「頸城トンネル」の版間の差分
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|1965年案A |
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開業に先立つ[[1969年]](昭和44年)[[9月10日]]に[[能生駅]]構内において工事碑および慰霊碑の除幕式がそれぞれ国鉄岐阜工事局長松本有、犠牲者遺族の手で行われた<ref name="岐工50_222" />。なお、工事碑には松本による以下の文が刻まれている<ref name="岐工50_224" />。 |
開業に先立つ[[1969年]](昭和44年)[[9月10日]]に[[能生駅]]構内において工事碑および慰霊碑の除幕式がそれぞれ国鉄岐阜工事局長松本有、犠牲者遺族の手で行われた<ref name="岐工50_222" />。なお、工事碑には松本による以下の文が刻まれている<ref name="岐工50_224" />。 |
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{{Quotation|糸魚川 直江津間線増工事は大正二年以来 地辷り 雪 波浪 急曲線に悩まされ続けてきた暗い鉄道を 明るい鉄道に変革するためにおこなわれた< |
{{Quotation|糸魚川 直江津間線増工事は大正二年以来 地辷り 雪 波浪 急曲線に悩まされ続けてきた暗い鉄道を 明るい鉄道に変革するためにおこなわれた<br />この工事の完成によって 多くの人々の苦悩を解消したことは偉大である<br />英知と情熱を頸城の地底にたたきこんで この偉大さを実現した人々を永久に讃えるためにこれを建つ<br />昭和四十四年九月十日|松本有(国鉄岐阜工事局長)|糸魚川・直江津間線増工事碑<ref name="岐工50_224" />}} |
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== 線増・新線建設の効果と評価 == |
== 線増・新線建設の効果と評価 == |
2021年11月29日 (月) 00:03時点における版
概要 | |
---|---|
路線 | えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン |
位置 | 新潟県 |
座標 | 北緯37度8分26秒 東経138度4分27秒 / 北緯37.14056度 東経138.07417度座標: 北緯37度8分26秒 東経138度4分27秒 / 北緯37.14056度 東経138.07417度 |
現況 | 供用中 |
起点 |
新潟県糸魚川市大字能生 (施設キロ:米原起点337 km 418 m 66[1]) |
終点 |
新潟県上越市名立区坪山 (施設キロ:米原起点348 km 771 m 66[1]) |
駅数 | 1(筒石駅) |
運用 | |
建設開始 |
1966年(昭和41年)2月21日 (第3工区)[1] |
完成 | 1969年(昭和44年)5月[2] |
開通 | 1969年(昭和44年)9月29日 |
所有 | えちごトキめき鉄道 |
管理 | えちごトキめき鉄道 |
用途 | 鉄道トンネル(在来線) |
技術情報 | |
全長 | 11,353 m[1] |
軌道数 | 2(複線、一部3線) |
軌間 | 1,067 mm |
電化の有無 | 有(直流1500 V) |
設計速度 | 130 km/h[3] |
勾配 |
2.5 ‰(起点~約5.1 km) 2.0 ‰(終点~約6.3 km)[1] |
最小曲線半径 | R=1000[4] |
頸城トンネル(くびきトンネル)は新潟県糸魚川市大字能生字白拍子のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン能生駅と同県上越市名立区名立大町字町田道下の同線名立駅の間にある鉄道トンネルである。
本項では、本トンネルを含む北陸本線(現:日本海ひすいライン)糸魚川駅 - 直江津駅間の複線化・電化工事に伴う改良についても述べる。
概要
1969年(昭和44年)に完成した日本国有鉄道北陸本線糸魚川駅 - 直江津駅間の複線電化に伴い、浦本駅 - 有間川駅に建設された新線の一部を構成し、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化による西日本旅客鉄道(JR西日本)への移管を経て、2015年(平成27年)3月14日に本区間に並行して北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間が開業したことに伴う、北陸本線新潟県内区間(市振駅 - 直江津駅間)のえちごトキめき鉄道移管により現在の所属となった。
延長は完成当時国内第3位の11,353 m であり[4][注釈 1]、能生駅 - 名立駅間(営業キロ11.7 km[5]、施設キロ11,750 m[6])の大半を占める。また、えちごトキめき鉄道移管後はJR線以外(いわゆる民鉄)の鉄道用山岳トンネルとして日本最長となった[7][注釈 2]。
トンネルは基本的に複線断面であるが名立方 280 mは3線として名立駅下り待避側線の有効長を確保している[注釈 3]。また、トンネル中間には日本で上越線湯檜曽駅・土合駅(いずれも下り線のみ)に続く3例目の山岳トンネル内の駅となった筒石駅が設置されている。このため筒石駅部は幅2 mの片面ホームを上下線でずらして配置している[4]。
銘標は米原方坑口に国鉄総裁(以下いずれも当時)石田礼助、直江津方坑口に同技師長の藤井松太郎の揮毫が掲げられている[8]。
名称の表記
名称に用いられる「頸」については拡張新字体の「頚」を用いて表されていることがあるが、前管理者であるJR西日本では、管理最終年度の2014年(平成26年)度に発行した『データで見るJR西日本2014』において「頸城」の表記を用いている[9]。以下特記ない限り名称については「頸城」の表記を用い、引用についても実際の表記のいかんに関わらず同様とする。
-
トンネル終点 名立・直江津方坑口(2019年3月10日)
-
筒石駅部。手前が下り(直江津方面)ホーム、奥が上り(市振・米原方面)ホーム。(2010年3月7日)
-
能生駅構内。手前は能生川橋梁。奥に頸城トンネル。(2010年12月1日)
建設に至る背景
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開通直後の筒石駅 - 名立駅間(『帝国鉄道協会会報』第14巻2号所収、1913年(大正2年)4月、帝国鉄道協会)
-
開通直後の筒石駅 - 名立駅間(鉄道院富山建設事務所編、『富山線鉄道建設概要』所収、1913年(大正2年)3月、鉄道院富山建設事務所)
糸魚川駅 - 直江津駅間の鉄道は1911年(明治44年)に直江津駅 - 名立駅間が信越本線支線として開通したのを皮切りに、翌1912年(大正元年)に糸魚川まで延伸され[10]、1913年(大正2年)には富山駅から延伸を重ねた北陸本線と接続、編入された。当初この区間は、大部分が現在の国道8号に並行し、日本海の海食崖・山裾を縫うように敷設された[10]。しかし、以下の問題があった。
速度向上の難しさ
この区間は最急勾配が10パーミル[11]と、木ノ本駅 - 敦賀駅間など25パーミル勾配の区間を有した北陸本線の中では比較的緩やかであったものの、本線としては最急となる半径300 m の曲線が29か所存在するなど、曲線が連続するため、速度向上が困難であり[12]、当時運行されていたキハ80系気動車(最高速度100 km/h)による特急列車「白鳥」もこの区間の表定速度は約60 km/h に過ぎなかった[10][注釈 4]。
逼迫する輸送量
年度 | 旅客輸送量 | 貨物輸送量 | 複線
進捗率 (%) | ||
---|---|---|---|---|---|
人キロ | 1957年比 | トンキロ | 1957年比 | ||
1957年(昭和32年)度 | 25.6 | 100 | 23.1 | 100 | 7.6 |
1958年(昭和33年)度 | 26.2 | 102 | 22.2 | 97 | 14.3 |
1959年(昭和34年)度 | 27.8 | 109 | 25.0 | 109 | 14.3 |
1960年(昭和35年)度 | 29.7 | 116 | 27.6 | 120 | 21.2 |
1961年(昭和36年)度 | 31.9 | 124 | 31.0 | 125 | 23.0 |
1962年(昭和37年)度 | 33.0 | 129 | 28.7 | 125 | 42.2 |
1963年(昭和38年)度 | 36.5 | 142 | 33.4 | 145 | 52.0 |
1964年(昭和39年)度 | 38.1 | 144 | 33.0 | 143 | 55.6 |
1965年(昭和40年)度 | 40.2 | 156 | 32.5 | 141 | 70.0 |
1966年(昭和41年)度 | 40.6 | 159 | 32.6 | 141 | 90.0 |
1967年(昭和42年)度 | 32.6 | 127 | 33.6 | 143 | 96.1 |
1968年(昭和43年)度 | 33.4 | 130 | 34.2 | 148 | 98.7 |
1957年 | 1958年 | 1959年 | 1960年 | 1961年 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
北陸本線
から出 |
通過車 | 232 | 273 | 302 | 316 | 334 |
発送車 | 363 | 332 | 374 | 374 | 410 | |
計 | 595 | 605 | 676 | 690 | 744 | |
北陸本線
へ入 |
