとサミュエルソンは指摘する[255]。
社会学者アンソニー・ギデンズによれば、マルクス主義は、ある類型の社会の社会変動の進行方向を一つとする発展論的決定論 (developmental deternism)に陥っている[257]。たとえば、金融街のシティ・オブ・ロンドンは、産業資本の必要性に対して、時代遅れの商業的役割ともつものとして捨てられねばならないとされる[257]。これはマルクス主義では、産業資本主義は一般的な発展様式をもち、この様式がない社会は遅れているとみなされるためである[257]。このようなマルクスやヒルファディングの内生的モデル (endogenous model) では、産業的に最も発展した社会が模範とされ、19世紀のイギリスを社会の未来像とみなし、他国の発展を予兆していると考えられ、産業資本主義の発展によって、商業資本や銀行資本は中心的地位を失うと予言した[257]。 しかし、ギデンズは、経済発展の典型的プロセスを評価するためには、異なった社会の直接的比較だけに頼るべきであり、一つの社会が発展の模範になると想定すべきではないし、マルクスの理論では、シティが長期にわたって維持されてきたことを説明できない、と批判する[257]。
ギデンズは、G.K.インガムの研究を発展論的決定論に陥っていない例であるとする[258][257]。インガムによれば、シティは金融の拠点とみなされるが、シティの主要な関心は、あらゆる形態での仲買、つまり、資本の生産的使用に直接携わるものを仲介するサービス提供から生まれる利潤に向けられており、イギリスは、世界最初の産業国としてではなく、世界の商業取引の中心地として栄えた[257]。シティは、早くから世界通貨の中心地となり、取引の決済をする国際的な手形交換所となったが、これは金ー英貨本位制の導入などの政治的決定や政治状況によって支えられたためであり、イギリスの産業的覇権とは区別されねばならない[257]。
シティが繁栄したきっかけは、19世紀初頭、ナポレオン戦争によって悪化したイギリス国債に対して実施された財政改革のためであった[257]。これにより、シティへの一極集中が加速し、権力基盤であった農業経済の衰退に直面していた貴族階級も生きながらえ[注 18]、イングランド銀行も世界通貨として英国貨幣を安定させることを志向した[257]。シティは、他の理由からはじめられた財政措置の意図せざる結果として繁栄し、次第に国際取引の仲買の地位を得たが、その特殊性から、他の場所で同様の現象が繰り返されることはなかった[257]。20世紀にはシティは他国との激しい競争に巻き込まれていったが、イギリス政府、銀行、商人たちは、世界的な通貨仲買人としての地位と権力の維持を目的として政策を推し進め、こうして、シティの経済的権力は、政治的要因のおかげで維持できた[257]。
ギデンズによれば、マルクス主義のように国家を一元的な現象と捉えるようでは、シティの分析はできない[257]。たとえば1930年代の金本位制に関する政策が、シティの命運を決定したのであり、このことを理解するには、戦略的に配置された集団の連携の推移や意図しなかった結果、経済行為者の知識が状況の一部となること[注 19]などを含めて考察しなければならないと批判する[257]。
科学主義と弁証法
科学主義
マルクス、エンゲルスによる科学主義を継承したスターリンは「社会科学は、社会現象の複雑さにもかかわらず、生物学のように、社会の発展の法則を実用的に利用できる精密な科学となりうる。それゆえ、プロレタリアートの党は、その実践的活動において、気まぐれな動機によってではなく、社会の発展の法則によって、自らを導くべきである。それゆえ、社会主義は、人類のよりよい未来の夢から科学に転換される。」と発言した[64]。
哲学者のカール・ポパーは『歴史主義の貧困』(1945/57)で、マルクス主義は科学を自称しているが反証可能性がないため科学ではない、と批判した[259]。共産主義社会の到来を予言したが、時期を明確にしていないので、永遠に「いつか共産主義社会が到来する」と言い続けていたらその予言は外れることはない。これは歴史上言い続けられてきた「いつか最後の審判が訪れる」「千年王国は近づいた」といった宗教的予言と同種の構造であり、科学として正誤を確認しようがない。
ハイエクは『科学による反革命』(1952)で、社会科学が自然科学の方法を模倣することを「科学主義」と呼び、マルクスの「科学的社会主義」は社会科学が誤って自然科学の模倣をし、科学的に偽装した典型的な例であるとして批判した[260][248][注 20]。ハイエクによれば、社会科学が安易に自然科学を模倣した場合、社会は機械論的に理解され、人間の自由な主体的決定の意義は軽視され、人々の自由な行動を抑圧する全体主義的な社会組織の建設にもつながっていく[248]。自然科学は、人間の意志や思考とは無関係に運動する物理現象や、物質同士の関係に関する客観的法則などの客観的研究を課題とする。これに対して、社会科学では、人間の意志や思考、人間行為の相互関係への理解を不可欠とするもので、人々の行為の意図しない結果に関する分析を無視できないし、また計画や設計ではなく、人々の相互作用によって自発的に形成される「自生的秩序」について理解することが必要である[248]。
政治哲学者H.B.アクトンは、マルクス主義が、ブルジョワ科学者の動機を階級利害に基づくとみなし、そのイデオロギーを暴露すると意気込むことに対して、科学的理論の真偽は、科学的議論によって決まるのであって、提唱者の動機によってではないと批判する[262]。アクトンによれば、論者の社会的・心理的な背景も、議論自体とは全く無関係であり、論争者は、相手が使用した議論が支持できないことが議論によって示されていない限り、相手の動機に言及しても無意味であるし、相手が攻撃的な動機をもっているからといって議論を拒否した場合、この拒否は政治的行為であり、科学的または哲学的な行為とはいえないのである[262]。
哲学者レイモン・アロンは、マルクス主義は、「プロレタリア集団をそそのかした主知主義の科学」であり、プロレタリアに内在した哲学などではなく、「共産主義者が自分の目的達成のための力として利用しているにせ科学にすぎない」と述べる[263]。共産主義の宣伝に刺激された労働者は、資本主義が貧困や不幸の源泉だという、にわか仕込みの単純な判断に傾きがちであるが、革命だけが労働者の解放をもたらすという主張は、プロレタリアの心の底をあらわしてはいない、労働者たちは自分たちが人類の救済のために選ばれているなどとは信じていないし、むしろ彼らはブルジョワの境遇にあこがれているとアロンは述べる[263]。また、アロンによれば、個人の尊重と研究・批判の自由は、西欧が長い間かかって手に入れた「西欧が西欧であるゆえんの価値」である[264]。共産主義はこれを尊重する振りをしながら、擬似的な合理主義において新しい教義をひろめる[264]。共産主義はブルジョワ自由主義の後退であり、ペテンであるとアロンは批判する[264]。
ジョンソンによれば、マルクスは「科学的社会主義」を標榜するものの、全般に科学的というよりも、詩人、ジャーナリスト、モラリストの側面が強く、肝心の点では反科学的であった[202]。
科学的社会主義の空想性
マルクス、エンゲルスらは自らを科学的社会主義と呼んで、フーリエ、サン=シモン、オーエンなどを「ユートピア的社会主義」と呼んだ。ユートピア社会主義では、計画は社会主義者の変革を導き、未来の社会は設計される必要があるとされる。これに対してマルクスは、共産主義は歴史的プロセスを通じて生じるものであり、あらかじめ定められた計画の実現ではないと主張する[34]。
しかし、マルクスのユートピア社会主義批判の多くは、根拠が弱く、根本的批判にはなっていない[34]。『共産党宣言』ではユートピア的社会主義は社会変化を非歴史的に見ており、社会主義が特定の歴史的段階でのみ現れる条件に左右されることを理解していないと批判されるが、しかし、哲学者ジョナサン・ウルフとD.レオポルドは、ユートピア的社会主義においても計画に向けての実行する意思や戦略的な条件が認識されている場合はあるし、また「非歴史的見解」があるとしてもユートピア的社会主義を放棄する理由にはならないと指摘する[34]。
マルクスは、ユートピア的な計画は、必然的に個人の自己決定を制限するので非民主的であり、また、不可能な冗語であると批判する[34]。しかし、個人の自己決定の条件についての説得力ある説明は難しい問題であり、マルクスの批判は安易なもので、またマルクスもまた未来の共産主義社会の計画については説得力ある説明を行なっていないと政治学者デイヴィッド・レオポルドは指摘する[265][34]。
哲学者ジョナサン・ウルフとD.レオポルドによれば、マルクスは社会主義の設計図は正確でなければならず、そのためには、未来社会の状況の予測が必要だが、そうした予測は不可能であるとユートピア的な計画を批判する。しかし、完全に正確な計画が不可能であるとしても、完全に正確な計画だけが有用であるという主張には疑問がある。また、マルクスは、歴史的条件が十分に発達していなかったために、初期の社会主義は、社会主義への移行について誤った説明をしており、社会問題の解決策は、歴史的プロセスの展開から自動的に生まれるので、ユートピア的な計画は不要であり余分であると結論付けた[34]。しかし、マルクスは、その設計の代わりに何が置き換わるのかを明らかにしていないし、また、歴史的条件の未発達にもとづく批判は次の世代の社会主義者へは無効であり、さらにマルクス以後の資本主義の歴史において社会主義的な社会の基本構造が自動的に発展していることは確認できないとウルフとレオポルドは批判する[34]。
マルクスとエンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』(1846)で、共産主義社会では、誰も独占的活動領域を持たず、各人が望むどの部門でも熟達することができる。社会は一般的生産を規制しているので、朝は狩りをし、昼は釣りをし、夜は牛を飼い、夕食後は批判し、心のままに、狩人にも漁師にも羊飼いにも、評論家にもならずにいられるとされ、 ここでは、誰も一つの仕事に縛られることがない分業の終焉が主張された[266]。マルクスは『ゴータ綱領批判』(1875年)の中で、将来の共産主義社会の第二段階について、「分業に対する個人の隷属的服従」が消え、知的労働と肉体的労働の対立もなくなると言った[266]。共産主義の理想は、計画されていないことは何も起こらないし、誰もが自分の望むような人生を送ることができる[266]。しかし、アクトンは、こうした理想が実現される可能性は考えられない。なぜなら、計画を実行しようとすれば、一部の人々が反対していることが行われることになるし、誰かが反対していることが何も行われなければ、計画は実行されないからであると指摘する[266]。アクトンによれば、社会が完全に人間のコントロール下にあると仮定することは、誰も間違いを犯さないと仮定することになり、マルクス主義は、人間を不本意な社会的力から解放することを切望するあまり、無謬で不可避な社会計画に人間を従わせることを提案しているが、その具体的な組織と運営については、説明していない[266]。マルクス主義理論では、「国家」という言葉は曖昧であり、それは法律、警察、裁判官などを通じて統治される社会も、行政機関も意味するのであり、この曖昧さのために、何の困難にもぶつからない[267]。アクトンは、「マルクス主義とは、教義の権威としての共産党が最高権力を獲得しようとしていくためのユートピア主義である。科学的方法論も、共産党がその権力を広めることを目指すためのものであり、マルクス主義の目標は、法のない行政、完全な計画、支配のない統治、所有や労働のない高い生産性であるが、これは背後に猛獣がいるという条件で放置されながら、抑圧がないとされるような社会である。」と批判した[267]。
