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アレッポはオスマン帝国の滅亡する[[第1次大戦]]直後までその支配下にあったが、それまでの間、都市内部の反乱が何度か起こったほか、[[伝染病]]の流行や[[1823年]]の[[コレラ]]流行などで支配は不安定になった。[[1901年]]までに、都市人口は約12万5千人になった。オスマン帝国滅亡後、その領地は英仏で分割され、アレッポは[[フランス]]領シリアの一部となった。都市は植民地支配によって近代化したが、[[1938年]]から[[1939年]]に掛けて[[アンティオキア]](現在の[[アンタキヤ]])で[[トルコ共和国]]編入を求める運動が活発化しフランスも許可すると、内陸のアレッポは経済的に打撃を受けた。 |
アレッポはオスマン帝国の滅亡する[[第1次大戦]]直後までその支配下にあったが、それまでの間、都市内部の反乱が何度か起こったほか、[[伝染病]]の流行や[[1823年]]の[[コレラ]]流行などで支配は不安定になった。[[1901年]]までに、都市人口は約12万5千人になった。オスマン帝国滅亡後、その領地は英仏で分割され、アレッポは[[フランス]]領シリアの一部となった。都市は植民地支配によって近代化したが、[[1938年]]から[[1939年]]に掛けて[[アンティオキア]](現在の[[アンタキヤ]])で[[トルコ共和国]]編入を求める運動が活発化しフランスも許可すると、内陸のアレッポは経済的に打撃を受けた。 |
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アレッポは[[第二次世界大戦]]後かなりの[[都市計画]]により変貌した。[[1952年]]、[[フランス]]人建築家アンドレ・ガットン(Andre Gutton)は、近代的な自動車交通を容易にするため、町並みを貫くように何本かの広い車道を計画した。[[1970年代]]には、古い町の大部分が近代的なアパート街区建設のため破壊された。 |
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==関連項目== |
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2006年12月16日 (土) 00:44時点における版
アレッポ(Aleppo(Halab)、 حلب アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある市、および県である。トルコとの国境に近い。人口は1999年現在約170万人で増え続けており、ダマスカスに次ぐシリア第2の都市である。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ(Khalpe)の名で知られ、古代ギリシア人にはベロエア(Beroea)の名で知られユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地として占領したこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及び、住民は370万人にのぼる。
名所
アレッポ新市街と旧市街にははっきりした差がある。旧市街は5km弱の長さの城壁に囲まれ、7つの城門がある。旧市街の真ん中に中世に建てられたアレッポ城は、市街地から50mも高い巨大な丘(部分的に、人工的に盛り土されてできた土塁)の上に立つ。土塁は上から見ると楕円形で、周りを深い堀に囲まれており城には大きな石造りの橋を渡って入る。今見ることのできる姿は13世紀にさかのぼり、以来何度かの地震(特に1822年の地震)で破損している。
アラブ語の都市名「ハラブ」は乳の意味で、アブラハムがこの地を旅してきた旅人たちに乳を振舞ったとの伝承から来ている。古代から(伝説によればダビデ王の頃から)の大きなユダヤ人コミュニティがあり、9世紀に建てられた大きなシナゴーグがある。このシナゴーグが、930年ごろにベン・アシェル家が書き写したヘブライ語聖書の最古級の写本「アレッポ写本(Aleppo codex)」があった場所で、1947年に起こったユダヤ人に対する暴動を経て、現在写本はエルサレムにあり、ユダヤ人コミュニティは政治的・経済的な理由からアレッポを去っている。
アレッポには「マドラサ・ハラウィヤ」を含む数多くのモスクがある。マドラサ・ハラウィヤはもと6世紀に建てられたビザンティン建築の「聖ヘレナ大聖堂」の建物であり、もとはローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母で熱心なキリスト教徒であった聖ヘレナが洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアのものとされる墓の上に建てた教会である。十字軍の戦争の頃、西洋人たちがアレッポ周辺の農村を略奪した際、都市の領主は聖ヘレナ大聖堂をモスクに変えてしまった。12世紀半ばにアレッポに本拠を置いたザンギー朝の王、ザンギーの息子であるヌールッディーンは熱心なイスラム教徒で、大聖堂の建物を取り巻くようにマドラサ(宗教大学)を創建した。
