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このうち「信州」は昼行、「とがくし」は夜行。また「志賀」は湯田中発着列車のみとした上で上野 - [[屋代駅|屋代]]は「信州」併結。3両付属編成で[[長野電鉄]]に乗入を行い[[長野電鉄河東線|河東線]]<ref group="注">2002年に通称だった[[[[長野電鉄屋代線|屋代線]]に改称し、2012年に廃止。</ref>・[[長野電鉄長野線|長野線]]経由で運転された<ref name="rp199403_p52" />。
このうち「信州」は昼行、「とがくし」は夜行。また「志賀」は湯田中発着列車のみとした上で上野 - [[屋代駅|屋代]]は「信州」併結。3両付属編成で[[長野電鉄]]に乗入を行い[[長野電鉄河東線|河東線]]<ref group="注">2002年に通称だった[[長野電鉄屋代線|屋代線]]に改称し、2012年に廃止。</ref>・[[長野電鉄長野線|長野線]]経由で運転された<ref name="rp199403_p52" />。


また同改正では準急「軽井沢」2往復を定期列車に格上げし、1往復が165系での運転となった<ref name="rp199403_p52" />。このうち[[中軽井沢駅|中軽井沢]]発着の1往復が、1965年10月1日ダイヤ改正で長野まで延長され、全車指定席急行「信越いでゆ」1往復に格上げされた<ref name="rp199403_p55" />。残存した準急1往復は1966年3月5日に国有鉄道運賃法改正<ref name="rp199403_p55" />で急行列車に格上げされた。
また同改正では準急「軽井沢」2往復を定期列車に格上げし、1往復が165系での運転となった<ref name="rp199403_p52" />。このうち[[中軽井沢駅|中軽井沢]]発着の1往復が、1965年10月1日ダイヤ改正で長野まで延長され、全車指定席急行「信越いでゆ」1往復に格上げされた<ref name="rp199403_p55" />。残存した準急1往復は1966年3月5日に国有鉄道運賃法改正<ref name="rp199403_p55" />で急行列車に格上げされた。
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=== 中央東線・松本地区 ===
=== 中央東線・松本地区 ===
{{see also|あずさ (列車)#中央本線中央東線区間(塩尻駅以東)優等列車沿革}}
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中央東線での運用は、1963年4月28日から5月26日までの休日に[[新宿駅|新宿]] - [[甲府駅|甲府]]間で運転された臨時列車が最初である<ref name="rf199812_p42" />。下りは準急「かいじ」、上りは[[普通列車]とし4両編成x2本のモノクラス8両編成を充当。本列車運転に際し新前橋電車区からモハ164形800番台を組成する波動輸送用4両編成x5本を三鷹電車区へ転属させたが、後述する「たてしな」運転開始に伴い同年10月1日付で田町電車区へ転出した。
中央東線での運用は、1963年4月28日から5月26日までの休日に[[新宿駅|新宿]] - [[甲府駅|甲府]]間で運転された臨時列車が最初である<ref name="rf199812_p42" />。下りは準急「かいじ」、上りは[[普通列車]]とし4両編成x2本のモノクラス8両編成を充当。本列車運転に際し新前橋電車区からモハ164形800番台を組成する波動輸送用4両編成x5本を三鷹電車区へ転属させたが、後述する「たてしな」運転開始に伴い同年10月1日付で田町電車区へ転出した。


[[1964年]]8月23日に甲府 - [[上諏訪駅|上諏訪]]間電化が完成し、[[1964年10月1日国鉄ダイヤ改正|同年10月1日ダイヤ改正]]で運転を開始した新宿 - 上諏訪間急行「たてしな」が同線で初の定期運用となった<ref name="rp199403_p53" />。車両は暫定的に三鷹電車区へ11両を新製配置し、7両編成で運転された<ref name="rf199812_p42" />。
[[1964年]]8月23日に甲府 - [[上諏訪駅|上諏訪]]間電化が完成し、[[1964年10月1日国鉄ダイヤ改正|同年10月1日ダイヤ改正]]で運転を開始した新宿 - 上諏訪間急行「たてしな」が同線で初の定期運用となった<ref name="rp199403_p53" />。車両は暫定的に三鷹電車区へ11両を新製配置し、7両編成で運転された<ref name="rf199812_p42" />。

2021年7月29日 (木) 00:00時点における版

国鉄165系電車
(163系・165系・167系・169系)
165系湘南色(伊那松島運輸区
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
製造所 川崎車輛→川崎重工業汽車製造近畿車輛帝國車輛工業東急車輛製造日本車輌製造
製造年 1963年 - 1970年
製造数 165系:701両
運用終了 2003年
廃車 2009年
主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500 V
最高運転速度 110 km/h
設計最高速度 130 km/h
全長 20,000 mm
全幅 2,903 mm
全高 4,090 mm
床面高さ 1,225 mm
車体 普通鋼
台車 空気ばねインダイレクトマウント台車
DT32・TR69系
主電動機 直流直巻電動機
MT54形
主電動機出力 120 kW
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比 80:19 (4.21)
定格速度 全界磁 60.0 km/h
40 %界磁 96.5 km/h
制御方式 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
制御装置 CS15形 電動カム軸式
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
勾配抑速ブレーキ*(163系を除く)
保安装置 ATS-SATS-PATS-ST
備考 163・167・169系のデータも含む
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国鉄165系電車(こくてつ165けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流急行形電車である。153系を基本に出力増強・勾配線区対応を行った直流急行形電車として、1963年から1970年にかけて701両が製造された[1]

国鉄分割民営化後は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)にそれぞれ承継された。

本項では、平坦線出力増強用として製造された163系修学旅行用として製造された167系・信越本線横川 - 軽井沢間(碓氷峠)でEF63形との協調運転対応用として製造された169系についても解説を行う。

登場の経緯

国鉄急行形電車の体系
電動機出力 抑速ブレーキ 直流急行形 交直流急行形
100 kW 153系 451系・471系
120 kW 163系 453系・473系
120 kW 165系 455系・475系
457系

国鉄初の直流急行形電車となる153系は、1958年に準急東海」で運用開始以降、東海道本線準急・急行列車の主力車両として運用されていた[2]。153系は主電動機に出力100 kWのMT46形が搭載されていたが、電化区間の拡大とともに25勾配線区でMT比1:1の編成では出力の不足が課題となった[2]

1960年代前半、信越本線長岡 - 新潟間・高崎 - 長野間・中央東線電化により首都圏から直通する長距離連続電化区間が完成し、電車急行列車を運転することが計画された。しかしいずれも連続急勾配が介在し、寒冷・多雪な気候条件の路線であり、153系ではこれらの路線には出力や耐寒能力不足で不適であった。

1960年度には出力120 kWのMT909形主電動機が試作され、101系での試験を経て1962年に量産型のMT54形が完成した[1]。また、主制御器も451系・471系で採用されたノッチ戻しが可能なCS15形を基本、157系で実用化された抑速ブレーキを組み合わせたCS15A形が開発された[1]。これらの主電動機・主制御器を採用し、勾配・寒冷路線での運用に対応した直流急行形電車として1963年から運用を開始したのが165系である[1]

165系の平坦・温暖路線用高出力形として163系の製造が計画されたが、系列集約を推進する見地から本格的な増備は見送られたため標準型として165系が多くの路線で運用された。

構造

ここでは基幹系列となる165系の構造を基本に解説を行う。163・167・169の関連系列での差異は各系列の項目を参照のこと。

編成

153系では両端を制御車とし中間電動車ユニットを併結する形態で最小編成組成は4両とされたが、165系ではクモハ165+モハ164の制御電動車ユニットを基本とし、最小3両での運転を可能とした[3]

  • ただし1963年に製造され新前橋電車区に配置された波動輸送対応編成では、中間電動車ユニットモハ165+モハ164ユニットと両端にクハ165形を組成した4両編成で落成して営業運転に充当されており[3]、最終的にモハ165形は21両が製造された。

クモハ165+モハ164ユニットは原則的に奇数(東海道本線基準の上り)向きでの運用を前提として片渡り構造とされたが、信越本線での横軽対策山陽本線での分割併合時による制約から、逆向きでの編成組成されたケースもある。

  • 松本運転所所属車は、中央東線基準で偶数向き(新宿方面)にクモハ165形が組成されるが、東京駅基準では山手貨物線経由で新宿へ入線するため正規向きという解釈になる。また、1982年に移転する前の塩尻駅では中央西線⇔篠ノ井線の直通列車はスイッチバックが必要で、逆編成となるため中央西線では正規向きとなる。

クハ165形はは方向転換が可能な両渡り構造とされたが[4]、冷房装置搭載後は三相交流電源引通用KE9形ジャンパ連結器が装着されたことにより方向が固定された。

車体

153系を基本としており、前面スタイルも継承された。前頭部はクハ153形500番台と同じ高運転台構造であるが、幌枠は451系や111系と同じ車体から出っ張った構造とされた[1]。車幅は最大2,900 mmで、車体の下半分から下に向かって裾絞りを設定した[5]

側窓は2等車(普通車)が上段下降・下段上昇ユニット窓、1等車(グリーン車)のサロ165形が下降式の2連窓、サハシ165形のビュフェ部は固定窓を採用[5]。客用扉はサロ165形とサハシ165形は幅700 mm、それ以外は幅1,000 mm。扉数は片側2箇所であるが、サハシ165形は片側1箇所の客用扉と物資積卸用手動引き扉を設置した[5]。自動扉の戸閉装置(ドアエンジン)はTK4E形とされた[2]

座席は1等車がリクライニングシート、2等車では向かい合わせ固定クロスシートが採用された[6]

塗装は153系に準じて緑2号黄かん色に塗り分けた湘南色であるが、車体腰部の緑色が車体前面まで延長された[7]

主要機器

主電動機は従来標準であったMT46形(端子電圧375 V時、定格出力100 kW/1,860 rpm(70 %界磁)・最高回転数4,320 rpm)に代えて、1962年に日立製作所が設計・開発したMT54形(端子電圧375 V時、定格出力120 kW/定格回転数1,630 rpm(全界磁)・定格電流360 A・最高回転数4,320 rpm)を搭載した[8]。20 %の出力向上で、MT比1:1編成を組成しても25 ‰程度の勾配で登坂可能となり経済性と輸送力を両立させた。列車併結などによる混用を考慮してMT46形とも極力出力特性を揃えており[注 1]、速度種別はMT比1:1編成で営業最高速度と同じA10である。歯車比は153系と同じ80:19 (4.21) である[9]。このため153系と併結運転も可能である。

主制御器は「自動ノッチ戻し機構」と山岳区間での走行も考慮した勾配抑速ブレーキを装備するCS15A形制御装置を搭載した。製造時期によりCS15A・B・C・E形の各種が存在する。主抵抗器の容量も153系などに比べ増強された。

  • 153系などに搭載される従来の新性能電車用CS12形自動加速制御器は、マスター・コントローラーから手動操作でのノッチ(制御段)下げが不可能であるため一度マスコンをオフに戻してから、再び手動段で投入するという作業を繰り返すことになる[注 2]。CS15形制御器では制御器の並列段 - 弱界磁最終段(マスコンの3 - 5ノッチ間)の自動ノッチ戻し扱いが可能になり、運転士の負担を大きく軽減した。

台車はスイングハンガー式空気ばね台車であるDT24形/TR59形を採用した153系とは異なり、インダイレクトマウント式空気ばねを搭載するDT32形電動台車・TR69形付随車台車を装着する。DT32系は451系・471系以降国鉄特急・急行形電車の標準台車として採用されており、ダイアフラム形の横剛性を生かしたまま揺枕吊を廃止し高速安定性や乗心地の改善に寄与した[10]

集電装置はPS16形パンタグラフをモハ164形に搭載するが、トンネル断面の小さい中央本線高尾以西での運用に対応させて折り畳み高さを下げるためパンタグラフ部を低屋根構造とした800番台の番台区分が存在する[2]

ブレーキは抑速ブレーキ付きで発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキであるSED形とされた[11]

サービス電源用電動発電機(MG)は、出力20 kVAのMH97-DM61形がモハ164形に搭載した[注 3]。ただしサハシ165形は、自車の調理機器・冷房電源供給用として出力40 kVAのMH101-DM65形を搭載する[12]

空気圧縮機(CP)は開発時点で大容量のものが試作中のため容量1,000 L/minのMH80A-C1000形をモハ164形に2基搭載するが[11]、増備途中より容量2,000 L/minのMH113A-C2000M形1基搭載に変更された。

冷房装置は当初はサハシ165形のビュフェ部分のみとされたが、1964年度より1等車に、1968年度より2等車にも搭載された。

寒冷地・積雪地での運用に備えてが耐寒耐雪装備が施工されたが、東海道・山陽本線など温暖線区向けに新製配置された車両の同装備は、準備工事とされた。

系列別概説

本項では基幹となった165系のほか派生系列である163・167・169系の順で解説する。

165系

国鉄初の直流急行形新性能電車として開発された153系電車の構造を踏襲し、勾配・寒冷路線向けとして開発され、1963年3月から営業運転に投入された。

主電動機は出力120 kWのMT54形を、主制御器は抑速ブレーキとノッチ戻し制御が使用可能なCS15A形を搭載する[13]。国鉄直流急行形電車の標準系列として1963年から1970年にかけて701両が製造されたほか、153系からの編入車13両を加えた総数は714両となる[13]。また、投入線区の事情により、以下の設計変更を施したグループも製造された。

低屋根車(モハ164形800番台)

レール面からのパンタグラフ折畳高さが4,000 mmの制約が設定された中央本線・身延線の狭小トンネル建築限界対策として、モハ164形ではPS16形パンタグラフ取付部分のみ低屋根構造とし折畳高さを4,140 mmから180 mm下げ3,960 mmとし、801 - 864の64両が製造された[7]

低屋根化による設計変更は、非冷房車ならびに冷房工事準備車は部室内天井には扇風機の代わりにファンデリアを、低屋根肩部パンタグラフ脇に換気用ルーバー風道を設置するが、新造冷房車は当初から未設置であり、在来車も冷房搭載工事施工により撤去された。低屋根部分のドアエンジンは通常のTK4E形が設置できないため151系で採用された直動式のTK100B形が採用された[14][3]

該当線区で定期運用を持つ三鷹電車区・松本運転所、波動輸送対応として新前橋電車区・小山電車区(現・小山車両センター)・宮原電車区・岡山電車区のほか、房総西線電化用として津田沼電車区[注 4]ならびに呉線電化用として下関運転所[注 5]に、さらに浦和電車区(現・さいたま車両センター[注 6]・新潟運転所[注 6][注 5]に新製配置された。

狭小トンネル区間運用充当車は当初800番台に限定されたが、PS16形を基本に集電舟小型化・イコライザーの台枠外移設などの改良を行い、最小折りたたみ高さを縮小したPS23形が1973年に開発された。このため0・500番台車はPS23形搭載により制約が解除された。

回送運転台付き電動車(モハ164形500番台)

山陽本線では153系準急鷲羽」が1963年に12両編成化された際に、当時は宇野線変電所容量がMM'ユニット2組4両までに制限されていたことから10両編成への分割が必要となった[7]。その際に岡山駅での分割併合を容易にするためクモハ165形と組成する増結2両ユニットとして新造されたモハ164形は回送運転台を設置して500番台に区分された。

在来車との変更点として後位デッキ部とトイレの配置を入れ替えてサロ165形同様の回送運転台を設置したほか、妻面には小窓・後部標識灯・デッキ屋根上部前照灯・大型通風器を装備した。

501 - 514の14両が製造され、501 - 511の11両は山陽準急用として宮原電車区に、512 - 514の3両は新前橋区配置とされた。新前橋区の3両は1966 - 1968年には揃って長野運転所へ転属し信越急行で運用された。

売店車(サハ164形)

1966年10月ダイヤ改正で中央東線急行は増発による編成増となったが、以下の問題も抱えていた。

  • 中央東線急行列車利用者には登山客が多く、座席定員を確保できない観点から混雑時サービスに課題が生じていた。
  • ビュフェ車のサハシ165形では製造ならびに営業でのコスト面で不利となるほか、サハシ153形からの改造編入も種車が供給できない状況にあった。

このためキハ81形ならびにモハ156形で採用された売店を本系列でも導入してサハ164形が2両のみ製造された[15]。モハ165形をベースに後位寄り車端を売店ならびに物資積卸口とする設計変更を施し、床下には設備自車給電用とて容量5 kVAのMH81-DM44形MGを搭載する[15]

サハシ165形と共通運用されたが、1970年に売店も含めAU13E形6基で冷房化改造を施工しMGを冷房電源用110 kVAに換装[注 7]。1974年に既にビュフェ営業を休止していた上越急行のサハシ165形とトレードされる形で新潟運転所へ転出。さらに1978年には大垣電車区へ転出するも1979年から1980年にかけて再び松本運転所へ所属となった。1983年に廃車され形式消滅した。

横軽協調運転試作車(900番台)

信越本線横川 - 軽井沢間には碓氷峠に66.7‰の急勾配が存在し、1963年にアプト式から粘着運転に切り替えられたが、急勾配が残されたため引き続き補助機関車が必要となった。無動力の推進・牽引運転では安全上の問題から165系は最大8両編成に制限されたことから、EF63形との協調運転により最大12両編成が組成可能とした900番台に区分される試作車で、1967年にクモハ・モハ・クハの3両編成x4本計12両が製造された[16]