弁証法の論理
マルクス理論は、ヘーゲルの影響で弁証法という論法で「矛盾を通じての発展」などを論じて特異な性格を持つ[268]。たとえば、商品を、価値と使用価値という矛盾的統一とみなし、その結果、貨幣の必然性を示す[注 21]。しかし、三土修平は、このような弁証法は、マルクスの体系に硬直性を与えており、実証研究を組み込むことを困難にし、また、マルクス経済学における唯一の正しい概念規定をもたらした[268]。たとえば、産業資本主義の分析において、「資本」概念は、必ず労働力を購入する可変資本を含み、不変資本だけを資本とする解釈は間違いとされる[268]。しかし、このような思考法は、定義を約束ごととみなす通常の実証科学の方法とは異なっており、他の経済学学派との対話を著しく困難にしていると三土は批判する[268]。
マルクス主義道徳論への批判
ブルジョア道徳批判
エンゲルスは『反デューリング論』で、道徳には「永遠の真理」はなく、人間の生活条件の変化に応じて道徳規範も変化しなければならないと主張し、プロレタリア革命が実現すれば、"キリスト教的封建的道徳"、"近代ブルジョア道徳"にかわって、"未来のプロレタリア道徳 "が出現するとした[269]。マルクス主義は、資本主義と階級が廃止された新しい社会では、すべての人が一つの社会に属することになり、人々は一つの道徳に受け入れらていくのであり、このような共産主義道徳は、過去の階級社会の道徳に対して進歩したものとなると主張する。しかし、ここでは、道徳が単なるイデオロギーであるということと、道徳が改善される可能性があるということを矛盾した形で主張しているとアクトンはいう[262]。
一方で、マルクスは『聖家族』で、ウージェーヌ・シューの小説『パリの秘密』を批判して、「(小説に出てくる)ロドルフ王子による救出と治癒を行う魔法の手段は、彼のお金である。この英雄の真似をするには、億万長者でなければならない。道徳は行動において無力である。悪徳を攻撃するときはいつでも、道徳は最悪になる。」という[270]。マルクスは、ロドルフの活動は、表向きの目的は悪を正すことであるが、実際には、自己満足の手段であり、彼の悪への憎悪は、個人的憎悪の偽善的な隠れ蓑であるという[270]。
アクトンによれば、ここでマルクスは、道徳を攻撃しているのか、それとも、マルクスが偽りの道徳と見なすものを攻撃しているのか、矛盾している[270]。なぜなら、誤った道徳は、正しい道徳に照らしてのみ批判されるのであるし、一方、すべての道徳が否定されるならば、それは道徳ではない何かを支持してのことでなければならず、道徳的区別が正当であることを認めないことになるからである[270]。
マルクスは、次の四つのことを言っている。(a)犯罪者が罰、悔い改め、反省によって臆病になり、人間以下になることはよくない、(b)罰を主張し、反省を促す人々は、偽善的に復讐心からそうする、(c)罰、悔い改め、反省によっては、決して犯罪の根を破壊できない、 (d)道徳には、犯罪を抑制する力がない[270]。マルクスによれば、刑罰が犯罪者を不自由にし、その独立性を奪い、卑屈にする限り、刑罰は善よりもむしろ害をなしている。犯罪者は異常に自立した人間か無力な犠牲者であり、どちらの場合も処罰に値しない。正しい道は、彼らを罰するのではなく、人間を犯罪に追い込く社会を変えることだからである[270]。マルクスの見解では、悪法によって抑圧された異常に活力のある人間か、悪い社会状況に支配された弱々しい人間でない限り、誰も犯罪を犯すことはなく、故意に他人の権利を侵害する可能性については想定していない[270]。マルクスにとって唯一の悪行は、不幸な者を罰しようとする偽善的な熱意である[270]。アクトンは、マルクスは法を破る人間の活力を賞賛するが、そのことと、社会の犠牲者である弱々しい犯罪者を免責することに一貫性はないと批判する[270]。たとえ社会が悪であっても、殺人のような特定の権利侵害を罰し、防止することは、当然である[270]。マルクスには、犯罪は社会的状況の結果であり、社会的状況は非人格的な推進力に従って変化し、階級のない社会では犯罪は存在しないという信念があり、したがって、刑罰とは、支配階級の利益を確保するために国家が行う手段とみなした[270]。
マルクスは、『聖家族』で資本主義道徳に対するシャルル・フーリエの批判を好意的に紹介する。フーリエによれば、資本主義には「道徳主義[注 22]」、「政治」、「経済主義」、「形而上学」という4つの「偽りで欺瞞的な科学」がある。フーリエは、道徳主義は、人間の情念を理解しようとしない怠惰な信条であると考えた[271]。マルクスが道徳とは「行動における無力さ」と言ったとき、道徳主義者が、犯罪の動機を理解しそれを社会の善に振り向ける辛抱強く科学的な道筋ではなく、禁止し抑制する怠惰な道を歩んでいるというフーリエの考えを踏まえていた[271]。フーリエにおける「道徳主義」とは、科学的理解が果たすべき役割を無視し、人間の情念を共通の利益のために利用する代わりに抑制し、抑制が失敗すると隠蔽や偽善を行う、一連の実践や態度のことであった[271]。
マルクス主義では、ブルジョアの道徳は、彼ら自身の利益を反映するものであることから、労働者階級がブルジョアジーから受けたいかなる利益も、利権に対する支持の代価、あるいは急進的な路線から引き離すことを期待してなされたものとされる[271]。したがって、ブルジョアジーが、社会の変革を促進するために持ちうる唯一の義務は、共産党に加わることとされ、ブルジョア階級のマルクス主義者は、自分の出生を恥じ、それを放棄したときにのみ、善行を行うことができるとされる[271]。こうして、非マルクス主義者によって推進されるすべての改革や道徳的行為は、偽善的な策略とみなされる[271]。道徳的努力は、社会秩序の中での義務の遂行から、それを変革する義務へと転換されるだけでなく、共産党の指示の下でなければ、道徳的努力とは認められないのである[271]。
マルクスとエンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』で、ドイツのブルジョアジーが「善意」の道徳を卑怯にも受け入れていると批判しているが、道徳的な行為者の意図と目的を卑下している点に注目すると、ここからソ連におけるブハーリンらの粛清へと論理的につながる[271]。マルクス主義者は、彼らが裏切り者とみなす人々を、人としてではなく、独立した道徳的価値を持つ存在としてではなく、カントが言う「目的」としてではなく、(共産主義社会実現のための)非人格的なプロセスにおける壊れた環として扱う[271]。人間の誠実さは、その行動によって判断される。行動によって裏切られた意図は、偽善的な言葉によって繕われる。人間の誠実さは、抑圧された者のために働くことによって示されるのであるから、抑圧者を支持する共産党のために働くことによって示される[271]。この共産党内において、その成功を危険にさらす政策を追求する人間は、最も危険な敵とされる[271]。こうして、マルクス主義倫理学では、責任ある道徳的関与を要求する状態から、機械的な、無責任な党への絶対服従だけを要求する状態に移行し、道徳的な憤りにはじまり、革命的な統治を経て、シニシズムとニヒリズムに至ることになったとアクトンはいう[271]。
共産主義と正義
マルクスは資本主義の利益は労働者の搾取から得られていると主張したが、実は、マルクスは資本主義が不当であるとも、共産主義が正義の社会であるとも明言していない[34]。実際、彼は正義を主張する人々から距離を置くためにしばしば苦労し、著作から直接的な道徳的コメントを排除しようと意識的に試みている[34]。
哲学者アレン・ウッドによれば、マルクスは資本主義を不公正な体制であるとは述べていない[272][34]。『資本論』でマルクスは、資本主義下での交換は「決して売り手を傷つけるものではない」とさえ言っている[273][34]。ウッドによれば、マルクスは、経済システムの一般理論的アプローチを進め、経済構造の内部から個々の行動(窃盗など)を不正と批判することは可能であっても、資本主義全体を批判することはできないと考えた[34]。
G.A.コーエンは、マルクスは資本主義が不正であると信じていたが、自分が不正であると信じていることを信じなかったという[34]。
哲学者ジョナサン・ウルフとD.レオポルドは、 マルクスが資本主義が不当であると明言しなかった理由として第一に、資本主義には悪い面もあるが、歴史的に見れば良い面もある、資本主義がなければ、共産主義もありえず、資本主義は超越するものであって、廃止するものではないとマルクスが考えていたこと、第二に、当時の社会主義者の多くが正義や道徳的感性に訴えたが、マルクスは道徳に訴えることは理論的後退であるとみなし、人間の解放は道徳ではなく、歴史的・社会的諸力の分析にあると主張したことがあると指摘する[34]。
マルクスは『ゴータ綱領批判』で、共産主義は、各人が自分の能力に応じて貢献し、自分の必要性に応じて受け取るべき社会であると述べており、G.パブロはこれを正義の理論としてとらえる[274]。しかし、スティーヴン・ルークスは、マルクスにとっての共産主義は正義を超越するものであったとする[275][注 23]。
マルクスらは『ドイツ・イデオロギー』で、共産主義社会では、分業のような排他的な活動領域を誰も持つことはなく、誰もが自分が望む分野での熟達が可能で、社会が生産一般を規制することで、誰もが心のおもむくままに生きていくことが可能になるとし、そこでは、道徳的制約や道徳的責務、権利と正義の諸原理への拘束といった、道徳の感覚は不必要であるとされた[276]。このようなマルクスの反道徳思想は魅力とされてきたが、しかし、これは問い直すべきであると政治哲学者ジョン・ロールズはいう[277]。ロールズは、ミルの「人間が観想にとって高貴な、美しい対象の一つになるのは、他の人間の諸権利と諸権益によって課せられた諸制約の内部で、[人間たち自身のなかにある個性的なものを]陶冶し、それを発揮させることによってである。…人間のなかでより力の強い者が他人の諸権利を侵食するのを妨げるのに必要なだけの圧力は、これなしで済ますことはできない。…他人のために厳格な正義の諸規則に従わされることは、他人にとっての善をその対象とするさまざまな感受性や能力を発達させる。」といった言葉[278]を踏まえ、正義の消滅は望ましいことではないと反論する[277]。正義に適った諸制度は、おのずと現れてくるのではなく、制度のなかで学習される正義の感覚を、市民が持つことに依存するとロールズはいう[277]。正義の感覚をもつことによって、他の人々を理解し、彼らの請求資格を承認することが可能となるのであり、他人の請求資格について心配したり意識することもなしに、マルクスのいうような心のおもむくままに行為することは、人間社会にとって欠かせない諸条件についての意識を欠いたまま生きる生活をもたらしてしまうだろうとロールズは警告する[277]。
完全な共産主義社会は、正義を超越しており、分配的正義の問題を生じさせる環境が乗り越えられているので、市民たちはこの問題に関心をもつことがないとされる[279]。しかしロールズは、公正としての正義は、デモクラシー体制の政治社会学についてのいくつかの一般的な事実(たとえば理に適った多元性の事実)を所与として、様々な正義に含まれる原理や政治的価値が公共的・政治的生活において一定の役割を果たすことを想定するし、正義が消滅することは可能でもないし、望ましいことでもないと批判する[279]。
疎外論
マルクス疎外論への批判
マルクスは資本主義社会において人間はその本質を失い、疎外状態にあるとし、革命によって人間は疎外から解除されると論じた。マルクス主義の疎外論についても各種批判がある。