「ジャミ・アル・カビール」(グレート・モスク)はもともとウマイヤ朝が建設したものだが、現在の建築物はやはり12世紀半ば、1158年のヌールッディーンによるもので、1260年のモンゴル軍(フレグの軍)の侵入と破壊の後に再建された。
古代からの交易都市として、アレッポにも印象的な「スーク」(市場)と「ハーン」(キャラバンサライ、隊商宿)があり、その規模と豪華さは中東でも随一のものである。
街の主要な役割は交易であった。東西と南北の2本の重要な交易路の交差点に当たり、東南アジア、中国、インド、メソポタミアの物資を中継して地中海沿岸の諸港に送り、イタリア海洋都市によるレバント貿易で大きな収益を上げた。また南300kmにあるダマスカスからの道(険しい地中海沿いでなく、内陸のアンチレバノン山脈のふもとを通ることが多かった)につながり、エルサレムやメッカなどへの巡礼路となり、エジプト、アフリカ方面の産物も届いていた。交易はしばしば政治的な理由で中断されたが、それでも、ヨーロッパ人が喜望峰回りでインドへ向かう海路やエジプトから紅海を通る海路を開発するまでは繁栄し続けた。海路が主流となり陸路を使う東西交易が少なくなって以来、物資の中継は激減しアレッポは衰退を始め、主な輸出品は周囲の農村の作物を加工した農産品、小麦・綿・ピスタチオ・オリーブ、羊、石鹸などに変わっていった。
歴史
古代
現代のアレッポが古代アレッポの場所に立っているため、考古学者が発掘に当たる機会は少ない。一帯は紀元前1800年ごろから居住が始まり、ヒッタイトの記録にも記されている。ヤムハド王国の首都として栄え、その繁栄はヤムハドの支配者であったアモリ人(Amorite)の王朝が紀元前1600年ごろ倒れるまで続いた。アレッポは紀元前800年ごろまでヒッタイトの支配下におかれ、その後アッシリア帝国、ペルシア帝国に支配された後、紀元前333年、セレウコス朝によって古代ギリシア人の支配するところとなり、セレウコス1世はこの都市をベロエアと改称した。セレウコス朝の支配は、紀元前64年にシリア地方がローマ帝国に征服されるまで続いた。
中世
街はビザンティン帝国(東ローマ帝国)の一部であったが、アラブ人によって637年に征服された。10世紀、944年にモースルのハムダーン朝に征服されその後モースルから独立するが、再興したビザンティン帝国がヨハネス1世ツィミスケスの遠征によって短期間、974年から987年にかけて支配権を取り戻した。ふたたびハムダーン朝の支配下となったが、1004年王家断絶によりエジプトのファーティマ朝に併合された。1094年、テュルク系のセルジューク朝が街を征服し、そこから分かれたシリア・セルジューク朝がアレッポを支配していた頃に2度、街が1098年と1124年に十字軍に包囲されたが、陥落はしなかった。テュルク系の諸アタベク政権であるアルトゥク朝、ザンギー朝の支配を経て1183年、街はエジプトにアイユーブ朝を開いたクルド人将軍サラディンの手により開城され、アイユーブ朝の支配が始まる。モンゴル帝国のフレグが1260年街を征服し破壊したが、フレグの創設したイルハン朝の後継争いの中、1317年に地元の領主が独立し、エジプトのマムルーク朝の影響下に入った。1517年、テュルク系のオスマン帝国のセリム1世によりアレッポを含むシリア地方は征服されマムルーク朝も滅亡し、以後オスマン帝国の長い統治が始まった。1517年時点での人口は約5万人だった。
近代
アレッポはオスマン帝国の滅亡する第1次大戦直後までその支配下にあったが、それまでの間、都市内部の反乱が何度か起こったほか、伝染病の流行や1823年のコレラ流行などで支配は不安定になった。1901年までに、都市人口は約12万5千人になった。オスマン帝国滅亡後、その領地は英仏で分割され、アレッポはフランス領シリアの一部となった。都市は植民地支配によって近代化したが、1938年から1939年に掛けてアンティオキア(現在のアンタキヤ)でトルコ共和国編入を求める運動が活発化しフランスも許可すると、内陸のアレッポは経済的に打撃を受けた。
アレッポは第二次世界大戦後かなりの都市計画により変貌した。1952年、フランス人建築家アンドレ・ガットン(Andre Gutton)は、近代的な自動車交通を容易にするため、町並みを貫くように何本かの広い車道を計画した。1970年代には、古い町の大部分が近代的なアパート街区建設のため破壊された。
関連項目
- 古代都市アレッポ(アレッポは世界遺産となっている。)
- アル・マリク・アル・ザーヒル(アイユーブ朝時代の領主)