通過車 | 304 | 331 | 344 | 357 | 413 |
発送車 | 269 | 296 | 347 | 335 | 342 | |
計 | 573 | 627 | 691 | 692 | 755 |
全通後から戦前にかけての北陸本線は輸送量こそ漸増していたものの行き詰まるほどではなく、複線区間も支線直通列車や操車場に関連して列車が錯綜する福井操車場(現:南福井駅) - 福井駅間、金沢駅 - 津幡駅間でわずかに設けられていたのみであった[14]。
しかし第二次大戦後は、東北・北海道地域と関西地方を結ぶ最短経路(日本海縦貫線〔裏縦貫線〕[注釈 5])として脚光を浴び、朝鮮戦争後には沿線各地区での重工業開発により貨物輸送量が増大した[14]。また旅客面では観光資源に恵まれたことにより観光客が増加した[14]。結果、北陸本線は1963年(昭和37年)時点で貨物発送トン数が10年前の1.86倍となる全国一の伸びを記録し[15]、その後も旅客貨物ともに輸送量は増加の一途を辿り[13]、北陸本線の輸送力は急速に不足した[14]。
これは、糸魚川駅 - 直江津駅間も例外ではなく、1963年(昭和37年)の時点で糸魚川駅 - 直江津駅間は限界一杯の84回列車を運行するに至り、1965年(昭和40年)ごろには104回に達する見込みであった[10]。しかしこの区間は線路容量が小さく、最も低い筒石駅 - 名立駅間では列車運行回数は83回が限界となっていた[10]。このため、糸魚川・直江津地区では貨物列車の比率が全体の約60 - 65パーセントに達する事態が発生した[15]。
限界を迎えつつある北陸本線の輸送の状況について、当時の国鉄中部支社企画室長、滝川良和は国鉄各支社の担当者による座談会「幹線の行きづまりをどうするか」(『JREA』1963年4月号掲載)において、以下のように述べている[15]。
北陸線では1本の臨時列車のスジを旅客に使う貨物に使うで、営業部内がとにかく2、3ヵ月議論しなければ結論が出ないということなんでね。 それと同時にいまのところは主要幹線でほかに例がないと思うんですが、北陸本線の富山以遠、糸魚川直江津地区では貨物列車が6割から6割5分に達しているわけです…(中略)…完全に旅行客の増発というものは、ここ10年来おさえにおさえていまして、乗車効率は10年前より明らかに悪化している状態で、旅客が伸びようがない…(後略) — 滝川良和(国鉄中部支社企画室長)、<座談会>幹線の行きづまりをどうするか?[15]
また、同じく中部支社の鶴見三郎も同誌同号で以下のように述べている[16]。
景気調整下の不況時であった昨年の秋[注釈 6]でも、北陸線はギリギリいっぱいである。長岡から上越線で日本の背骨を越えて、わざわざ東海道に遠廻りして、やっと目的地に到着させた貨車が、毎日20両もあった。こんなやりくりの苦心をしても「輸送力不足のためやむなくトラックで輸送した」という貨物が4万トンを越えた〔ママ〕。だいたい1日1本ずつの貨物が国鉄への不信の度合いを強めながら、救世主のような思いでトラックに移っていったのである…
(中略)
…青海・糸魚川地区には新・増設工場があって、この地域の出貨は昨年より大幅に増加することはまず確実である。昨年より少なくとも2〜3往復が増発できないと、お先まっくらというほかない。
輸送力が足りない。5か年計画で富山までの複線化がめ進られているが〔ママ〕、牛の歩みのようにもどかしい。北陸トンネルの完成[注釈 7]は確かに北陸の夜明けを告げるシンボルである。だが最大のあい路は解消しても、第2、第3、のあい路は北陸線の輸送力の前に大きな壁となって立ちはだかっている…
(中略)
とくに富山から北になると、わずかに親不知トンネルに着工しているだけで、全区間にわたってすでにあんなに慢性的になっている動脈硬化がいつになったら緩和されるという見通しもない。
(中略)
…数年前の経済白書に、”もはや戦後ではない”という有名な言葉があるが、北陸線では供給さえあればなんでも飛ぶように売れた”戦後”がまだつづいているのである。 — 鶴見三郎(国鉄中部支社)、<幹線の四季>秋の北陸線[16]
地すべり
新潟県は日本有数の地すべり地帯であるが、糸魚川駅 - 直江津駅間で通過する旧西頸城郡(現在の糸魚川市域と上越市名立区)はいわゆる糸魚川静岡構造線地帯であり、新第三紀層とこれを不整合に被覆する第四紀層からなる地質条件を持つ[17]。このため旧西頸城郡だけでも、主要な地すべり地総面積は 3,000 ha におよぶ[18]。
旧西頸城郡の地すべりは新潟県で一般的な、1.0 - 1.5 m / 年 程度で絶えず滑動する継続的な地すべりではなく、周期的な滑動が始まると急激な崩壊を生じる間けつ的崩壊性の地すべり(崩壊末期の速度は 10 m / sec に達する)をする特徴があり、予知・対策が難しいとされる[17][19]。
糸魚川駅 - 直江津駅間は過去にも1751年(宝暦元年)の「名立崩れ」をはじめとする大規模な地すべりが発生した地すべり常襲地帯であり、建設時から筒石川河口付近で線路の隆起・移動、複数回の地すべりが発生した[20]。特に能生駅 - 筒石駅間はベントナイト質凝灰岩が地表近くに広く分布し、かつ破砕帯も多いために、地すべり崩土層が広く厚く分布する[17]。
鉄道開通後の沿線で特に甚大であった地すべり被害としては、1963年(昭和38年)3月16日16時20分頃、能生町小泊(現:糸魚川市能生小泊、能生駅 - 百川信号場間、白山トンネル北側坑口付近)において発生した、延長 370 m、幅100 - 170 m、面積 4.5 ha におよぶ大規模な連続地すべり(以下「小泊地すべり」)が挙げられる[21][22]。この地すべりはこの地域の地すべりとしては崩壊速度が2 - 3 m / secと異例の遅さであったが[17]、北陸本線と国道8号沿いの民家を幅約110 mに渡って直撃・破壊して約40 m日本海中に押し出した。集落では家屋全壊25戸、半壊家屋3戸、死者4名(負傷者を含めると25名[22])の被害を受け[21]、国道8号も約110mが大量の泥土に埋もれ大型車両の通行再開に12日間を要した[21]。
北陸本線では現場を通りかかった敦賀発直江津行き普通225列車(機関車C57 90、客車7両編成)が白山トンネルを出た直後に地すべりに乗り上げた後、20分後に大きく滑動した泥土と共に機関車と客車1両が埋もれた集落の上を流された[21]。特に機関車は約170 m 押し流され、湾内に到達し埋没した[21][22]。列車側は乗客が比較的少なかったことなどから、乗客・乗務員に死者は無く数名の軽傷者にとどまったが、線路170 m を流失、泥土による約110 cm の埋没により復旧・開通に20日間を要した[21][10]。
このほか、水害・浪害等も含めると、開通翌年の1914年(大正3年)から1963年(昭和38年)の小泊地すべりまでの間、同区間は主要なもの[注釈 9]だけでも36回もの運行停止を招く災害が発生し、うち脱線あるいは転覆事故は15回を数えた。
こういったこともあり鉄道技術研究所(鉄道総合技術研究所の前身)では1948年(昭和23年)に地すべりと土質の研究の調査研究を行う能生実験所を設置している[20]。
年 | 月日 | 区間[注釈 10] | キロ程
(km) |
災害種別 | 列車支障
(h) |
土砂崩壊
(m3) |
脱線
または転覆 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1914 | 8.27 | 糸魚川 - 梶屋敷 | 326.470 | 水害 | 16 | - | あり | |
12.14 | 筒石 - 名立 | 345.200 | 地すべり | 12 | - | - | ||
1916 | 2.17 | 能生 - 筒石 | 339.319 | 地すべり | 120 | - | - | |
9.27 | 筒石構内 | 344.100 | 地すべり | 37 | - | - | 駅舎とホームを破壊[20] | |
1919 | 3 | 能生 - 筒石 | 339.110 | 土砂崩壊 | - | - | あり | |
8 | 梶屋敷 - 能生 | 336.600 | 土砂崩壊 | - | 600 | あり | 浦本 - 能生間に相当。 | |
1923 | 12.19 | 有間川 - 谷浜 | 356.506 | 土砂崩壊 | - | - | あり | |
1925 | 2.1 | 有間川 - 谷浜 | 356.003 | 雪害 | 6 | - | - | |
12.18 | 筒石 - 名立 | 347.031 | 浪害 | 6 | - | - | ||
1927 | 1.20 | 能生構内 | 337.360 | 風害 | 12 | - | あり | |
2.8 | 筒石 - 名立 | 345.824 | 雪崩 | - | 1,200 | - | 引用文献中では「頽雪」と表記。以下「雪崩」と表記。 | |
2.12 | 筒石 - 名立 | 346.354 | 雪崩 | - | 3,000 | - | ||
3.21 | 梶屋敷 - 能生 | 333.075 | 土砂崩壊 | 20 | 1,200 | あり | 浦本 - 能生間に相当。 | |
1929 | 8.10 | 梶屋敷 - 能生 | 331.460 | 水害 | 240 | - | - | 梶屋敷 - 浦本間に相当。 |
332.757 | 水害 | - | - | 浦本 - 能生間に相当。 | ||||
333.267 | 土砂崩壊 | - | あり | |||||
336.300 | 地すべり | - | - | |||||
336.710 | 土砂崩壊 | - | - | |||||
12.4 | 有間川 - 谷浜 | 355.360 | 地盤弛緩 | - | - | あり | ||
1931 | 1.19 | 名立 - 有間川 | 352.317 | 土砂崩壊 | 12 | - | - | |