社会心理学者エーリヒ・フロムは、マルクスは労働者階級が最大の疎外者であるとしたが、20世紀の大衆社会では、僧侶も、セールスマンも、官僚もが、労働者以上に疎外的となり、マルクスはこのことを予見できなかったと批判する[280][140]。
ユーゴスラビアのマルクス主義哲学者ガヨ・ペトロヴィチは、マルクス主義では社会の疎外解除は同時に個人の疎外解除を意味することになるとされるが、非疎外的な人間とは個人の自由な意識によって生れるものであり、外部から与えられるものでなく、非疎外的な個人を自動的に発生せしめるような社会の組織は不可能であり、財産を国有にしても社会的共有にしても、生産と分配において疎外の問題は必ず発生すると批判した[281][140]。
ユーゴスラビアのマルクス主義哲学者プレドラグ・ヴラニッキーも、教条的マルクス主義者は、社会主義革命によって疎外は解除されているのであるから、社会主義において疎外を説く必要はないというが、スターリン主義の社会主義諸国において疎外は少しも解除されていない、人間の解放と疎外の克服を望むならば, 自由な人間性が社会的自由の必要条件であり、社会主義の使命は疎外の克服であると論じた[140][282]
ドイツのフランクフルト学派政治学者イリング・フェッチャー は、疎外は私有財産制度が撤廃された社会では解除されるとマルクス主義は説明してきたが、現実に私有財産制度を廃止したソ連でも、強制収容所での強制労働などのより一層強い疎外状態が発生しており、疎外解除は人間の自由な意識によって行われるもので、イデオロギーの強制によっては実現できないと1967年の著書で批判した[283][140]。
経済学者正井敬次は、マルクスは経済的疎外が基本的で、その疎外が解除されるとその他の疎外も解除されるとするが、精神的疎外は経済的疎外とは別のものであり、革命が起こったとしても新しい疎外的環境が生まれるのであり、疎外が絶滅することはないとマルクス主義を批判した[140]。
時期区分(前期マルクス〜後期マルクス)
経済思想史研究者の太田仁樹によれば、1956年のスターリン批判以後、マルクス→エンゲルス→レーニン→スターリンというソヴェト・マルクス主義による定式に対して、スターリンを批判する者はマルクスからレーニンまでを救済しようとし、ロシア・マルクス主義を批判する者は、マルクスとエンゲルスを救済しようとした[183]。また、エンゲルス以後を俗流として否定したり、マルクスを初期・中期・後期と分け、自分の気に入る時期だけを救済しようとするものもいた[183]。たとえば、マルクーゼ、アンリ・ルフェーヴル、黒田寛一らはソヴェト・マルクス主義に対して初期マルクスの疎外論に依拠した[284]。
これに対してアルチュセールや廣松渉は疎外論を克服した後期マルクスに依拠した[284]。しかし、後期マルクスにも疎外論的な章句を見出すことは可能であることからアルチュセールらの切断説は説得力を持てないし、アルチュセールはさらに「兆候的読み方」として、自分の気に入る章句を摘み取るような解読をおこなったが、これは方法的錯乱であったと太田はいう[284]。
太田仁樹によれば、このようなマルクスらの思想のうち自分が共感する一側面だけを賞賛する研究態度は、マルクスらを救済するとみせかけて自己の思想を称揚するというナルシシズムに耽っているだけであり、歴史的存在としてのマルクスまたはマルクス主義の理解を妨げるものと批判する[183]。
また、近年でも斎藤幸平は『人新世の「資本論」』(2020年)で、アルチュセールにならって時期区分をし、マルクスは初期は生産力至上主義、中期はエコ社会主義、晩年にはそれまでの問題を克服して、脱成長コミュニズムとなったとして晩年のマルクスを評価した[284]。しかし、太田によれば、マルクスは後期のゴータ綱領批判においても、共産主義の第二段階への移行過程での「生産力の増大」を前提としている[284]。共産主義の第二段階を「脱成長コミュニズム」と呼ぶことは可能かもしれないが、第一段階から第二段階までの道程において「脱成長」は実現せず、むしろ生産力の増大に励むこととなるのであるが、こうしたマルクスの構想の楽観主義や非現実性を斎藤は認識できていないと太田は批判する[284]。また、エコロジーの観点も初期マルクスにも兆しており、あるいは、後期マルクスでも疎外論は生きており、共同体への憧憬もあったとして、斎藤の時期区分にもアルチュセールのような危険があると太田は指摘する[284]。
国家・権力論
マルクス主義の国家論
マルクスは、資本主義社会における国家について統一的な理論的説明をしていない[34]。ジョン・エルスターは、マルクスは、道具モデル、階級均衡モデル、退位モデルの3つの国家論があるという[285]。
- 道具モデルでは、マルクスは、国家を支配階級が自らの利益のために、他の階級を犠牲にして直接支配する道具として描いたとする。『共産党宣言』は「近代国家の行政は、ブルジョアジー階級の共通の問題を調整するための委員会にすぎない」と主張している[286]。しかし、この説明では、国家は資本家の利益に反して行動することもありえ、国家のメカニズムに対する説明は、マルクスの著作では明らかではない[34]。
- 階級均衡モデルでは、マルクスは、国家がそれ自身の利益を持ち、資本家の利益は、その追求の戦略的限界の一つに過ぎないと描く。1851年のナポレオン3世のクーデターによって成立したフランス国家のように、資本家と労働者という二つの階級の力が均衡している状況では、行政は、自らの利益を促進するためにその対立を利用し、独立を得ることがある。国家は資本家や労働者と競合しながら、それぞれの階級に保護を約束することによって政府は階級に左右されることなく、自律的に国家を支配することができる[287]。したがって、資本主義的利益は、国家の主要な目標ではなく、国家の行動を制約する要因の一つとされる[34]。
- 退位モデルでは、ブルジョアジーが政治権力の直接的な行使から離れることが彼らの利益につながるからそうするのだと説明される。フランスでは、ブルジョワジーが当初支配していた政治権力を退位させ、イギリスとドイツでは、ブルジョワジーがそもそも政治権力を握らなかったが、いずれにしても、ブルジョアジーは財布を守るために、王冠を没収し、またブルジョアジーは支配することの悩みやリスクから逃れるために自らの政治的支配を排除しようとすることもある[288][34]。
マルクスの悪名高いプロレタリアート独裁は、全体主義というよりも、緊急事態での一時的な支配という意味で、その一時的な独裁政府でも多数派の支持を得たり、民主的な権利(言論の自由、結社の自由など)を保持されなければならないとマルクスは述べている。しかし、これらは超法規的であり、頻繁には論じられていない[34]。マルクスは、公職は、特定の政治カーストによって駄目になっているので、平均的労働者程度の給料にし、選挙などによって固定化を防ぎ、脱専門職化を目指すべきだと論じた[289]。マルクスは、問題の民主的解決と公共財の供給を国家の任務とする一方で、常備軍や警察など組織的強制力を排除できると考えた。しかし、国家的強制力の排除には多くが懐疑的である[34]。
マルクスは、絶対王政において、国家権力は中央集権を遂げ、国王は、商業資本主義ブルジョワジーとの同盟関係にもとづいて、中産階級をもって封建制と戦ったとした[290][291]。しかし、アンソニー・ギデンズは、中央集権は、絶対王政というよりも、国民国家の出現によって強化されていったという[291]。ギデンズによれば、一部の都市同職組合が絶対主義国家と協調した理由は、軍事技術の進歩によって都市の防備体制が時代遅れになったためであり、これは、都市が、商工業の利益拡大を促進する法的枠組みと引き換えに、自治権を国家に譲渡していった根本的な変化のなかで理解されるべきものである[291]。地方の農村自治が解体し、中央集権と官僚制的支配が強化されていった過程において、絶対主義が及ぼした影響を過度に強調すべきではないとギデンズはいう[291]。また、絶対主義時代では、国王以外の地方権力もあり、法も財政も地域ごとに大きな差があった。ルイ14世以外にも、南部のプロヴァンス伯やドフィネのヴィエンヌ藩侯などの地方権力があったし、法の執行においても、南部ではローマ法、他の地方では習慣法が有力だったし、タイユ税は中央国家が徴収したが、三身分会議保有地方では、独自の徴税をおこなっていた[291]。マルクス主義者のペリー・アンダーソンも、絶対主義国家は、貴族とブルジョワジーとの裁定者ではなかったし、ましてやブルジョワジーは貴族に対抗する手段ではなかったとマルクスの所説を批判している[291]。
ギデンズは、マルクス主義では、国家を、階級支配ないし資本主義企業経営の発達を助長するメカニズムとみなすが、国家の領土権については解明していないし、伝統的形態とは異なる多様化した国家システムは、資本主義にとって、法的枠組みの形成や、財政上の保証、非強制的な経済取引などを整えていく前提条件となり、さらに工業資本主義の発達にともない、ヨーロッパの国々は、国民国家となり、世界システムのなかで中核国の立場を強化していったというダイナミクスを認識できていないと批判する[53]。
権力論
マルクスは、権力や国家を、階級の利害とむすびつけ、社会主義を権力による支配を超越した社会とみなした[292]。さらに、権力は階級闘争に基礎づけられているために、未来の社会では、権力が明確な脅威をもたらすことがないと想定した[292]。しかし、アンソニー・ギデンズは、権力の脅威は偏在的であり、国家は権力の射程を最小化するように民主主義的な方法で組織化されねばならないと批判する[292]。ギデンズによれば、権力は必ずしも利害対立や抗争と結びついているわけではなく、抑圧的な本質をもつわけでもない[292]。パーソンズがいうように、権力とは結果を達成する能力であって、権力はむしろ自由や解放を達成する媒体である[292]。社会的再生産のプロセスでは、権力は、なだらかに流れていき、支配の構造によって作動するのであり、したがって、暴力は権力の典型的な事例ではなく、流血、憤激、戦闘、敵対グループの衝突などにおいて権力の広範な効果が感じ取られることも、確証されることもない[292]。
マルクスは労働者階級が資本主義の矛盾を把握するに応じて、変革に動員されるようになると予言した。しかし、マルクスは、社会の支配集団が、資本主義システムについての理解を洗練させ、システムを安定させていく可能性を考察することができなかったとギデンズは批判する[257]。国家は、システム再生産の条件をモニタリングすることによって、起こりかねない闘争を最小化しようとするのであり、この点において国家の役割は拡大していった[257]。
市民社会の矛盾に対して、ヘーゲルが国家への包摂で解決しようとしたのに対して、マルクスは、市民社会そのものを廃棄し、それに代わる共産主義社会を実現することで解決しようとした[253]。政治学者の藤原保信は、マルクスは、権力を階級支配の次元に一元化することで、権力発生の別の心理的政治的な要素を等閑視し、むしろ隠蔽したと批判し、また、マルクス主義では、社会主義国における権力の強大化と一元化を、資本主義の包囲によってのみ説明するが、これも一面的であると批判した[253]。
代表民主制の否定
ケルゼン
法哲学者ハンス・ケルゼンは、『民主主義の本質と価値』 (1920/1929年)『社会主義と国家』(1920年)などでロシア革命の実態を踏まえてマルクス主義を批判する。レーニンは「国家と革命」などで議会性の廃止を主張した[293][294]が、ボリシェヴィキがロシア・ソヴィエト憲法で樹立したのは代議制度であったとケルゼンはいう[294]。古代都市国家において直接民主制が可能であったのは、政治的有権者集団と勤労者集団(奴隷)が分離されていたからであるが、近代的な先進国で民意と代表者との結びつきを密接にしようとすれば、むしろ議会性は肥大するとケルゼンはいう[294]。マルクス主義者は「ブルジョワジーの代表制民主主義」を単なる「おしゃべり小屋」にすぎないと否定するが、ソヴィエトやレーテ(評議会)もまた代表機関であり、ピラミッド型の構造をもつ無数の議会であったとケルゼンは指摘する[294]。