主制御器は165系のCS15C形をベースに協調運転機能を追加したCS15D形で、モハ164形900番台は800番台に準じた低屋根構造を採用したほか、モハ164形も含めてAU12S形搭載を前提とした冷房準備工事はが施工された。

本試験結果を基に1968年に169系量産車が落成した。165系900番台は後の量産化改造で169系900番台に編入されたが、量産化改造後も新前橋電車区配置のまま同区の165系と共通運用された。

163系

平坦かつ温暖な線区での急行列車充当用として、165系から耐寒耐雪設備・勾配抑速ブレーキを省略して計画された系列である。153系の出力増大車に相当する系列であったが、サロ163形1形式のみが製造はされた[17]

当初は平坦線区の東海道本線向けに設計が検討されたが、東海道新幹線開業後は性能の関係で運用範囲が山陽本線のみとなることから製造は一旦見送られた[18]。先頭車の塗り分け案も検討資料が残存するが[19]、将来の広域転配への考慮もあり運転サイドから165系への統一の声が強く[19]、以後の増備は165系に統一された。163系を投入予定であった東海道・山陽本線では、165系の耐寒耐雪装備を省略して準備工事とした暖地仕様車161両が新製された[20]

しかし東海道新幹線開業で在来線にリクライニングシート付き1等車が増備されることになり、サロ152形の不足を補う目的で1964年12月より1等車サロ163-1 -7のみが新製された[18]。サロ163形は、車体をサロ152形と同様とし屋根上にAU12S形分散式冷房装置を設置、台車は165系と同じTR69形を装着する[17]

サロ163形7両は宮原電車区に配置され、終始153系編成に組み込まれて運用されたが、1968年に大垣電車区へ全車転属。7を除く6両は後にサロ165形と混用で運用されたが、1983年までに全車廃車された。

7は1969年にグリーン車需要の関係から浜松工場でサロ112-51へ改造された。静岡電車区に配置され東海道線東京口運用に投入されたが、1971年に高槻電車区(現・網干総合車両所高槻派出所)に転出。京阪神地区で運用され1978年に廃車された。

167系

修学旅行列車用電車は1959年に東京・関西地区向けとして155系が落成し「ひので」「きぼう」で運用開始されたのに続き、1961年には中京地区向けとして159系が落成し「こまどり」で運転開始[18]。これに続き群馬県栃木県茨城県北関東地区向けとして165系をベースに開発設計されたのが本系列である[18]

基本的構造では155・159系同様に乗降頻度が少ないことから客室幅を狭め、客席には脱着可能な大型折り畳み式テーブルを装備するほか、形式は155・159系での編成組成を前提にモハ167+166形MM'ユニットとクハ167形制御車のみの構成とした。しかし室内設備は季節列車等一般列車にも投入することを想定して原型となった165系との相違点は少なく、低屋根構造はパンタグラフ部のみである。

1964年度に関東地区対京阪神増発用、1965年度に山口広島両県からの要請による山陽地方用として、MM'ユニット15組30両と制御車22両の計52両全車が汽車製造で製造された。関東地区向け車両は1974年に修学旅行用列車の東海道新幹線移行に伴い、波動輸送を中心にした運用に転用された。山陽地区向け車両も1975年山陽新幹線岡山 - 博多間延伸に伴う修学旅行用列車廃止によって田町電車区もしくは宮原電車区へ転出し、波動輸送を中心にした運用に転用された。

当初の塗色はカナリアイエローとライトスカーレットの修学旅行色であったが、1978年9月の車両塗装に関する規定の改定で修学旅行色が廃止されたため1979年以降は湘南色に変更された。

1978年初夏から1981年にかけて、モハ167形がAU13EN形分散式6基、クハ167形が同形5基、モハ166形がAU72形集中式を搭載する冷房化改造工事が施工された。冷房改造と同時に出入台部飲料水タンクならびに洗面台の撤去、宮原所属車はモハ166形を除く各車の物置を洗面所に改造する工事も施工した。1981年中頃までは修学旅行色の冷房車も存在した。

1981年10月から1985年3月まで急行「ごてんば」2往復に167系田町区所属車が投入され、唯一の定期急行列車での運用となった。

1982年にクハ167-2が事故廃車となったため当時神領電車区で休車中だったクハ165-3[注 8]を翌1983年に転属させて代車として編成に組み込んだ(詳細は後述)。その後は転属・廃車もなく分割民営化時にはJR東日本には35両が、JR西日本には16両が承継された。修学旅行用電車で冷房改造およびJRに継承された唯一の形式である。

167系 所属基地別分類
所属 クハ167 モハ167・166 JR化時承継先
田町 1 - 8 1 - 4 JR東日本田町電車区
(クハ167-2は1984年に事故廃車)
下関→田町 9 - 18 5 - 9
下関→宮原 19 - 22 10 - 15 JR西日本宮原電車区

博物館向けモックアップ

クハ167形モックアップ

2006年5月14日に閉館した交通博物館での展示を目的に、日本車輌製造が実車同様の部品を使用して現地で出張製造を行った。車号はクハ167-1とされ、修学旅行色の車体に「なかよし」のヘッドマーク[注 9]を前面貫通扉に掲出した。

交通博物館閉館後は埼玉県さいたま市大宮区大成町鉄道博物館に移設され、当初はノースウイング(北側別館)に、ノースウイング改装に伴いプロムナードで展示される。製造当時は休憩スペースにも利用されていた客室部分が徐々に短縮化され、現在は運転台部分と客室1区画程度である。

169系

169系湘南色 しなの鉄道によるリバイバル塗装
169系湘南色
しなの鉄道によるリバイバル塗装
クモハ169-1ジャンパ連結器 A:通常総括制御KE64形2基 B:協調総括制御KE70形 C:主回路用高圧電源KE6形 D:冷房用三相交流電源KE9形
クモハ169-1ジャンパ連結器
A:通常総括制御KE64形2基
B:協調総括制御KE70形
C:主回路用高圧電源KE6形
D:冷房用三相交流電源KE9形
クハ169-19ジャンパ栓受 貫通路寄りがKE70形用
クハ169-19ジャンパ栓受
貫通路寄りがKE70形用

信越本線横川 - 軽井沢間専用補助機関車EF63形との間で最大12両[注 10]までの協調運転を可能とした派生系列。1967年12月に試作車165系900番台を日本車輌で新製し新前橋電車区に配置し、試験の結果翌1968年 - 1969年に量産車が169系として製造された。

車両形式は167系に次ぐ系列として169系となったが、これ以降の横軽協調運転対応車は系列数字の末尾を9とする慣例が確立し、後に特急形電車では489系189系が横軽協調運転対応車として落成した[21]

  • ただし末尾9はあくまでも慣例である119系など横軽協調対応でない系列にも割当れた[21]

協調運転以外の設備は車体構造・車内設備・性能とも165系と同一であり、外観上量産先頭車はクモハ165-123以降・クハ165-188以降と同様にシャッター式タイフォンカバーを採用し、予備笛としてAW-2を搭載する[22]

協調運転用機器類は制御装置をCS15C形にEF63形との協調運転時にカム軸が機関車からの指令により途中停止可能な装置を搭載したCS15D形に変更し、SRB8形界磁接触器を新たに搭載したほか[22]、協調運転時に抑速ブレーキを使用する際の温度上昇を抑制するため抵抗器を容量増大したMR52C形に変更し、下り軽井沢方先頭車となるクハ169形にEF63形との連絡装置・非常制動時に衝撃を抑える特殊構造の非常弁・主幹制御器への防護回路等を搭載する[22]

ジャンパ連結器はEF63形との協調制御ならびに169系のみで編成を組成する場合には総括制御も可能なKE70形1基のほか[22][注 11]、冗長性の観点からベースとなった165系・167系との混結運転を可能にするため従来からのKE64形2基による総括制御回線も装備。しかしKE64形2基による制御は、165系・167系との混結はもとより169系のみで編成組成した場合でもEF63形との協調運転は不可である[注 12]

  • 外観から165系との識別点はジャンパ連結器群にあり、クモハ169形・クハ169形ではKE64形2基の内側にKE70形を装備するほか、クハ169形にはKE70形用栓受けが装着される。

量産車はMcM'ユニット27組54両Tc27両の計81両で、3形式とも1968年製車は冷房準備車。1969年製車は落成時からの冷房車。その他はすべて他形式からの改造車で、長野運転所(現・長野総合車両センター)残留のサロ165形から改造されたサロ169形19両、サハシ153形から改造されたサハシ169形10両を加えた110両が長野運転所に配置された。設計時点で中央東線への乗り入れは考慮されず、モハ168形は試作車のモハ164形900番台と異なり低屋根車ではない[22]

試作車は1968年に量産化改造され169系900番台へ改番編入し、引き続き新前橋区配置で同区の165系と共通運用されたが、1984年 - 1985年にかけてクモハ・クハ169形がクハ455形に、モハ168形がサハ165形100番台に改造され区分消滅した。

分割民営化時には事故廃車されたモハ168-5・修復困難な車両故障が発生し廃車となったクモハ169-9・1ユニット廃車で余剰となったクハ169-2を除いた新造量産車McM'ユニット26組52両Tc26両計78両がJR東日本に承継された。

1997年の北陸新幹線長野暫定開業による信越本線横川 - 軽井沢間廃止に伴いEF63形との協調運転を行う区間が消滅したため本系列は存在意義を喪失[23][注 13]。さらに信越本線軽井沢 - 篠ノ井間も経営分離によりしなの鉄道となり、同社に3両編成x4本計12両が譲渡された[23]

JR東日本所属車は1996年から2003年にかけて老朽廃車を実施しJRグループでは消滅。しなの鉄道譲渡車も2013年3月16日ダイヤ改定で定期運用を終了、週末を中心とした臨時列車運用も同年4月29日限りで運用終了し、同年8月1日までに全車廃車となり系列消滅した。

形式

等級は製造開始時に準拠する。

165系の形式

クモハ165形
モハ164形とユニットを組む定員76名の2等制御電動車 (Mc) で、主制御器・主抵抗器を搭載。勾配線区で使用される特質上電動車比を高める必要から、基幹形式の一つとして1963年から1970年にかけて145両が製造された。基本形の0番台が1 - 141の141両、碓氷峠(横軽)区間でのEF63形協調運転試作車とされた900番台が901 - 904の4両である。
451系・471系では電動車ユニットを両方向に使用可能としたため両渡り構造としたが、本系列では奇数向き東海道本線基準で上り東京方)に固定を原則としたことから片渡り構造を採用した。
外観上は、主電動機冷却風の取り入れのため前部出入台(デッキ)屋根上部に設けられた大型の通風器や床下艤装の関係で他車の700リットルに対して本形式およびモハ165形は枕木と平行に設置された550リットルの水タンクが特徴である。
1 - 122が非冷房、900番台がAU12形分散式冷房装置搭載準備車、123 - 125がAU13E形搭載冷房準備車、126 - 141はAU13E形5基搭載の新製冷房車として落成した。新前橋区所属の先行冷房改造試作車[注 14]と900番台はAU12S形6基搭載で冷房化された[注 15]
クモハ165形製造メーカー別分類
製造年 川崎車輌 汽車製造 日本車輌 近畿車輌 東急車輛 帝國車輛 備考
1963 1・20 - 30
42 - 50
2・3
13 - 19・39
4 - 12
37・38
31 - 36・40
41・51 - 57
 
1964 65 - 68 58 - 60 61 - 64  
1965 69・70
83 - 94
71 - 74
95 - 104
75 - 82  
1966   105・106 110   107 - 109  
1967 118 - 122   111 - 115
901 - 904
  116・117 901 - 904
冷房準備車[注 15]
1968   123 - 125   冷房準備車[注 16]
1969   126 - 129   130 - 138   新造冷房車[注 17]
1970   139 - 141  
モハ165-1
モハ165形
モハ164形とユニットを組む2等中間電動車 (M) で定員84名。165系ではクモハ+モハのユニットが主流となったことから、需要は小さく21両のみ製造された。
1 - 17は非冷房で1963年 - 1966年に落成し、モハ164形800番台とユニットを組成し波動輸送に充当された。
18 - 21はAU13形6基搭載の新製冷房車として1969年に落成、モハ164形0番台とユニットを組成し山陽本線急行「とも」「鷲羽」増発に充当された。非冷房車も後にAU13形分散式冷房装置6基を搭載する改造工事を施工された。
1963年製造車は新前橋配置後に三鷹→田町を経て1975年には神領区へ、1965年[注 18]・1966年製造車は1972年には大垣区へ、また1969年製造車は1973年ならびに1975年に神領区へ転入した。このため分割民営化以前に廃車となった2 - 5を除き全車JR東海へ継承されており、残存車は1989年以降に静岡運転所へ集中配置となった。
モハ165形製造メーカー別分類
製造年 川崎車輌 汽車製造 日本車輌 モハ164形
ユニット相手方
新製配置 備考
1963 1・2 3 - 5   801 - 805 新前橋  
1965 8・9 10 - 13 6・7 828 - 835 宮原
1966 14 - 17   836- 839 岡山
1969 18 - 21   81 - 84 宮原 新造冷房車[注 17]
モハ164形
クモハ165形またはモハ165形とユニットを組成する2等中間電動車 (M') で定員84名。電動発電機 (MG) ・空気圧縮機 (CP)・パンタグラフを搭載する。1963年から1970年にかけて166両が製造された。内訳は基本形の0番台が1 - 84の84両、簡易運転台を設置した500番台が501 - 514の14両、パンタグラフ設置部を低屋根とした800番台が801-864の64両、協調運転試作車の900番台が901 - 904の4両である。
1965年度第2次民有車以降に増備された69- ・836- では、CPをMH80A-C1000形2基からMH113A-C2000M形1基へ変更した[注 19]
国鉄急行形電車2等車(現・普通車)冷房化計画では、1967年製造の901 - 904はAU12S形5基搭載を想定した準備工事であり、冷房化は169系化改造後の1971年にAU72形搭載に変更の上で施工。1968年製造の846 - 848はAU72形集中式冷房装置搭載準備車[注 16][注 20]、1969年以降製造の81- ・849- は新造冷房車[注 17]として落成。それ以前の非冷房車は、新前橋区所属で先行冷房改造試作車となった8両にはAU71形[注 21]、その他の車両にはAU72形が搭載された。
モハ164形製造メーカー別分類
製造年 川崎車輌 汽車製造 日本車輌 近畿車輌 東急車輛 帝國車輛 備考
1963 1・20 - 30
42 - 50
501 - 509
801 - 803
2・3
13 - 19・39
804・805
4 - 12
37・38
31 - 36
40 - 43
510 - 514
 
1964 44
813 - 815
806 - 808 809 - 812  
1965 51 - 58
816・817
824 - 827
830・831
59 - 68
818 - 821
832 - 835
45 - 50
822・823
828・829
 
1966 836 - 839 69・70 840   71 - 73  
1967 76 - 80   841 - 845
901 - 904
  74・75 901 - 904
冷房準備車[注 15]
1968   846 - 848   冷房準備車[注 16]
1969 81 - 84   849 - 852   853 - 861   新造冷房車[注 17]
1970   862 - 864  
クハ165-134
クハ165形
1963年から1970年にかけて206両が製造された2等制御車 (Tc) で定員76名。非冷房車では方向転換可能な両渡り構造を採用したが、冷房改造により冷房用三相交流電源引通を追設したため片渡り構造となった。クモハ165形が奇数向き固定のため本形式では3 - 11・109・113・159・161・163・169・171・173・177・179ならびに117 - 135の奇数番号車計29両を除き偶数向き固定とされた[注 22]
Mc+M'+Tcを基本とする本系列であるが、電動車ユニット166組に対して製造両数が40両多い理由は、モハ165+164の中間電動車ユニットを挟み込むTc+M+M'+Tcで製造された21両分のほか、153系との混結運用に充当する目的で単独製造された車両が含まれているためである。
1 - 155が非冷房、901 - 904がAU12S形6基搭載の冷房準備車[注 15]、156 - 190がAU13E形5基冷房準備車、191 - 206がAU13E形5基新製冷房車である。冷房化改造では900番台ならびに新前橋区所属先行冷房改造試作車[注 14]がAU12S形6基とされたほかはAU13E形5基、冷房電源用として新前橋区所属先行冷房改造試作車が90 kVAの、新製冷房車ならびに準備車を含む搭載改造車は容量110 kVAの電動発電機が搭載された。
クハ165形製造メーカー別分類
製造年 川崎車輌 汽車製造 日本車輌 近畿車輌 東急車輛 帝國車輛 備考
1963 1 - 7
29 - 35
8 - 12
21 - 28
43・44
13 - 20
41・42
36 - 40
45 - 55
 
1964 65 - 68 56 - 58 59 - 64  
1965 69・70
87 - 99
117・118
71 - 78
100 - 112
119 - 128
79 - 86
113 - 116
 