1933 | 12.25 | 名立 - 有間川 | 351.490 | 土砂崩壊 | 10 | - | - | |
1934 | 2.16 | 能生 - 筒石 | 342.500 | 地すべり | 216 | 100,000 | - | 線路500 m が海中に流出[20]。 |
3.17 | 有間川 - 谷浜 | 356.450 | 雪崩 | 5 | - | あり | ||
1938 | 1.23 | 梶屋敷 - 能生 | 336.200 | 地すべり | 240 | - | あり | 浦本 - 能生間に相当。 |
1944 | 7.21 | 梶屋敷 - 能生 | 333.267 | 土砂崩壊 | 8 | 1,800 | - | 浦本 - 能生間に相当。線路埋没が発生[20]。 |
能生 - 筒石 | 340.550 | 土砂崩壊 | 1,200 | - | 移動・崩壊が発生[20]。 | |||
郷津 - 直江津 | 361.748 | 水害 | 7 | - | - | |||
7.22 | 筒石 - 名立 | 348.300 | 土砂崩壊 | 10 | - | - | ||
8.27 | 名立構内 | (記載なし) | 水害 | 5 | - | - | ||
1945 | 3.2 | 名立 - 有間川 | 352.100 | 雪害 | - | - | あり | |
352.120 | 土砂崩壊 | 400 | - | |||||
1946 | 12.12 | 筒石構内 | 344.180 | 地すべり | 28 | - | - | |
12.15 | 地すべり | 95 | 1,500 | - | ||||
1951 | 11.16 | 名立 - 有間川 | 353.120 | 土砂崩壊 | 5 | - | あり | |
1956 | 12.21 | 筒石 - 名立 | 347.320 | 土砂崩壊 | 14 | 400 | あり | |
1963 | 3.16 | 能生 - 百川(信) | 339.080 | 地すべり | 480 | 150,000 | あり | 通称「小泊地すべり」。線路170 m を流失[21]。百川信号場は前年設置。 |
糸魚川駅 - 直江津駅間の複線化計画
急増する輸送需要に応えるため、国鉄では1954年(昭和29年)の米原駅 - 長浜駅間複線化を皮切りに、1957年(昭和32年)の田村駅 - 敦賀駅間交流電化などの輸送力増強に着手した[14]。戦災復興が一段落した1957年(昭和32年)には同年を初年度とする輸送力増強・近代化のための大規模投資計画「第1次5か年計画」を策定して幹線の複線化・電化が進められ、北陸本線も米原駅 - 富山操車場(現:富山貨物駅)間を中心に北陸トンネル建設(1962年完成)など隘路区間の線増が順次着工された[14]。
その後は所得倍増計画の推進に関連して1961年(昭和36年)に「第2次5か年計画」を策定し、引き続き線増・電化等により輸送量がひっ迫しつつある各幹線の抜本的な改善を行うこととなった[23]。「第2次5か年計画」は輸送力増強の対象に富山操車場 - 直江津駅間も含まれることとなり[23]、策定時点では、その5か年で米原駅 - 富山駅間の複線化達成、以東の部分複線化(将来的には全線複線化)が考えられていた[23]。その一環として糸魚川駅 - 直江津駅間は浦本駅 - 名立駅間、郷津駅 - 直江津駅間の部分線増計画が上がっていたが[23]、実際には同区間に応急的に3か所(木浦・百川・西名立)の信号場を1964年(昭和39年)までに計画・設置したのみで[10]、本格的な線増工事は着工に至れないままであった。これは投資資金の不足に加え[24]、以下の問題によるものであった。
複線化にあたっての問題点
1963年(昭和38年)の時点では糸魚川駅 - 直江津駅間のうち、糸魚川駅 - 能生駅間、有間川駅 - 直江津駅間は地すべりの影響は小さく、既存トンネルは一部新線トンネルに切替となるものの腹付線増・曲線改良が比較的容易と考えられていた[10][注釈 11]。しかし、能生駅 - 有間川駅間については鉄道沿線・内陸部共に地すべり地帯にあり、わずかな切取りによって地すべり・土砂崩壊が発生するおそれから現在線の腹付線増や曲線改良は不可能とされた[10]。
このため改良に当たっては、以下の案が地質構造・営業面から想定されたが、それぞれ欠点があった[10]。
- 現在線を下り線とし、単線の新線を上り線として建設する案
- 下り線が今後も災害を伴い、曲線改良ができない。
- 現在駅をすべて利用するが、浦本駅 - 谷浜間の地すべり地帯は駅間を複線トンネルによる新線で結ぶ案
- 筒石駅 - 名立駅間の地すべり地帯に多くのトンネル坑口ができる。
- 現在駅を一部通過しない複線の新線を建設し、一部駅を移転・廃止する案
- 廃止・移転される駅が生じ、その処置が問題となる。
複線化の検討
現在線利用の線増・新線敷設のいずれにしても災害多発地帯を通過するため、防災的な見地からのルート選定を行う必要から[10]、1963年(昭和38年)7月には国鉄中部支社に「北陸本線糸魚川 - 直江津間地質調査委員会」が設けられ[6]、約3000万円の費用をかけ[25]約1年間にわたる本格的な地質調査と線増方式の検討が行われた[18][12][17]。国鉄が線増に当たりこのような大掛かりな事前調査を実施したのは初めてであったとされる[26]。
その結果、翌1964年(昭和39年)3月に、現在線での地すべりは間けつ的かつ崩壊速度が大きく、「地すべりの発生時期と規模を的確に予知することはできないので、抜本的な予防対策はたてがたい[19]」と結論づけられた[19][17]。
このため線増における地すべり地域への線路敷設は「その建設ならびに保守に著しい困難が予想される[17]」として、「根本的には、複線化の際に地すべり地帯を極力避けた別線の複線ルートを選ぶべき[19]」とし、それでもなお地すべり地帯を通過する場合は「…想定される最深の地すべり面(地表から30〜40 m の深さ)より深くトンネルでもぐるべきである[27]」とした。また特に鉄道経過地として避けるべきとして、以下のの各地点を挙げた[12]。
- 浜木浦(浦本駅 - 能生駅)
- 白山神社出口(能生駅 - 筒石駅)
- 筒石駅付近
- 藤崎付近(筒石駅 - 名立駅)
- 名立駅付近
- 郷津駅付近、
新線ルートの選定と長大トンネル反対運動
以上の勧告を踏まえ糸魚川駅 - 直江津駅間の線増案は、下記の3案が選定され、さらに検討が行われた[27][12]。これらはいずれも現在線を併用せず、地すべり危険地域を避けて当初より複線の新線を建設し[注釈 12]、駅移設・廃止を伴うものであった。
案 | 糸魚川駅 - 浦本駅 |
浦本駅 - 能生駅 |
能生駅 | 能生駅 - 有間川駅 |
有間川駅 - 谷浜駅 |
谷浜駅 - 直江津駅 |
線路 延長(km) |
最急 勾配 (‰) |
トンネル | 曲線半径 | 工事費 (億円) |
年間経費 (百万円) |
備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総延長 (km) |
最長 (km) | |||||||||||||
1965年案A | 現在線を線増。 | 新線建設。木浦川を境に2,570 m、1,550 mのトンネルで結ぶ。 | 新線上に移設[注釈 13]。 | 新線建設。21,300 mのトンネルで結ぶ。 | 37.1 | 10 | 25.52 | 21.30 | R>=600×10 | 205 | 2,578 | トンネル内に信号場設置が必要 | ||
1965年案B | 新線建設。14,750 mのトンネルで同区間を直線的に結ぶ[注釈 14]。 | 現在線を線増。長浜トンネルは1,140 mの複線トンネルを新設。 | 新線建設。郷津駅を放棄し3,550 mのトンネルで短絡。 | 38.4 | 10 | 23.36 | 14.75 | R>=600×19 | 182 | 2,529 | ||||
1965年案C | 新線建設。名立川を境に11,250 m、3,590 mの2本のトンネルで結ぶ。 | 38.9 | 10 | 23.45 | 11.25 | R>=600×21 | 186 | 2,568 | 採用案 | |||||
(参考)
1963年案 |
新線建設。2,660 m、750 mのトンネルで結ぶ。 | 現在駅活用。 | 新線建設。5,850 m(能生 - 筒石)、580 m、4,000 m(筒石 - 名立)、3670 m(名立 - 有間川)のトンネルで結ぶ。既存駅は全て活用。 | 現在線を線増。長浜トンネルは1,160 mの複線トンネルを新設。 | 現在線を線増。郷津駅は存続。郷津トンネルは改築、山側に単線の新郷津トンネル(880 m)を建設し線増。 | - | - | 19.55 | 5.85 | - | - | - | 新線は単線・もしくは複線で建設。
単線の場合旧線を下り線として活用 | |
(参考)旧線 | 41.3 | 10 | 3.09 | 0.65 | R<400×30 R<500×17 R<600×6 R>=600×34 |
- | - | |||||||
(各案備考) | 浦本 - 直江津間のみの数値 | 車両電化除く | 1975年度を想定 |
比較の結果、投資額・年間経費の面で最も有利であったのは能生駅を新線上に移設し浦本駅 - 有間川駅間の筒石駅・名立駅はトンネルで短絡し廃止、郷津駅もトンネルによる短絡で廃止するB案であったが、B案では待避を行うための信号場をトンネル内に設置する必要があり[27][注釈 15]、地質上の問題から4線断面のトンネルの掘削は技術的に困難と判断された[27]。
加えてB案には駅廃止という営業上の問題があり[27]、沿線では浦本駅 - 直江津間トンネル化の計画を知った沿線住民により通勤通学者の足が奪われること、漁獲物の貨物輸送ができなくなることを理由に反対運動が行われていた[28]。
