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2006年・2007年は参戦を休止し、2008年にはSUPER GTと同じ[[RACING PROJECT BANDOH]]から、マシンもGTと同じ[[レクサス・IS|レクサス・IS350]]をベースとした車両でシリーズに復帰。第5戦のオートポリスにのみスポット参戦したが、マシントラブルによりリタイアとなった。2009年は、GTでのドリフトデモランやDtoDなどで使用していた[[トヨタ・アリスト|アリスト]]をD1のレギュレーションに合わせ参戦したが、第7戦の4位が最高でシリーズ15位に終わった。 |
2006年・2007年は参戦を休止し、2008年にはSUPER GTと同じ[[RACING PROJECT BANDOH]]から、マシンもGTと同じ[[レクサス・IS|レクサス・IS350]]をベースとした車両でシリーズに復帰。第5戦のオートポリスにのみスポット参戦したが、マシントラブルによりリタイアとなった。2009年は、GTでのドリフトデモランやDtoDなどで使用していた[[トヨタ・アリスト|アリスト]]をD1のレギュレーションに合わせ参戦したが、第7戦の4位が最高でシリーズ15位に終わった。 |
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2010年には、マシンをスープラに戻し参戦。第4戦では準優勝を果たし、年間シリーズ8位となった。2011年もスープラで参戦。第3戦オートポリス{{Efn|東日本大震災の影響で第1戦、第2戦のお台場が延期となったためオートポリスでの第3戦が実質上の開幕戦となる}}ではD1GP初優勝を飾った{{Efn|ただし追走1回戦の途中、悪天候により追走は打ち切り。単走での順位を総合順位として採用されたためハーフポイントとなった。}}<ref>[https://clicccar.com/2011/04/24/18656/ |
2010年には、マシンをスープラに戻し参戦。第4戦では準優勝を果たし、年間シリーズ8位となった。2011年もスープラで参戦。第3戦オートポリス{{Efn|東日本大震災の影響で第1戦、第2戦のお台場が延期となったためオートポリスでの第3戦が実質上の開幕戦となる}}ではD1GP初優勝を飾った{{Efn|ただし追走1回戦の途中、悪天候により追走は打ち切り。単走での順位を総合順位として採用されたためハーフポイントとなった。}}<ref>[https://clicccar.com/2011/04/24/18656/ D1GP2011年の初戦は織戸学の初優勝となりました【2011D1GP】] clicccar、2011年4月24日</ref>。 |
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D1GP2011年の初戦は織戸学の初優勝となりました【2011D1GP】] clicccar、2011年4月24日</ref>。 |
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2012年は、[[トヨタ・86]]にマシンチェンジ。エンジンはノーマルの[[スバル・FA型エンジン|FA20]]から[[レクサス・IS F]]に搭載されている[[トヨタ・URエンジン#2UR-GSE|2UR-GSE]]をチューニングしたものに換装されている。開幕戦こそ完成したばかりの状態ということもありエンジントラブルが出たものの、徐々にマシンの熟成が進みコンスタントにポイントを獲得、シリーズ16位でシーズンを終えた。 |
2012年は、[[トヨタ・86]]にマシンチェンジ。エンジンはノーマルの[[スバル・FA型エンジン|FA20]]から[[レクサス・IS F]]に搭載されている[[トヨタ・URエンジン#2UR-GSE|2UR-GSE]]をチューニングしたものに換装されている。開幕戦こそ完成したばかりの状態ということもありエンジントラブルが出たものの、徐々にマシンの熟成が進みコンスタントにポイントを獲得、シリーズ16位でシーズンを終えた。 |
2023年8月11日 (金) 01:14時点における版
織戸 学 おりど まなぶ | |
---|---|
生誕 |
1968年12月3日(56歳) 日本、千葉県 |
職業 | レーシングドライバー |
配偶者 | あり[1] |