1966 129 - 136 137・138 142 - 146   139 - 141  
1967 151 - 155   147・148
901 - 904
  149・150 901 - 904
冷房準備車[注 15]
1968 156 - 187 188 - 190   冷房準備車[注 16]
1969   191 - 195   196 - 203   新造冷房車[注 17]
1970   204 - 206  
サロ165-106
サロ165形
1等付随車 (Ts) で、定員48名。1963年 - 1969年に134両が製造された。外観的には、台車を除き特徴的な二連式大型下降窓や回送運転台の装備などサロ152形を踏襲する。
1 - 28は非冷房、29はAU12形6基搭載準備工事車、30 - 129はAU12形6基搭載新造冷房車、130 - 134[注 23]はAU13形5基搭載の新造冷房車として落成した。非冷房車・冷房準備車は事故廃車の24を除く全車がAU12形6基搭載で冷房化改造された。冷房化に際し自車給電用20 kVA電動発電機を搭載。さらに2等車(現・普通車)冷房化に際して三相交流電源引通を追設した。
営業運転終了後も106が静岡車両区在籍で車籍を有したまま浜松工場に留置されていたが、2009年3月31日の廃車により本系列は廃系列となった。
サロ165形製造メーカー別分類
製造年 川崎車輌 汽車製造 日本車輌 近畿車輌 東急車輛 帝國車輛 備考
1963 18 - 24 9 - 17 1 - 8 25・26  
1964 29 27・28   29は冷房準備車
1965 30 - 37
52 - 55
38 - 51
56 - 58
59 - 62   AU12Sx6基
新造冷房車
1966 63 64・65 66 - 71
79・80
81 - 93 72 - 78  
1967 107 - 116 97 - 103   104・105   106
1968   94 - 96
117 - 129
 
1969   130 - 132   133・134   AU13Ex5基
新造冷房車
サハ164形
中央東線用として1966年に川崎車輌で2両のみ製造された定員56名の売店付2等付随車 (Tk) 。車端部に売店と車内販売準備室が設けられている。床下には設備自車給電用5 kVAのMGを搭載したが、1970年の冷房化改造時に冷房電源用110 kVAのMGに換装された[注 7]。165系としては最初のサハになるが、特殊仕様のため偶数形式となった。
サハ164形経歴
車番 製造会社 製造日 新製配置 新潟転属 大垣転属 松本再転属 廃車日 備考
1 川崎車輌 1966.3.8 松本 1974.12.12 1978.7.21 1979.3.28 1983.1.21 1970年冷房化
2 1980.1.26
サハ165形
車体構造・車内設備はモハ165形と同一となる定員84名の付随車 (T) 。11両全車が新製時からAU13E形分散式冷房装置6基と冷房電源用110 kVA MGを搭載して落成。1969年10月のダイヤ改正で山陽本線不定期急行の定期列車化用として1 - 10が川崎車輌で製造され宮原電車区へ、1970年に呉線電化による増発用として11[注 24]が近畿車輌で製造され下関運転所へ配置された。
1972年3月のダイヤ改正以降は、全車新潟運転所へ集中配置とされ上越急行へ転用。1974年には5・9が神領区へ転出し中央西線でも運用された。1984年にはクハ455形・サロ110形へ6両が改造されたが、残存車両は松本運転所→長野運転所へ配置され長野ローカルで運用。1999年に保留車となり2001年までに全車廃車となった。
サハ165形経歴
車番 製造会社 製造日 新製配置 転属 廃車・改造
1 川崎車輌 1969.9.1 宮原 →新潟 クハ455-501
2 クハ455-502
3 クハ455-503
4 クハ455-504
5 →新潟→神領→松本→長野 2001.1.12
6 1969.9.16 →新潟 クハ455-505
7 サロ110-501
8 →新潟→松本→長野 1999.1.11
9 →新潟→神領→松本→長野 1999.3.10
10 →新潟→松本→長野 1999.1.11
11 近畿車輌 1970.5.30 下関 →津田沼[注 24]→下関→新潟→松本→長野 1999.3.10
サハシ165形
1963年に川崎車輌・近畿車輌で12両が製造された2等・ビュフェ合造付随車 (Tb) 。2等客室部の定員は36名。車体中央部に設置された幅700 mmの客用扉を境に前位寄りを2等客室、後位寄りを電子レンジを標準装備するビュフェとし、トイレ・洗面所は設置しない基本構造はサハシ451形に準じているが、客用扉のステップは省略する。また、サハシ153形の「寿司コーナー」は「蕎麦コーナー」に変更され、車内販売用業務用控室を出入台寄りに設置した。冷房は新製時からビュフェ部分にAU12形4基が搭載され側窓も固定式としたが、1969年 - 1972年に客室にもAU13E形2基を搭載した。
新製配置は全車新潟運転所とされ上越急行で運用されたが、1965年の中央東線急行「アルプス」でのビュフェ営業開始のため2・4・6・8・10の5両は松本運転所(現・松本車両センター)へ転出、後の客室冷房改造時に電源供給上の理由からMGを従来の40 kVAから110 kVAに交換した[注 7]。しかし2は車両需給の関係から1966年から再び新潟運転所配置となった。
1973年10月1日ダイヤ改正で「佐渡」減便ならびにビュフェ営業終了により、翌1974年に1 - 3が松本へ転出。松本配置車も1976年には「アルプス」のビュフェ営業を終了。1978年から余剰廃車が開始され、1983年に形式消滅した。
サハシ165形経歴
車番 製造会社 製造日 新製配置 松本転属 廃車日 MG 備考
1 近畿車輌 1963.4.12 新潟 1974.12.12 1983.3.19 110 kVA  
2 1965.11.1 1982.7.27 1966.4.2 - 1974.12.12新潟再所属
3 1974.12.12 1978.12.26  
4 1965.11.1 1982.3.17
5   1978.9.11 40 kVA
6 1965.11.1 1982.12.25 110 kVA
7 川崎車輌 1963.4.25   1978.9.11 40 kVA
8 1965.11.1 1982.3.17 110 kVA
9   1978.9.11 40 kVA
10 1965.11.30 1982.2.12 110 kVA
11 近畿車輌 1963.5.17   1978.9.11 40 kVA
12

163系の形式

サロ163形
1 - 7の全車とも川崎車輛が製造。標準主電動機のMT46形からMT54形への変更による153系製造中止に伴う新形式であり、実質的な153系増備車である。
サロ152形との相違点は冷房装置の有無ならびに台車形式をTR59形→TR69形へ変更した程度で、外観上はサロ165形AU12S形搭載新製冷房車の30 - 129と同一である。
サロ163形経歴
車番 製造 落成日 配置 転属 廃車日 その他改造
1 川崎車輛 1964.12.21 宮原 大垣
1968.9.7
1983.2.17  
2 大垣
1968.9.14
3
4
5 1964.12.23 1981.1.19
6 1981.1.25
7 静岡
1969.8.17
1978.2.28 1969.9.8サロ112-51へ改造
1971.3.9高槻へ転出

167系の形式

モハ167-12 モハ166-12 クハ167-21
モハ167-12
モハ166-12
クハ167-21
モハ167形
モハ166形とユニットを組む2等電動車 (M) で主制御器を搭載。定員は84名。
基本的な構造はモハ165形と同様だが側扉が700 mmに変更されたため窓配置が異なる。
モハ166形
モハ167形とユニットを組む2等電動車 (M') でMG・CP・パンタグラフを搭載。定員は84名。
基本的構造は修学旅行閑散期には臨時列車で狭小トンネル区間が存在する中央東線への入線が考慮されパンタグラフ搭載区画を低屋根化したモハ164形800番台と同様だが窓配置が異なる。なお本形式が製造された当時の国鉄ではパンタグラフ部低屋根構造車両を慣例として800番台に区分していたが、本形式は全車が低屋根車に該当するため区分せず155・159系同様0番台とした。
補機類ではモハ164形と同様に増備途中でCPの機種変更が行われたことから[21]、1 - 4がMH80A-C1000形2基、5 - 15がMH113A-C2000M形1基搭載。
宮原配置の10 - 15は冷房化と同時にトイレならびに物置を撤去して乗務員室へ変更する工事を施工。
クハ167形
2等制御車 (Tc) で定員は76名。クハ155・159形同様客室には速度計と電池式時計が設置されたが一般転用時に撤去された。
冷房化時に田町車は偶数車にのみ冷房電源用MGを搭載。宮原車は偶数向クハ165形MG搭載車に統一することで本形式は奇数向に統一された。

169系の形式

クモハ169-12 モハ168-6 クハ169-20
クモハ169-12
モハ168-6
クハ169-20
クモハ169形
モハ168形とユニットを組む2等制御電動車 (Mc) で主制御器・主抵抗器を搭載している。定員76名。1 - 27の量産車27両と901 - 904の試作車4両、合計31両が製造された。
試作車の冷房装置は0番台のAU13E形5基とは異なりクハ169形も含みAU12S形を6基搭載する。
モハ168形
クモハ169形とユニットを組む2等中間電動車 (M') で定員84名。電動発電機(MG)・MH113A-C2000M形空気圧縮機(CP)・パンタグラフを搭載する。
0番台は通常屋根構造なのに対し、900番台は当初モハ164形800番台同様パンタグラフ部が低屋根構造とされ、AU12S形5基搭載の冷房準備車で製造されたが、冷房化の際には0番台同様AU72形1基搭載で施工された。
クハ169形
2等制御車 (Tc) で定員76名。冷房化時に110 kVA冷房電源用MGを搭載。
クモハ169・モハ168・クハ169製造メーカー別分類
クモハ169+モハ168
製造年 日本車輌 東急車輛 近畿車輌 備考
1967 901 - 904   元・クモハ165+モハ164-901 - 904
冷房準備車
1968 1 - 7 8 - 23 24・25 冷房準備車
1969   26・27   新造冷房車
クハ169
製造年 日本車輌 東急車輛 近畿車輛 備考
1967 901 - 904   元・クハ165-901 - 904
冷房準備車
1968 1 - 3 4 - 21 22 - 24 冷房準備車
1969   25 - 27   新造冷房車

製造時期による変化

本系列は1963年から1970年まで製造されたが、製造途中での設計変更が複数行われた。

初期車

当初はクモハ165形・モハ165形・モハ164形・クハ165形・サロ165形・サハシ165形の6形式が製造され、これに加えて線区の事情に応じた派生区分や派生形式も製造された[7]。2等車は1963年度から1967年度までの製造車が非冷房で、1等車は1963年度から1968年度までの製造車のうち1964年度以降に製造された車両が冷房新製車で落成した[7]。本グループでは以下の車両が該当する。

  • クモハ165-1 - 122(122両)
  • モハ165-1 - 17(17両)
  • モハ164-1 - 80(80両)
  • モハ164-501 - 514(14両)
  • モハ164-801 - 845(45両)
  • クハ165-1 - 155(155両)
  • サロ165-1 - 129(129両)
  • サハシ165-1 - 12(12両)
  • サハ164-1・2(2両)

また、製造途中で以下の設計変更も行われた。

  • クモハ165-56・クハ165-46以降:運転台部雨樋を運転室上部まで延長[24]
  • モハ164-69・836以降:空気圧縮機を従来のMH80A-C1000形2基からMH113A-C2000M形1基に変更[25]

サロ165形では冷房化計画により以下の設計変更を実施[15]

  • 29:冷房準備車で落成。
  • 30以降:新製冷房車でAU12S形分散式冷房装置6基と容量40 kVAの自車給電用MGを搭載して落成。

163系・167系はすべて本グループでの落成であるが、モハ166形は5以降が増備車である空気圧縮機をMH80A-C1000形2基からMH113A-C2000M形1基変更するなど165系同様の設計変更が行われた[21]

  • サロ163-1 - 7(7両)
  • モハ167-1 - 15(15両)
  • モハ166-1 - 15(15両)
  • クハ167-1 - 22(22両)

冷房準備車

2等車冷房化計画に基づいて以下の時系列で製造されたグループである。

1967年12月に碓氷峠協調運転試作車として製造された165系900番台は2等車(普通車)で唯一となるAU12形冷房準備車であり、モハ164形は800番台に準じた低屋根構造とともにAU12S形分散式の搭載準備が施された[26]

  • クモハ165-901 - 904(4両)
  • モハ164-901 - 904(4両)
  • クハ165-901 - 904(4両)

1968年に製造された165系冷房準備車ではパンタグラフ非搭載形式がAU13E形分散式、モハ164形がAU72形集中式搭載を考慮した構造とされ[27]、さらに以下のグループに細分される。

クハ165-156 - 187:東海道・山陽本線用で153系混用されたグループ[27]
クモハ165-123 - 125・モハ164-846 - 848・クハ165-188 - 190:富士急行線への直通気動車急行「かわぐち」電車化のため富士急行利用債を負担して製造されたグループ[28]。本グループのクモハ165形ならびにクハ165形はタイフォンカバーが中折れシャッター式となり、予備笛のAW-2を設置する設計変更を実施[29]
  • クモハ165-123 - 125(3両)
  • モハ164-846 - 848(3両)
  • クハ165-156 - 190(35両)

1968年8月から製造された169系第一次量産車は、上述した「かわぐち」電車化用増備車と同様の構造で製造された[27]。ただしモハ168形はAU72形集中式搭載を考慮した構造であるが、パンタグラフ部の低屋根構造は採用していない[27]

  • クモハ169-1 - 25(25両)
  • モハ168-1 - 25(25両)
  • クハ169-1 - 24(24両)

新製冷房車

1969年度以降の新造車では、165系・169系とも全車両が冷房付きで落成した[28]。冷房装置はパンタグラフを搭載しない形式がAU13E形分散式、モハ164・168形がAU72形集中式を搭載した[28]。また、クハ165・169形ならびにサハ165形には容量110 kVAの冷房電源専用MH128-DM85形電動発電機(MG)を床下搭載した[28][27]

1969年5月より全車津田沼電車区へ新製配置された房総西線電化用グループ。モハ164形800番台の低屋根部にあった通風口は廃止され、サロ165形は冷房装置はAU12S形6基からAU13E形5基に変更された[28]

  • クモハ165-126 - 138(13両)
  • モハ164-849 - 861[注 4](13両)
  • クハ165-191 - 203(13両)
  • サロ165-130 - 134(5両)

1969年9月に製造された169系第二次量産車。1868年に製造された冷房準備車グループでは電動車ユニットが1組多く製造されていた関係から、編成数を合せるためクハ169形が1両多く製造された[27]

  • クモハ169-26・27(2両)
  • モハ168-26・27(2両)
  • クハ169-25 - 27(3両)

1969年に山陽本線急行増発用として製造され宮原電車区に配置された中間車のみのグループ。冷房電源用110 kVA MGを搭載する新形式のサハ165形も落成した。

  • モハ165-18 - 21(4両)
  • モハ164-81 - 84(4両)
  • サハ165-1 - 10(10両)

1970年に製造された最終増備車グループで、「よねやま」電車化としてクモハ165+モハ164+クハ165x2本が新潟運転所へ、呉線電化用としてクモハ165+モハ164+サハ165+クハ165が下関運転所へ新製配置された。

  • クモハ165-139- 141(3両)
  • モハ164-862 -864[注 5](3両)
  • クハ165-204 - 206(3両)
  • サハ165-11[注 24](1両)

改造工事

形式間改造車

クハ164形

1965年10月ダイヤ改正で設定された山陽本線急行「みずしま」は165系・153系混結編成で運転された。本編成でクハ153形から制御する場合は抑速ブレーキが使用ができなくなることから瀬野八区間での下り勾配を考慮して、本来偶数(山陽本線基準の下り)向きとされるクハ153形を奇数向きに方向転換して編成が組成されていた[注 25]。1966年にクハ153形0番台8両へ165系編入改造を施工しクハ164形となった[31]

主な改造内容は主幹制御器をMC22形からMC37形へ、総括制御用ジャンパ連結器をKE57A形からKE64形への交換である[31]。改造は幡生工場で施工し、車両番号は改造種車の番号順に1 - 8が付番された[32]。暖地向けで耐寒耐雪構造は省略。種車が低運転台構造のため塗装はクハ153形のまま正面に緑が回らない塗り分けの異端車となった。

改造当初は下関運転所(現・下関総合車両所)に配置されたが、山陽新幹線岡山暫定開業前後の1971年から1972年にかけて他区へ転出した。

宮原所属車は1973年に神領電車区に転出し中央西線急行で運用。1975年に大垣に再転出し「東海」「伊那」「富士川」などで運用されたが1983年までに廃車され形式消滅した。

クハ164形改造履歴
車番 種車 改造日 施工 配置 転属 廃車日 冷房化 その他改造
1 クハ
153-1
1966.02.15 幡生 下関 大垣
1972.02.29
宮原
1974.12.13
1980.09.19 未施工  
2 クハ
153-2
1966.02.21 大垣
1972.02.29
宮原
1975.01.11
1980.02.21
3 クハ
153-17
1966.03.16 大垣
1972.02.27
宮原
1974.12.20
1980.08.02
4 クハ
153-18
1966.03.10 大垣
1972.02.27
宮原
1974.12.20
1979.11.29
5 クハ
153-19
1966.02.23 宮原
1971.12.02
神領
1973.06.13
大垣
1975.04.04
1982.09.27 1972年
吹田
前灯SB化
前面強化
6 クハ
153-20
1966.02.10 宮原
1971.12.02
神領
1973.05.15
大垣
1975.05.7
1983.03.18  
7 クハ
153-25
1966.02.05 宮原
1971.11.18
神領
1973.05.15
大垣
1975.05.07
1983.09.03 前灯SB化
前面強化
8 クハ
153-26
1966.03.19 宮原
1971.11.18
神領
1973.05.11
大垣
1975.04.04
1982.09.27 1976年
長野
 

