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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==


* 武石みどり監修, 東京音楽大学創立百周年記念誌刊行委員会編『音楽教育の礎 : 鈴木米次郎と東洋音楽学校』春秋社, 2007.5 ISBN:978-4-393-93513-2 [https://id.ndl.go.jp/bib/000008540797 NDL]
* 武石みどり監修, 東京音楽大学創立百周年記念誌刊行委員会編『音楽教育の礎 : 鈴木米次郎と東洋音楽学校』春秋社, 2007.5 ISBN 978-4-393-93513-2 [https://id.ndl.go.jp/bib/000008540797 NDL]


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2023年4月29日 (土) 00:13時点における版

鈴木すずき 米次郎よねじろう
Suzuki Yonejiro
生誕 1868年2月28日
出身地 日本の旗 日本 江戸 麻布笄町
死没 (1940-12-28) 1940年12月28日(72歳没)
日本の旗 日本
学歴 東京音楽学校(現:東京芸術大学
ジャンル
職業 作曲家音楽教育家

鈴木 米次郎(すずき よねじろう、1868年2月28日慶応4年2月6日) - 1940年昭和15年)12月28日[1]は、日本作曲家音楽教育家で、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)創立者[2]。号は長短子[3]

生涯

1868年2月28日(慶応4年2月6日)、旗本鈴木重教の次男として江戸麻布笄町(現・東京都港区)に生まれた[1][4]。まもなく江戸幕府崩壊により徳川家が移住した静岡に移り、1873年(明治6年)に一家で上京した[2][5]。東京府中学校(東京都立日比谷高等学校の前身)に入学後、築地の英学校に転校して英語を学ぶ[6]。1885年(明治18年)、音楽取調所伝習生となり、伊澤修二ギヨーム・ソーヴレーに師事[1]。1888年、音楽取調所が改称した東京音楽学校(現・東京藝術大学)を卒業し[7][4]神奈川県尋常師範学校に赴任、唱歌と英語の教員となった[2][8]

1889年、横浜でトニックソルファー方式英語版の音楽教育を計画していたパットン夫人と知り合い、薫陶を受けた[2][9]。同年第一高等中学校教員[10][4]、1891年には東京高等師範学校附属学校(現在の筑波大学附属小学校中学校)教員となり12年に渡り唱歌を教え、音楽教育の基礎を築いた[1][11][4][12]。このころ、東京音楽学校でピアノを学んだ根岸磯菜と結婚した[13]。1897年から、改組されて東京高等師範学校附属となった母校東京音楽学校でも音楽理論、作曲を教えた[1][13][注釈 1]。このころ、上原六四郎納所辨次郎比留間賢八らと明治音楽会を設立、自らも参加した管弦楽団を組織し演奏会を開催し、音楽振興に尽くした[1][14][4][15]。1903年、東京高等師範音楽科主任教授を辞職して東京盲唖学校に移り、視覚障害者の音楽教育に携わる[1][4]。また日清戦争後に急増した清国からの留学生に対し、唱歌指導を行い、1906年末から翌年初頭にかけて中国を視察した[16][4]

1907年(明治40年)、東京府神田区に東洋音楽学校[注釈 2]を設立し、校長となる[1][17][18][19]。管弦楽部を設け、東京音楽学校教師のアウグスト・ユンケルハインリッヒ・ヴェルクマイスターを招き、演奏家の養成を目指す[1]。1908年からは毎年小・中学校の教員を対象に夏期講習会を開催し、唱歌や楽器演奏の指導を行なった[20]。1910年、岩崎小弥太の支援を受けて東京フィルハーモニー会を設立し[21][22]、事務局を東洋音楽学校内に置いて本格的オーケストラ運動を目指す[1][18]。1912年には東洋音楽学校卒業生を中心に東京オーケストラ団を組織し、外航客船での演奏を続けた[1][18][23]。卒業生たちは浅草オペラハタノ・オーケストラなどでも活躍していった[24]

鈴木は東洋音楽学校に清国留学生を受け入れ、卒業生は帰国後音楽家として活躍した[25]。またパットン夫人に学んだトニック・ソルファー方式をとりいれた教育を実践した[25]。さらに1916年(大正5年)には東洋音楽学校に雅楽科を設置し、雅楽演奏家を養成した[18]。学外では東京盲唖学校で唱歌の指導を委嘱され、点字楽譜の整備に尽力して1910年には『訓盲楽譜』を著し[26]、教え子たちは和洋の楽器演奏に活躍した[25]

1922年、東洋音楽学校は財団法人となるが[27]、翌1923年の関東大震災で校舎が全焼した[28]。しかし秋には池袋の成蹊学園校舎の一部で授業が再開され[注釈 3]、震災以前に雑司ヶ谷に転居していた鈴木自宅の隣接地に翌1924年校舎を新築した[29][18]。その後結成されていった日本交響楽協会新交響楽団コロナ・オーケストラ等には、東洋音楽学校の卒業生が多く参加していた[30][31]

1930年(昭和5年)、赤司鷹一郎鳩山一郎穂積重遠井坂孝ら、東京高等師範学校附属中学校と第一高等中学校での鈴木の教え子たちが、恩返しとして資金を集め、東洋音楽学校に鉄筋コンクリートの立派な校舎を寄贈する[32][33][28][34]。学校では専門教育のための課程を増設し、オペラ教育にも力を注いだ[33]。1939年には東京音楽学校創立60周年記念式に於いて、音楽教育功労者として表彰された[35][36]