公式サイト | MAX織戸公式ウェブサイト |
補足 | |
織戸 学 | |
---|---|
YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2016年- |
ジャンル | モータースポーツ |
登録者数 | 9.36万人 |
総再生回数 | 12,896,391回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年3月31日時点。 |
織戸 学(おりど まなぶ、1968年12月3日[2] - )は、千葉県船橋市出身[2]で神奈川県在住[3]のレーシングドライバー。MAX ORIDOとしても知られる。愛称は「オリダー」「モン吉」。A型[2]。
プロフィール
デビュー
自動車整備の専門学校を卒業した後、自動車雑誌「CARBOY」主催のドリフトコンテストで頭角を現し、初代グランドチャンプとなった[3]後に坂東正明率いる坂東商会に入社し、21歳の1991年より富士フレッシュマンレースのNA1600クラス[2]でレーシングドライバーとしてデビューした[4]。マシンはAE86レビンのN2仕様で、周囲はベテランドライバーばかりだったため、よく目の敵にされたとビデオオプション[要文献特定詳細情報]で語っている。翌1992年にはシリーズチャンピオンを獲得[3]。
1993年にはフレッシュマントロフィーレースinSUZUKAのN2-1600クラスにAE92レビンのN2仕様で参戦[5]。スポット参戦ながらシリーズ3位を獲得[3]。
1994年からはスーパーシルビアN2レースに参戦[2]。1995年と翌1996年に連続してシリーズチャンピオンを獲得[6]。
デビュー当初は土屋圭市を継ぐ「ポストドリキン」とも呼ばれ[要出典][7]、横浜ゴムの開発ドライバーを務めていた土屋がブリヂストンに移籍した際は、その後継ドライバーとして織戸が抜擢される。
全日本GT選手権・SUPER GT
全日本GT選手権(JGTC、現 SUPER GT)には1996年より参戦し、最初はGT300クラスで日産・シルビアを駆り、翌1997年にはシリーズチャンピオンに輝いた[要検証 ]。
その後、2000年には土屋エンジニアリングよりGT500クラスに参戦[8][9]。2002年サードに移籍し、2003年は第7戦にてGT500初優勝を飾った[8][10]。2004年に再び土屋エンジニアリングに復帰し、2005年には開幕戦で優勝を飾った[8][10]。2006年は、土屋エンジニアリングを立ち上げた土屋春雄の息子である土屋武士とコンビを組んだ。
2008年より、再びRACING PROJECT BANDOHからGT300クラスに参戦し、第5戦菅生で、自身初のポールポジションを獲得。第7戦もてぎでは予選での車両規定違反で最後尾スタートを強いられたが、そこから怒涛の追い上げを見せ、最後尾25位スタートからの大逆転優勝を飾った。この最後尾スタートからの優勝は、JGTC時代も含め初の快挙であった。2009年は開幕戦で優勝を飾ると、その後も安定した成績を収め、12年ぶりのシリーズチャンピオンに輝いた。第8戦でGT参戦通算100戦目を迎えた。[8][11]。 2011年にJLOCに移籍[8]し、ほぼ毎シーズン優勝を含む表彰台を獲得し安定した速さを見せた。しかしタイトル争いに絡むことはできず、2018年3月、所属していたJLOCから離脱したことを自らのFacebookで明らかにした[12]。同月19日、GT500クラスに「LEXUS TEAM WedsSport BANDOH」として参戦するRACING PROJECT BANDOHのエグゼクティブアドバイザーに就任することが発表された[13]。また横浜タイヤを知り尽くしていることを買われ、同年第5戦富士500マイルにてaprの第3ドライバーとしてトヨタ・プリウスをドライブした。
スーパー耐久
JGTCにデビューした1996年からN1耐久(現 スーパー耐久)にも参戦し、2005年にはSTクラス1のシリーズチャンピオンに輝いている(TEAM ADVAN DENAG #25 ADVAN DENAG GT3/ポルシェ・911GT3)[3]。
D1グランプリ