主要な反対運動としては「浦本・直江津間長大トンネル反対対策会議」により1964年(昭和39年)5月5日から7日未明にかけて糸魚川から直江津へのデモ行進(500人)が行われ、途中名立・有間川・長浜など7か所で住民大会を開きながら長大トンネル反対の決意表明が行われている[28]。住民は同年6月10日に名立町の公民館で行われた国鉄の説明会でも長大トンネルをつくる必要がない旨を訴えるなどしていたが[28]、同年7月に入り名立町住民へ国鉄から現在線から800 m 山側の名立川上に駅を設けるルートが内示され、名立駅は最終的に新線上への移転により存続することとなった[28][注釈 16]。また筒石駅についても同様に廃止の計画であったが[29][注釈 17]、地元の強い要望があったため[32]、最終的にトンネル内にホームを設けることとなった。
以上を踏まえ、委員会では最終的結論として名立川付近でいったん地上に出るC案が適当とし[27][33]、これを基にさらに1年間調査・検討し、地元と協議の上ルートの決定が進められた[12]。
糸魚川駅 - 直江津駅間線増工事
「第2次5か年計画」は計画を達成しないまま、1965年(昭和40年)で打ち切られ、新たに策定された、同年を初年度とする「第3次長期計画」に引き続き主要幹線の複線化・電化が盛り込まれた。この計画は1970年(昭和45年)度末までに全国で約3,300 km を複線化、それに対応して約3,100 kmを電化する[注釈 18]、というもので、線増工事を重点的に工事を推進する路線として、東北・上越・信越・中央の各線区とともに北陸本線が挙げられた。これら線区では全線もしくは一部区間の複線化を1968年(昭和43年)度末までにおおむね完成させることを目途とし[34]、うち北陸本線における線増は上記までに「おおむね全線複線」とする計画であった[34]。
しかし、北陸本線において初年度時点で複線化を完了していたのは、全線357 km[注釈 19] のうち50パーセントほど(約175 km)に過ぎず、そのすべてが富山操車場以東の区間(238.8 km)におけるものであった[18][34]。残る区間は富山操車場 - 糸魚川駅間が「第2次5か年計画」から引き継いだ親不知トンネル・新子不知トンネルなど、輸送上の隘路となる区間を中心に線増・電化工事が進められ、初年度の1965年(昭和40年)9月30日に単線区間を残しながらも糸魚川までの一部複線化・交流電化が実施されたが[35][注釈 20]、糸魚川駅以東は前述の線増案が決定したのみで新線はおろか現在線線増すら着工していない状況であり[18]、計画の達成のためには早急な着工が迫られた。最終的に北陸本線糸魚川 - 直江津間線増工事は1966年(昭和41年)3月に着工し、完成目標を1969年(昭和44年)秋とした[4]。
線増工事概要
線増工事は前述のC案を基とする以下のものとなった[12]。
糸魚川駅 - 浦本駅 |
浦本駅 - 能生駅 | 能生駅 | 能生駅 - 名立駅 | 名立駅 | 名立駅 - 有間川駅 | 有間川駅 - 谷浜駅 | 谷浜駅 - 直江津駅 | 路線延長 (km) |
トンネル | 最急勾配 (‰) |
最小曲線半径 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総延長 (km) |
最長 (km) | |||||||||||
現在線を線増 | 新線建設。 | 現在線を線増。但し長浜トンネルは複線新トンネル(1,158 m[注釈 21])に切替。 | 新線建設。湯殿トンネル(3,105 m[注釈 22])で短絡し郷津駅廃止。 | 38.8 | 23.455 | 11.355 | 10 | R=500 | ||||
浦本トンネル(2,665 m[注釈 23])、木浦トンネル(1,571 m[注釈 24])で結ぶ。 | 新線上に移設。 | 頸城トンネル(11,353 m[注釈 25])で結ぶ。トンネル内に筒石駅を移設。 | 新線上に移設。 | 名立トンネル(3,601 m[注釈 26])で結ぶ。 | ||||||||
(参考)旧線 | 41.3 | 3.09 | 0.65 | 10 | R=300 |
トンネルはいずれも直流電化複線形(内空断面積51 m2)を基本に、名立駅前後は3線断面区間(内空断面積91 m2)とした[36]。
駅は、湯殿トンネルによって迂回される郷津駅(谷浜駅 - 直江津駅間)を廃止したほかは、能生駅は旧駅(現:糸魚川市能生事務所付近)から約700 m 山側の木浦・頸城トンネル間の明かり区間、筒石駅が頸城トンネル内の地下、名立駅が旧駅(当時の名立町大字名立小泊229-2に所在[37])から約1.6 km山側に離れた頸城・名立トンネル間の明かり区間に新駅を設け移転した。
施工は日本国有鉄道岐阜工事局が担当した[38]。
キロ程について
北陸本線は本工事のほか、全線の29 %に当たる106.4 km を新線に切り替えたことにより、全線で路線延長が12.6 km短縮された[39]。このため全線複線化を達成した1964年(昭和49年)10月1日の営業キロ程修正時点で、営業キロ上の総延長を353.8 km としている。
一方で施設上のキロ程(以下、施設キロ)は引き続き旧線に基づく開業以来のキロ程が用いられ、キロポスト(距離標)もこれに基づいて建植されている。これは糸魚川駅 - 直江津駅間の新線も同様であり数か所の断鎖(ブレーキメートル、BrM)の距離更正点を設け、キロ程を増減し修正している[6]。
以下文中ではキロ程を表示する箇所があるが、特記ない限り施設キロで表記する。なお新線と旧線、および営業キロとのキロ程対照は以下の通り。えちごトキめき鉄道移管後に開業したえちご押上ひすい海岸駅については参考値として米原起点の営業キロに相当する値を括弧書きで併記する。
糸魚川駅 | えちご押上ひすい海岸駅 | 交直接続点 | 梶屋敷駅 | (BrM) | 浦本駅 | (新)
能生駅 |
(旧)
能生駅 |
(旧)
筒石駅 |
(新)
筒石駅 |
(新)
名立駅 |
(旧)
名立駅 |
(BrM) | 有間川駅 | (BrM) | 谷浜駅 | 郷津駅 | (BrM) | 直江津駅 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
旧線 | 施設キロ | (米原起点) | 324.260 | (不明) | - | 328.620 | 331.00000 | 332.100 | - | 337.640 | 344.080 | - | - | 350.660 | 352.88966 | 355.250 | 357.14886 | 358.560 | 360.930 | 363.940 | 365.52585 |
新線 | 327.200 | 330.98698 | 337.270 | - | - | 344.700 | 348.910 | - | 352.88966 | 355.170 | 357.14886 | - | 363.59761 | ||||||||
331.00000 | 355.000 | 357.14446 | 363.940 | ||||||||||||||||||
営業キロ | 315.0 | (316.6) | - | 319.3 | - | 322.8 | 327.9 | - | - | 335.4 | 339.6 | - | - | 343.8 | - | 347.2 | - | - | 353.8 | ||
(市振起点) | 20.5 | 22.1 | - | 24.8 | - | 28.3 | 33.4 | - | - | 40.9 | 45.1 | - | - | 49.3 | - | 52.7 | - | - | 59. |
施工
施工にあたっての技術的問題点
新線建設にあたっては特にトンネル掘削に関して以下の技術的問題点が懸念された[6][26]。
- 膨張性軟弱泥岩およびベントナイト層の掘削(頸城トンネル)
- 4 - 5 kg/cm2の被圧下にある含水砂礫層の掘削(浦本トンネル)
- 噴出するメタンガスに対する安全対策(各トンネル)
- 軟弱泥岩地帯での3線断面(約120 m2)の掘削(頸城トンネル、名立トンネル)
特に頸城トンネルに関しては、能生谷層と呼ばれる泥岩主体の層が入口側から濁澄川付近まで続き、その上にさらに砂岩と泥岩が互層となって重なっている。また、坑口から350 - 500 m 間にかけて、および中央部の濁澄川下部に水溶膨張度が高いベントナイト質凝灰岩が介在する[12][42]。徳合川の谷を境に名立川層と称する泥岩が主体となる。いずれも第三紀層に属する比較的新しい地層で、固結度が低いものであった。特に第1工区から第3工区にかけては、地殻変動の甚だしい地帯で地すべり崩土層が広く分布するとともに、各所での爆発性ガスの検知、石油の湧出、異常膨張性泥岩の存在、摂氏30度に達する高温など、数々の困難に見舞われることになった[32][42]。
施工法
各トンネルともおおむね軟弱地質帯を貫くことから全断面掘削は実施せず、中央底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法[注釈 28]を主に採用し、地質が悪い箇所は側壁導坑先進順巻工法(サイロット工法)[注釈 29]や底導先進上半工法、特殊サイロット工法[注釈 30]を用いた[45]。その他、特殊な施工については各トンネルの項で述べる。
頸城トンネル
線形と規格
