「光延博愛」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Cewbot: ウィキ文法修正 104: Unbalanced quotes in ref name |
|||
7行目: | 7行目: | ||
子供の頃から好きな漫画のイラストを模写することが好きで<ref name="theanime8311"/>、中学入学後に漫画雑誌への投稿を始める<ref name="theanime8311"/>。本人は一度、雑誌『[[漫画少年]]』に自分の作品が載ったことがあると話している<ref name="theanime8311"/>。 |
子供の頃から好きな漫画のイラストを模写することが好きで<ref name="theanime8311"/>、中学入学後に漫画雑誌への投稿を始める<ref name="theanime8311"/>。本人は一度、雑誌『[[漫画少年]]』に自分の作品が載ったことがあると話している<ref name="theanime8311"/>。 |
||
[[多摩美術大学]]を卒業後、[[1959年]]([[昭和]]34年)に[[東映アニメーション|東映動画]]に入社<ref name="theanime8311/>。当時は特に[[コマーシャルメッセージ|CM]]に興味を持っていなかったが、「これからは[[宣伝]]の時代。宣伝界にしがみついていれば何とか食っていけそう」と自分なりに考えて望んで、退社してフリーになる[[1966年]](昭和41年)までCM課に配属されて勤務。その中で、[[黄桜]]のCMで[[河童]]のキャラクターを描いた[[清水崑]]との出会いは後のアニメーター生活において大きな財産だったと話している<ref name="theanime8311"/>。しかし[[公害]]が社会問題化した時代になり、時には公害を生み出すような企業のCMも作らなければいけない自分の仕事に辛さを感じるようになり、また他のこともやってみたい気持ちも大きくなって東映を退社<ref name="theanime8311"/>。東映退社後の[[1966年]]、最初に『おそ松くん』の演出を手掛ける<ref name="theanime8311"/>。 |
[[多摩美術大学]]を卒業後、[[1959年]]([[昭和]]34年)に[[東映アニメーション|東映動画]]に入社<ref name="theanime8311" />。当時は特に[[コマーシャルメッセージ|CM]]に興味を持っていなかったが、「これからは[[宣伝]]の時代。宣伝界にしがみついていれば何とか食っていけそう」と自分なりに考えて望んで、退社してフリーになる[[1966年]](昭和41年)までCM課に配属されて勤務。その中で、[[黄桜]]のCMで[[河童]]のキャラクターを描いた[[清水崑]]との出会いは後のアニメーター生活において大きな財産だったと話している<ref name="theanime8311"/>。しかし[[公害]]が社会問題化した時代になり、時には公害を生み出すような企業のCMも作らなければいけない自分の仕事に辛さを感じるようになり、また他のこともやってみたい気持ちも大きくなって東映を退社<ref name="theanime8311"/>。東映退社後の[[1966年]]、最初に『おそ松くん』の演出を手掛ける<ref name="theanime8311"/>。 |
||
== 参加作品 == |
== 参加作品 == |
2023年8月29日 (火) 00:14時点における版
光延 博愛(みつのぶ ひろよし、1937年4月1日 - 没年不明)とは、かつて土田プロダクションに所属していたアニメーション演出家、アニメーション監督、アニメーターである。福岡県大牟田市出身[1]。
妻はスタジオ雲雀会長である光延幸子、息子はスタジオ雲雀社長の光延青児。
来歴
子供の頃から好きな漫画のイラストを模写することが好きで[1]、中学入学後に漫画雑誌への投稿を始める[1]。本人は一度、雑誌『漫画少年』に自分の作品が載ったことがあると話している[1]。
多摩美術大学を卒業後、1959年(昭和34年)に東映動画に入社[1]。当時は特にCMに興味を持っていなかったが、「これからは宣伝の時代。宣伝界にしがみついていれば何とか食っていけそう」と自分なりに考えて望んで、退社してフリーになる1966年(昭和41年)までCM課に配属されて勤務。その中で、黄桜のCMで河童のキャラクターを描いた清水崑との出会いは後のアニメーター生活において大きな財産だったと話している[1]。しかし公害が社会問題化した時代になり、時には公害を生み出すような企業のCMも作らなければいけない自分の仕事に辛さを感じるようになり、また他のこともやってみたい気持ちも大きくなって東映を退社[1]。東映退社後の1966年、最初に『おそ松くん』の演出を手掛ける[1]。
参加作品
- 1966年 おそ松くん(アニメ第1作)(演出)
- 1967年 かみなり坊やピッカリ・ビー(演出)
- 1973年 哀しみのベラドンナ(原画)
- 1975年 まんが日本昔ばなし(演出)
- 1976年 ハックルベリィの冒険(監督[注 1])
- 1976年 ドカベン(絵コンテ・演出)
- 1980年 がんばれゴンベ(絵コンテ・演出)
- 1980年 おじゃまんが山田くん(チーフディレクター)
- 1980年 まんがことわざ事典(キャラクターデザイン)
- 1982年 一ッ星家のウルトラ婆さん(監修)
- 1982年 さすがの猿飛(絵コンテ)
- 1983年 キャプテン翼(チーフディレクター・絵コンテ)
- 1984年 あした天気になあれ(チーフディレクター)