D1グランプリ(D1GP)では、シリーズが始まった2001年から2004年までは、土屋圭市・鈴木学と共に審査員を務めていたが、2005年から選手として参戦を開始した[14]。マシンは、トヨタ・スープラ (JZA80) を使用。ボディーやロールケージは土屋エンジニアリングが、エンジンのチューニングはオートプロデュースBOSSが手掛けた[15][16]。AE86やシルビアなどD1GPの主流である車種に比べ車重が重いため、SUPER GTのGT500マシンから流用したカーボン製のドアやリアハッチを使用するなどして軽量化を図っている。また、出力も当時のD1GPマシンとしては非常に高い680馬力までパワーアップされている[16]。
2005年は、開幕戦アーウィンデール・スピードウェイは、マシンが未完成であった影響もあり単走1回戦敗退に終わった。しかし、第2戦お台場と第3戦SUGOでは追走進出を果たした。さらにHKSのボアアップキットでエンジン(2JZ-GTE)の排気量を3,000ccから3,400ccに増やし、ホリンジャー製のシーケンシャルミッションを新たに搭載した第5戦エビスでは、1回戦を100点で通過し、追走でも三木竜二、谷口信輝、手塚強といった有力ドライバーを下して準優勝を果たすなど活躍。シリーズ12位でシーズンを終えた。
2006年・2007年は参戦を休止し、2008年にはSUPER GTと同じRACING PROJECT BANDOHから、マシンもGTと同じレクサス・IS350をベースとした車両でシリーズに復帰。第5戦のオートポリスにのみスポット参戦したが、マシントラブルによりリタイアとなった。2009年は、GTでのドリフトデモランやDtoDなどで使用していたアリストをD1のレギュレーションに合わせ参戦したが、第7戦の4位が最高でシリーズ15位に終わった。
2010年には、マシンをスープラに戻し参戦。第4戦では準優勝を果たし、年間シリーズ8位となった。2011年もスープラで参戦。第3戦オートポリス[注釈 1]ではD1GP初優勝を飾った[注釈 2][17]。
2012年は、トヨタ・86にマシンチェンジ。エンジンはノーマルのFA20からレクサス・IS Fに搭載されている2UR-GSEをチューニングしたものに換装されている。開幕戦こそ完成したばかりの状態ということもありエンジントラブルが出たものの、徐々にマシンの熟成が進みコンスタントにポイントを獲得、シリーズ16位でシーズンを終えた。
2013年はマシンはそのままであるが、エンジンをシボレー・コルベット用のV8エンジンへと変更した事で更なるパワーアップを行っており、第4戦では準優勝を果たした。2014年も86で参戦し、シリーズ13位。
2015年は、第4戦エビスでシーズン初優勝を飾った[18]。10月15日、自身のブログにてD1グランプリ引退を表明[19]。最終戦では86がエンジンブローで走れなくなりリタイアしたものの、翌日開催されたワールドチャンピオンズのフィナーレでは、2005年シーズンに使用していたスープラで「メモリアル追走」を披露した。
その他
2004年にはル・マン24時間レースにチョロQレーシングよりポルシェ・911で黒澤治樹・西沢和之と参戦、総合12位/GTクラス2位に入った。
2013年2月には、横浜市都筑区にプロ用ドライビングシミュレーターを備えたレーシングドライバー向けトレーニング施設として「130R YOKOHAMA」をオープンした。また富士スピードウェイなどでレーシングドライバー向けのトレーニングを開催している。
86/BRZレースにも開催初年度の2013年から漫画クローズ×WORSTとのコラボレーションであるTOMMY‘SRACING withクローズエクスプロードから参戦。未経験者ばかりのチームであったが、初年度から優勝を果たした。さらに男性音楽グループONE☆DRAFT(徳間ジャパン)とのコラボを実現し『ONE WAY』をチーム応援オフィシャルソングとして迎えるという企画も実現している。2015年からはタイヤ販売店のK-oneのチームであるK-one Racingに移籍し、2021年現在も参戦を継続している。
2015年、2019年、2021年には全日本ラリー選手権にK-one Racingより参戦している[20][21]。
レース戦歴
- 1992年 - 富士フレッシュマンレース NA1600クラスシリーズチャンピオン[3]
- 1993年 - フレッシュマントロフィーレースinSUZUKA N2-1600クラス(第3戦より、3回優勝、シリーズ3位)[3]
- 1995年 - スーパーシルビアN2シリーズチャンピオン[22]
- 1996年
- 1997年 - 全日本GT選手権・GT300クラス(RS-Rレーシングwith BANDOH/RS☆Rシルビア)(シリーズチャンピオン・2勝)[3]