マルクス主義では、多数決原理は、利害対立の調整には不適当であるとして否定され、階級対立は、平和的で民主的な調整ではなく、「革命的暴力」によって、つまり、専制的・独裁的に克服すると前提されている[295]。しかし、ケルゼンによれば、多数決原理の否定とは、妥協の否定であり、妥協とは、社会秩序を創造する自由の理念に基づいた、理念的な全員一致への現実的な近似値であり、従って、マルクス主義による多数決原理の否定は合理的には正当化されえない[295]。
民主主義こそが権力状況に適合した唯一の表現形態であり、左右に振れる政治的振り子が最後に戻っていく静止点であるとケルゼンはいう[296]。マルクス主義は、階級対立を流血革命によって解決しようとして破局に導いたが、議会制民主主義では対立を平和的、漸進的に調整していこうとする。議会制民主主義のイデオロギーとは、社会的現実においては到達できない自由であるが、その現実は平和である[296]。
マルクス主義は、多数決原理にもとづく「ブルジョワ民主主義」に対して、平等量の財産を保障する「プロレタリア民主主義」と対置するが、ケルゼンはこのような対置は否定されねばならないという[297]。ケルゼンによれば、民主主義の第一義的な理念とは、平等ではなくて、自由の価値である[297]。歴史上、民主主義をめぐる闘争とは、政治的自由をめぐる闘争であり、民衆の立法・執行への参与を求める闘争であった[297]。万人は、可能な限り、そして平等に自由でなければならないし、平等に国家意志の形成に参与すべきであるとケルゼンはいう[297]。
ボルシェヴィズムは、「形式的民主主義」に対立する社会的民主主義を実現すると称し、「社会的正義の実現者」を名目とした独裁体制を「真の民主主義」であると標榜するが、これは自由の観念を正義の観念へのすり替えであり、現代民主主義をもたらした人々の功績への不当な誹謗であるとケルゼンは批判する[298]。
マルクスらは圧倒的多数を占めるプロレタリアが階級状況を自覚すれば、多数決によって権力を掌握できるとし、民主主義とプロレタリア独裁が両立しうると考えていた[299]。しかし、19世紀の民主主義の発展において、プロレタリアは国民の圧倒的多数にはならなかったし、それどころか、プロレタリアによる社会主義が権力独占を達成した国においてさえも、プロレタリアは少数にとどまった[299]。この事実によって、マルクス主義政党は、「民主主義では権力は掌握できない」として民主主義の理想を放棄し、政治的ドグマの絶対主義、およびそのドグマを体現する政党による絶対主義的支配という独裁制となった[299]。しかし、万人に超越する「絶対善」の権威に対して、人々は服従以外の態度はありえない[300]。
マルクス主義の絶対主義的世界観に対して、民主主義は、批判的な相対主義的世界観を前提とし、それゆえに、すべての人間は、他者に対して常に場所を譲る用意をし、万人の政治的意志は平等に評価されなければならない[301]。民主主義では、特定の政治的主張の価値は相対的であり、政治綱領や政治信念による絶対的支配を求めることはできないとケルゼンはいう[302]。民主主義は、政治的絶対主義に対立する政治的相対主義の表現であって、あらゆる政治的信念に対する平等な表現の機会、自由競争の機会を与える[302]。
共産党宣言は、革命によってプロレタリアを支配階級に高めて民主制を闘い取ると宣言するが、ケルゼンは、多党制においては、プロレタリアの支配を樹立する目的のために、「民主主義を闘い取る」ことは、目的を実現する手段とはならないという[303]。ケルゼンによれば、国民が普通選挙を通じて政治参加する民主制においては、労働者も、雇用者も、プロレタリアも、ブルジョワジーも政治的に同権であるため、政治的には階級支配は生じない[303]。
共産主義者は、プロレタリアの心を独裁に向かわせるために、民主主義を誹謗し、民主主義への信頼を失墜させようとするが、プロレタリアの政治的向上に適合した体制とは、民主主義であるとケルゼンは主張する[18]。
ドムホフ
マルクス主義者にとって、国家は私有財産を保護する支配構造であるが、政治社会学者のG.W.ドムホフによれば、考古学的および歴史学は、国家が階級闘争と私有財産の台頭に起源を持つという主張を支持していないし、初期の国家は、穀物など食料を集団で保管し、社会維持の機能を持った宗教と政治が混合した機関であり、これは狩猟採集の集団に比べて、都市的な生活を発展させ、また規制する機能もあった[58]。ドムホフはまた、国家の性質を変化させる最大の要因は、階級対立による社会の変化よりも、他の部族、国家に対する共通の防御の必要性であったとして、マルクス主義は、国家の政治的宗教的側面を見ないために、集団や階級の行動を形成する際に愛国的および宗教的感情が果たす役割を軽視し、階級間にも共通の社会的絆が存在する可能性についても過小評価していると批判する[58]。
マルクス主義は、資本家が一見公正な市場メカニズムを通じて剰余価値を利用するように、代表民主制(間接民主制)においても労働者の政治力が利用されるとし、代表民主制は、市場と同様の神秘化から生じた幻想であるとして軽視する[58]。たとえば、マルクス主義者のスタンリー・ムーアは 「資本主義民主主義批判」 (1957)において、資本主義的交換の形式的な自由と平等の下には、資本家による生産手段に対する独占と搾取が横たわっているが、それと同様に、ブルジョアの民主的選挙における形式的な自由と平等の下には、資本家のエージェントがによる強制手段に対する独占と、官僚行政による抑圧があるとして、資本主義にとって代表民主制は最適であると論じた[304][58]。
マルクス主義経済学者のジェームズ・オコナーによれば、「リベラルな民主主義国家」とは、国家の非民主的な側面を民主的な仮面によって隠蔽している資本主義の武器であり、自由な議会とは市場における自由の政治的対応物にすぎず、官僚制は工場における資本主義的分業の対応物であるという[305][58]。オコナーの考えは、21世紀の環境保護原理主義 (Radical environmentalism)や、世界グローバル正義運動(global justice movement)のメンバーにも共有されている[58]。
こうして、マルクス主義では、リベラルな自由 (liberal freedom)とは、労働者階級を抑圧するベールであり、質的に搾取的であって、代表民主制は偽物だとされるため、マルクス主義者が自由主義者との連合に参加することは困難になる[58]。
マルクス主義は人々自身が決定を下す直接民主制による解決を目指すが、これは「ソビエト」(自然発生的に形成された労働者・農民・兵士の評議会)という言葉の意味であったが、ソビエト連邦の歴史的経験としては、そのような自発的な集団が共産党員によって独裁的に支配されたことを示す[58]。
1960年代の新左翼や女性運動での「参加型民主主義」においても、対等な人々の開かれた参加を目指したが、カリスマ的なメンバーによる権力構造を形成し、フェミニストのジョー・フリーマンのいう「構造のない専制政治」が出現した[306][307][58]。フリーマンは自らのフェミニスト運動体験から、リーダーシップによるヒエラルキーと構造化された分業が拒絶され、これによって非公式の権力構造がつくられてしまい、「指導者」の存在を形式的に否定することはむしろ悪質な権力体制をもたらしてしまうと分析した[306]。
また、マルクス主義の資本主義の必然的な失敗への確固たる信念あるいは過剰な強調は、社会主義陣営におけるエリート主義的思考を生み出したし、国ごとの選挙制度の違いがあるという現実を真剣に受け止めることを困難にした[58]。1917年から1990年までマルクス・レーニン主義者は、危機は資本主義の崩壊を早めるため、「状況が悪いほど良い」と信じた[58]。実際、1930年代のドイツ共産党は「ヒトラーの後で、我々が来る」というスローガンによって社会民主党との連立を拒否したように、こうした信念の誤りは、ドイツの歴史が証明している[58]。
ドムホフによれば、マルクス・レーニン主義者、トロツキスト、毛沢東主義者)による代表民主制の無視は、政治に対する破壊的で議会外のアプローチにつながり、民主的資本主義国のほとんどの市民を遠ざける[58]。このような社会主義および社会運動の歴史の経験から、より深刻な問題を回避するためには、選挙による指導者の選出は必要であるし、代議制民主主義と立法府という制度は、独裁国家の潜在力に対抗する数少ない対抗手段であり、「神秘化された階級支配」として却下されるべきではないとドムホフはいう[58]。
ロールズ
政治哲学者ジョン・ロールズは、マルクスが、自由放任型の資本主義には重大な欠陥があり、根本的に改善されねばならないと指摘したことは重大な意義があるとしながらも[308]、マルクス主義の政治思想を批判する。マルクス主義では、リベラリズム (自由主義)がいう基本権と自由が保護するものは、資本主義世界における市民たちのエゴイズムにすぎないとされるが、秩序ある財産所有のデモクラシー(財産所有制民主主義)では、基本権と自由は、自由かつ平等な市民のもつ高次の関心をうまく表現し保護するものであり、生産のための資産を私有することは、基本権ではないが、現存する条件では、その権利を許容することが正義の諸原理を満足するための有効な方法であるとロールズはいう[279]。
また、マルクス主義は、立憲体制における権利と自由を形式的だと批判するが、政治的自由の公正な価値によってすべての市民は、社会的地位を問わず、政治的影響力を行使するための公正な機会を保障されることが可能であり、これは公正としての正義がもつ本質的な平等主義的特徴の一つであるとロールズは反論する[279]。
また、マルクス主義は、私的財産を許容する立憲体制が保証するのは、消極的自由(他人に邪魔されずに行為する自由に関連する自由)だけであるとも批判するが、ロールズは、これに対して、財産所有のデモクラシーの背景にある制度は、公正な機会の平等および格差原理と、あるいは別の原理と組み合わせることで、積極的自由(自己実現につながる可能な選択や行動に対して障害がないことに関する自由)に対しても適切な保護を与えると回答する[279]。また、ロールズは、資本主義における分業では、労働から意味が奪われるというマルクスの批判に対しては、財産所有のデモクラシーの諸制度が実現されれば大部分克服されると答える[279]。
ロールズは、ソ連のような中央指令的社会主義は失墜したし、そもそもそれが説得力のある教義であったためしはないが、一方で、政治的自由の公正な価値がともなう立憲デモクラシー、法によって保障される自由競争のある市場システム、企業が労働者や、株所有を通じて一般の人にも所有され、選挙によって選ばれた経営者によって経営されることの推進、生産手段および天然資源が広範囲で多少なりとも平等に分配されることを確保される所有システムなどの諸特徴をもつLiberal socialism (リベラルな社会主義)[注 24]は、価値ある見解であるという[308]。
ヨーロッパ中心主義
従属理論や世界システム論は、マルクス主義のなかのヨーロッパ中心主義を批判した[309]。
なお、マルクスは「インドがイギリス人に征服されるよりも、トルコ人、ペルシア人、ロシア人に征服されたほうがましかどうか」が問題なのだとし、イギリスはインドに政治統合、近代産業、電信網をもたらすだろうし、インドの家父長制が、東洋的専制政治の基盤となり、人間を迷信に閉じ込め、カーストや奴隷制を持っていることを忘れてはならないと主張し、イギリスによるインド支配を肯定した[310]。こうしたマルクスの考察は、20世紀の帝国主義論とはほとんど共通点がないと歴史学者スパーバーは指摘する[310]。