両起終点付近に能生川と名立川およびこれらに沿う県道があり、坑口の位置・高さはこれらとの立体交差の都合から決定した[1]。また山王、相場、濁澄、筒石、徳合の各河川の下を横切る際のできるだけ大きな土被りの確保や、地すべり土塊下の良質地層下の通過を狙い、概ね直線としながらも中間部に半径1,000 m 、名立方坑口手前から名立駅構内にかけ半径2,000 m の曲線を介在させている[4][1][36][33]。また、北陸本線の線路規格上の上限勾配は10 ‰ であったが、上述の制約、特に現に地すべりしていた濁澄川との土被りをできるだけとる都合から[46][25]、縦断線形は起点から途中濁澄川付近までの約5.1 km が2.5 ‰ の上り勾配、そこから終点まで約6.3 km が2.0 ‰ の下り勾配と設定された[1][36][47]。これは泥岩におけるトンネルとしては排水上最小限とされる値である[注釈 31]。それでも土被りの厚さは、山王川で18.4 m、濁澄川で13.5 m、筒石川で15.2 m、徳合川で9.0 m となり、これらの地区では慎重な施工が必要となった[36][42]。
建設担当と工区割
当初より頸城トンネルの工事が線増工事の完成時期を支配すると考えられており[30][50]、前述の完成目標達成のため36か月の工期で完成させるべく中間からの施工が必要であった[42][51]。このため、土被りが浅くなる川筋3か所に谷に通じる道路を拡幅整備したうえでトンネル上部へ将来の換気・保守作業通路へ転用する斜坑を設置し、両坑口を含めた5工区に分割して本坑の施工を実施した[32][42]。
当初斜坑は山王川、濁澄川、徳合川の3か所で予定されていたが[32]、筒石駅設置に伴い斜坑の旅客通路転用を考慮し、山王川、筒石川、徳合川の3か所に変更した[32]。しかし後述する進捗状況への不安から着工1年半後の1967年(昭和42年)12月には当初予定されていた濁澄川にも第3工区に通じる斜坑(大藤崎斜坑)を追加している[52][36]。
また、第1工区と第2工区の間、第2工区と第3工区の間、第4工区と第5工区の間には、それぞれ600 mの未契約区間が当初残されており[31]、その後の進捗に応じて契約して工程の調整を行った[51]。
工区名 | 第1工区 | 第2工区 | 第3工区 | 第4工区 | 第5工区 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
着工 | 1966年4月23日 | 1966年3月14日 | 1966年2月21日 | 1966年3月5日 | 1966年2月26日 | ||||||
竣工 | 1969年3月31日 | 1969年4月10日 | 1969年4月5日 | 1969年4月5日 | 1969年1月15日 | ||||||
キロ程 | 起点 | 337 km 418 m 66 | 339 km 550 m | 342 km 300 m | 344 km 840 m | 346 km 900 m | |||||
終点 | 339 km 550 m | 342 km 300 m | 344 km 840 m | 346 km 900 m | 348 km 771 m 66 | ||||||
延長 | 2,131 m 34 | 2,750 m | 2,540 m | 2,060 m | 1,871 m 66 | ||||||
貫通年月日 | 1969年1月7日 | 1968年8月28日 | 1967年4月7日 | 1967年8月10日 | |||||||
作業坑 | 名称 | なし
(坑口から施工) |
山王斜坑 | 大藤崎斜坑 | 筒石斜坑 | (筒石駅) | 徳合斜坑 | なし
(坑口から施工) | |||
延長 | 174.3 m | 171 m | 232.1 m | - | 174.4 m | ||||||
勾配 | 1/4 | 1/3.5 | 1/4 | - | 1/4 | ||||||
地点 | 340 km 170 m | 342 km 950 m | 344 km 545 m | 344 km 700 m | 346 km 057 m 30 | ||||||
施工業者 | 大成建設 | 間組 | 熊谷組 | 鹿島建設 | 鉄建建設 | ||||||
請負金額 | 15億7500万円 | 16億3900万円 | 17億5400万円 | 10億2700万円 | 9億8300万円 | ||||||
備考 | [注釈 32] | [注釈 33] | [注釈 34] | [注釈 35] |
第1工区
第1工区は大成建設により、1966年(昭和41年)2月に米原方坑口から着手した[53]。掘削方式は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で進められ、ベントナイト質凝灰岩地帯(坑口より350 - 500 m 地点間)、石油の浸出(坑口より355 mおよび580 m付近[52])や断層も無事突破し[53][54]、当初の1,000 m ほどの区間は順調なペースで掘削が進み、翌1967年(昭和42年)3月までに底設導坑は1,350 m地点まで掘削を実施した[51][52]。
しかしその後坑口より985 - 1,135 m 地点間では導坑に盤ぶくれ現象が生じ最大80 cm 扛上、導坑支保工内側幅が約1 m 縮小し、その区間の盤下げ縫返し[注釈 36]が行われた[55][53][54]。
さらに、導坑が坑口より1,465 m 地点、上半掘削が1,350 m 地点に達したころから最大で土圧150 - 200 トン/m2 にもなる異常膨張性を持った約549 m の泥岩層区間(以下、異常地圧区間、米原起点338 km 851 m - 339 km 400 m間[55])に達し、以降矢板折損、支保工変形が激しくなり、盤ぶくれはピークとなる掘削2週間後には1日平均6 cm にもおよび、インバートコンクリートも破壊された[56]。このため支保工の補強・縫返し、コンクリート仮巻き、盤下げ、コンクリート巻直し、吹付けコンクリート施工、大断面採用、などの対策を実施しながら掘進を進めたが、その吹付けコンクリートも破壊されるなど支保工やコンクリートの座屈変状は止まることはなかった[53][54][55][56]。
1967年(昭和42年)10月19日、坑口より1,670 m(米原起点339 km 084.9 m)地点で導坑掘進は不可能となった。このため上部半断面を先進させることとしたが、上部半断面の掘削に従い米原起点338 km 851 m以奥の導坑は全面的に圧潰した[54][55][56]。加えて、以降は上部半断面も最大200 cm の盤ぶくれや支保工の著しい変状が発生するなど経日とともに変状が目立ち始め、同年11月30日坑口より1,543 m(米原起点338 km 958.4 m)地点で上部の掘進が中止された[53][54][55]。
このため、上部掘進が中止された米原起点338 km 958.4 m 以奥の掘削工法については、中止翌月の1967年(昭和42年)12月21・22日に検討会議が開かれた[55]。再開に当たってはNATM工法などが検討されたが[25]、最終的に以下の方針で工事を継続することとなった[55]。
- 大きな地圧抵抗力が期待できる上部半断面先進ベンチカット併進逆巻工法[注釈 37]を採用
- 断面をインバートもふくめ円形に変更
- 掘削後直ちに掘削分の延長をコンクリート覆工。覆工は2回巻(1次巻70 cm、2次巻50 cm[54])とする
- 覆工コンクリートは早強コンクリートを使用[54]
- 覆工には鉄筋コンクリートを使用(1次巻のみ、2次巻は1次巻の変状が少なかったため無筋)[26]
- 覆工1次巻のある程度の変状を考慮し断面を拡大
- 全断面の可能な限りの覆工早期完了のため上半と下半は極力間隔を短くする
この方針の下、上部半断面掘削中止地点までの約100 m の区間の下部半断面については、翌年3月末までに縫返しを実施し上半のアーチコンクリートを打設後すぐに側壁・インバートを打設して早急に完成形状に仕上げ、同時に断面を円形に近づけ、中止地点まで完成形での施工を終了させた[32][57][56]。残る異常地圧区間は1968年(昭和43年)4月3日から掘削を再開した[55]。以降は1968年(昭和43年)11月時点で上半・下半とも2.50 m/日の掘進速度を維持し[56]、順調に工事が進んだ[53]。工区の残り延長が150 m となった米原起点339 km 400 m地点より膨張はなくなったが、工法変更は工費・工期両面で有利でないことから断面のみ普通断面として工区境まで工事を継続した[25][58]。1969年(昭和44年)1月7日に米原起点339 km 500 m 地点で第2工区と貫通し[注釈 38]、これによりトンネル全区間が貫通した[58]。
なお、異常地圧区間の建設費は、円形断面としたことや覆工に鉄筋コンクリートを使用したことなどにより、通常断面区間を底設導坑方式で建設した区間の2倍の1,084,000円/mに達した[25]。
第2工区
第2工区は間組により、山王斜坑によって1966年(昭和41年)10月に斜坑坑底(米原起点340 km 170 m)へ取り付き、サイロット工法にて直ちに直江津方への本坑掘進に着手した[53][1]。坑内温度は30 ℃〜35 ℃に達する高温下での作業となったが[1]、翌1967年(昭和42年)6月までに導坑は約1,100 m を掘進するなど順調に工事を進めた[58][53]。しかし、上半断面切羽が斜坑交点より800 m(米原起点340 km 970 m)の地点に差し掛かったころ、同地点の導坑が同年5月下旬から7月下旬までの間に約90 cm 扛上するなど盤ぶくれが発生し、同年6月から8月にかけ、導坑切羽掘削を中止し盤下げを実施した[58][53]。
導坑の掘削が停止している間でも、上半の掘削は斜坑交点より870 m まで進められた。しかし、導坑の盤ぶくれ範囲が相場川下部藤崎脊斜軸の泥岩地帯にあたる970 m 地点までに拡大し、上半掘削を停止して約50 cmの盤下げを実施した。その後上半掘削は同年10月に再開されたが、再び970 m 地点の導坑に盤ぶくれが発生し、同年11月に再度約70 cm の盤下げを実施した[53]。
それでもなお導坑掘進は強行されたが、相場川下部の藤崎背斜軸付近(米原起点341 km 170 - 300 m 間)は地質不良・地耐力不足の様相を示した。このため当該区間は導坑に仮巻きコンクリートを施工し、上半掘削はこの地点を飛ばして奥を実施することとした[58]。