- 1998年 - 全日本GT選手権・GT300クラス(Rd.4〜7)(RACING PROJECT BANDOH/ウェッズスポーツセリカ)(ランキング2位)[3]
- 1999年
- 2000年
- 2001年
- 2002年
- 2003年
- 2004年
- 2005年
- 2006年 - SUPER GT・GT500クラス(TOYOTA TEAM TSUCHIYA/ECLIPSE ADVAN スープラ)(シリーズ19位)[3]
- 2007年 - SUPER GT・GT500クラス(TOYOTA TEAM TSUCHIYA/ECLIPSE ADVAN SC430)(シリーズ17位)[3]
- 2008年
- 2009年
- 2010年
- 2011年
- SUPER GT・GT300クラス(JLOC/リール ランボルギーニガヤルドRG-3)(シリーズ11位)[3]
- D1グランプリ(MAX ORIDO D1 Project/ADVAN MAXスープラ)(シリーズ13位)[3]
- 2012年
- SUPER GT・GT300クラス(JLOC/リール ランボルギーニガヤルドRG-3)(シリーズ8位)[3]
- D1グランプリ(DRIVE M7 ADVAN MAX ORIDO RACING/DRIVE M7 ADVAN 86)(シリーズ16位)[3]
- 2013年
- SUPER GT・GT300クラス(JLOC/リール ランボルギーニガヤルドLP600 GT-3)(シリーズ14位)[25]
- D1グランプリ(DRIVE M7 MAX ORIDO RACING/DRIVE M7 ADVAN 86)(シリーズ5位)[25]
全日本GT選手権/SUPER GT
ル・マン24時間レース
チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2004年 | チョロQレーシング | 黒澤治樹 西澤和之 |
ポルシェ・911 GT3RS | GT | 322 | 12位 | 2位 |
逸話
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 初めてマレーシアのセパンサーキットでのレースに出場する際に、「暑さ対策に岩塩をなめておくと良い」と聞いた織戸は、当時は岩塩というものが何か分からなかったため、レース前に茶碗一杯分の塩を採ってしまった。全身にピリピリとした感覚を覚えた後、猛暑のはずなのに強烈な寒さに襲われたという。その後、ヘリコプターでクアラルンプールの病院に搬送され、一時は死亡確率4割という危険な状態に陥った。
- 漫画『頭文字D』の大ファンでもあり、「頭文字D Battle stage」では雑談会で土屋圭市、今村陽一と共に出演している。また86/BRZレースや全日本ラリーでは頭文字Dのラッピングをマシンに貼って参戦していたことがある。
- 雑誌Optionの企画にて、飯田章と「水戸納豆レーシング」というAE86のチームを結成し、公道やサーキットを暴走していた事がある。本人曰く、一番嫌な企画だったとの事。
- 愛車の一つであるA80型スープラを購入したきっかけは、企画にてパワーハウスアミューズがチューニングしたスープラを乗った際、あまりの出来の良さに感激したためである[26]。
- 株式会社元気制作のレースゲームにライバルキャラクターとして度々出演している。「首都高バトル01」や「レーシングバトル -C1 GRAND PRIX-」において、実際の織戸の愛車である「RIDOX SUPRA」と共に登場する。「街道バトルシリーズ」には織戸本人は登場しないものの、愛車である「RIDOX SUPRA」は収録されている。
- 2001年のマカオ・ギアレースではチェッカーを受けた後、リスボアコーナーで谷口信輝と共に二台のトヨタ・アルテッツァで華麗なドーナッツターンを披露して、マカオの観客を沸かせた[27]。
- プロレスラーの蝶野正洋とは、自宅が非常に近い(1軒挟んで隣同士)ことから交友がある(2022年時点で「12年来の仲」だという)[28]。
- 家族は妻と2女。次女の織戸茉彩はレーシングドライバーの道に進んでおり、インタープロトシリーズ併催の「KYOJO CUP」やヤリスカップなどに参戦しているほか[29]、横浜ゴムの公式TikTokチャンネルなどでMCを務めている[30]。
脚注
注釈
出典
- ^ 塚本 2019, p. 79.