マルクスの発展段階説では、アジア的生産様式、古代的生産様式、封建的生産様式、近代ブルジョワ的生産様式 (資本制)へと発展し、将来は共産主義に至るとされ[311]、ヨーロッパの近代の優位性を特権的なものとみなし、停滞し、専制的な東洋と対比した(東洋的専制主義) [312]。
しかし、人類学者のジャック・グッディは、封建制への移行が進歩的と呼べるか疑問であるとグッディはいう[312]。たとえば、ローマ帝国の崩壊によって、国家による支配が消滅し、封建制でなく、小作農を基盤とする生活様式へと移行した[312]。当時の小作農は地主への地代も、国への税金も支払う必要がなく、封建制よりも暮らしむきはよく、やがて教会による包括的な支配が再構築されていったが、これは以前存在した支配構造を再構築したものであったし、都市生活、農業、貿易、知識体系、文字の使用といった点ではむしろ後退していたのであり、こうした過程を進歩的と考えるのは困難であるとグッディはいう[312]。封建制は、西欧特有ではなく、アジアでも広範に観察でき、中央集権化された政治制度の分散化した形態である[313]。中世において社会的文化的に遅れていたのは西欧であった[313]。ヨーロッパがアジアに追いついたのはルネサンス時代であったが、それより前にイタリアで商業文化と技術が発達し、軍事面、貿易面でアメリカ大陸や東西のインド諸国への進出が可能となった[314]。16世紀には、知識のシステマティックな蓄積が、印刷技術に支えられ、教育と学術の組織化によって促進された[314]。これらは都市の商人文化の発展によって可能となったが、同じ現象は、中国、インド、イスラム諸国でもみられた[314]。18世紀の産業革命によって、生産様式の面で現実に東西の差が発生したものの、これも一時的なものであった[314]。グッディは、マルクスも、ウェーバーも、世界システム論も、ヨーロッパ中心主義であり、16世紀西欧に抽象的資本主義が登場したという彼らの主張の正当性には疑問があるという[314]。
マルクスは、「資本主義の近代史」をヨーロッパの拡大によって確立された世界システムと同一視し、インドや中国、アラブの広大な商業圏を無視しており[315]、封建制をヨーロッパの発展段階であり、それがやがて資本主義に発展していくとし、非ヨーロッパの地域から資本主義にいたることはないとしたが、これは中立的ではなく[316]、ヨーロッパ中心主義といわざるをえないとグッディはいう[315]。
商業資本主義は、西洋封建制以前からもあったし、東洋の社会においてもみられた[317]。また、ブルジョワ文化の発達によって、産業資本主義が西ヨーロッパで生じたとマルクスは主張するが、これも他の地域でも観察しうるもので、西洋に特定の性質があるとしても、差異が強調されすぎているとグッディはいう[317]。18世紀以降のヨーロッパの優位が、知識体系とブルジョワ文化の発展に関わるとしても、ヨーロッパの封建制が資本主義への入り口だということにはならないし、資本主義的活動は他の地域でも発達したのだから、産業資本主義の要因は、封建制それ自身ではなく、封建主義の内部とその後に生じたブルジョワへの変質による結果であったという[317]。産業資本主義は封建主義の後ではなく、商業資本主義の後に誕生したのであり、重要なのは、ブルジョワジーによる功績の差である[318]。また、国家や法制度の東西文明の違いについては、フランソワ・ベルニエらの旅行者によって誇張されすぎており、モンテスキューやヘーゲルもそうした旅行記に基づいて判断している[318]。アジアの帝国では、国家の力は強かったが、小作農の自立性もあり、都市のブルジョワジーは貴族としてすら自立できたし、商法などの法制度も整備され、政治的代表性もある程度具わっており、マルクスらが主張したほど、こうした制度の差異は対照的ではなかった[318]。ヨーロッパの過去にのみ進歩的発展が特徴的にみられるという考えは、自民族中心主義的であり、誤っているとグッディはいう[319]。
マルクス・エンゲルスの人間性
マルクスの絶対視
マルクスを信奉する大内兵衛は、マルクスを「絶対に正直で、絶対に無邪気で、絶対にウソをいうことができない大男」であるとし、たとえマルクスが悪口雑言のかぎりをつくしてていも、「小人の争いではなく、清き心のいかりというものである」と評価した[320][70]。
鈴木重靖は、このようなマルクスの評価は主観的すぎるし、家族でもなく、 また特別親しい直接の知人や友人ではない他人に対して、絶対的に尊敬して断定するのは、願望であると批判する[70]。 歴史学者E・H・カーによれば、マルクスは、自分と意見を異にする者は馬鹿か悪者であるとみなし、仲間を多数蹴飛ぱし、かつ憎んだ[70]。マルクスは、権力を好み、人に屈服することを極度に嫌い、他人に対して疑い深い性格であった[70]。マルクスは、権力奪取後のプロレタリアート独裁、中央集権的計画経済を提唱したが、このような性格であったマルクスが実際に権力を掌握した場合、理想通りに社会主義を建設しようとするだろうし、反対者に対しては断固として力をもって排除しただろうし、マルクスをスターリン的な粛清とは全く無縁な人物だと確信することは危険であると鈴木はいう[70]。
マルクスやレーニンの性格は心優しいもので、スターリンだけが冷酷で粗暴であると個人の性格をソ連の圧政の原因と考えることも不当であると鈴木は批判する[70]。
大粛清に関しても、スターリン個人の性格にも原因はあるが、他の社会主義諸国においても同種の粛清が見られた[70]。中国共産党では整風運動、文化大革命が起こり、カンボジアのポル・ポト派はカンボジア大虐殺を起こした。また、アルパニアのエンヴェル・ホッジャとかルーマニアのチャウシェスクもスターリン型の圧政をとった[180]。
労働者階級への蔑視
マルクスは労働者階級を酷評し、労働者階級の愚かさを非難し、蔑視した[321]。
マルクスはジャーナリストでもあったが、現場に行くことはなかった[322]。1844年のシュレジエン地方の織工についての記事を書いたときも、現地に行かなかったし、織工に取材もしなかった[322]。エンゲルスから綿紡績工場見学を勧誘されたときも断っているし、1845年にドイツ人労働者教育協会を訪れたときも、時計職人、印刷工、森林官などの協会員を軽蔑し、自分のような中産階級出身の知識人との交流を好んだ[322]。
インターナショナルを結成したときも、労働者階級出身の指導者を排除した[322]。こうした態度の理由としては、労働者たちが反暴力の立場をとるからで、マルクスの終末論的な革命に懐疑的であったためといわれる[322]。
ヴィルヘルム・ヴァイトリングは労働者階級出身で独学であったが、マルクスは1846年に正義者同盟での裁判で、「ドイツのような文化先進国では、理論がなければ何ごとも達成できない」として、ヴァイトリングは理論抜きで人民を扇動する罪を犯したと糾弾した[322]。ヴァイトリングが自分は書斎ででっちあげられた理論を学ぶために社会主義者になったのではなく、現実に働く人間のために語ったのであり、現実の労働からかけ離れたただの理論家の見解を甘受できない、と反論すると、マルクスは激怒し、机を叩き、「無知がだれかの役に立ったためしはない」と叫んだ[322]。
同様の批判は、理論よりも実際の現実的な問題への解決策を提唱した運動家にも向けられた[322]。農業改革者ヘルマン・クリーゲがアメリカで農民1人に160エーカーの公共用地を与えると提案すると、マルクスは、共産主義社会が樹立されれば土地は集約されると批判した[322]。元植字工のプルードンが宗教を粉砕した後に、別の教条を押し付けたり、不寛容を押し付けてはならないと述べると、マルクスは、プルードンはヘーゲル哲学を誤読している「小児病」だと非難した[322]。フェルディナント・ラッサールに対しては「ユダヤの黒んぼ」と罵倒した[322]。
マルクスは妻イェニーが貴族出身であることを誇りにしており、「貪欲なブルジョワよりも本物の貴族とつきあう方がうまくやれる」とよく言った[323]。
マルクスは人間を「賤民(Gesindel)」としつこく繰りかえし侮蔑したが、キュンツリによれば、マルクスはいまここにいる人間はどうでもよいくずであり、未来の人間を、遠くの「偉大なわれわれ」を、気にかけるばかりで、生涯、実際の労働者を侮蔑しつづけた[324]。
マルクスの暴力志向
マルクス主義にはつねに暴力が内在し、体制内では絶えず暴力が現実的な行動としてあらわれるが、これはマルクス自身を映している[325]。学生時代のマルクスは決闘で深い傷を負い、家庭での口論は、両親との断絶をうんだ[325]。マルクスはボン大学で飲酒、乱闘、サーベルでの決闘などの悪行を繰り返したため、父ハインリヒはベルリン大学への転学を命じた[326]。
マルクスは政治運動家として国外追放処分されたが、社会主義運動の外に知人を求めることもなかったし、地域に溶け込もうともしなかった[325]。マルクスの付き合った知人も革命にしか興味のない運動家であり、マルクスは非常に視野の狭い生活を送っていた[325]。編集会議では怒鳴り声がはてしなく続いた[325]。マルクスが喧嘩をしたのは、相手を支配下におくことができないときだった。ヴァイトリング裁判のときのマルクスについてパーヴェル・アンネンコフは、礼儀にかけ、人を小馬鹿にしたような面持ちで、人の気に触るような口調で悪態づいたと証言し、革命家のカール・ハインツェンも、マルクスの目は意地が悪く、「おまえなんか破滅させてやる」がマルクスの口癖だったと証言している[325]。E.H. カーによると、 マルクスは他人を罵倒することに病的な情熱をもっており、毒舌・悪口が大好きであった[324]。マルクスは、 ヨーロッパの社会民主主義者の中央委員会は「やじうまどもの委員会」「あわれむべき人民欺隔者」だとし、ルイ・プランは「感傷的な空文句社会主義」、ルドルュー=ロランは、「人民を裏切ったもう1人の裏切者」だと罵倒した[327][324]。アルノルト ・ルーゲは、「マルクスはいつも何らかの憎悪にとりつかれていた。そして私のことが彼の頭に残っているかぎり、 彼は私を誹膀せずには何もかけなかった」と回想している[324]。
社会主義者カール・グリューンに対して、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』(1845-6)で攻撃し、さらにグリューンは「ぺてん文士」「山師」「寄生虫」であるから気をつけるように手紙でプルードンに告げた[328]。しかし、グリューンとプルードンが近づき、プルードンの『貧困の哲学』のドイツ語翻訳の協力を求められると、マルクスは協力を拒否し、『哲学の貧困』(1847)でプルードンを批判した。怒ったプルードンはマルクスに対して「俗悪さと中傷、曲解、剽窃のかたまり」との批判を遺した[328]。グリューンも、マルクスは「知に関する税官吏にして国境警備官」であり、自分が認める時にしか入国許可を与えず、または入国許可を取り上げて世の中に出回らないようにすると批判し、マルクスは家族を養うこともできない狂信者であり、マルクスの革命教理は誠実な職人たちを地獄に導くと批判した[328][注 25]。プルードンとグリューンは、国営銀行から資金を供与された労働者組織を創出することで、暴力革命なしに社会主義を導入しようとした[329]。
グリューンへのマルクスの攻撃についてヘルマン・エーヴァーベックは、個人的な遺恨と憎悪に基づいていると批判した[330]。また、共産主義者同盟のヨーゼフ・ヴァイデマイアーも、マルクスは原則的な問題とは何の関係もない個人的な対立を、党派的な問題に仕立てると批判しており、マルクスの直接の友人知人たちは、マルクスが政治的立場の相違を個人的問題に転化する傾向を批判している[330]。カール・ハインツェンは、マルクスが民主主義を否定していると1847年に批判した[331]。