サハシ165形50番台

1965年12月より中央東線急行「アルプス」でビュッフェ営業が開始されるのに伴い、上越線急行「佐渡」に編成中2両組み込まれていた新潟運転所所属のサハシ165形を1両に減車の上転用され、松本運転所のクハ165形と差し替えを実施したが[33]、これ以外に4両不足したことから、2両は売店車サハ164形を新造。2両は東海道・山陽本線急行「なにわ」「宮島」の運用減少で捻出されたサハシ153形2両を改造編入することになり、落成したグループである[33]

51・52の種車はサハシ153-2・4で改造内容はビュフェ部寿司コーナーを蕎麦コーナー・業務用控室への変更・小窓新設ならびに固定窓移設・ジャンパ連結器をKE57A形からKE64形への交換等で[33]、新津工場(→新津車両製作所→現・総合車両製作所新津事業所)が施工を担当。改造当初はMH80-C1000形空気圧縮機が残されていたが、1967年に2両とも撤去された[34]

53 - 55は1968年10月ダイヤ改正で中央東線電車急行を増発したため宮原電車区の余剰車サハシ153-6・8・14へ長野工場(現・長野総合車両センター)で改造施工したグループ。日程都合からサハシ153形のまま松本運転所に転入し、1968年12月から翌1969年3月にかけてビュフェ部分の改造が施工された[33][34]。改造内容はサハシ165-51・52と同様であるが、空気圧縮機はサハシ165形への改造と同時に撤去済である[34]

1969年 - 1970年に普通客室へAU13E形分散式冷房装置取付改造を施工。同時にMGを40 kVAから110 kVAに交換[注 7]

1980 - 1982年に廃車・区分消滅した。

サハシ165形50番台 改造履歴
車番 種車 製造会社 改造日 施工 配置 廃車日 備考
51 サハシ153-2 近畿車輌 1965.11.24 新津 松本 1980.05.10  
52 サハシ153-4 1982.09.04
53 サハシ153-6 1969.02.04 長野 1982.3.17 1968.09.18
宮原→松本 転入1次改造
54 サハシ153-8 1968.12.12 1982.07.27 1968.09.09
宮原→松本 転入1次改造
55 サハシ153-14 1969.03.15 1980.05.10

サロ169形・サハシ169形

1968年10月ダイヤ改正で信越線急行運用を165系8両編成から169系12両編成へ置換える際に1等車ならびにビュフェ車は、車両需給の点からそれぞれサロ165形・サハシ153形を編入改造しての対応となり、サロ169形・サハシ169形が1968年に落成した[34]

サロ169形
1等付随車 (Ts) で定員48名。
種車は長野工場での改造工程低減を目的に169系投入前から長野運転所所属で信越急行に充当されていた横軽対策施工車19両で工事内容は協調制御用KE70ジャンパ連結器追設・横軽協調機器搭載・改番である。
全車サロ165形新製冷房車として落成しておりAU12S形6基を搭載する。
サハシ169形
2等・ビュフェ合造付随車 (Tb) で客室部定員は36名。
種車は宮原電車区所属で余剰となっていたサハシ153形10両であり基本構造はサハシ165形50番台に準ずるが、日程の都合からサハシ165-53 - 55と同様2回にわけて編入改造を施工した。
  • 1968年夏の第1次改造ではジャンパ連結器交換・横軽協調機器搭載・改番を郡山工場(現・郡山総合車両センター)・松任工場(現・金沢総合車両所)で施工。ビュフェ部分は寿司コーナーのまま転用されたほか[35]、CPは碓氷峠通過時にパンクさせた空気ばねへの圧縮空気再供給を迅速に行うため残された。
  • 1968年末から1969年4月にかけての第2次改造では寿司から蕎麦コーナーへ変更ならびに業務用控室設置と窓配置変更を長野工場で施工した[35]

サロ169形は特急格上げやグリーン車利用率低下により1982年より廃車が始まり、1985年3月ダイヤ改正で運用終了。同年中に全車廃車となり形式消滅した。サハシ169形は1976年の信越急行ビュフェ営業休止後も編成に組成されたままであったが、1978年10月ダイヤ改正で運用離脱し5を除き同年中に廃車。5は1979年2月に松本運転所へ転出したが、同年中に廃車となり形式消滅した。

サロ169形 旧車番・改造履歴
車番 種車 製造会社 改造日 施工 廃車日 備考
1 サロ165-43 汽車製造 1968.8.8 長野工場 1985.8.23 1966年新前橋電車区から転入
2 サロ165-44 1968.10.7 1982.10.25
3 サロ165-45 1968.8.30 1985.8.23 1967年新前橋電車区から転入
4 サロ165-46 1985.8.7
5 サロ165-47 1968.7.15 1983.7.30
6 サロ165-48 1968.9.14 1982.12.25
7 サロ165-64 1968.8.8 1983.2.19  
8 サロ165-65 1968.7.23 1982.12.25
9 サロ165-72 東急車輛 1968.7.31 1982.12.10
10 サロ165-73 1968.7.15 1983.11.24
11 サロ165-74 1968.7.08 1983.6.17
12 サロ165-75 1983.12.1 1978.10.12松本運転所へ転出
13 サロ165-76 1968.7.23 1982.12.25  
14 サロ165-77 1968.7.31 1983.3.19
15 サロ165-78 1968.7.31 1982.12.01
16 サロ165-86 近畿車輌 1968.09.14 1985.8.7
17 サロ165-87 1968.10.9
18 サロ165-88 1968.8.21
19 サロ165-89 1968.8.15 1982.12.25
サハシ169形 旧車番・改造履歴
車番 種車 製造会社 改造日 1次施工 2次施工 廃車日 備考
1 サハシ153-1 近畿車輌 1968.09.20 郡山工場 長野工場 1978.09.16  
2 サハシ153-3 1968.9.30
3 サハシ153-7 1968.9.24 1978.11.22
4 サハシ153-10 1968.9.20 1978.9.16
5 サハシ153-24 1968.7.15 1979.5.19 1979.2.1松本運転所へ転出
6 サハシ153-5 1968.8.21 松任工場 1978.9.16  
7 サハシ153-9 1968.7.29
8 サハシ153-13 1968.9.3
9 サハシ153-25 1968.8.21 1978.11.22
10 サハシ153-27 1968.7.29 1978.9.16

169系900番台

横軽協調試作車の165系900番台3形式計12両は、1968年11月から12月にかけて主幹制御器の交換など169系量産車に合わせる量産化改造が長野工場で施工され、同時に169系900番台へ編入改番された[36]

クヤ165形

クヤ165-1

1974年に名古屋鉄道管理局の教習用車として、浜松工場でサハシ153-15を種車に改造された事業用車。

  • 客室を運転実習室とし、旧ビュフェ部分にはCS15形主制御器など電気関係の電車用床下機器(主電動機・MG・CPを除く)を架台に搭載し、各機器の作動状況を目視できるほか回路のパネルなども設置した。
  • 前面は非貫通切妻形状であるが急行形・近郊形電車に近い前面形状と本系列に準ずるレイアウトの高運転台を両端に新設。
  • 運用エリアに低断面トンネルの中央西線があることから、新設搭載されたパンタグラフは対策形のPS23形とされた。

分割民営化直前の1987年2月に廃車された。

クヤ165形改造履歴
車両番号 種車 改造前配置 改造日 施工工場 改造後配置 廃車日
クヤ165-1 サハシ153-15 宮原 1974.7.13 浜松 大垣 1987.2.3

クハ165形方向転換改造

1982年に飯田線の80系電車や戦前型旧性能電車を置換える際に119系新製とともに165系転用も実施されたが、クハ165形偶数(下り)向き車が不足した[37]。このため冷房改造時に奇数向き固定となっていたクハ165-9に浜松工場で方向転換ならびにジャンパ連結器移設を施工し車両番号を最終番号の206に続く偶数の208に改番を実施[37]。豊橋機関区(現・豊橋運輸区)に配置された。同車は分割民営化時にはJR東海へ承継。1988年3月11日には大垣へ、1989年3月11日には神領へ転属となり、同年6月21日付で廃車となった。

なお方向転換改造は、1983年に伊豆急行線内の事故で廃車となったクハ167-2の代替となったクハ165-3へも施工されたが、改番は未実施であり[37]、以降の方向転換施工車となるクハ165-115・165・167なども改番は未実施である。

クハ165形方向転換改造履歴
車両番号 旧車番 改造日 施工工場 配置 廃車日
クハ165-208 クハ165-9 1982.12.4 浜松 豊橋 1989.6.21

サハ165形100番台

1985年3月のダイヤ改正で455系・475系等の交直流急行形電車が定期急行運用から撤退し、短編成ローカル運用への転用で必要な先頭車不足を補うため165系から改造編入工事が施工された[38]。この過程でユニットを組成していたクモハ165・169形がクハ455形へ改造され余剰となったモハ164・168形の電装解除を行い付随車化したグループで1984年度に落成した[38]

改造対象は新前橋電車区所属のモハ164形1両とモハ168形900番台4両全車の計5両で、大宮(現・大宮総合車両センター)・広島・幡生(現・下関総合車両所)の3工場で施工された。。内容は主電動機・電動発電機・空気圧縮機・パンタグラフ・避雷器の撤去等による電装解除や台車をDT32B形からTR69形への交換などであり、0番台と異なり110 kVAの冷房用MGは搭載しない[38]。また、モハ168形900番台からの改造車は、パンタグラフ取付部分が低屋根のままとされた[38]

松本運転所の付属4両編成に組成まれていた中間封じ込みクハ165形を差し替え急行「天竜」で運用されたが[38]、1987年2月2日付で全車廃車となったためにJRへの承継車はない。

サハ165形100番台改造履歴
車両番号 種車 改造前配置 改造日 施工工場 改造後配置 廃車日
サハ165-101 モハ164-71 新前橋 1984.10.6 広島 松本 1987.2.2
サハ165-102 モハ168-901 1984.10.12 大宮
サハ165-103 モハ168-902 1984.10.2 幡生
サハ165-104 モハ168-903 1985.2.21
サハ165-105 モハ168-904 1985.3.27 大宮

ジョイフルトレインへの改造

国鉄末期の1980年代後半より余剰車両の一部はジョイフルトレインへの改造が施工された。

和式電車「なのはな」

和式電車「なのはな」
和式電車「なのはな」
前面強化改造後の「なのはな」
前面強化改造後の「なのはな」

1985年に千葉鉄道管理局では和式車両を導入することになり、幕張電車区(現・幕張車両センター)に所属していた波動用6両を大井工場(現・東京総合車両センター)で改造施工した。

  • 他局では客車を種車とすることが多かったが、運転上ならびに保守上の観点から電車が採用された。
  • 千葉県県花から「なのはな」が愛称に設定された。
改造内容
  • 客用扉を1か所塞ぎ片側1扉とした。
  • 各車両側面と前面貫通扉に愛称表示器を設置。
  • 塗装は菜の花の色である黄色を基調とし、車体両端には青緑色で房総半島を図案化、車体裾部にはエメラルドグリーンのラインで黒潮を表現。
  • 側窓はユニット窓の上窓を隙間風ならびに防音対策の観点から固定化。
  • カーテンはすべて撤去。雪見障子を取り付けて遮光と和風のイメージを強調。
  • 車内は浮床構造の畳敷きとしたが、モハ164形は800番台のため低屋根部分も同構造を採用した場合居住性等の悪化が想定されたため、仕切を設け洋間風サロン室として独立。

1998年9月のさよなら運転で房総半島を一周したのを最後に廃車となった。その後、クロ165-1が千葉県内で保存された。

 
新宿
千葉
号車番号 1 2 3 4 5 6
車両番号 クロ165-1 モロ164-801 クモロ165-1 クロ165-2 モロ164-802 クモロ165-2
旧番号 クハ165-199 モハ164-857 クモハ165-134 クハ165-193 モハ164-851 クモハ165-128
定員 40 36 36 40 36 36
愛称 すみれ あやめ きんせんか すいせん あじさい ゆり
車内 数寄屋風 新和風 民芸風 数寄屋風 新和風 民芸風

「パノラマエクスプレスアルプス」

パノラマエクスプレスアルプス

1987年3月JR化移行直前に三鷹電車区所属の6両を大井工場で改造した東京西鉄道管理局向けジョイフルトレインで、国鉄では初めて前面展望構造を採用した展望電車である。

  • 編成は、Tsc(クロ165形)-Ms'(モロ164形)-Msc(クモロ165形)の3両ユニット2組を基本とした6両編成で。両端が展望室のクロ165形となるように新宿方のユニットを方向転換し、編成中間で連結。
    • クロ165形は国鉄初の前面展望電車。最前部に大型曲面ガラスと細いピラーで構成されたフリースペースの展望室(定員12名)、展望室後部上左側に運転台[注 27]、その後部にソファ6名分とスタキングチェア3脚を配置したラウンジ室を設置。展望室上部に当初は2枚のサンルーフも設置されたが、後の全般検査時に撤去。冷房装置は種車のAU13E形から換気機能を備えた集中式のAU71D形に変更し、通風器は未設置。
  • 一般客室は座席取付部を通路部より170 mm高くし、窓を幕板方向に100 mm拡大すると共に固定窓とした。
    • これにより視野が大幅に広がり、ダイナミックな車窓の提供を可能とした。
  • シートピッチを最大1,460 mmまで拡大。
  • モロ164形の低屋根部には個室を設置し、団体旅行での幹事・添乗員の打ち合わせ及びグループでの使用を考慮し、ソファ6名分を設置。
  • 183系電車との併結を考慮してKE70形ジャンパ連結器のほか、特急並の120 km/h運転に対応した機器設備も追加した[注 28]

1993年には、167系メルヘン車も「パノラマエクスプレス アルプス」に準じた塗装に変更の上で同車を併結した「しんせん・やまなし」などの臨時急行にも充当されたが[注 29]、2001年にJRでの運用を終了したあと富士急行に移籍・譲渡され、2016年2月7日まで2000形として主に「フジサン特急」で運用されていた。譲渡後、2001編成のパンタグラフがシングルアーム式に換装された。

 
新宿
松本
号車番号 1 2 3 4 5 6
車両番号 クロ165-4 モロ164-804 クモロ165-4 クモロ165-3 モロ164-803 クロ165-3
旧番号 クハ165-148 モハ164-846 クモハ165-123 クモハ165-127 モハ164-850 クハ165-192
定員 20 32 36 36 32 20
車内 展望室(12人)
ラウンジ(13人)
個室(6人)   個室(6人) 展望室(12人)
ラウンジ(13人)
定員には展望室・ラウンジ・個室は含まない。

「ゆうゆう東海」

ゆうゆう東海

1989年にJR東海静岡支社が改造したジョイフルトレイン。改造施工は名古屋工場が担当したが、電動車ユニットは日本車輌製造豊川製作所に委託である。1989年7月28日に落成。1999年11月15日付けで廃車された。

ゆうゆう東海
← 名古屋
東京 →
車両番号
( )は旧番号
クハ165-701
(クハ165-204)
モハ164-701
(モハ165-862)
クモハ165-701
(クモハ165-139)

「シャトル・マイハマ」

「シャトル・マイハマ」
「シャトル・マイハマ」
「アルファ」
「アルファ」

1990年3月10日の京葉線東京 - 新木場間延伸開業に伴う舞浜駅最寄となる東京ディズニーランドへの行楽客輸送を目的に東京 - 西船橋間に設定された快速「シャトル・マイハマ」用に特化させた改造。大井工場が施工したが車両番号の変更は実施されていない。

改造内容
  • 先頭車の前面貫通扉に愛称表示器を設置。
  • 東京ディズニーランドのイメージに合った内外装に改装。
  • クハ165-194の座席をすべて海側に向けて設置。
  • クハ・クモハのトイレ・洗面所を撤去。跡に跳ね上げ式の座席を設置。
  • モハ164-852のトイレを和式→洋式に交換。洗面所の改装も含めたグレードアップ。
  • 車内放送用に東京ディズニーランド関連の楽曲を使用(数年後に廃止)。

なお、長野支社にも貸し出され、大糸・信越本線の定期列車や信州循環列車で運転された実績があり、非電化区間の小海線にもDD16形のプッシュプル運転で入線している。

 
← 東京
西船橋 →
号車番号 1 2 3
車両番号 クハ165-194 モハ164-852 クモハ165-129
イメージ ファンタジー 冒険 未来

「シャトル・マイハマ」廃止の1995年に上沼垂運転区に転属。「アルファ」に再改造され新潟地区で「ホリデー快速アルプ[注 30]」などで運用されたが、2001年5月8日に廃車された。

改番を伴わない改造

横軽対策

信越本線横川 - 軽井沢間は最大勾配66.7 区間を通過する車両は、必ずEF63形2両を横川方に連結し165系は推進・牽引運転、169系は協調運転を行うことから、同区間での運用が存在した新前橋電車区所属の165系・169系900番台と長野運転所の169系は以下に示す通称横軽対策が施工された[39] [40][41]>。