当該区間は特殊サイロット工法に切り替えて工事が行われ、1968年(昭和43年)11月にかけて約1年がかりで同区間を施工した[53]。このほか、米原起点342 km 980 m - 343 km 050 m間、343 km 460 m - 460 m間、343 km 735 m - 935 m 間をサイロット工法で施工した[58]。
第1工区と第2工区の間に600 m 残されていた未契約区間は、前述の第1工区の苦闘による工程遅れに伴いすべて第2工区の受け持ちとされた。一方、第2工区と第3工区間の未契約区間については後述の理由から第3工区側がすべて受け持った[32]。
第3工区
第3工区は熊谷組により、筒石斜坑によって1966年(昭和41年)8月に斜坑坑底(米原起点344 km 545 m)へ取り付き、直江津方と米原方の2方向へ掘削を開始した[53][1][59]。直江津方は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で掘削し、米原起点344 km 700 m 前後の280 m では筒石川直下の土被りの薄い箇所にもかかわらず、筒石駅を設置するため通常断面より側幅が1.3 m 広い特殊断面を掘削した。この区間は順調に進行し1967年(昭和42年)3月に工区境に達し、4月7日に第4工区と貫通し頸城トンネル各工区間で最初の貫通となった[53][1][注釈 39]。
一方米原方は、濁澄川直下であり地すべり誘発の危険性が最も大きい区間であること、地耐力不足で上半アーチが沈下するおそれから当初からサイロット工法を採用して掘削した[25][52][59]。しかし直江津方が第4工区と貫通した1967年(昭和42年)4月ごろ、左右の側壁導坑が800 mほど米原方へ進んだところ(米原起点343 km 850 m地点)で左右両導坑とも強大な地圧を受け支保工が変形し、一旦以奥での作業を中止しこの区間の支保工補強に専念した。それでもなお強大な荷重から補強の必要が生じ、縦横に丸太などで柱・横はりを施工したため導坑は通行不能となり、以奥での切羽は4か月間にわたり作業を中止した[53][32][59]。
その後数か月かけ米原起点345 km 745 - 935 m間の導坑縫返し、仮巻コンクリートを実施し、同年8月に導坑掘削を再開したが、この区間を含む約200 m 間では後に側壁コンクリート押出し現象が発生し、一部は手直しとなった。それでも翌1968年(昭和43年)夏には無事濁澄川下部のベントナイト層区間の施工を完了した[53]。
なお前述したように第3工区には大藤崎斜坑が追設されており、米原方の590 m (米原起点342 km 310 mから342 km 900 m)については大藤崎斜坑からの施工を行った[36][59]。このことや、第2工区側の掘削停止期間の関係もあり第2工区との境界における600 m の未契約区間は、すべて第3工区の担当となった[32]。
第4工区
第4工区は鹿島建設により、徳合斜坑によって本坑に取り付いて米原方と直江津方へ掘削し[1][59]、底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法を用い、湧水も少なく順調に施工した[36][59]。第4工区と第5工区については順調に掘削が進んだことから、工区境にある600 m の未契約区間は、300 m ずつ分割してそれぞれ施工した[32]。
第5工区
第5工区は鉄建建設により、直江津方の坑口から着手した[1][59]。名立駅設置の都合上、坑口付近280 m が3線断面[4]になっていたことからこの付近についてはサイロット工法で掘削を行い[25]、そのほかは底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で施工した[1]。坑口より150 m地点で湧水に伴う細砂の流出、米原起点347 km 420 mでの砂層との遭遇があったが、そのほかは比較的順調に掘削が行われた[59]。
頸城トンネルの完成
第1 - 第3工区の難航により当初の工期が危ぶまれたものの、トンネル自体の工事は1969年(昭和44年)5月に全面完成し[2]、予定通りの完成となった[52]。
同年6月10日に頸城隧道銘標除幕式およびレール締結式が実施された。締結式は米原方坑口から約25メートル入った場所、下り337 km 439 m 30 地点、上り337 km 433 m 50 地点で実施された[8]。
その他線増工事における特筆すべき工事
浦本トンネル(浦本駅 - 能生駅)
浦本トンネルは第1工区が奥村組、第2工区が大林組の請負によりそれぞれ1966年(昭和41年)10月21日、9月13日に着工した[60]。本トンネル第1工区(米原起点332 km 215 m - 333 km 700 m)では、ルート選定時のボーリング調査で地表に圧力水が自噴する箇所があり、鬼伏調査坑(延長221 m)を掘削した。その結果、泥岩と砂れき層の境界に大量の地下水の存在が判明したが[45]、前後の取り付けの関係上やむを得ず被圧水帯を掘削することとなった[61]。その後の掘削では坑口より420 m 掘進後、泥岩砂れき境界付近の切羽で地質調査用ボーリング3本を実施したところ、3気圧 1,700 L/minの湧水に遭遇し、切羽掘削が中止された[45]。
その後も減水の兆候は見られなかったため、長孔ボーリングによる水抜きを実施した[45]。1回目のボーリングでは湧水圧は0.5気圧に減少するなど成功をおさめ、以降調査ボーリングにより被圧水が確かめられる度に水抜き・排水が実施され、最終的に長孔ボーリングは孔数17、延長2,210 m に及んだ[62]。
また、直江津方(第2工区)では軟弱な泥岩層を掘削することとなったが、これについてはサイロット工法で切り抜けた[61]。
このほか軌道については、コンクリートスラブ軌道を390 mの区間で試験採用した(後述)。
本トンネルは1968年(昭和43年)3月14日に貫通し[63]、1969年(昭和44年)3月10日の第1工区インバートコンクリート工事竣工をもって工事は終了した[60]。
木浦トンネル(浦本駅 - 能生駅)
木浦トンネルは前田建設工業の請負により1966年(昭和41年)10月24日に着工した[60]。本トンネルでは国鉄におけるトンネルボーリングマシン(以下、TBM)施工の可能性、使用時の問題点、経済性の検討を行うため、糸魚川駅 - 直江津駅間の工事区間で比較的地質が安定している[64]本トンネルの一部区間で、底設導坑をTBMによる導坑に置き換えて(TBM先進工法)施工した[48][49]。
TBM(小松ロビンスT.M.230G型)は制作した小松製作所から有償で借上げ、施工業者の前田建設工業に貸与の上、用いた[48][49]。このTBMは国産第1号のものであり、もとは愛媛県新居浜市の住友共同電力東平発電所の水路トンネル工事における硬岩掘削を目的として制作されたものの、掘削時に生じた問題から試用を中止されていたものであった。このため木浦トンネルにおける試用は、軟岩における性能を明らかにすることも目的のひとつであった[64]。
使用されたのは延長1,570 m のうち887 m で、1967年(昭和42年)1月12日に直江津方坑口から125.3 m の地点から掘削を開始した[49]。木浦トンネルも能生谷層に属する泥岩主体の地質であり、試験掘削期間中には大量の湧水に遭遇したが、2月18日からの本工事では掘削はほぼ順調に進行し、3月には、月進(29日間)362 m、平均日進12.5 m を達成し、3月25日には日進246 m を達成した[49]。TBMによる掘削は5月5日、岩質が軟弱となり困難となったことから終了し[48]、5月16日に米原起点335 km 651 m 8 地点にて、米原方から発破工法で掘削した底設導坑と貫通した[49]。
日本の鉄道トンネルにおけるTBMは本トンネルのほか同年より青函トンネルの導坑掘削でも用いられたが、日本の複雑な地質への適応の問題から、その後の使用は数例にとどまり、後年の海外での実績の評価や、国内におけるシールド技術の蓄積による再評価が進むまで本格採用には至らなかった[44][注釈 40]。
本トンネルの工事は1969年(昭和44年)1月20日のインバートコンクリート工事竣工をもって終了した[60]。
名立川橋りょう(名立駅構内)
名立駅ホームを設置する名立川橋りょうは日本の鉄道橋として初めてPCけたブロック工法での架設が行われた[8]。
名立トンネル(名立駅 - 有間川駅)
名立トンネルは頸城トンネルと同様3線断面区間を持つトンネルであるが、第2工区でアーチライニング沈下の事故があったほかは順調に施工された[2]。
工事は第1工区が飛島建設、第2工区が佐藤工業が請負い、工事は1966年(昭和41年)5月28日に第1工区から着工、1969年(昭和44年)4月5日の第2工区コンクリート道床工事竣工をもって終了した[65]。
長浜トンネル(有間川駅 - 谷浜駅)
長浜トンネルは旧線長浜トンネルに並行して新設される、糸魚川駅 - 直江津駅間で最も短いトンネル(完成時延長1,158 m)であり、土被りが浅いために大部分で風化層を掘削する必要があったものの[17]、他の区間と比較して良質な地層であり、前述した施工にあたっての技術的問題点もないトンネルとされていた[26][注釈 41]。工事は三井建設の請負で1966年(昭和41年)7月25日に着手し[65]、直江津方坑口から掘削を開始した[66]。掘削は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻方式を採用した[67]。
