コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「アミーン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m アラビア語表記が太字になるように修正
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Cewbot: ウィキ文法修正 16: Unicodeの制御文字
2行目: 2行目:
{{基礎情報 君主
{{基礎情報 君主
| 人名 = アミーン
| 人名 = アミーン
| 各国語表記 = {{lang|ar|الامين محمد}}
| 各国語表記 = {{rtl-lang|ar|الامين محمد}}
| 君主号 = [[アッバース朝]][[カリフ]]
| 君主号 = [[アッバース朝]][[カリフ]]
| 画像 = Abbasid Dinar - Al Amin - 195 AH (811 AD).jpg
| 画像 = Abbasid Dinar - Al Amin - 195 AH (811 AD).jpg

2023年4月11日 (火) 01:12時点における版

アミーン
الامين محمد
アッバース朝カリフ
アミーンの金貨
在位 809年 - 813年

出生 787年4月
死去 813年9月24日/25日
子女 ムーサー
家名 アッバース家
王朝 アッバース朝
父親 ハールーン・アッラシード
母親 ズバイダ
テンプレートを表示

アミーンアラビア語: الامين محمد‎al-Amīn Muḥammad787年4月 - 813年9月24日/25日)は、アッバース朝第6代カリフ(在位:809年 - 813年)。

生涯

ハールーン・アッラシードの次男。母はハールーン・アッラシードの正妃ズバイダ。異母兄にマアムーンがいたが、彼の母のマラージルはペルシア人奴隷出身であったため、アミーンに家督が回って来た。しかし兄弟間の争いが絶えず、813年に暗殺された。死後、兄マアムーンにカリフ位を譲ると密約していたが、その約束を破り、子に譲ろうとしたため、内乱を招く。歴代カリフの中でも最高峰の文化人の一人で、国内の国際文化を奨励し、また自らも教養豊かな人物であったとされ、特にアブー・ヌワースを保護したことは結果として後世のイスラム文化に他大な寄与をなした。しかしアブー・ヌワースへの傾倒からもわかる通りアミーン自身享楽的な人物で酒色にふけり、政務は宰相のファドルに任せきりだったともされる[1]

脚注

  1. ^ 前嶋信次『イスラムの時代』(講談社、2002年)196頁

参考文献

先代
ハールーン・アッ=ラシード
アッバース朝カリフ
809年 - 813年
次代
マアムーン