マルクスらの共産党宣言(1848年)は、フランス革命期に恐怖政治を行ったジャコバン派を手本にしており、内戦を想定して、「所有権とブルジョワ的生産諸関係とにたいする専制的な侵害」「亡命者(国外逃亡者)や反逆者の財産没収」などが必要であると主張した[331]。マルクスは、暴力革命を主張しない、他の社会主義について、資本主義内部で労働者階級の状態の改善を目指す「ブルジョワ社会主義」にすぎず、反動的だと攻撃した[331]。マルクスは自分たち以外の社会主義者たちは、ドイツ諸邦の下僕だと非難したが、しかし、歴史学者J.スパーバーは、マルクスによって非難された社会主義者たちはプロイセン政府を支持してはいなかったし、マルクスの非難は公平とはいえないと指摘する[331]。
マルクスの師モーゼス・ヘスは、共産主義は自動的に平和的に樹立されると考えた。しかし、マルクスは、組織、煽動、政治闘争、絶頂に達する暴動、国際的な戦争が、共産主義をもたらすと考えていた[332]。
1848年パリの六月蜂起は、ドイツの大半の左翼にとって、共和制政府が民衆と戦った悲劇であったが、マルクスとエンゲルスは暴徒を賛美した[333]。これに対しケルンの民主主義者たちが批判すると、マルクスは、六月蜂起は、対立する階級が相互の譲歩を拒否したために発生し、階級関係についての曲解が流血をもたらしたとし、暴力闘争路線を一時放棄した[333]。また、ヴァイトリングの単独階級による革命独裁をナンセンスだとも非難した[333]。
マルクスは1849年にプロイセン政府に対して、「われわれは容赦しない。テロ行為も辞さない」と宣言し、1850年には「憎むべき個人やいましい思い出を持つ公共建物に対する民衆のこうした復讐を、われわれは容認する。のみならず、援助もする」という行動計画を配布した[334]。
ロンドンの亡命左翼コミュニティ共産主義者同盟において、マルクスは急進主義を主張し、民主主義者と決別した[335]。しかし、亡命左翼の大半は民主主義を支持しており、独自の労働者協会を組織した[335]。1850年9月15日の共産主義者同盟の会合で、アウグスト・ヴィリヒとシャッパーは、マルクスらと分裂した[335]。マルクスを支持したのは12人ほどで、これによりマルクスは政治的行動を放棄し、大英図書館での研究を開始した[335]。マルクス派と、ヴィリヒとシャッパー派への論争は、個人的な誹謗レベルのものであり、反マルクス派は、マルクスの尊大さと専制的な性格を非難し、マルクスはヴィリヒを「ペテン師」「いかさま賭博師」「寄生虫」と罵倒した[336]。ヴィリヒとシャッパーが、マルクス派を労働者教育協会の管理金を盗難したと裁判を起こすと、マルクス派のシュラムがヴィリヒに銃による決闘を申し込み、敗れた[336]。マルクスは、ヴィリヒとシャッパーらによる臨時政府よりも、いまの政府の方があらゆる面で望ましいとさえ述べて攻撃した[336]。これまでのマルクス主義では、マルクスが「プチブル民主主義」は革命的ではないと考えたための分裂だったと説明してきたが、マルクスによるヴィリヒとシャッパーらへの非難は不適切であったと歴史学者スパーバーはいう[335]。マルクスが、ブルジョワ的なヘーゲル主義的な知識人であったのに対して、シャッパーは職人と同じ生活スタイルで暮らしており、ロンドンのドイツ人職人に対する政治的アピールが強く、支持されていたのであり、マルクスらの傲慢さや恩着せがましさ、中途半端な学者気取りへの批判は、的を得たものであったと歴史学者スパーバーはいう[336]。
亡命革命家マルクスにとって戦争は革命へのきっかけとして重要であり[337]、1848年から49年にはロシア帝国との革命戦争を執拗によびかけ、その後、ナポレオン戦争以来の大戦争となったクリミア戦争がはじまると、戦争報道で有名になったマルクスは[338]、英仏は断固とした行動をすべきであり、黒海を超えて戦争を拡大するべきだと主張した[339]。議員のコブデンとブライトが、ロシアとの戦争で経済的利益はないと反戦活動を行うと、マルクスは2人を「平和をあちこちで売りさばくブルジョワ」と非難した[339]。エンゲルスも、ロシアが戦争に勝利すれば、ロシアはヨーロッパよりも優勢となり、革命にとって災難になるとし、トルコ独立の維持が重要だと主張した[340]。エンゲルスには、愛国心にもとづく戦争観があった[341]。
反ロシア主義であったマルクスは、首相パーマストン卿はロシア皇帝から金をもらっているスパイであると図書館の古い資料を根拠にしてニューヨーク・トリビューンで主張し、新聞主で政治家のデイビッド・アーカートと反パーマストン卿のキャンペーンを行った[342]。マルクスはこうした陰謀論を本気で支持した[340]。また、1854年にアイトリスとイピロスのギリシャ系住民がトルコに対して蜂起すると、マルクスは山岳地帯の盗賊たちの反乱は、ロシアの策謀によると主張した[340]。その後もマルクスは、1863年のポーランドの反乱を支持し、ロシアの根絶を願った[343]。1878年、皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件が起こると、マルクスは失敗したテロリストに悪態の限りを尽くした[334]。暴力革命に固執するマルクスは、1881年のロシア皇帝暗殺でもテロリストを熱烈に支持した[344]。
マルクスは、民主主義の根幹である選挙はたんなる乱痴気騒ぎだと忌み嫌っており、新ライン新聞での編集部はマルクスの独裁下にあったとエンゲルスも語っている[345][334]。アンネンコフは、マルクスを「民主的独裁者の化身」と呼び、バクーニンも「マルクスは神を信じないかわり、自分のことは大いに信じていて、どんな人間も自分のために奉仕させる。その心を満たしているのは愛情でなく、敵意であり、人類に対する共感など少しも持ち合わせていない。」と評している[334]。
マルクスの友人たちによれば、エンゲルスも独裁的な傾向を持っており、威圧的で、傲慢と自惚れがあったとされ、エンゲルスの干渉で問題が悪化したことも多々あった[330]。
ジョンソンは、マルクスは権力を掌握すれば暴力も残酷な行為も辞さなかったことはまちがいないとし、マルクスの著作にある暴力衝動は、レーニン、スターリン、毛沢東が桁外れの規模で実施していったという[334]。
浪費癖と周囲の人への搾取
マルクスは、生涯定職につかず、定収入がなかった[346]。それに加えて、マルクスには生涯を通じて浪費癖があり、金銭管理能力が欠如しており、親族や友人や支援者など周囲への人間の搾取を繰り返した[347]。マルクスは若いときは、怠惰で放埒なボヘミアンの生活をしており、中年になっても計画的な仕事をすることができず、熟年になっても自己管理ができず、批判や助言をされると憤慨した[347][注 26]。
若い頃には高利貸しに頼り、手形と利子の支払い期限が来るたびに怒った[347]。マルクスは、後年、利子を搾取の根底をなすものとみなしたが、金銭問題の解決は周囲の人間からの搾取によった[347]。1838年にベルリン大学の学生だったマルクスは4か月で280ターレルを浪費し、父から冬じゅうかかってもそんなに稼いでいないと苦言をいわれ[347]、さらにマルクスは一年に700ターレル近くも浪費し、父から大金持だって500ターレルも支出しないといわれた[324][348]。当時、貧しい労働者や職人の年収が約100ターレル[349]、父ハインリヒの年収が1500ターレル[350]、ベルリンの市参事官(Stadtrat)の年収が800ターレルであったが、マルクスは学生にして参事官の年収ほどの浪費をした[324]。
父はその後死去するが、マルクスは葬式にも出席せず、母や友人から金を借りた[347]。母は息子の借金の支払いを拒否し、支払ってしまえばもっと借金をつくると考え、援助を打ち切ったが、やがて母も1863年に死ぬと、マルクスは両親の遺産を相続した[347]。1838年にマルクスは父の遺産160ターレル、および母が死去した際の相続分も含めて前払いで950ターレルを受け取った[348]。以後、マルクスは自堕落な生活を続け、仕立屋、生地屋、書籍商につけで買い物を続けたが、マルクスは支払わないままベルリンを離れたため、債権者たちは金を回収するために大学に相談した[348]。1841年に公証人による遺産相続計算が済み、マルクスは362ターラーを相続したが、すでに950ターラーを前借りしていたため、何も贈与されなかった[351]。マルクスは、私の家族は裕福な暮らしをしているのに、私を重苦しい状況にさらしたとルーゲに苦々しく述べている[351]。こうしたマルクスの態度によって、母や弟姉妹との関係も悪化した[351]。マルクスは、妻の家からも援助を受けていたが、1851年には打ち切られた[347]。さらにマルクスは母方の叔父にも支援を申し込んだが、共産主義を支持できないとして断られた[352]。
マルクスは極貧であったという物語について歴史学者スパーバーは、マルクスの貧窮とは、いつの時も上流階級なりの貧窮であったし[330]、浪費と拙劣な家計によるものだったという[353]。実際、1845年ブリュッセルで娘ラウラが生まれると、マルクスは翌年5月にアパートから家具つきのホテルに引っ越し、メイドの数を減らすほどで、妻に家事をするよう提案することもなく、また、マルクスは、友人や自分の信奉者にも見栄を張って金を貸した[330]。
1848年にベルギーから追放されると、翌年にはマルクスが仕事をしないために極貧生活に陥り、1849年には4人目の子供が生まれたが、家賃が払えず、下宿にうつり、赤ん坊も死亡し、さらに1851年には娘が、1855年には息子が死亡した[323]。1849年からのロンドンで困窮したマルクスは、商店、パブ、下宿へのつけの支払いが迫ると、借用証書を発行し、債権者はこの借用証書を受け取り、銀行がこれを割引して支払った[352]。母に手紙を書いて埋め合わせを脅迫したが、母は応じなかった[352]。
マルクスは「パンのための労働」を軽蔑しており、働こうとはしなかった[324]。マルクスの友人知人は家庭教師をしたり、銀行や取次代理人、教授をしたりして、生活基盤を確保しながら活動をしていたが、マルクスは「私を金作り機械に変えるようなことを、ブルジョワ社会に許してはならない」と1859年に語っている[354][324]。
1845年にマルクスの妻の父がつけさせたメイドのヘレーネ・デームートは、生活の面倒を見てもらっていたが、無給でマルクス家に1890年まで仕えた[355]。ヘレーネは、1851年にマルクスとの子供ヘンリ・フレデリック(フレディ)を出産したが、マルクスは自分の責任を認めず認知せずに、家族や革命家仲間に隠し続けたあとに、エンゲルスに依頼してエンゲルスの私生児(非嫡出子)として認知させた[355][324][335]。エンゲルスは死ぬ直前に四女エレノアに真相を伝えた[355][324]。1900年頃には社会主義者の間でマルクスに私生児がいることは知られていたが、政治的影響を考慮して隠蔽された[324]。歴史学者ジョナサン・スパーバーは2013年の著書で「こんにちなお、マルクスがメイドとの間にこの子をもうけたことを信じようとせず、さらに珍妙にも、エンゲルスの臨終の床での告白を明らかにした書簡はファシストが捏造したものだと主張し続けている懐疑主義者たちがいる」が、ソ連で60年間秘匿されてきた文書が1990年代に明らかになり、この文書にはフレディは自分の父親が誰か知っており、エンゲルスの(マルクスがフレディの父であるとの)告白もドイツ社会民主党では当時よく知られていたことが示されている[335]。