しかし、1967年(昭和42年)1月20日22時25分ごろ、直江津方坑口から136.0〜156.4 m 間(米原起点356 km 992 m)地点で突如崩壊が発生し、上部半断面(延長20.4 m)、底設導坑(24.0 m)が埋没した[68]。これにより当時支保工変状の為補強支保工の建て込みを実施していた作業員計10名(上部半断面6名、底設導坑4名)が巻き込まれ、このうち上部半断面では坑奥へ逃げた1名を除く5名が埋没した[68]。残る5名は崩壊後まもなく底設導坑のエアパイプを通じて生存が確認され、エアパイプで照明用電灯線、食糧、衣類、毛布が送られた[68]。救助は糸魚川駅 - 直江津駅間でトンネルを施工していた全12の請負業者から延べ347名の応援を受け、上部半断面山側と底設導坑海側に救助坑を掘削し、事故から82時間後の1月24日9時10分に生存者が上部の救出坑から救出された[68]。なお、埋没した5名は、2名が生存者救出時、残る3名が救助作業後の底設導坑復旧時にいずれも遺体として収容された[69]。
当時、支保工に鋼アーチ支保工が採用されるようになり落盤事故が減少していたことと、同区間が入念な事前調査によりルート選定・設計を実施していたこともあり、この事故は関係者・国鉄に大きな衝撃を与えた[26]。このため応急救助作業の終了後、部内外の権威者による「北陸本線長浜ずい道事故技術調査委員会」が設置され[26]、同年2月4日から2月15日にかけ特別委員・委員による現地視察を行った[69]。
事故技術調査委員会では同年6月19日に事故原因について結論を出し、掘削により地盤が坑口方向へクリープする現象により泥岩の亀裂面の隙間が大きくなり、山のゆるみが促進されたこと、崩壊箇所付近が局部的に特に弱い風化層がトンネル天端から上方約5〜6 mの位置まで及んでおり[注釈 42]、ゆるみが上部まで及び、加えて同年1月15日から17日にかけての積雪(1.4 m)が17日以降の気温上昇により融け、地山のゆるみを促進させたことにより、急激に支保工にかかる土圧が増加し、瞬間的に崩壊したものとしている[69]。また、白井・那須(2000)では、事故技術調査委員会の指摘に加え、崩壊箇所付近の小断層を境に地質の力学的特性が異なっていた(手前が第三期風化泥岩、奥が第三期泥岩)ことも指摘している[66]。
なお、掘削含めた工事は1968年(昭和43年)7月24日に竣工し[65]、他区間に先駆けて複線の供用を開始している。
湯殿トンネル(谷浜駅 - 直江津駅間)
湯殿トンネルでは地すべり湿地帯ににあたる直江津方坑口付近30 m間はPIP杭を壁状に隙間なく施工することで、アーチコンクリートの沈下防止・土留め壁とした箇所がある[2]。請負は第1工区が西松建設、第2工区が清水建設が担当し、工事は1966年(昭和41年)7月25日に第1工区から着工、1968年(昭和43年)2月21日に貫通し[70]、1969年(昭和44年)6月10日の第2工区コンクリート道床工事竣工をもって終了した[65]。
新線区間の軌道構造
新線区間の軌道工事については、浦本トンネル、名立トンネル、湯殿トンネル、頸城トンネル第4・5工区(筒石駅 - 名立方坑口手前まで[1])に関しては出入り口の約100 mを除いてコンクリート道床の直結軌道とし[8]、うち浦本トンネルではコンクリートスラブ軌道を390 mの区間で試験採用した[71]。区間内は約200 mごとに「コンクリートスラブ式アスファルトてん充型」「コンクリートスラブ式ロングチューブ型」の2種類が施工されている[61][72]。残る頸城トンネル第1 - 3工区は軟弱地盤であることから将来の保守を考慮しバラスト軌道とした[8][注釈 43]。まくらぎは明かり区間はPCまくらぎ、長大トンネルは電蝕防止のため木まくらぎを採用した[8]。
糸魚川駅 - 直江津駅間電化工事
電化方式の検討
北陸本線の電化方式については1956年(昭和31年)5月に国鉄交流電化調査委員会から出された「交流電化方式は直流電化方式に比し輸送量の多少にかかわらず、投下資本においても、年間経費に置いても、つねに有利である」との答申から交流20 kV・60 Hzでの電化が進められたが[74]、新潟地区はすでに上越線が直流1,500 Vで電化されていたこと、東京 - 新潟間の輸送密度が比較的高いことから1960年度(昭和35年度)に信越本線長岡駅 - 新潟駅間は直流電化で着工され1962年(昭和37年)に直流電化開業していた[75][注釈 44]。
このため本区間を含む日本海縦貫線の抜本的線増にあたっては、森垣(1964)によると1964年(昭和39年)初時点で既存区間も含めた米原駅 - 羽越本線坂町駅間の電化方式について以下の案が想定されていた[75]。なお、先述の通りこの時点で北陸本線は同年8月に富山操車場まで交流電化開業が決定している。
- 直流案(田村駅 - 富山操車場間の既存交流区間を直流に転換し、米原駅 - 坂町駅間を直流電化とする)
- 交流案(宮内駅 - 新潟駅間を交流電化に転換し、日本海縦貫線を全面的に交流電化とする)
- 交直流併用案(糸魚川以西は交流電化、以東は坂町駅まで直流電化とする)
以上3案については1970年(昭和45年度)想定輸送量をもとに、設備面、車両面から比較検討の結果、いずれも交直流併用案がでも有利であった[75]。
また、この時点で電化工事中であった富山操車場 - 糸魚川間については、仮にこの時点で1970年度(昭和45年度)ごろの完成見込みであった糸魚川駅 - 直江津駅間の線増と同時に一挙に電化した場合電化が大幅に遅くなることから、1965年度(昭和40年度)に完成する親不知トンネルほかの線増改良と同時期の電化が望ましいと考えられたため交流電化が適当とされ[75]、糸魚川駅構内は交流20 kV・60 Hzで電化となった。
電化工事
以上を踏まえ本区間の電化については「電源事情[注釈 45]および信越線の直流電化方式との関連から[76]」直流1,500 Vで行われることが1964年(昭和39年)2月6日の国鉄第309回常務会で決定した[77][78][注釈 46]。このため糸魚川駅 - 梶屋敷駅間(当時)米原起点327.2 km地点に交直接続点のデッドセクションを設け[40]、以東を直流電化とした[注釈 47]。工事は湯殿トンネルの完成と時期を合わせて実施され[40]、あわせて梶屋敷駅、能生駅、名立駅には変電所と附属建物が新設されている[80]。
糸魚川駅 - 直江津駅間線増・電化工事の完成
頸城トンネルをはじめとした糸魚川駅 - 直江津駅間の線増工事は、長浜トンネルを含む有間川駅 - 谷浜駅間が1968年(昭和43年)9月25日に複線化されたことを皮切りに、翌1969年(昭和44年)には、6月4日に糸魚川駅 - 梶屋敷駅間、6月19日に梶屋敷駅 - 浦本駅間が線増により複線化され、残る新線区間についても同年8月10日に頸城トンネルを含む糸魚川駅 - 有間川駅間の新線で習熟運転が開始された[76]。そして同年9月29日に頸城トンネル含む浦本駅 - 有間川駅間、谷浜駅 - 直江津駅間の新線切替、糸魚川駅 - 直江津駅間電化が行われ、これにより北陸本線は線増工事開始当初の計画であった1969年秋に全線の複線電化を達成した[81][35]。
本区間の線増・電化工事には工費210億円、延べ作業人員350万人[6]、このうち線増工事だけで工費200億円、延べ作業人員約250万人におよび、セメント13万t、鋼材2万t が費やされ、コンクリート打設量は50万m3、掘削量150万m3に及んだ[57]。また、一連の工事では長浜トンネル崩落による5名を含め25名の犠牲者が発生した[57]。
開業に先立つ1969年(昭和44年)9月10日に能生駅構内において工事碑および慰霊碑の除幕式がそれぞれ国鉄岐阜工事局長松本有、犠牲者遺族の手で行われた[82]。なお、工事碑には松本による以下の文が刻まれている[38]。
糸魚川 直江津間線増工事は大正二年以来 地辷り 雪 波浪 急曲線に悩まされ続けてきた暗い鉄道を 明るい鉄道に変革するためにおこなわれた
この工事の完成によって 多くの人々の苦悩を解消したことは偉大である
英知と情熱を頸城の地底にたたきこんで この偉大さを実現した人々を永久に讃えるためにこれを建つ
昭和四十四年九月十日 — 松本有(国鉄岐阜工事局長)、糸魚川・直江津間線増工事碑[38]
線増・新線建設の効果と評価
この複線電化の直前に上越線・信越本線は単線区間を残しながらも全線電化が完成しており、首都圏と北陸地方は既存の東海道本線・米原駅・敦賀駅経由だけでなく、上越線もしくは信越本線を介しても架線で結ばれた。
このため新線開通直後の1969年(昭和44年)10月1日に行われたダイヤ改正では、特急「はくたか」(初代:上野駅 - 金沢駅)が経由を信越本線(碓氷峠)から上越線へ変更の上で、気動車(キハ80系)から電車(485系)となった[注釈 48]。運転時間(金沢行き列車、以下同様)は1965年(昭和40年)10月1日時点の7時間50分から、6時間35分[注釈 49]に短縮され、うち、直江津駅 - 富山駅間は1時間58分から1時間28分[注釈 50]へ30分短縮した[83]。特に、直江津駅 - 糸魚川駅間の所要時間については、1968年(昭和40年)10月1日時点の44分から29分へおよそ15分短縮した[11][3]。
その後JR西日本では同区間を含む泊駅 - 直江津駅間の最高運転速度を130 km/h に引上げ[3]、北陸新幹線開業まで同区間で運行した特急「はくたか」(2代:越後湯沢駅 - 金沢駅ほか)は、運転終了直前の2015年(平成27年)2月時点で直江津駅 - 富山駅間を最速1時間6分(越後湯沢行き21号[注釈 51])で走破した[5]。また、旧線で生じていた各種の災害からも解放され、大島洋志(2014)では頸城トンネルを含む新線を「究極の防災[84]」と評価している。
このように、輸送強化・防災という面では大きなメリットがあったものの、大島登志彦・中牧崇(2016)は「地域公共交通」という観点から、駅の移転などで地域における利便性が大幅に悪化したこと等を挙げた上で、新線のルート選定を「特急列車のスピードアップを前提としたもの[29]」「地域輸送を二の次にして幹線輸送に特化したもの[29]」と評価し、その後の地域輸送を主とするえちごトキめき鉄道への転換に当たって「直ちにその特性を発揮できない体制[29]」にあるとした。ただし、このルート選定は先述したように、現在線での線増工事が困難であったことも一因である。