1940年12月、学校の行事に参加した後に鈴木は発熱して倒れ、28日に他界。1941年5月4日に日本青年館に於いて、鈴木の追悼演奏会が開催された[36]

磯菜夫人は東洋音楽学校でピアノを教えた[37][38]。また娘の鈴木イネ子は東京音楽学校卒業後に留学し、帰国後は東洋音楽学校でソプラノの講師を務めている[27]

主な編著書・訳書

主な作品

鈴木米次郎は100曲以上の唱歌を作曲している[41]

参考文献

  • 武石みどり監修, 東京音楽大学創立百周年記念誌刊行委員会編『音楽教育の礎 : 鈴木米次郎と東洋音楽学校』春秋社, 2007.5 ISBN 978-4-393-93513-2 NDL

脚注

注釈

  1. ^ 『東京藝術大学百年史. 東京音楽学校篇』p1562の職員一覧には、鈴木米次郎が明治24/10/5~明治37/12/13(1891年~1904年)に作曲と唱歌を担当したと記載されている。
  2. ^ 日本人学生にとっては「アジア」を意味し、清国留学生にとっては「日本」を意味する「東洋」の語を校名とすることで、鈴木にはアジアの音楽教育の発信地を目指す壮大な気概があった(『音楽教育の礎』p134)。
  3. ^ 成蹊学園の創設者中村春二は、東京高等師範学校附属学校時代に鈴木の教え子だった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 明治の作曲家たち』日本近代音楽館、2003年10月、28-29頁https://id.ndl.go.jp/bib/000007632927 
  2. ^ a b c d 『日本の作曲家:近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、374-375頁。ISBN 978-4-8169-2119-3 
  3. ^ 鈴木, 米次郎, 1868-1940”. 国立国会図書館. 2023年4月16日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 大正人名辞典 3版』東洋新報社、1917年、1867頁https://dl.ndl.go.jp/pid/946063/1/964 
  5. ^ 『音楽教育の礎 : 鈴木米次郎と東洋音楽学校』春秋社、2007年5月、6頁。ISBN 978-4-393-93513-2 
  6. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、8頁。 
  7. ^ 東京音楽学校一覧 明治34-36年』東京音楽学校、1902年、79頁https://dl.ndl.go.jp/pid/813016/1/105 
  8. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、23頁。 
  9. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、27-30頁。 
  10. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、38-48頁。 
  11. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、49-52頁。 
  12. ^ 創立六十年 : 東京文理科大学・東京高等師範学校』東京文理科大学、1931年、246頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1445430/1/174 
  13. ^ a b 『音楽教育の礎』春秋社、60-61頁。 
  14. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、66-67頁。 
  15. ^ 鈴木米次郎 (1940-10-01). “洋楽五十年”. 月刊楽譜 29 (10): 56. https://dl.ndl.go.jp/pid/11004611/1/37. 
  16. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、77-82頁。 
  17. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、101-107頁。 
  18. ^ a b c d e 東京音楽大学沿革|東京音大”. 東京音楽大学 TCM | Tokyo College of Music. 2023年4月15日閲覧。
  19. ^ 東京就学乃栞 : 男女立志之羅針盤』学芸普及社、1911年5月、179-181頁https://dl.ndl.go.jp/pid/813111/1/108 
  20. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、118-123頁。 
  21. ^ 岩崎小弥太伝』岩崎小弥太伝編纂委員会、1957年、81頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2996273/1/58 
  22. ^ “フィルハルモニー會”. 音楽世界 4 (5): 10. (1910-05). https://dl.ndl.go.jp/pid/11185066/1/8. 
  23. ^ 坪井美雄『異国土産蛙のたはこと』東京国文社、1914年、4頁https://dl.ndl.go.jp/pid/950102/1/15 
  24. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、146-165頁。 
  25. ^ a b c 『音楽教育の礎』春秋社、133-145頁。 
  26. ^ 町田則文『明治国民教育史』昭和出版社、1928年、359頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1444149/1/189 
  27. ^ a b 音楽年鑑 大正16年版』竹中書店、1920-1926、22-23頁https://dl.ndl.go.jp/pid/964536/1/22 
  28. ^ a b 細野雲外『斯君斯民』巌松堂書店、1931年、823頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1189289/1/442 
  29. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、166-171頁。 
  30. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、172-189頁。 
  31. ^ 新日本史 第3』万朝報社、1926年、801頁https://dl.ndl.go.jp/pid/925909/1/458 
  32. ^ “楽壇万華鏡”. 音楽世界 2 (8): 39. (1930-08). https://dl.ndl.go.jp/pid/1500035/1/33. 
  33. ^ a b 『音楽教育の礎』春秋社、199-207頁。 
  34. ^ “音楽の先生へ校舎を贈呈”. 実業の日本 28 (1;新年号付録): 91. (1931-01-01). https://dl.ndl.go.jp/pid/10293144/1/47. 
  35. ^ 『東京芸術大学百年史. 東京音楽学校篇』音楽之友社、2003年、310頁。ISBN 4-276-00615-5 
  36. ^ a b 『音楽教育の礎』春秋社、207-210頁。 
  37. ^ 東京日日通信社 編『現代音楽大観』日本名鑑協会、1927年、33頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1173920/1/598 
  38. ^ 現代女子職業読本』経済知識社、1935年、341頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1464607/1/177 
  39. ^ a b 『音楽教育の礎』春秋社、25-26頁。 
  40. ^ 日本教育音楽協会 編『本邦音楽教育史』音楽教育書出版協会、1938年、202-203頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1116918/1/107 
  41. ^ 『音楽教育の礎』春秋社、72-75頁。