1856年にはニューヨーク・トリビューン特派員としてマルクスの年収は200ポンドあり[353]、これは熟練工の三倍にあたる額だった[347]。しかし、1857年11月には特派員の報酬は半減し[356]、1861年後半には特派員契約も終わった[346]。
1856年にはエンゲルスの援助でソーホーを出てハーヴァーストックヒルの借家に移り、9年後にはメートランド・パークロードの家に移り、使用人を2人雇う生活をした。1860年にイェニーは天然痘にかかり、美貌を失った[323]。1863年11月に死去した母の遺産580ポンドを相続し、さらに1864年5月に親友ビルヘルム・ヴォルフの遺産700ポンドをマルクスは受け取り、これらの資金でマルクスは引っ越した[346]。しかし、1867年までにマルクスは遺産を使い果たした[357]。
1863年1月、エンゲルスが自分の愛人で女工のメアリー・バーンズが急逝したことを伝えると、マルクスは悲しむ様子もなく、生活が苦しいと資金援助を求めたため、2人は絶交寸前となった[358]。なお、エンゲルスを知る労働者たちは、エンゲルスと女工メアリとリジ・バーンズらの性的関係を、資本家による女性労働者への性的搾取とみなし、怒っていた[359]。
1869年にエルメン&エンゲルス商会の株をエルメン兄弟に売却したエンゲルスは、マルクスの借金を完済し、マルクスに年間350ポンドを送るようになった[347][357]。しかし、マルクスは「まったくの労働者風のやり方はここではふさわしくないだろう」と年間500ポンド以上を要求した[347]。マルクスはエンゲルスの工場の労働者からの資本主義的搾取によって得られた収入に自らが依存していることには、一切ふれることはなかった[360]。
娘たちには、教育(学校教育)を受けさせず、就職もさせなかった[355]。家庭教師を雇い[352]、ピアノ教師も雇っていたが、給料の支払いはしばしば滞った[346]。四女エレノアは、父マルクスと同様に就職しなかったエドワード・エーヴリングの内妻として苦しみ、1898年に自殺し、ポール・ラファルグと結婚した次女ラウラも1911年に夫婦で自殺した[355]。
マルクスを支援したことで有名なエンゲルスも1850年夏頃には、親からの仕送りが止められており、破産状態だった[352]。エンゲルスの母は、エンゲルスの政治活動を支持できないし、自活するべきだとして支援を拒否した[352]。ニューヨークのマルクス支持者を当てにしたエンゲルスは、共産主義者とは縁を切り、綿の卸売をするためのアメリカへの渡航費を母にねだったが、母はインドで働くならば費用を出すとの回答だった[352]。行き詰まったエンゲルスは共産主義と縁を切って、マンチェスターで家業を手伝うと申し入れると、家族は懐疑的ながらも受け入れ、その後、エンゲルスは共同経営者の会計不正を発見して会社内の地位を得てから、マルクスへの支援をはじめた[352]。
史料批判
マルクス、エンゲルスらの著作についての史料批判からの批判もなされている。
エンゲルス
マルクスはエンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』にたびたび依拠したが、しかし、このエンゲルスの著書についても史料批判がなされている。綿織物工場主の息子であったエンゲルスは家業に携わり、イギリスで織物取引を直接経験はしたが、それ以外のイギリスの労働環境については知らなかったし、鉱山や田舎の労働条件にいたっては何も経験がないのに同書で章を割いている[361]。
エンゲルス同書についてW.O.ヘンダーソンとW.H.チャラナーはその情報源や原本を精査したところ、客観的な調査というよりも、政治的論争の作品であることが判明した[362][361]。エンゲルスは「イギリス中産階級に大量殺人、大規模虐殺、および罪状一覧表にあるあらゆる罪の責任を負わせる」と執筆動機をマルクスに語っている[363][361]。
エンゲルスが使用した資料の一つはピーター・ギャスケル「イギリス製造業人口」(1833)であるが、1842年の児童雇用に関する王室委員会の調査で明らかになったように、資本主義以前の職場や農家の労働条件はランカシャーの新興綿紡績工場よりも劣悪だった[361]。エンゲルスが用いたのは時代遅れの資料が多く、夜勤のせいだとされた私生児の出産数も1801年のデータであり、また、エディンバラの公衆衛生についての出典が1818年のデータであったことを読者には知らせていない[361]。エンゲルスは1833年の工場調査委員会のデータを証拠とするが、同年オルソープ卿の工場法が可決されていることには触れない[361]。また、エンゲルスは、J.P.ケイの「マンチェスター綿紡績工場の労働者階級の身体的道徳的状態」(1832)を使用する際も、公衆衛生的な状況が改善されたことには触れない。この他にも、引用符をつけて正確であるかのようにして、実際は、元の出典のデータを加工したり、故意に隠蔽することもしているとジョンソンは指摘する[361]。
マルクス
マルクスは思想体系の完成を実現できなかったともみられており、『資本論』も出版されたのは第1巻(1867年)のみで、第2巻と第3巻はエンゲルスが編集して1885年と1894年に出版した[34]。続巻の草稿は第1巻の出版以前に書かれたもので、マルクスは晩年の15年間放置しており、マルクスが『資本論』の続編を執筆できなかったことは、体系的な知的計画の失敗であると歴史学者ガレス・ステッドマン・ジョーンズは指摘している[364][34]。マルクスは、学位論文も、 『経済学哲学手稿』 も 『政治経済学批判』 も『賃労働と資本』 も 『フランスにおける階級闘争』 も 『資本論』 も未完成で、完成したものは『聖家族』、『ドイツ ・イデオロギー』、『亡命偉人伝』、『フォークト氏』、『哲学の貧困』、『ルイ・ナポレオンのブリュメール18日』、『ゴータ綱領批判』 のようにような論争的なものと、『共産党宣言』 のような煽動的な著作とパンフレットであった[324]。
歴史家ポール・ジョンソンは、マルクスの他の学説との論争における極端な自己主張と、自分と異なる学説を提唱する学者または思想家への独断的で感情的な非難、学者でない人間への軽蔑などは、タルムード研究者のような特徴を持っており、マルクスの作品は他人の業績の注釈と批評に尽きる[365]。なお、ユダヤ教のラビの家系に生まれ、マルクスは父とともにプロテスタントに改宗しており、ユダヤ教育は受けていない[202]。また、「資本論」には、データや事実の意図的かつ体系的に改ざんされており、これはマルクスがファクトチェックや事実の客観的調査ができないことを示していると指摘している[365]。
マルクスも1864年の国際労働者協会の宣言において、ウィリアム・グラッドストンが「この富と権力のまれに見る増大が、もし裕福な階級に限られるというのであれば、憂慮せざるをえない。しかし、イギリス労働者の平均的状態は、喜ばしくも過去20年間に、これまでのどの時代においても、またどの国の歴史においても例を見ないほど著しく改善された」と演説で述べた文を、「この富と権力のまれに見る増大はすべて、富裕階級に限られる」と真意を反対にして改ざんして引用した[366]。当時こうしたマルクスによる引用の間違いないし意図的な改ざんについては指摘を受け非難されていたが、マルクスは問題をうやむやにした[367][366]。
ジョンソンによれば、資本論は、科学的著作というよりも、カーライルやラスキンのような道徳哲学として読まれるべきだが、そうであるとしても、その内容は、首尾一貫性のない、ばらばらの論説を並べたものである[224]。マルクス主義哲学者のアルチュセールも、資本論第一部を無視して、第二部第4章から読むべきだと提唱したものの、他のマルクス主義者から非難された[224]。エンゲルスがまとめた資本論二巻も1860年代のノートをだらだらとまとめたものにすぎず、三巻も高利貸しについての記録や覚書にすぎない[224]。たとえば、第8章「労働日」ではイギリスの労働者への資本主義の影響について書かれ、資本主義は労働者の搾取を累進的に増大させる、資本が増えれば増えるほどますます労働者は搾取されると述べられる[224]。しかし、マルクスは、前資本主義形態で劣悪だった労働条件が産業資本主義でさらに悪化したことを論証していないし、データは主にエンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』に基づいている[224]。
ケンブリッジ経済クラブは1885年の論文で、マルクスの政府報告書の引用は不正確であるだけでなく、歪曲もあったと指摘しており[368]、マルクスの他の著作においても同様の改ざんがなされているという疑いの目を持たざるをえないとジョンソンはいう[366]。
マルクスは自説と矛盾する最新の資料は使用せずに、古い資料を用いた[366]。「資本主義は果てしなく悪条件を生み出す」というマルクスの主張(信念)の証拠として使用されるのは、前資本主義形態に属する陶器製造業、仕立て屋、鍛冶屋、パン屋、マッチ、壁紙、レース製造業などの零細で資本不足の工場の資料であった。しかし、こうした零細工場は、機械化するだけの資本がないために条件が悪いのであり、マルクスは、資本を投下すれば悪条件は緩和されていくという現実を見ようとはせず、鉄道の事故率についても、古いデータを「最新の鉄道災害」として紹介し、実際には事故率が劇的に低下し、資本論が出版された頃には、安全な輸送手段になっていた[366]。工場での労働者虐待について論じるときも、工場視察団報告書を用いて、それが標準的な状態であるかのようにマルクスは扱ったが、その調査は、虐待の実態を摘発するためのもので、そうした工場主は罰せられた[366]。マルクスはブルジョワ国家は資本主義の共犯者であると主張するが、もしそうなら議会は工場法など可決しなかっただろう[366]。結局、マルクスは証拠資料を歪曲するか、自分のテーゼを放棄(変更)するかの二つに一つを選ばざるをえなかったのであり、テーゼの保存を選び、資料を歪曲した。マルクスは自分で事実を調べようとはしなかったし、他人が調べた事実を客観的に使うこともしなかったとジョンソンはいう[366]。
また、マルクスは他人の言葉を多数借用しており、たとえば、「労働者は祖国を持たない」はマラーから、「宗教は人民にとってアヘンである」はハイネから、「万国の労働者よ、団結せよ!」はカール・シャッパーから、「プロレタリア独裁」はブランキから借りている[202]。共産党宣言では、エドゥアール・ガンスの、かつて主人と奴隷、貴族と平民、封建領主と家臣が相対したように、現代は有閑層と労働者が対立しており、イギリスの工場では1人の個人のために何百人が貧窮にあえいでいるという主張がほとんどそのまま借用された[369]。
マルクスは悪筆であり、 マルクスの父親は「お前の字は苦心しないと読めない」 とこぼしており、妻イェニーは夫の原稿の清書をした。キュンツリによると、悪筆は自己中心主義的性格のあらわれである[324]。
その他の批判
以上の他にも以下のような批判がマルクス主義に対してなされた。
政治学者ハロルド・ラスキは「カール・マルクス」(1922)で、政治学者レイモン・アロンは「歴史哲学入門」(1938)「知識人とマルキシズム」(1955)「自由の論理」(1965)で、それぞれマルクス主義を批判した[66]。
仏教学者江部鴨村の「仏教概論 釈尊とマルクス」(昭和23)、大野信三「仏教社会・経済学説の研究」(昭和31)、武並義和「イデオロギー支配と逆ユートピア」 (1975年)などもマルクス主義を批判した[66]。
前衛主義批判
マルクスは「哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。しかし重要なのは世界を変革することだ」と主張し、理論革命家が革命を先導すべきだと主張した。これをレーニンは前衛主義として受け継ぎ、前衛党組織をつくった。しかし、もしマルクスの言うように革命が「歴史の必然」ならば、知識人インテリ(ロシア語でインテリゲンツィア)が信念を持って革命を遂行する必要などないはずである。