  • 台枠・連結器の強化
  • 緩衝器容量の増大
  • 車掌弁への絞り追加
  • 台車横揺れ制限装置の追加
  • 空気ばね台車装着車に対するパンク機能の付加
  • 電車側の車掌弁操作時に非常ブレーキを作動させずブザー回路を通じて機関車乗務員側に知らせるブレーキ制御装置を搭載
  • 制御回路切替用横軽スイッチを搭載
  • 169系には協調運転に関する機器の搭載ならびに一部機器を変更(詳細は#169系を参照)

対策施工車には識別のため車両番号の先頭に直径40ミリメートルの「●(Gマーク)」を付記した[42]。また、座屈による浮き上がり脱線予防策[注 31]から本来は軽井沢方に組成される車両重量の大きい電動車ユニットを麓側となる横川方に組成する必要が生じ[43]、他区所と編成が逆向きとなった[44]

冷房化改造

1967年度より1等車(グリーン車)サロ165形の冷房化改造が開始され、1968年夏までに完了した。新製冷房車と同じく冷凍能力5,000 kcal/hのAU12S形分散式冷房装置を6基屋根上に搭載し、自車冷房電源用として容量20 kVAのH122A-DM76A形MGを床下に搭載した[28]

  • 後の2等車(普通車)冷房化により同形式を跨いで冷房電源を給電するために三相引通線追加工事を施工した[28]

1968年度以降は2等車(普通車)冷房化が実施されることになり、新前橋電車区所属の165系3両編成x8本24両に試作冷房改造が施工された。クモハ165形ならびにクハ165形はサロ165形と同じAU12S形搭載とされたが、モハ164形はパンタグラフ搭載により5基分のスペースしかなく冷房能力が不足することが問題となったため冷凍能力30,000 kcal/hのAU71形集中式冷房装置が搭載された[28]

  • 全車集中式で統一しなかったのは高価であり搭載には車体補強改造も必要なため。

冷房電源は容量90 kVAのMH127-DM84形MGをクハ165形に搭載。冷房電源用引通を新設自車を含めて4両分までの給電に対応した[45]。本改造によりクハ165形は総括制御回線は両渡りから片渡りとなり向きが固定された[45]

1969年度から1978年度にかけては非冷房車と冷房準備車への本格的な冷房化改造を施工し、以下の変更が行われた[45]

  • モハ164形以外は分散式冷房装置を冷凍能力5,500 kcal/hのAU13E形に変更[45]。搭載基数はサハシ165形客室側が2基、モハ165形・サハ164形が6基、クモハ165形・クハ165形が5基である[45]
  • モハ164形は冷凍能力33,000 kcal/hのAU72形集中式冷房装置に変更[45]
  • 冷房電源用MGを容量110 kVAに向上したMH128-DM85形をクハ165形に搭載[45]
  • 1969年度後期の改造車からは冷房電源用MGをMH128A-DM85A形とし、床下機器配置も変更した[31]
  • 松本運転所所属のサハシ165形・サハ164形は編成組成上の理由から[注 7]、MGを従来の自車給電用から容量110 kVAの冷房電源用に交換。

169系は冷房準備車あるいは新製冷房車として落成したため冷房準備車に同様の改造が施工された[46]。900番台はAU12S形による冷房準備車であり、クモハ169形・クハ169形は1971年度施工ながらAU12S形が搭載されたが、モハ168形はAU12S形で冷房準備がされていたもののAU72形集中式搭載に変更して落成した[46]

167系は1977年度から1980年度にかけて施工された[46]。冷房電源用MGは田町電車区所属車では偶数向きのクハ167形に搭載されたが、宮原電車区所属車では混用されていたクハ165形にMGを搭載し、クハ167形は奇数向きに統一された[46]

  • 冷房改造と前後して湘南色へ塗装変更も順次施工[46]

冷房改造施工先頭車では、運転室作業環境改善のため客室内冷気を運転席に導くダクトを前位デッキ天井部分に設置した。

  • 集中式では冷房用風洞を延長して冷気を運転室内に直接放出させることも可能だが、分散式ではダクトが必要になる。本ダクトは新製冷房車には設置されていないものもあり、その場合は冷房車にもかかわらず運転席は非冷房となる。

前面強化改造

JR東日本方式前面強化・シールドビーム化改造車
アンチクライマー装着

踏切事故の増加を受けた対策研究の一環として、1963年に60系客車オハ60 144・145に165系同様の前面部分を設置しての踏切事故実験が長野工場で行われた[47]。この実験結果から165系列の先頭車前面外版を厚くする設計変更がなされたが、更に強化するための改造が国鉄時代の1977年より施工された[48]。前面強化と同時に前照灯のシールドビーム化も行われたが、新津車両管理所での施工車は原型白熱灯のまま前面強化が行われている[48]

JR東日本では1993年の成田線大菅踏切事故を契機に、乗務員保護の観点から前面強化工事未施工車を対象に前面追加工事を積極的に推進した[49]。本工事は本系列でも例外なく国鉄型電車のほぼすべてに施工された。

165系では長野総合車両所・新津車両管理所での施工車は国鉄時代と同様の工法であったが、それ以外はステンレス板が貼られた。ステンレス板追加方式ではアンチクライマーも設置されており、初期施工車ではステンレスの地肌がむき出しであった(後に塗装)。早期に前面強化工事を施工した新潟地区の車両を除き、次項の前照灯シールドビーム化も同時施工した車両が多い。

前照灯シールドビーム化

国鉄型電車では前照灯光源として長く白熱電球を標準採用してきた。しかしフィラメントが後方に放つ光を反射し前方への投光量を増やすため反射板が必須で、灯具が大型かつ低照度で電球交換後は焦点調整を行わねばならないという欠点があった。このため電球自体に反射板を組み込み構造で、コンパクトかつ高照度で焦点調整不用なシールドビームが普及するにつれ、既存の白熱電球は保守性や保安性が問題となった。そこで保安性および保守性の向上を目的にシールドビーム化改造が1970年代以降順次進められた。

一部は上述した前面強化改造と同時施工されたケースもあるが、新潟地区では原型白熱灯のまま前面強化工事を施工した車両が存在するほか、浜松工場で改造施工されたクハ165-129はシールドビームが他車より高い位置に設置する異端車となったケースもある[48]

サロ165形115系組み込み改造

1970年10月1日から中央東線急行かいじは、下りのみ1本増となり増発分となった下り6号には三鷹電車区(現・三鷹車両センター)所属の115系電車が充当された[注 32]

いわゆる遜色急行と呼ばれる運用であるが、グリーン車を連結することになり、当時新前橋電車区(現・高崎車両センター)に所属していたサロ165-14・15に総括制御用ジャンパ連結器を115系で使用されるKE58形2基へ交換するなどの改造施工した上で三鷹区への貸出を実施。塗装は14を横須賀色へ変更、15は予備車とされ湘南色のままとされた。

本措置は1972年10月1日ダイヤ改正まで行われ、同年11月に塗装を湘南色へ、ジャンパ連結器をKE64形2基へ復元した[51]

なお、三鷹所属115系電車の中央東線急行運用は、この後も「かいじ」「かわぐち」「たてしな」などの臨時列車を中心に1978年10月ダイヤ改正まで実施されたが、1975年以降は冷房装置搭載の300番台が優先的に充当された。

パンタグラフ交換

中央東線には狭小トンネルがあることから、モハ164形は低屋根車の800番台限定で使用されていたが、1973年に低屋根構造でなくとも狭小トンネルを通過可能なPS23形パンタグラフが開発され、同年7月の中央西線・篠ノ井線電化時より同線を通過する車両に対してパンタグラフの交換が施工された[48]。PS23形またはPS23A形へ交換された車両は、識別のため車両番号表記の左側に菱形の◆マークが付記された[48]

このほか2000年度末には三鷹電車区所属のモハ164-67ならびにモハ168-15・27へPS23A形からPS35D形シングルアーム式への交換が行われた[49]

サロ165形ユニット窓改造

サロ165-108
下降式→ユニット窓化改造車

サロ165形客室側窓は下降式のため雨水などが侵入しやすく、車体外板の腐食が著しくなった[48]。このため外板張り替え工事が1970年代前半より開始されたが、1977年に田町電車区(→田町車両センター→現・東京総合車両センター田町センター)所属のサロ165-114へ試験的に外板張り替えと同時に客室側窓をユニット窓化する改造を施工されたのが最初で、同年度以降は一部車両へ施工された[48]

本改造で客室側窓は、高さ760 mm × 幅1,910 mmの2枚1組バランサー付き下降窓から、高さ760 mm × 幅1,912 mmの2枚1組ユニット窓への変更されたが、改造時期によりユニット窓の大きさなどに差異があり、サロ165-2では窓が小さい[37]

特別保全工事

国鉄では1982年度より経年16年前後の車両を対象に耐用年数を延長する特別保全工事が実施されていたが、本系列でも1985年度より主回路配線引き替え・車体外板補修・屋根や雨樋の補修などが順次施工された[48][52]

「新急行」用改造

新急行色

1986年に県庁所在地長野市と県南部の飯田市方面を結ぶ長野県内急行強化のグレードアップを目的に「天竜」に充当されていた車両へ施工された改造が改造である[52]

改造内容は中間車1両のサハ165形を含む169系4両編成x5本に塗装をクリーム10号地に緑14号のストライプで長野(Nagano)の頭文字Nを図案化した新急行色へ変更[52]。座席を0系新幹線発生品のW12形転換クロスシートもしくはD23形簡易リクライニングシートへの交換を施工した[52]

「ムーンライト」用改造

初期改造車
初期改造車
更新車編成
更新車編成
車内
車内

1987年から1990年にかけて、新宿 - 新潟間を結ぶ夜行快速「ムーンライト」(後に「ムーンライトえちご」へ改称)用165系の改造が施工された[52]。工事は数度に渡り行われたが、共通事項として座席をグリーン車用リクライニングシートへ交換、外観は塗装変更が行われた[52]

1987年度に改造された3両編成x3本は、塗装パターンは同一ながら各編成によって緑系・茶系・赤系の3色に分けられた[53]。1987年7月3日落成のM1編成は緑系、同年8月12日落成のM2編成は茶系、翌1988年3月25日落成のM3編成は赤系の塗装を採用[53]

1988年度の改造車からは車両更新工事も同時に施工され、更新改造1本目では白地にワインレッドと緑の帯が入る塗装となった[54]。同年度の2本目以降の更新改造車は塗装が白地に窓周りグレー、黄緑とレモンイエローの帯の入った配色となり、1本目の更新編成も1991年度に2本目と同じ新塗装に変更された[54]。内装は座席交換のほか、荷棚への読書灯の設置や横引きカーテンへの変更も行われている[55]

更新車は3両編成x6本(2代目M1 - M6編成)が投入され、更新車に置換えられた未更新車は急行「赤倉」に転用された[56]

車両更新工事

JR東日本では特急形以外の電車に対して耐用年数を20年ほど延長する車両更新工事が施工されることになり、165系列でも1988年度より順次施工された[52]。工事内容は車内の化粧板の貼り替え、荷棚の交換、車体外版の補修、屋根の塗り屋根化などであるが、施工工場や所属区所によって改造内容は異なる[52]

近郊形化改造

格下げで普通列車用となった車両の一部は、近郊形化と称される出入口近くのロングシート化およびデッキ撤去の改造を行ったものがある。対象はJR東日本松本電車区の169系3両編成2本(A8・A9編成)で、ラッシュ時の混雑緩和を目的に1989年と1990年に施工された[57]。定員はクモハ169形・クハ169形が104名、モハ168形が112名である[57]

改座車

JR東日本松本運転所の波動用165系は、グレードアップのため189系特急「あさま」用グレードアップ改造で発生した簡易リクライニングシートに交換された[58]。A10 - A14編成の5編成15両が対象で、1991年から1992年にかけて施工された[58]。塗装は新急行用と同様で、クリーム色をベースに緑色の「N」の図案が入れられた。本改造車は「改座車」と呼ばれた。

ATS-P搭載工事

JR西日本のATS-P搭載車

JR東日本では1988年の東中野駅列車追突事故を契機にATS-Pの設置が急速に進められ、本系列にも搭載工事が施工された[52]。クハ165・167・169形では関連機器を床下搭載するが、クモハ165・169形はスペースの都合から車内の助士席後方に搭載した[52]

JR西日本では大阪環状線がATS-P化されたことにより、1991年度に同線への乗入運用が存在する日根野電車区所属車の一部へATS-P搭載工事を施工[52]。クモハ165形では関連機器を客室内座席撤去により搭載したことから、運転台方客用扉(2位側)の戸袋窓を閉鎖した[59]

他系列への改造

サロ112形への改造

1968年10月ダイヤ改正でサロ163形の1両が余剰となり、113系グリーン車の不足を補うためサロ163-7が1969年8月にジャンパ連結器の交換と冷房用MGの撤去などを施工。車体が同形態のサロ152形からの改造車と同じくサロ112形とされたが、種車の違いから50番台に区分されたため車番はサロ112-51へ改番された[38][60]

サロ110形への改造

サロ110-501

余剰車を1983年および1985年に113系グリーン車サロ110形へ改造した。

クハ455形への改造

クハ455-317

1983年から1985年にかけてローカル転用に際して不足する交直両用のクハ455形へ改造した。

107系への部品流用

107系0番台

JR東日本では、日光線両毛線のローカル輸送用本系列置換えを目的に通勤・通学と日中の輸送量に適した車両の導入が計画された[47]。これにより1988年から1990年にかけて登場したのが2両編成・両開き3扉ロングシート車の107系で、165系の廃車発生品を用いてJR東日本の各工場で新造された[47]

編成はクモハ107形とクハ106形の2両編成で、MT54形主電動機ならびに抑速ブレーキを搭載する[47]。日光線用が0番台、両毛線・高崎地区用が100番台に区分された[47]

107系は新造コストを低減するため廃車発生品の台車・主電動機・電動発電機・空気圧縮機・ブレーキ制御装置・冷房装置等が再用されたが[47]、名目は新造車とされたため部品提供車と車籍上の繋がりはない。

各社における状況

社別で解説する車両基地名称は、本系列車両の配置がなくなった時点でのものとする。

国鉄時代

本来の目的とされた急行列車が1980年代より減少した。国鉄最後のダイヤ改正となった1986年11月改正で残った165系の急行列車は、東海道本線の「東海」、身延線の「富士川」、信越本線の「とがくし」「南越後」のみとなった[61]。また、「上尾事件」のように急行運用の間合いによる大都市圏の通勤・通学ラッシュ時への運用には適さないことから、早急な置換えが必須であった。

一方で1981年から老朽廃車が開始されていたが、余剰車両の活用を目的に国鉄末期から一部の車両はジョイフルトレインへ改造されたほか、急行運用の減少から新潟・長野・松本・甲府地区・飯田線豊橋口・関西本線名古屋口・和歌山地区などでは、普通列車の運用に充当され夏期冷房化率向上に貢献した。しかしデッキ付き2扉構造により乗降時間を要すことから列車遅延の原因となるなど使い勝手が悪い結果、より収容力の大きい近郊形・通勤形に置換えられ、165系の営業運転範囲は徐々に狭まった。JR化後の1990年代に入ると特急への格上げなどで急行列車運用自体が消滅することとなった。

1987年の国鉄分割民営化では、JR東日本に165系263両・167系35両・169系75両(計373両)、JR東海に165系169両、JR西日本に165系41両・167系16両(計57両)の総計589両が継承された[62]。JR化後は本系列に限らず急行形電車そのものが老朽化による廃車も多く、このため同時期に製造された113系・115系が延命工事を多数施工したのと対照的に本系列では廃車になった。

JR東日本

運用末期の165系

分割民営化後は、田町電車区(→田町車両センター→現・東京総合車両センター田町センター)の167系は4両、他区の165・169系は3両と最低組成に必要な短編成で組成され主に波動運用対応用とされた。一部地域で車体カラーも変更され、イメージを一新した。

定期急行運用は1997年の「赤倉」を最後に全廃、定期普通・快速列車は上沼垂運転区所属車による2003年の「ムーンライトえちご」を最後に全廃となった[63]。定期運用終了後は臨時快速「こころ」「とがくし」などで運用されたが、2003年9月28日の臨時急行「さよならこころ」を最後にすべての営業運転を終了した[63]

リクライニングシート換装などを施工したアコモデーション改善車が投入されていた快速「みすず」「むさしの」では、115系近郊形に置換えられた。一方、首都圏で本系列主体で運用されていた「ホリデー快速」の多くは特急形車両に置換えられた。

一部車両は107系電車新製にあたり主電動機・台車・冷房装置などの機器を供出したが、車籍上のつながりはない。

JR東海

165系急行「富士川」 373系特急「ふじかわ」 1995年10月
165系急行「富士川」
373系特急「ふじかわ」
1995年10月
神領電車区T-10編成
神領電車区T-10編成

東海旅客鉄道(JR東海)に継承された時点で大垣電車区豊橋電車区・静岡運転所に配置。大垣電車区では東海道本線急行「東海」とローカル運用の関西本線岡多線[注 33][64]、豊橋電車区では飯田線ローカル、静岡運転所では身延線急行「富士川」の運用を担当