- ^ a b c d e “織戸学 ドライバーズコラム 第1回 プロドライバーとしての半生(前編)”. GAZOO.com (2015年12月1日). 2021年10月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am “プロフィール”. 2021年10月30日閲覧。
- ^ 塚本 2019, pp. 20–22.
- ^ 塚本 2019, p. 24.
- ^ 塚本 2019, pp. 26–27.
- ^ “トピックス - ”MAX ORIDO”こと織戸学選手の愛車がリボルト熊本に!”. 熊本で車・バイクのガラスコーティングならリボルト熊本. 2022年11月7日閲覧。
- ^ a b c d e “織戸学 ドライバーズコラム 第2回 プロドライバーとしての半生(後編)”. GAZOO.com (2015年12月8日). 2021年10月30日閲覧。
- ^ 塚本 2019, pp. 36–37.
- ^ a b 塚本 2019, p. 37.
- ^ 塚本 2019, pp. 42–43.
- ^ “織戸&細川がJLOCから離脱。今年のスーパーGTは著名ドライバーが続々不在に”. AUTOSPORT WEB. (2018年3月5日) 2018年3月19日閲覧。
- ^ “LEXUS TEAM WedsSport BANDOHが織戸学をエグゼクティブアドバイザーに起用”. AUTOSPORT WEB. (2018年3月19日) 2018年3月19日閲覧。
- ^ 塚本 2019, pp. 40–41.
- ^ 塚本 2019, p. 41.
- ^ a b ピックアップマシン RS☆R SUPRA [JZA80 ] J.D.M. OPTION、2023年7月26日閲覧。
- ^ D1GP2011年の初戦は織戸学の初優勝となりました【2011D1GP】 clicccar、2011年4月24日
- ^ Rd.4 Report D1 OFFICIAL WEBSITE、2023年7月26日閲覧。
- ^ D1GP お台場で引退致します。 MAX ORIDO STYLE(公式ブログ)、2023年7月26日閲覧。
- ^ 塚本 2019, p. 94-95.
- ^ “K-oneレーシング、織戸学を起用し全日本ラリー第6戦に参戦。パチスロ頭文字Dカラーの86投入”. AUTOSPORT WEB. (2021年6月11日) 2021年10月30日閲覧。
- ^ 塚本 2019, p. 50.
- ^ 塚本 2019, p. 51.
- ^ 塚本 2019, p. 52.
- ^ a b 塚本 2019, p. 53.
- ^ “追悼 Amuse 田名邊秀樹 あれから10年【Best MOTORing】2008 - YouTube”. www.youtube.com. 2020年11月23日閲覧。
- ^ “谷口信輝 ドライバーズコラム 第11回 プロのレーシングドライバー”. 2017年12月15日閲覧。
- ^ 【動画】あの“黒のカリスマ”蝶野正洋が織戸学と対談。意外な接点とエピソードが満載 - オートスポーツ・2022年5月19日
- ^ 織戸 茉彩 - DRIVING ATHLETE
- ^ 「織戸学の愛娘がドリフト本格デビュー!?」ヨコハマタイヤの動きが相変わらず怪しい・・・ - WebOption・2023年4月20日
参考文献
- 塚本剛哲 編『織戸学ドライビングストーリー』三栄〈サンエイムック〉、2019年。ASIN B07RNZCR5T。ISBN 9784779639401。
外部リンク
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