笠井潔は、インテリゲンツィアを知的無用者だと述べ、彼らが革命の理想にとりつかれたのは、本来は無用者であるのもかかわらず、自分をひとかどの人間だと思い込んだエリート意識であり、過剰な自己観念であり、にもかかわらず自分を評価しない社会に対するルサンチマン、劣等感であると指摘している。無目的で鬱屈としたインテリにとって、マルクスの革命理論は絶好の受け皿となった。これらのコンプレックスと自意識の強い田舎インテリの姿は、ドストエフスキーの文学などに多種多様に描写されている。前衛主義とは大衆を愚衆と考えた傲慢なエリート主義であり、排他的で硬直化した独善性である。それはレーニンの「マルクス主義は真理であるがゆえに全能である」という言葉に象徴されている。人民を解放しようという献身的な利他性どころか、世界を意のままに動かそうとする肥大化したエゴであり、ソ連が収容所群島と化したり、連合赤軍が観念的なテロリズムに走るのは、その独善性と傲慢さゆえに必然であると指摘している。[370]
吉本隆明は、知識人階級は非現実的で抽象的な理想に走るのではなく、<大衆の原像>を自分の理論の中に組み込むことが、世界を正しく認識する上で重要だと主張している。
マルクス主義は、断片的な改良にとどまる「改革主義」は悪であり、その弊害は、旧体制を完全に打倒し、革命家が定めた新体制に置き換える革命によって、回避できると結論する[64]。しかし、特定の限定された改革を実行する人びとが間違いを犯すことは十分にありうることであり、改革を続けるうちに、新たな意図しない困難が現れることは、人間の行動が完璧であることを期待しない正当な理由ともなるとアクトンはいう[64]。
戦争論
マルクスは歴史上の全ての闘争は階級闘争であると主張する。レーニンは共産主義が普及したら階級闘争はなくなり、世界から戦争もなくなると主張したが、戦争原因は経済的合理性には還元できない[注 27]。フランシス・フクヤマは戦争は精神的な気概、優越願望の衝突によって起こると主張する[注 28]。
レーニン反映論への批判
レーニンは、認識は人間による自然(物質)の反映である[371]という反映論を説き、意識は大脳の機能に過ぎないと述べた。レーニン的な弁証法的唯物論は、つきつめれば人文・社会科学領域も自然科学によって説明できるとする自然科学至上主義であり、自然科学万能論である。しかし、医学的な大脳生理学や神経学がどれだけ発達しても、知覚の問題は説明できても、解釈や感想、評価という人間の行う意味付けや価値付け、審美眼の部分は説明できない。吉本隆明はいくら人体を医学的に解剖しても、その人の性格や哲学、思想は分からないように、精神は肉体から派生するが還元はできないとして、自然科学ではアプローチ(観察)できない人間の解釈、感想、審美眼を「幻想」と呼んでいる。
生物も高度で複雑な機械に過ぎない(機械論)という指摘もあるが、生物と機械は違う。機械は任意に分解し、組み立てなおすことができるが、生物は一度分解したら死んでしまい、もう二度と活動を再開することはない。生命活動は身体的な全体性があって初めて成立するものであり、各要素や各部分、各器官に分解することはできないのである。外的な損傷がなくても、生物とその死体は魂が抜けたとしか表現しようのない、不可逆で質的な断絶がある。無機的な物質には存在しないが、生物には存在する根源的なエネルギーを、人々は昔から霊魂(ゴースト)、精神分析学のジークムント・フロイトはEs(エス[372]無意識の本能衝動)、吉本隆明は原生的疎外と呼んでいる。
関連する作品
- 小説
- アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』1957年
- アレクサンドル・ソルジェニーツィン『収容所群島』1973年-1975年
脚注
注釈
- ^ 修正主義はマルクス主義的労働運動の内部での用語であり、自らの立場を正統として相手を異端として名指すもので、カウツキーはベルンシュタインを、レーニンはカウツキーを修正主義と呼ぶなど、相対的なものである[17]。ここでは、シェリ・バーマンが正統派マルクス主義、社会民主主義と対比させて、レーニンらを修正主義と分類している。
- ^ イギリスにとどまったアルスター6州(北アイルランド)と南アイルランドとの対立は、経済的動機ではない。民族自決権によって生み出された東欧のバルカン化は経済的観点からは破滅的であったが、本質的には感傷的な理由から要求された[29]。
- ^ アメリカの選挙での対立関係は宗教の線で生じているが、これは資本家にとっては便利であり、資本家を宗教的人間にしていく傾向がある。しかし、資本家だけではそのような結果を生み出せず、労働者が生活水準の向上よりも宗教的信条の前提を望んでいるという事実から生み出されており、これは必ずしも資本家の嘘によるものではない[31]
- ^ C-M-Cでは、商品は貨幣へと転化し、その貨幣は再び商品を買うことで再転化する。つまり、新たに商品を買うために、商品を売るのである。
- ^ 社会学者ノルベルト・エリアスも近代化によって社会の複雑性が増大するにつれて、行為は組織化されていく。そしてまた、社会の複雑性が低下すれば、気まぐれな子供のように、個人の自己制御が低下し、感情の自発的な表出されるとした[50]。
- ^ 口承文化にも強い倫理的禁則もあれば厳しい抑圧もあり、口承文化が感情の自発的表出と普遍的に結びつくという証拠も不足している[50]
- ^ この点はG.A.コーヘンも同様に論じている。Karl Marx's Theory of History: A Defence, (Princeton University Press, 1978).
- ^ 労働者の平均賃金も革命前には月収22金貨ルーブルであったが、10〜2ルーブルと激減し、1916-1917年の年収は87ルーブルであったが、1921-1923年の年収は36ルーブルと半分以下となった[82]。
- ^ ペトログラードの児童犯罪率は革命前の7倍となった[82]。
- ^ 革命前に450万ルーブルが分配されていたが、革命後は36万ルーブルしか分配されなかった[82]
- ^ なお、コンスタンティノス帝はローマ皇帝として初めてキリスト教を信仰したのであり、キリスト教を国教としたのはテオドシウス1世である。
- ^ ロベスピエールは、戦争は、いかなる外国の民衆も解放することはできず、フランスの民衆は国家権力の鎖につなぐことになるとし、軍事独裁を予見していた[175]。
- ^ レーニンは、土地、企業、銀行、鉄道等の国有化を断行し、関税による保護貿易というブハーリンらの主張をしりぞけ、貿易の国家独占を指令し、内戦や戦争に対処した軍事経済政策の「戦時共産主義」を実行した。しかし、混乱による生産低下、飢餓、インフレ等による経済破綻、クロンシュタットの反乱などで表面化した大衆の不満によって、ネップという市場経済を導入せざるをえなくなった。これはレーニン自身がいうようにマルクス主義からの「退却」であった[70]
- ^ マルクスの主な功績は、執筆活動、つまり思想であって、革命家としての社会的活動ではない[70]。マルクスは正義者同盟(のち共産主義者同盟)に参加したほか、フランス二月革命やドイツ三月革命に参加し、ベルギ一やプロイセン政府から退去命令を受けたろ、1864年に参加した国際労働者協会では、対立したバクーニンらを除名したが、同時に協会の統ー性も破壊され、1876年に解散するなどの社会運動の参加はあったものの、一部の社会運動家や労働者間で認知されたにとどまり、大衆には殆ど知られていなかったし、ましてや大衆を動員し、革命を実行することはできなかった[70]。
- ^ 1792年のフランス革命戦争は諸外国の専制君主に対して立ち上がり、同時に宮廷とブルジョワジーの支配を打ち壊す勝利の進撃とみられた[175]。
- ^ 自発革命主義、集中主義、意志主義といった「戦闘」概念などが永久化される
- ^ ただし、ヘーゲルは存在と精神の宥和をみたのに対して、マルクスが存在を矛盾を媒介とした転化の過程においてみたので、両者の位相は根本的に異なる。
- ^ シティの商人や銀行家も貴族の称号を入手していった[257]。
- ^ 権力をもった個人や集団が社会経済の動態的な傾向に対して持つ知識は、その動態的な傾向の一部となり、それを形成する要因ともなる。産業に対するシティの優位をもたらした初期条件は、シティの地位を維持する条件と同一ではない[257]。
- ^ また、ハイエクは、オーギュスト・コント、サン・シモン、功利主義に対しても、行為のコスト、便益の情報が事前にわかっており、それにより効用最大化の意思決定が可能となる状況を前提とした科学主義だと批判したほか、ケインズや、ミルトン・フリードマンのマネタリズム、シカゴ学派も批判した[261]
- ^ 貨幣Gと商品Wとの交換過程W-G-Wは、必然的に貨幣を出発点と帰着点にするG-W-Gの交換を生み出すが、最初のGと最後のGは等価値であり無意味であるため、貨幣は価値増殖を自己目的とする資本へ転化される。一方、等価交換を前提とした商品流通は価値を増殖させないが、この矛盾から、「それ自体の使用価値が価値の生産であるような特異な商品」である「労働力商品」の必然性が示される。(資本論1巻1-4章)[268]
- ^ "moralism "道徳主義とは、従来の道徳的規則に対する誇張された、あるいは見当違いの熱意を指して使われる[271]。
- ^ なお、デイヴィッド・ヒュームも、誰もが豊かで欲しいものを手に入れることができれば、またすべての人間間に完全な親密さがあれば、争いはなく、正義は必要ないと主張した[34]
- ^ Liberal socialismは、社会自由主義(Social Liberalism)と異なる。
- ^ なお、グリューンとマルクスは共通するところも多く、グリューンは、ベルギーの自由主義体制を、市民的権利の保護を装って、資本家が労働者を搾取していると非難し、賃労働を廃止し、プロレタリアによる権力奪取を主張した[328]
- ^ ルードヴィヒ・クーゲルマンがほんの少し生活をきちんとすれば、資本論も完成できるだろうと助言すると、罵詈讒謗を浴びせた[347]
- ^ もしそうなら、世界大戦のように戦勝国も敗戦国も大被害を受けるほど戦争が拡大することはなかったはずである。首都が瓦礫になるまで徹底抗戦するなどということは、どう考えても不合理である。また、もし国民が餓死寸前であり、貧困にあえいでいたら、近代的な軍備を整えて戦争を起こすことすら不可能なはずである。逆説的な言い方だが、戦争は経済的な余裕があるからこそ実行することができるのである[要出典]。ジョルジュ・バタイユは、人間には経済的合理性では説明できない破壊衝動が存在することを指摘し、それを蕩尽、あるいは過剰なる太陽エネルギーと呼んでいる[要出典]。
- ^ 例えば、動物の世界では同種同士では住み分けを行い、争いは回避されるようなシステムになっている。ナワバリ争いで闘うこともあるが、負けた方は致命傷を受ける前にすごすごと退散し、勝った方はナワバリを維持できたことに満足し、わざわざ追い討ちをかけたりはしない。同種同士で殺し合いまでエスカレートすることはめったになく、戦争は気概を持った人間に特有の行為である。侵略的な国王が自国で自給自足できるだけの生産力があるのにもかかわらず、巨費を投じて他国を武力侵略するのは、彼が自分の力を誇示したいという名誉欲、野心に駆られたからだと考えたほうが合理的である。また、動物に自己防衛という概念はあるが、報復や復讐という概念はない。生存効率や経済的合理性を無視して、仇討ちや復讐を実行するのは人間だけである[27]
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