1988年3ダイヤ改正で豊橋の運用が静岡運転所に統合され30両が静岡運転所へ、18両が中央西線ローカル用[注 34]として大垣電車区へ転出[65]

1989年3月ダイヤ改正では大垣電車区の配置が無くなり、急行「東海」は静岡運転所へ、中央西線・関西本線ローカルは神領電車区へ移管された[64]。最終的に静岡運転所(現・静岡車両区)と神領電車区(現・神領車両区)に配置された。

同車の承継車両殆どの共通点として、大きな変更はされずに廃車まで湘南色を保っていた特徴がある反面、同社独自改造として以下の点がある。

  • 床下機器のグレー化
  • 各ゴム類の黒ゴム化
  • クロスシートへの枕カバー取り付け
  • 二段窓の下段部分固定化

本系列では国鉄時代に特別保全工事や先頭車の前照灯シールドビーム+前面強化が行われていたが、継承後の同社では延命工事・アコモデーション改良などを一切行っていないことから、多くの車両が原型を保持していた。静岡運転所の車両は急行運用主体のため、所属全車に汚物処理装置が取付けられた[注 35]。神領電車区所属車と組換えしながら車両を調整し、初期車を淘汰した。

定期運用は優等列車が1996年の急行「東海」をもって廃止となり、ローカル列車も中央西線中津川 - 塩尻間を最後に1999年をもって廃止となった。唯一残存したサロ165-106も2008年度末で車籍が抹消され、JRグループでも本系列は全廃となった。同車は所属表記を国鉄時代の名カキに戻した上で「リニア・鉄道館」で展示されている。

JR西日本

分割民営化後は、宮原運転所と日根野電車区に配置された。宮原電車区では167系が波動用で、日根野電車区では165系が紀勢本線普通列車用に使用された。宮原運転所の波動用編成は2001年に、日根野電車区の紀勢本線用編成も105系などへの置換えで2002年に全廃となった。

線区・用途別の運用

定期列車は路線の線区単位で、波動用は所属区所単位で解説する。運転系統別の担当区所は以下の通り。

上越線・新潟地区

最盛期の運用

急行「佐渡」
1978年8月

信越本線新潟電化に伴う1962年6月10日ダイヤ改正では、上越線特急「とき」が161系電車で運転を開始したほか、上野 - 新潟間急行列車は3往復に増発され、下り「弥彦」と上り「佐渡」が80系により電車化されたが[66]。シートピッチの狭い初期車が大部分で居住性に問題があり、7両編成で混雑も慢性化していたほか残る2往復の客車急行も編成増強やスピードアップが望まれていた[66]

これに対応する形で1963年2月に165系1次車が新潟客貨車区(→新潟運転所→上沼垂運転区→現・新潟車両センター)に新製配置されたが[注 36]、80系早期置換えのため新前橋電車区(現・高崎車両センター)配置車により同年3月26日から下り「弥彦」と上り「佐渡」で暫定的に営業運転を開始した[68]。当初は東北本線と同じ3月25日からの運行開始予定であったが、同日は上越線で架線切断事故が発生し運休となり、運行開始は翌26日からとなった[68][69]

  • 当初はサロ165形の新製配置がなかったため中間に田町電車区所属サロ153形が組み込まれた7両編成となった[66]

同年4月より順次新潟所属車に運用変更が行われ[注 37]、同月23日からは153系で運転されていた上野 - 長岡間準急「ゆきぐに」を165系に置換えた[71]

1963年6月1日ダイヤ改正では、上野 - 新潟間急行列車は下り「弥彦」上り「佐渡」に加え昼行が客車運行2往復と「ゆきぐに」を新潟延長と急行格上げを実施し165系で4往復化[71]。さらに夜行1往復が新設された[71]

  • 愛称は出発順に昼行が「弥彦」「佐渡」「越路」「ゆきぐに」夜行が「越後」
  • 編成はサロ165形・サハシ165形を2両ずつ連結した12両編成とされたが[66]、利用客が多く混雑緩和と着座率向上を目的にクハ165形1両を中間に増結することとなり、同年11月25日より13両編成に増強された[72]
  • ビュフェメニューは東海道本線の153系では寿司中心であったのに対し、上越線急行ではそば・うどん中心とされた[72]

なお本改正直後の同年7月20日付で配置車両基地の新潟客貨車区が、新潟車掌区および新潟機関区一部の機能統合による組織変更を行い名称も新潟運転所へ移行した。

1965年10月1日ダイヤ改正では以下の変更を実施。

  • 同一系統列車の愛称を統一集約化方針により、上野 - 新潟間昼行列車は「佐渡」に統一し[73]、1往復増の5往復化。夜行「越後」は「越路」に改称。
  • 「佐渡」「越路」用編成の7 - 13号車に組成される7両編成を充当して越後湯沢 - 新潟間準急「ゆざわ」を運転開始[74]。なお「ゆざわ」は運転距離100 km以上の準急列車は急行列車する1966年3月5日の国有鉄道運賃法改正で急行に格上げされた[74]
  • 2両組込でいずれも営業を行うサハシ165形ビュフェは供給過剰による低利用率が問題となり、混雑緩和も要求されたことから、1両をクハ165形に差し替え[72]。余剰となったサハシ165形5両は中央東線急行サービス向上に転用され松本運転所のクハ165形と車両交換を実施した[72]

1968年10月ダイヤ改正では「佐渡」に不定期運行の季節列車を設定。夜行「越路」も「佐渡」に統合され[73]、1969年には定期5往復・季節2往復に増発された。

1970年10月1日ダイヤ改正では「佐渡」季節1往復が特急「とき」定期1往復に格上げ。キハ58系で運転されていた長野・妙高高原 - 新潟間急行「よねやま」2往復を電車化しモノクラス6両編成が充当された[75]

  • 「よねやま」充当用として同年8月25日付で165系最終製造車のクモハ165-140+モハ165-863+クハ165-205 - クモハ165-141+モハ165-864+クハ165-206が新潟運転所へ新製配置された。

1972年3月15日ダイヤ改正では以下の変更を実施。

  • 越後湯沢 - 新潟間急行「ゆざわ」廃止[76]
  • 「よねやま」は「とがくし」に改称。上田・長野 - 新潟間2往復での運転となり、うち1往復にサロ165形を連結[76]
  • 「よねやま」の愛称は上野 - 長岡 - 柏崎間気動車急行に転用された[76]

1972年10月2日ダイヤ改正では以下の変更を実施。

  • 「佐渡」1往復を「とき」に格上げし「とき」10往復化
  • 「よねやま」を直江津発着ならびに165系化し「佐渡」用編成を充当[77]

なお本改正に先立ち同年春から宮原電車区ならびに下関運転所からサハ165形11両全車が転入し、中間封じ込みとなっていたクハ165形を置換えた。

1973年10月1日ダイヤ改正では以下の変更を実施。

  • 「佐渡」季節列車を廃止し定期4往復化ならびにビュフェは「とき」増発に伴う食堂従業員確保のため営業休止[73]
  • 「とがくし」は2往復ともグリーン車連結の7両編成に統一された[77]

本改正では松本運転所との間でサハシ165-1 - 3とサハ164-1・2の車両交換を実施。下関運転所からクモハ165形+回送運転台付モハ164形500番台ユニット2組4両が転入したほか、1974年5月24日には新潟駅構内上越新幹線工事開始に伴い新潟運転所上沼垂支所が開設された。

1978年10月2日ダイヤ改正に先立ち、同年6月に「佐渡」「よねやま」編成からサハシ165・サハ164・165形を外し、1両減の12両編成化ならびに「とがくし」のサロ165形をサハ165形に置換え「佐渡」の6 - 12号車と共通運用が可能な7両編成とする編成変更を実施した[78]

  • この結果、サハシ165形5両は廃車。サハ164形2両は同年7月21日付で大垣電車区へ転出した。
「佐渡」「よねやま」編成の推移
← 上野・直江津
新潟 →
1963年6月以降のサハシ165形2両組込編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サハシ
165
サロ
165
サロ
165
サハシ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
1965年10月ダイヤ改正後の編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
サロ
165
サハシ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
1969年10月ダイヤ改正後の編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
サロ
165
サハシ
165
クハ
165
※1
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
1978年6月以降の編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
サロ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
 
備考
  • ※1:1972年以降はサハ165・164形の場合あり。
「ゆざわ」「よねやま」→「とがくし」編成の推移
← 上田・越後湯沢
新潟 →
「ゆざわ」1965年11月28日 - 1969年9月30日編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
「ゆざわ」1965年10月1日 - 1972年3月14日編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
 
「よねやま」→「とがくし」モノクラス編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
「とがくし」1973年10月1日 - 1977年9月30日編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
「とがくし」1977年10月1日ダイヤ改正後の編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165

上越新幹線開業後

「赤倉」塗装
「赤倉」塗装
快速「ムーンライトえちご」
快速「ムーンライトえちご」

上越新幹線大宮暫定開業に伴う1982年11月15日ダイヤ改正では特急「とき」が廃止。「佐渡」は夜行1往復廃止により昼行3往復となった。存続した「佐渡」「よねやま」はサロ・サハが減車され10両編成となった[79]。「とがくし」もサハ165形を減車した6両編成となり、1984年までに余剰となった6両のうち5両がクハ455形に、1両がサロ110形へ改造された。

本改正では急行列車が全廃となった千葉鉄道管理局幕張電車区から転入が行われ、名古屋 - 新潟間気動車急行「赤倉」を165系化を実施したほか、名古屋口間合い運用で高蔵寺着・多治見発普通列車1往復に当所の165系が充当された。このため中央西線通過対策としてモハ164形は800番台を除いた全車のパンタグラフをPS23A形に交換が行われた。

上越新幹線上野開業に伴う1985年3月14日ダイヤ改正では、「佐渡」「よねやま」「赤倉」が全廃となった[79]。当区の充当急行列車は「赤倉」の代わりに設定された松本発着の「南越後」と長野・上田発着の「とがくし」のみとなった[79]

  • 編成はサロ165形の連結を中止し全車廃車。モノクラス編成が基本となり、新潟地区ローカル運用が主となった。

1986年11月1日ダイヤ改正では新潟運転所上沼垂支所が上沼垂運転区として独立[80]。略号が新ニイから新カヌとなったほか、サハ165形が編成から除外され松本運転所へ転出した。

また運用面では1985年に東北・上越新幹線上野延伸開業した以降の上野 - 新潟間夜行列車は臨時「天の川」「佐渡」のみとなっていたが、同年に開設された夜行高速バス東京 - 新潟線に対抗するため1986年に夜行快速「ムーンライト」が新宿 - 新潟間で運転開始された[53]。「ムーンライト」は当初EF64形牽引により14系客車での運転であったが、分割民営化後の1987年9月3日から当区所属の165系座席交換車3本が充当され、土休日は間合い運用で新宿 - 黒磯間快速「フェアーウェイ」にも充当された[81]

1988年3月13日ダイヤ改正では「とがくし」「南越後」を松本・小諸・長野 - 新潟間「赤倉」へ統合。「ムーンライト」は新宿 - 新潟 - 村上間の定期列車となった[82]。また車両も更新工事を施工した2代目M1 - M6編成に置換えられ、初代ムーンライト編成は「赤倉」に転用されA編成となり、塗装を白地に窓周り緑・黄色細帯の配色に変更した[56]

1991年3月16日ダイヤ改正では「赤倉」の補完列車として長野 - 新潟間を越後線経由で運転する快速「やひこ」が、臨時列車扱いで「ムーンライト」に長岡で分割・併合する新井発着編成が設定されたが、「やひこ」は1993年に、「ムーンライト」新井発着編成は1995年に廃止となった。「赤倉」はA編成が1995年までに廃車となり、M編成3両単独運用が充当された[81]

湘南色で原型に近い仕様のK編成は1995年に定期ローカル運用を終了。波動用に数編成が残るのみとなり、クモハ165-1+モハ164-1+クハ165-1のトップナンバーで構成されるK1編成も老朽化により1996年に休車となった[54]

  • K編成は「ムーンライトえちご」増結時や「赤倉」の車両不足時に3両または6両編成、またM編成との併結6両編成で運転された[81]

1996年3月16日ダイヤ改正で東海道本線の大垣夜行が「ムーンライトながら」となったのに伴い「ムーンライト」は「ムーンライトえちご」に改称された[82]

北陸新幹線長野暫定開業に伴う1997年10月1日ダイヤ改正で「赤倉」は廃止となり、485系による特急「みのり」に格上げされた[63]。「赤倉」廃止で165系定期急行運用が消滅した[63]

「ムーンライトえちご」は2003年3月まで165系で運用されたが、老朽化のため同年4月1日からは485系による運用となった[82]

1982年11月15日改正後の「佐渡」「赤倉」「とがくし」編成
← 上野・上田・名古屋
新潟 →
「佐渡」「赤倉」編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
「とがくし」編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
 

末期の運用

「懐かしの急行かいじ」 M3編成
「懐かしの急行かいじ」
M3編成
臨時快速「こころ」
臨時快速「こころ」

2001年のアルファ編成廃車後、最後まで残った本系列定期運用に充当されていた「ムーンライトえちご」用M編成3両編成x6本計18両も老朽化に伴い2003年4月に485系に置換えられた。

その後M2・3編成は湘南色に再塗装され、本系列ゆかりの路線で以下の「さよなら運転」を実施した。

  • 6月21・22日 「懐かしの急行佐渡」(上野 - 新潟間)
  • 6月28・29日 「懐かしの急行アルプス」(新宿 - 松本間)
  • 7月12日 「懐かしの急行かいじ」(新宿 - 甲府間)
  • 7月13日 「懐かしの急行かわぐち」(新宿 - 河口湖間)

8月23日の大井工場(現・東京総合車両センター)一般公開時に展示が行われたのを最後に、M2・3編成は同月27日に長野総合車両所へ廃車回送された。

上越線沿線を舞台とするNHK2003年度上半期連続テレビ小説こころ』の放映にちなみ臨時快速「こころ」が越後湯沢 - 長岡間でが2003年4 - 9月の土曜・休日を中心にM6編成充当を基本として運転された。当初は6月末で運転終了であったが、好評のため「こころ」放映最終日の翌日である9月28日まで延長された。

  • なおM1・6編成は、同年5月には「善光寺ご開帳記念」臨時快速「とがくし」にも充当された。

「こころ」運転最終日に越後湯沢→新潟への返却回送を営業運転へ変更した団体急行「さよならこころ」をもって、すべての営業運転が終了した。最終列車のサボには『越後に生まれ 越後に消える 40年間ありがとう 上沼垂運転区165系直流急行型電車 Last Run』の文字が添えられた。

同年10月に残存していた車両が長野総合車両所へ廃車回送され、これをもってJRグループから本系列の営業用車両が無くなったほか、配置終了後の2004年4月1日付で組織変更により上沼垂運転区は新潟車両センターに名称変更し、略号も新カヌから新ニイに戻された。

上沼垂運転区M編成一覧
 
← 新宿
新潟 →
備考
号車番号 1 2 3 全編成ATS-P装備
モハ164形基本番台車は
PS23形パンタグラフ交換済
編成番号 クハ
165
モハ
164
クモハ
165
M1 105 823 76 全車松本からの転入車
M2 166 64 100 McM'ユニットは新製時から新潟配置
M3 99 65 101 全車新製時から新潟配置
M4 170 66 102 McM'ユニットは新製時から新潟配置
M5 195 853 130 全車幕張からの転入車
M6 203 860 137

東北本線・高崎線・北関東地区

急行「なすの」 1984年
急行「なすの」
1984年
新前橋電車区モントレー色車
新前橋電車区モントレー色車
「さよなら165系上越号」 新前橋電車区所属車最終運用
「さよなら165系上越号」
新前橋電車区所属車最終運用

東北本線日光線系統では田町電車区(→田町車両センター→現・東京総合車両センター)配置の157系電車日光方面の準急列車「日光」「中禅寺」「なすの」「湘南日光」で運用されたほか、東海道本線の不定期特急「ひびき」にも充当されており[83]、輸送力増強の目的から1963年4月20日から東京 - 大阪間不定期特急「ひびき」のうち1往復を定期化したことから、157系電車2編成を転用して日光方面準急列車は東京 - 日光間「日光」1往復は157系で残存させたが、クモハ165 - モハ164 - クハ165の3両編成x5本計15両を新製配置[83]。同年3月25日から上野 - 黒磯間「なすの」・伊東 - 東京 - 日光間「湘南日光」で、4月25日から新宿 - 日光間「中禅寺」で運用が開始された[71]

  • 「中禅寺」は1964年10月1日改正で下り東京発・上り上野着に変更し、新宿発着を終了[84]。また、車両面では1963年10月1日付で新前橋から6両が田町区に転入したが、東北本線黒磯以南運用はすべて1966年10月1日付で田町電車区から新前橋区へ移管した