また、その後同地は北陸自動車道や北陸新幹線が建設され、いくつかのトンネルが掘削されているが、大島洋志(2014)ではこれらの工事に対して貴重な情報を提供したことも指摘している[84]。
旧線跡地の転用
旧線跡地については宅地や公園、農道等への転用が行われたほか[85]、浦本駅付近から谷浜駅付近までの大部分が新潟県道542号上越糸魚川自転車道線(久比岐自転車道)として転用されることとなり、1976年(昭和51年)10月に名立 - 谷浜間、1991年(平成3年)度に旧線跡地を含む糸魚川 - 上越間の全線が開通した[85]。また、谷浜駅 - 直江津駅間については郷津トンネルを拡張の上、国道8号直江津バイパスへ転用された。
年表
- 1963年(昭和38年)7月:国鉄中部支社に「北陸本線糸魚川 - 直江津間地質調査委員会」発足[6]。
- 1964年(昭和39年)8月:糸魚川駅 - 直江津駅間の複線別線計画決定[33]。
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)
- 1987年(昭和62年)4月1日:西日本旅客鉄道(JR西日本)へ移管。
- 2015年(平成27年)3月14日:えちごトキめき鉄道へ移管。
脚注
注釈
- ^ 当時の1位は北陸本線北陸トンネル(13,870 m)、2位が上越線新清水トンネル(13,490 m)。
- ^ それまでの民鉄最長の鉄道用山岳トンネルは北越急行ほくほく線赤倉トンネル(1997年(平成9年)供用開始、10,472 m)[7]。
- ^ 同様に名立駅を挟んで隣接する名立トンネルも、一部3線断面として上り待避側線の一部を収めている。
- ^ もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。
- ^ 当時は裏縦貫線と呼称していた。以下、本文中の名称は「日本海縦貫線」とする。
- ^ 1962年(昭和37年)を指す。岩戸景気とオリンピック景気の間の短期間の不況下にあった。
- ^ 記事掲載前年の1962年開通。
- ^ 当時、浦本駅は未開業(1949年開業)。
- ^ a b 列車支障5時間以上、土砂崩壊500立方メートル以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。
- ^ 駅は事故時点での駅間を採用し、適宜備考欄で記述する。
- ^ この区間には有間川駅 - 谷浜駅間の長浜トンネル、郷津駅 - 直江津駅間の郷津トンネルがあり、前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間を短絡する複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられていた[10]。
- ^ 新線をいったん単線で建設して現在線と併用し、数年後に線増することで投資を繰り延べる手法も検討されたが、この場合、列車交換を行う信号場の設置が必要である上輸送能力が劣り、投資繰り延べは有利とならないと判断された[27]。
- ^ (現)能生駅の位置に相当
- ^ 名立川は杉野瀬地区の地下30 mで通過[28]する計画であったとされている。
- ^ 採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に待避設備を設置している。
- ^ 国鉄としてはもしこの計画に反対する場合「現在の線をローカル線として残すほかはない[28]」という見解であったとされている。
- ^ ルートが決定した1965年(昭和40年)の時点で出版された堀内(1965)では「新能生駅」「新名立駅」は記載が見られるが、筒石駅については新線上に記載がなく[30]、翌1966年(昭和41年)に出版された加茂(1966)では「新筒石駅」が記載されている[31]。
- ^ もっとも、第3次長期計画におけるすべての線増・電化計画が予定通り実行されたわけではない。例えば線増に関しては羽越本線など全線複線化が計画されていながら達成できなかった線区が多数存在する。
- ^ 後述する施設キロ(365.5 km)と異なる値であるが、当時完成していた深坂トンネル・北陸トンネル経由の数値(2新線で約9 km 短縮)と思われる。
- ^ 糸魚川以東の完全複線化は1969年(昭和44年)6月17日の片貝信号場 - 黒部駅間を最後に完成している。
- ^ 着工時点での計画値は1,150 m。
- ^ 着工時点での計画値は3,095 m。
- ^ 着工時点での計画値は2,660 m。
- ^ 着工時点での計画値は1,570 m。
- ^ 着工時点での計画値は11,355 m。
- ^ 着工時点での計画値は3,596 m。
- ^ 断鎖の位置については文献によって位置が異なるものがあるため、『岐阜工事局50年史』p.211での記述を参考としたが、同文献では直江津駅手前の断鎖位置が欠落しているため、この箇所については他文献による位置を採用した。
- ^ トンネル底部中央に設けた導坑をまず掘削し、その後上半断面を掘削してトンネル天井部の覆工を行い、下半断面を全体に切り広げて側壁コンクリートを打設し、最後に底部のインバートを打設する工法[43]。北陸トンネル工事で確立された工法であり、底設導坑地質の確認・地下水排除が可能であることから、底盤部が泥寧化しやすい地山のトンネルや、長大トンネルの施工に適する[44]。
- ^ 最初にトンネル下部両側壁付近に導坑を掘ってまず側壁を覆工し、続いてそれを全断面に広げて天井部の覆工をするという手順の工法[43]。
- ^ サイロット工法に中央底部の導坑を加えたもの[43][45]。
- ^ 能生駅を挟んで隣接し、同じく泥岩層を通過する木浦トンネル(1,570 m)の場合、米原方330 m を9 ‰、残る直江津方を5 ‰で施工している[48][49]。このほか、糸魚川駅 - 直江津駅間では長浜トンネルが同様に土被りを確保する都合上、3 ‰で施工されている[26]。
- ^ 工事開始時は340 km 150 m 地点まで
- ^ 工事開始時は342 km 900 m 地点まで
- ^ 工事開始時は346 km 600 m 地点まで
- ^ 工事開始時は347 km 200 m 地点から348 km 860 m 地点までとされていた
- ^ 圧縮された断面を再掘削し、座屈変状した支保工を交換する作業[54]。
- ^ トンネル上半部を先に4.5 - 6 m 掘削し、一旦掘進を中止して天井部(アーチコンクリート)の覆工を行い、可能な限り近い後方で下半部を1.5 - 2.0 m 掘進し、インバート側壁のコンクリートを施工する工法。地山を掘削したまま放置する区間・期間が短く、支保工の変状が発生する前にコンクリートで補強ができ、早期に円形閉合が可能となることから大きな地圧抵抗力が期待できる[57]
- ^ 第1工区終端は貫通地点より50 m 直江津方の米原起点339 km 550 m地点であったが[1]、第2工区方から地質調査を兼ねた底設導坑の応援掘削が行われている[55]。
- ^ 『岐阜工事局五十年史』p.218本文では7月7日貫通とされているが、p.214の表では4月7日となっており、6月に発行された『交通技術』誌で貫通年月日入りの貫通地点写真が掲載されていることから、4月7日を採用する。
- ^ 再評価後の使用例としては、国内初の全断面TBMによる鉄道トンネル(単線)である吾妻線八ッ場トンネルがある(2005年貫通、2014年供用開始)[44]。
- ^ 地質調査委員会は、長浜トンネル付近の地質について「地すべり地形であるが安定しており、地すべりの危険度は少ない。ただし段丘堆積層や岩屑の小規模な崩壊は起こりうるが大体良質な地質といえよう」とした[26]。
- ^ この風化はトンネル設計において当時通常行われていた弾性波調査やボーリング調査では発見できない、局部的な変化であり、事故発生後の精密な調査の結果初めて判明したとされる[69]。
- ^ 当初計画では頸城トンネル第2・3工区もコンクリート道床の予定であったが変更された[73]。
- ^ ただし将来の交流化への改修が可及的に簡単になるよう配慮されている[75]。
- ^ 新潟県は佐渡島内と糸魚川市旧青海町の一部を除き周波数50 Hzであり、仮に糸魚川以東に接続点がずれた場合、両周波数対応の機関車の製作か、機関車の付替が必要となる[75]。
- ^ 坂町駅以北の電化方式についてこの時点では「今後の検討事項[75]」であったが、翌1965年(昭和40年)2月18日の国鉄第316回理事会で奥羽本線の交流電化が決定し[77]、同年3月3日の国鉄第342回常務会で羽越本線村上駅 - 間島駅間で交直接続とすることが決定している[79]。
- ^ このため新線は開通以来交直両用車両、もしくは内燃動力車が定期運用に用いられている。
- ^ 当時、碓氷峠区間(横川駅 - 軽井沢駅間)でEF63形電気機関車と協調運転可能な交直流特急形電車は存在せず(489系は1972年登場)、連結両数など編成面の制約が存在したため。
- ^ 上野07:40 - 金沢15:30→上野07:50 - 金沢14:25
- ^ 直江津12:38 - 富山14:40→直江津12:06 - 富山13:34
- ^ 富山16:56 - 直江津18:02 この間無停車。
出典
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参考文献
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関連項目
- 延長別日本の交通用トンネルの一覧
- 名立崩れ…江戸時代に沿線で発災した大規模地すべり