新前橋電車区(現・高崎車両センター)では1963年3月から配置が開始され、信越本線が電化開業した同年10月1日ダイヤ改正で高崎周辺発着の準急列車ならびに信越本線直通急行列車で運用が開始された[85]。「あかぎ」「苗場」など上越線準急列車に充当されていた80系電車を置換え、上野 - 中軽井沢間準急「軽井沢2号」上野 - 水上間準急「ゆのさと」上野 - 前橋間準急「あかぎ」ではサロ1両組込の7両編成で運転された[84]。上野 - 水上間準急「みくに」は2等車のみの6両編成とされ、上野 - 高崎間は「軽井沢2号」と併結した[84]。なお、新前橋区には中央本線波動輸送用としてモハ165形・モハ164形800番台ユニットのトップナンバーを含む4両編成x5本も新製配置されたが、同グループは1964年10月1日に田町区に転出し東北本線運用にも投入されたが、1975年に神領電車区へ転出した。

  • 新前橋区配置車は信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠区間でEF63形による牽引・推進運転となることからの横軽対策を施工。座屈による浮き上がり脱線予防策から本来は軽井沢方に組成される車両重量の大きい電動車ユニットを麓側となる横川方に組成する必要が生じ[注 31]、他区所と編成が逆向きとなる特徴がある[44]

1965年10月1日ダイヤ改正では列車愛称の一本化が進められ、上野 - 水上間準急は「奥利根」に、上野 - 前橋間準急は「あかぎ」に統一された[86]。また、上野 - 高崎・渋川間に準急「はるな」を新設[74]。上野 - 石打間準急「苗場」は運転区間を新潟まで延長し急行「佐渡」となった[87]

1967年6月10日に長野原線(現・吾妻線渋川 - 長野原(現・長野原草津口)間の電化が完成し、同年7月1日にダイヤ改正が行われた[88]。本改正では気動車で運転されていた上野 - 長野原間急行「草津」「草津いでゆ」と上野 - 水上間急行「奥利根」の併結列車が電車化された[88]。電車化後も「奥利根」+「草津」、「奥利根」+「あかぎ」の併結運転が実施され、基本7両と付属4両の併結11両編成で運転された[86]

信越本線急行運用は、1966年に新設された長野運転所(現・長野総合車両センター)と共管になったが[88]、1967年10月1日ダイヤ改正で信越本線系統の165系はすべて長野運転所に移管された[89]

1968年4月27日の御殿場線電化に合わせて運転開始された東京 - 御殿場間急行「ごてんば」は、1973年まで新前橋区の3両編成x2本を田町電車区へ貸渡名義での運用となり、東京 - 国府津間で153系と併結運転を実施した[89][注 38]

1968年10月1日ダイヤ改正では急行「奥利根」「はるな」を「ゆけむり」に統一改称し、下り8本・上り7本の運転となった[89]。「ゆけむり」は石打への季節延長も実施[89]。「ゆけむり」+「あかぎ」、「ゆけむり」+「草津」の組み合わせでの併結も実施され、基本7両と付属3両・4両または3両編成x2本による6両の最大13両編成で運転された[89]両毛線前橋 - 小山間も電化され、高崎方面から急行「あかぎ」が桐生まで直通した[89]。上野 - 中軽井沢間急行「軽井沢」は季節列車となり、新前橋電車区の165系7両編成で運転されるとともに上野 - 高崎間では急行「ゆけむり5号」と併結された[89]

東北本線系統では上野 - 日光間が「日光」、上野 - 黒磯間が「なすの」に統合され、「中禅寺」「だいや」「しもつけ」の列車名は消滅した[89]。両毛線と水戸線の電化に伴って上野 - 高崎・茂木水戸間気動車急行「わたらせ」「つくばね」の併結が分離され、「わたらせ」は165系で高崎まで、「つくばね」は仙台運転所455系により勝田までの運転となった[89]

  • 両毛線は小山口からも高崎口からも方向転換せず入線可能であり、線内に「わたらせ」で入った編成と「あかぎ」で入った編成は逆向きとなるため折り返しの際には入線した経路で戻すことが原則とされた。
  • 「日光」のうち1往復は田町電車区の157系が、「なすの」のうち上り白河 - 上野間の1本は仙台運転所の455系[注 39]が充当された[89]

1969年4月25日には「日光」1往復に充当されていた157系を新前橋電車区所属165系に運用移管を実施。[注 40]。伊東 - 東京 - 日光間急行「湘南日光」は1970年10月1日に廃止された[66]

1971年3月7日に長野原線が大前まで延長され、路線名も吾妻線に改称された[75]。急行「草津」は4往復中3往復が万座・鹿沢口まで運転するようになった[75]。1972年3月15日ダイヤ改正では「草津」の全列車が万座・鹿沢口発着となったほか、「草津」と「ゆけむり」の分割併合駅が渋川から新前橋に変更された[76]。1972年以降は上野 - 渋川間急行「伊香保」も設定された。

最盛期には基本編成15本・付属編成29本を巧みに組み合わせ、3両から最大15両編成で上野を中心として急行列車から普通電車まで複雑かつ幅広い運用を行った。1973年3月13日に発生した上尾事件がきっかけとなり、朝夕ラッシュ時間帯の通勤列車運用は以後減少した。

1975年3月10日改正以降「あかぎ」下り1本を長野運転所の169系が担当し、上りは翌早朝の普通列車で送り込みをする運用がとられた。

東北・上越新幹線大宮暫定開業による1982年11月15日ダイヤ改正では、165系置換え用に185系200番台が特急「谷川」「白根」「あかぎ」に新製投入されるとともに、165系は7両編成に統一され急行「ゆけむり」「草津」での運用となった[91]。185系はダイヤ改正前の1982年3月10日より急行「あかぎ」「草津」「ゆけむり」「軽井沢」「はるな」で165系との共通運用に入り[91]、この期間中は165系+185系の併結運用も実施された[92]。また、東北本線・日光線の急行「日光」は全廃となった[91]。同ダイヤ改正で余剰となったクハ165形11両は松本運転所に転出し、冷房用電源の関係で編成から外すことのできなかったサハシ165形・サハ164形を置換えた。

東北・上越新幹線上野開業に伴う1985年3月14日ダイヤ改正では、急行「なすの」「わたらせ」「草津」「ゆけむり」「軽井沢」「はるな」が全廃となった[93]。新前橋電車区所属車による急行運用も消滅し、以後は日光・両毛・吾妻線などのローカル運用、もしくは臨時急行列車・団体列車などの波動輸送で運用された[93]。東北・高崎線定期急行列車廃止により、同地区優等列車は185系による新特急に格上げされた。

東北・高崎線165系急行編成
← 上野・日光
水上・軽井沢・宇都宮・黒磯 →
基本編成
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
クモハ
165
モハ
164
サロ
165
クハ
165
 
付属編成
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
 
「軽井沢」専用編成(1972年3月15日で消滅)
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
クモハ
165
モハ
164
サロ
165
サロ
165
クハ
165

JR東日本発足後の1998年から1990年にかけて、新前橋電車区所属車は波動輸送用3両編成x11本計33両(S1 - S12編成)に車両更新工事が施工され、アイボリーに青とピンクのストライプの入る通称「モントレー色」への塗装変更が実施された[44]。ローカル運用は107系などに置換えられ、波動輸送用のみとなった[44]

運用数減少および183・189系転入に伴い2002年からは残存していたS9-11編成を湘南色へ塗装変更を実施した上で以下のイベント急行列車で運用された。

2002年
  • 11月2 - 4日 「草津」(上野 - 万座・鹿沢口間)
  • 11月9・10日 「ゆけむり」(上野 - 水上間)
  • 11月16日 「内房」(両国 - 館山間)
  • 11月17日 「外房」(両国 - 安房鴨川間)
  • 11月23日 「犬吠」(両国 - 銚子間)
  • 11月24日 「鹿島」(両国 - 鹿島神宮間)
2003年
  • 3月29・30日 「伊香保」(上野 - 水上間)
  • 4月12・13日 「奥利根」(上野 - 水上間)
  • 4月27日 「わたらせ」(上野 - 小山 - 桐生間)
  • 5月24・25日 「妙高」(上野 - 横川間)
  • 6月14・15日 「さよなら165系信越号」(上野 - 横川間)
  • 6月21・22日 「さよなら165系吾妻号」(上野 - 万座・鹿沢口間)
  • 6月28・29日 「さよなら165系上越号」(上野 - 水上間)

上記イベント終了後に全車廃車となり、長野総合車両所で解体された。

新前橋電車区S9 - S11編成一覧
 
← 上野
新前橋 →
編成番号 クモハ165 モハ164 クハ165
S9 106 70 138
S10 118 76 151
S11 122 80 155

信越本線

信越本線における電車による優等列車充当は、1962年7月15日に高崎 - 横川間電化により80系電車6両編成で上野 - 横川[注 41]間臨時準急「軽井沢」2往復を運転開始したことが起源である[94]。1963年5月13日に粘着運転新線が単線で開通、同年6月21日に軽井沢 - 長野間が電化されたのを機に、同年7月15日より1往復が長野まで運転区間を延長した[94]

本系列の充当は、1963年10月1日の信越本線横川 - 軽井沢粘着運転新線複線化完成に伴うダイヤ改正以降である[95]

165系の充当

碓氷峠区間はアプト式を廃止し粘着運転化されても最大66.7の急勾配が残されたためEF63形電気機関車を麓の横川方に2両連結し牽引・推進運転とされ[85][注 42]、新前橋電車区所属165系8両編成により1963年10月1日から以下の急行列車に充当され、キハ57系気動車で運転されていた「信州」「丸池」「志賀」「とがくし」の愛称を統合・整理した上で置換えた[85]

  • 上野 - 長野:「信州」4往復「とがくし」1往復
  • 上野 - 湯田中:「志賀」2往復

このうち「信州」は昼行、「とがくし」は夜行。また「志賀」は湯田中発着列車のみとした上で上野 - 屋代は「信州」併結。3両付属編成で長野電鉄に乗入を行い河東線[注 43]長野線経由で運転された[85]

また同改正では準急「軽井沢」2往復を定期列車に格上げし、1往復が165系での運転となった[85]。このうち中軽井沢発着の1往復が、1965年10月1日ダイヤ改正で長野まで延長され、全車指定席急行「信越いでゆ」1往復に格上げされた[74]。残存した準急1往復は1966年3月5日に国有鉄道運賃法改正[74]で急行列車に格上げされた。

長野 - 直江津間電化完成による1966年10月1日ダイヤ改正では特急「あさま」が181系で運転開始されるとともに、上野 - 直江津間「妙高」2往復にも165系が充当された[88]。「あさま」新設に伴い全席指定の「信越いでゆ」は「信州」に統合された[88]。不定期客車急行「高原」も165系化された[88]

また本ダイヤ改正に合せて同年5月より長野運転所に165系新製車を配置。改正当日付で新前橋からの転入車も含めて一部を運用移管、新前橋と長野の両区による共管となったが[88]、1967年10月1日付で長野運転所に完全移管された[89]

長野配置車は新前橋区「軽井沢」専用編成と共通編成が組成されたが、8両までの制限により慢性的な混雑が顕著になっており、一部列車は高崎以南で長野方に3両増結する対策が採られたが、信越本線そのものの抜本的な輸送量増強に対応できないため1967年12月にEF63形と協調運転を可能にし12両編成まで碓氷峠を通過できる165系900番台を試作し新前橋電車区に配置。横川 - 軽井沢間での試運転で良好な結果を残したことから、1968年から長野運転所の信越急行運用は169系へ置換えられることが決定した。

169系充当後

169系急行「信州」 1978年 横川 - 軽井沢
169系急行「信州」
1978年 横川 - 軽井沢
169系急行「妙高」 1982年7月
169系急行「妙高」
1982年7月

1968年より協調運転対応の169系量産車はクモハ169形+モハ168形ユニット25組50両とクハ169形24両を新製、改造車はサロ165形→サロ169形が19両、サハシ153形→サハシ169形が10両、計103両が長野運転所に配置された[96]

  • 長野配置の165系はサロ169形改造種車となったサロ165形を除き全車新前橋区に再転出した。

1968年10月1日ダイヤ改正より新前橋電車区165系を充当する「軽井沢」を除く信越本線電車急行は、ビュフェ車込み9両基本編成+3両付属編成の169系最大12両編成での運転となり、「高原」「志賀」の愛称を「信州」に、「丸池」「とがくし」を「妙高」に統合した上で以下の列車に充当された。[97]

  • 上野 - 長野・湯田中:「信州」定期6往復(湯田中発着は2往復)・季節1往復[97]
  • 定期6往復中2往復は季節列車扱いで長野 - 田口(現・妙高高原[注 44])間延長運転を設定[97]
  • 上野 - 直江津:「妙高」定期2往復・季節1往復[97]
  • 夜行1往復は寝台車連結のため従来からの客車列車での運転を継続[97]

1969年10月1日ダイヤ改正に合せてクモハ169形+モハ168形ユニット2組4両とクハ169形3両の新製冷房車を増備。9両基本編成+3両付属編成最大9本とサロ169形・サハシ153形の予備車各1両ずつで計110両配置となり、「信州」は湯田中発着編成を「志賀」に分離改称[96]。さらに2往復の季節延長運転区間を定期化し「妙高」とした結果以下の列車に充当された[98]

  • 上野 - 長野:「信州」定期4往復・季節1往復
  • 上野 - 妙高高原・直江津:「妙高」定期4往復・季節1往復
  • 上野 - 湯田中:「志賀」2往復

なお夜行「妙高」1往復は引き続き客車での運転を継続。

1972年3月15日ダイヤ改正では、「軽井沢」がサロ165形1両を減車した7両編成とし季節列車化[89]。上野 - 金沢間客車急行「白山」を489系電車により特急に格上げ。さらに同年11月には車両落成を待って妙高高原発着「妙高」1往復を「白山」格上げに発展的解消となったことから、昼行「妙高」は定期4往復となった[99]

1973年10月1日ダイヤ改正では「信州」1往復が軽井沢 - 長野間普通列車化されたが、季節列車定期化ならびに1往復増発により6往復化[96]。また長野 - 妙高高原間季節延長運転が1往復で再設定された。

1975年3月10日ダイヤ改正では従来は尾久客車区東大宮派出所(現・大宮総合車両センター東大宮センター)で滞泊となる編成を間合い運用で下り最終「あかぎ」と翌早朝の上り普通列車への充当を開始。また同年7月1日より「あさま」運用を横軽協調運転に対応した189系直流特急形電車へ置換えを実施[96]。さらに1976年11月30日には「信州」「妙高」のビュフェ営業を終了。サハシ169形は営業休止のまま編成に組成されたが、1978年8月から9月にかけて外され最大11両編成となり、松本運転所に転出した5も含め1979年にまで全車廃車廃形式となった[78]

  • このほか1977年7月25日に発生した脱線事故でモハ168-5が1978年3月10日付で廃車となった。

1978年10月ダイヤ改正では「信州」1往復を特急「あさま」に格上げ[78]。「信州」は1往復減の5往復となり、「志賀」1往復は季節列車化された[78]。また本改正では余剰車が発生し8両が松本運転所へ転出し中央東線急行に転用された[注 45]

東北新幹線の本格稼働ならびに上越新幹線開業に伴う1982年11月15日ダイヤ改正ではサロ169形1両を減車し基本7両+付属3両の10両編成に短縮した上で以下の変更を実施[91]

  • 「信州」は4往復削減の上3往復は軽井沢 - 長野間普通列車もしくは快速列車化[91]
  • 昼行「妙高」2往復は「あさま」格上げで全廃[91]
  • 「志賀」全廃により長野電鉄乗入終了[91][91]
  • 「あかぎ」185系新特急格上げに伴い間合い運用充当を終了[91]

この結果として余剰車が大量発生。減車となったサロ169形は1978年の松本転出車を含み12両が廃車。クモハ169形+モハ168形+クハ169形の3両編成x9本計27両松本運転所へ転出した。

  • 1988年までにクモハ169形+モハ168形+クハ169形は、廃車になったクモハ169-9・モハ168-5を除き一度は必ず松本への転出が実施された。その後は、長野に出戻った車両・松本で廃車になった車両・三鷹電車区に転出した車両などに分かれた[注 46]。また松本転出時にモハ168形は、中央東線狭小トンネル対策としてパンタグラフをPS23A形に交換した。

1985年3月14日ダイヤ改正で「信州」が全廃[93]。このためサロ169形は全車廃車となり、残存したクモハ169形+モハ168形+クハ169形の一部は松本運転所へ転出。一方で信越急行は、客車で運転されていた夜行「妙高」1往復の充当車両老朽化により169系化されることになり、クモハ169形+モハ168形+クハ169形x3編成のモノクラス9両編成で置換えた[93]

しかし1986年11月1日ダイヤ改正で「妙高」は「あさま」と共通運用になり189系9両編成による運転に移行[100]。これにより信越急行での169系定期運用は終了した[94]。信越急行廃止後は、残存したクモハ169形+モハ168形+クハ169形x5本に松本運転所から転入したサハ165-5・8 - 11を組込み4両編成x5本を組成。当初は飯田線急行「かもしか」運用に充当されたが、後にローカルもしくは波動輸送としての運用が主になった。

なお1990年夏期多客対応として長野運転所115系3両運用定期1往復を新前橋電車区165系3両編成x2本の6両に変更して運転した実績がある。

長野運転所169系編成の推移
← 上野
長野・妙高高原・直江津・湯田中 →
1968年10月1日 - 1978年9月30日の編成
クモハ
169
モハ
168
サロ
169
サロ
169
サハシ
169
クハ
169
クモハ
169
モハ
168
クハ
169
+ クモハ
169
モハ
168
クハ
169
1978年10月1日 - 1982年11月14日の編成
  クモハ
169
モハ
168
サロ
169
サロ
169
クハ
169
クモハ
169
モハ
168
クハ
169
+ クモハ
169
モハ
168
クハ
169
1982年11月15日 - 1985年3月14日の編成
  クモハ
169
モハ
168
サロ
169
クハ
169
クモハ
169
モハ
168
クハ
169
+ クモハ
169
モハ
168
クハ
169
1985年3月15日 - 1986年10月31日の「妙高」編成
クモハ
169
モハ
168
クハ
169
クモハ
169
モハ
168
クハ
169
クモハ
169
モハ
168
クハ
169
 
備考
  • 「妙高」9両編成を除き上野方9両が基本編成。長野方3両が付属編成。

中央東線・松本地区

中央東線での運用は、1963年4月28日から5月26日までの休日に新宿 - 甲府間で運転された臨時列車が最初である[96]。下りは準急「かいじ」、上りは普通列車とし4両編成x2本のモノクラス8両編成を充当。本列車運転に際し新前橋電車区からモハ164形800番台を組成する波動輸送用4両編成x5本を三鷹電車区へ転属させたが、後述する「たてしな」運転開始に伴い同年10月1日付で田町電車区へ転出した。

1964年8月23日に甲府 - 上諏訪間電化が完成し、同年10月1日ダイヤ改正で運転を開始した新宿 - 上諏訪間急行「たてしな」が同線で初の定期運用となった[84]。車両は暫定的に三鷹電車区へ11両を新製配置し、7両編成で運転された[96]

1964年10月1日 - 1965年6月30日の「たてしな」編成
← 新宿
上諏訪 →
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
サロ
165
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
急行「アルプス」 1986年 岡谷
急行「アルプス」
1986年 岡谷

1965年4月1日に松本運転所(現・松本車両センター)が開設され、同年5月20日には上諏訪 - 松本間電化が完成した[84]。7月1日ダイヤ改正で新宿 - 松本・飯田信濃森上間で運転されていた気動車急行「アルプス」「上高地」「白馬」「赤石」7往復のうち3往復がキハ58系から置換えられ165系化された[84]

  • 編成は既存の「たてしな」も含み基本8両+付属4両の12両編成とされ、松本運転所へ新製車53両[注 47]と三鷹区から転入車11両の計64両が配置された[84][注 48]

同年10月ダイヤ改正では以下の変更を実施。

  • 新宿 - 松本間急行は1往復増発ならびに気動車急行2往復電車化と新宿 - 上諏訪間「たてしな」を松本まで延長し「アルプス」に吸収した結果165系7往復+キハ58系2往復に増発[84]
  • 列車愛称を新宿 - 松本間列車を「アルプス」に、大糸線直通列車を「白馬」「穂高」に集約[101]
  • サービス向上の観点から基本編成5号車に封じ込み組成されていたクハ165形を上越線急行「佐渡」のサハシ165形と差し替え、同年12月からビッフェ営業を開始した[87]。ただしサハシ165形は新潟運転所から転入した5両のみでは編成数に対して不足するためサハシ153形2両がサハシ165形に改造編入された[87]

この結果、愛称では「たてしな」が1年で消滅。「上高地」は165系化3ヶ月で昼行急行から夜行客車準急へ転用されたほか[101]、「佐渡」はビュフェ車が編成中2両から1両となり座席車差し替えで混雑解消が図られた[87]

1965年7月 - 1982年3月の中央東線急行編成
← 新宿
松本・飯田・南小谷・河口湖 →
1965年7月1日- 9月30日12両編成
クモハ
165
モハ
164
サロ
165
サロ
165
クハ
165
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
+ クモハ
165
モハ
164
クハ
165
クハ
165
基本編成   付属編成
1965年10月1日以降「アルプス」「こまがね」用12両編成
クモハ
165
モハ
164
サロ
165
サロ
165
サハシ
165
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
+ クモハ
165
モハ
164
クハ
165
クハ
165
「アルプス」   「アルプス」or「こまがね」
「かいじ」「かわぐち」用11両編成  
クモハ
165
モハ
164
サロ
165
サロ
165
サハシ
165
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
+ クモハ
165
モハ
164
クハ
165
「かいじ」   「かわぐち」
備考
  • 新宿方8両は基本編成。松本方4両(3両)は付属編成。
  • クハ165形はすべて下り向き。
  • サハシ165形はサハ164形の場合がある。
  • 「かいじ」+「かわぐち」編成は富士急行線ホーム有効長の関係で3両までの制約から「アルプス」「こまがね」用付属編成の松本方クハ165形を三鷹電車区に留置させ運用。
  • 大糸線直通の夜行1往復は基本編成のみとし新宿 - 松本間で新宿方にクモニ83形を連結する運用がある。

1966年12月12日ダイヤ改正より181系電車で新宿 - 松本間特急「あずさ」2往復が運転開始され、急行列車は新宿 - 松本間に「かいじ」1往復が新設された[102]

  • このため編成増となったものの新たにサハシ165形は新造もしくはサハシ153形からの改造を施工せずに売店車サハ164形で対応したことから、時刻表の欄外や編成表には「ビュフェは売店車の場合もある」と記載された[103]

1968年10月1日ダイヤ改正では松本発着ならびに大糸線直通列車が「アルプス」飯田線直通が「こまがね」甲府発着が「かいじ」に愛称を集約[102]。「アルプス」11往復中9往復、「こまがね」3往復中2往復、「かいじ」5往復、富士急行直通「かわぐち」6往復中5往復に165系が充当された。

1972年10月ダイヤ改正からは新宿 - 身延直通季節急行「みのぶ」が運転を開始し、新宿 - 甲府間は下りが「アルプス3号」、上りが「アルプス7号」と併結運転された[99]

  • 甲府駅構内配線の関係から通常松本方に連結する付属編成を下り列車は新宿方に連結した[注 49]

1973年10月1日には岡谷発着の「たてしな」1往復が季節列車で設定され、「みのぶ」併結列車も「たてしな」に変更された[102]

「みのぶ」上下列車編成比較
← 新宿・身延
甲府・岡谷・松本 →
下り
クモハ
165
9号車
モハ
164
10号車
クハ
165
11号車
クハ
165
12号車
+ クモハ
165
1号車
モハ
164
2号車
サロ
165
3号車
サロ
165
4号車
サハシ
165
5号車
クモハ
165
6号車
モハ
164
7号車
クハ
165
8号車
「みのぶ」   「アルプス」or「たてしな」
上り
クモハ
165
1号車
モハ
164
2号車
サロ
165
3号車
サロ
165
4号車
サハシ
165
5号車
クモハ
165
6号車
モハ
164
7号車
クハ
165
8号車
+ クモハ
165
9号車
モハ
164
10号車
クハ
165
11号車
クハ
165
12号車
「アルプス」or「たてしな」   「みのぶ」

1975年3月10日ダイヤ改正では、キハ58系+キハ65形500番台で残っていた「アルプス」2往復と「こまがね」「かわぐち」それぞれ1往復[注 52]が電車化され、中央東線定期急行は完全165系化された[105][注 53]

  • このため下関運転所・大垣電車区・新潟運転所などから増発用車両が転入し[注 54]、転入車のうちモハ164形0・500番台は狭小トンネル対策としてPS23A形パンタグラフへ交換と避雷器移設工事を施工。非冷房車は同時に冷房化改造工事も施工された。一方でサハ164形2両は新潟運転所とサハシ165形の車両交換により転出となったが、ビュフェ営業は1976年11月30日限りで休止となった[102]
  • サハ164形は1978年に大垣電車区へ転出、1979年と1980年に2両とも松本運転所に再転入した。

1978年10月2日ダイヤ改正で岡谷発着の「たてしな」を「アルプス」に統合。「たてしな」は再び愛称消滅[102]。信越急行の特急格上げに伴い余剰となった169系8両が長野運転所から狭小トンネル対策を施工した上で転入した[注 45]

また基本編成1・2号車に組成されるクモハ165形+モハ164形ユニットは、冷房装置ならびにサービス用電源供給を5号車に組成されるサハシ165形・サハ164形搭載のMGから行うためビュッフェ・売店営業休止後も存置されていたが[注 7]、1982年3月に185系200番台新製配置で新前橋区から余剰となったクハ165形11両が転入しサハシ165形9両とサハ164形2両と差し替えて余剰となった。余剰2形式は篠ノ井線西条駅などに留置された車両もあったが、全車1983年3月までに廃車となった。

1982年11月15日ダイヤ改正では基本編成からサロ165形が1両減車となり、基本編成7両+付属編成4両の11両編成となった[91]。1983年7月15日には岡谷 - 塩尻間を塩嶺トンネルで短絡する新線が完成し、「あずさ」全列車と「アルプス」の一部が新線経由となった[93]。1985年3月ダイヤ改正で「かいじ」「みのぶ」「かわぐち」は季節列車へ格下げされ[93]、夜行「アルプス」へのクモニ83形連結も中止された。

末期の中央東線急行編成
← 新宿
松本・飯田・南小谷・河口湖 →
1982年3月 - 1982年11月14日の編成
クモハ
165
モハ
164
サロ
165
サロ
165
クハ
165
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
+ クモハ
165
モハ
164
クハ
165
クハ
165
  1982年11月15日 - 1986年10月31日の編成
クモハ
165
モハ
164
サロ
165
クハ
165
クモハ
165
モハ
164
クハ
165
+ クモハ
165
モハ
164
クハ
165
クハ
165
備考
  • 下り「みのぶ」編成の新宿方連結ならびに「かいじ」の松本方クハ165形1両カットは継続。

1986年11月1日ダイヤ改正で、昼行「アルプス」は特急「あずさ」への格上げで消滅。「こまがね」「かいじ」「みのぶ」「かわぐち」は全廃された[100]。定期夜行「アルプス」は存続したが、「あずさ」と共通運用化で183系へ変更[100]。松本所属車は波動輸送ならびに松本地区ローカル列車に転用されたほか、クモハ165+モハ164+クハ165は11編成計33両が紀勢本線に残存する客車列車置換え用として日根野電車区(現・吹田総合車両所日根野支所)に転出した[106]

169系初代長野色 1991年
169系初代長野色
1991年

1986年急行運用全廃後は残存した165系・169系混在でローカル運用主体となったが、後に165系とクハ169-2が廃車。169系3両編成x14本(A編成)計42両に整理された。塗装も長野色(初代→2代)に塗り替えられ中央本線甲府 - 中津川・大糸線・篠ノ井線などで広域運用されたが、1996年にA2編成のクモハ169-7+モハ168-7+クハ169-4が廃車。1997年10月の北陸新幹線長野暫定開業によるダイヤ改正で主に波動運用対応だったA12 - A14編成が長野総合車両所(現・長野総合車両センター)へ転出。3両編成x10本計30両の配置となった。

1998年12月ダイヤ改正でE127系100番台に置換えられ、残存していた車両のうち6両が三鷹電車区(現・三鷹車両センター)へ、12両が長野総合車両所へ転出、12両が廃車[注 55]となり松本運転所の配置が終了した。

松本運転所A編成最終配置車一覧
 
← 甲府・中津川
南小谷・長野 →
備考
編成
番号
クモハ
169
モハ
168
クハ
169
ATS-P 座席 更新 1998年以降
転出先・廃車
A1 2 15 クロス 特別保全 廃車
A3 10 26
A4 11 17
A5 15 23 車体更新 三鷹電車区
A6 17 7 特別保全 廃車[注 55]
A7 24 22 長野
総合車両所
A8 8 12 セミ
クロス
車体更新
A9 27 18 三鷹電車区
A10 12 21 R51
簡リク
長野
総合車両所
A11 14 25

飯田線辰野口・長野地区

169系急行「かもしか」 新急行色
169系急行「かもしか」
新急行色
169系新長野色
169系新長野色

飯田線のうち長野県内区間優等列車は、1961年に運転を開始した新宿 - 天竜峡間気動車準急「天竜」が最初である[107]。同年には県都の長野市飯田市方面を連絡する地域準急列車も「天竜」の愛称で設定され、長野 - 天竜峡間で運転を開始した。新宿直通列車は1968年に「こまがね」へ改称され、松本運転所165系付属4両編成での運転となった。

県内連絡列車は引き続き「天竜」の愛称が継承され、キハ57系・58系で運転されたが、1975年3月10日ダイヤ改正で山陽本線急行全廃余剰車により「天竜」は電車化された。運用面では1往復のみ80系が充当された以外は「きそ」と共通運用を組む神領電車区付属4両編成が充当されたが、1982年11月15日ダイヤ改正で松本運転所に移管された[91]

  • 「天竜」は当初の飯田線方面のみならず、小淵沢茅野・上諏訪・松本・天竜峡・飯田駒ケ根⇔松本・長野と時期によって複数の運転区間が存在した。

1986年11月1日ダイヤ改正で新宿直通「こまがね」は全廃となったが、長野県内急行は残され「天竜」5往復から急行「かもしか」3往復と快速「みすず」2往復に再編し、運転区間を富士見・茅野・上諏訪・天竜峡・飯田⇔長野に整理。「かもしか」運用は座席を新幹線から転用された転換クロスシートもしくはリクライニングシートへ交換しグレードアップ化。塗装もクリーム10号地に緑14号を纏う新急行色に変更した長野運転所所属4両編成に運用移管したが[100]、「みすず」は松本運転所所属169系一般車を充当した。

長野運転所「かもしか」用編成
 
← 富士見
天竜峡・長野 →
 
号車番号 1 2 3 4  
編成番号 クモハ
169
モハ
168
サハ
165
クハ
169
座席
N31 1 11 27 W12転換クロス
N32 6 10 19 D23
リクライニング
N33 13 8 13
N34 16 5 3
N35 23 9 20 W12転換クロス

JR化後の1988年3月ダイヤ改正で「かもしか」はすべて快速「みすず」に格下げされ愛称は消滅した。グレードアップ車も「みすず」に引き続き充当されたが、以後はローカル運用が主となり信越本線小諸 - 長野・篠ノ井線・中央本線・飯田線飯田以北で運用された。

1988年から1993年にかけての夏期を中心に小海線直通臨時快速「葉ッピーきよさと」が北長野運転所所属169系で運転された[57]。非電化の小海線内はDD16形プッシュプル運転で、電源車としてスハフ12形が連結された[57]。後に付随車を外した3両編成となり、DD16形単機での牽引に変更された[57]

1997年10月1日のしなの鉄道開業によりN31・N32・N35編成からサハ165形を抜いたクモハ169形+モハ168形+クハ169形x3本計12両が譲渡されたが、松本所から補完分同数となる車両が転入した。なお松本転入車と既存長野車とでは座席が異なる。

  • 松本転入車:R51簡易リクライニングシート
  • N33・N34編成全車・N32編成サハ165形:D23リクライニングシート
  • N31・N35編成サハ165形:D21リクライニングシート

1998年12月ダイヤ改正で長野所属車の定期運用が終了した。サハ165形は編成から外され保留車となり、1999年中に廃車された。N33編成はしなの鉄道に譲渡、N31・N32・N35編成は三鷹電車区に転出した。この改正では松本電車区から3両編成4本が転入し、A8→N31・A10→N32・A11→N33・A7→N35編成となった。

主にN31編成が単独で、N32+N33編成は6両に組成された状態で波動輸送に、N34・N35編成はリニューアル工事で予備車が不足がちだった115系1000番台の代走に充当された。しかし115系リニューアル完了で代走運用は終了し、2001年の特急「あずさ」「かいじ」へのE257系投入で183系・189系が波動用に転用されたこともあり、長野所属車は2001年12月までに廃車となった[58]

長野総合車両所1997年N31 - N35編成一覧
 
← 上諏訪・飯田
長野 →
 
編成
番号
クモハ
169
モハ
168
サハ
165
クハ
169
備考
N31 19 11 1 元松本A12編成
N32 21 10 14 元松本A13編成
N33 13 8 13 1986年から
組成不変
N34 16 5 3
N35 26 9 24 元松本A14編成
  • 太字書体:松本運転所からの転入車

房総地区

1969年7月11日の房総西線(現・内房線)木更津 - 千倉電化に伴い、気動車急行「うち房」9往復が電車化され、165系と113系により運転を開始した[98]。165系は津田沼電車区(→習志野電車区→現・習志野運輸区)に新製冷房車44両が配置され、基本編成グリーン車組込7両+付属編成3両の10両編成で運転された[98]

  • 房総地区は季節による乗客数が大きく異なり閑散期は基本編成7両のみで運転となる一方で、海水浴シーズンは夏ダイヤを設定するほど利用が顕著となることから、管轄する千葉鉄道管理局では気動車時代から同期間中のみ他区所から車両の借受や貸出的転出入が行われることが多く、本系列でも1970年7月1日 - 9月2日に下関運転所からクモハ165-139+モハ164-862+サハ165-11+クハ165-204を転入させ充当した実績がある。
  • また1970年7月1日に発生した脱線転覆事故でクハ165-202が同年8月13日付で廃車となったことから、補填として1971年5月9日付で宮原電車区からクハ165-162が転入した。
津田沼電車区新製配置時の編成(1969年)
← 新宿
館山・安房鴨川 →
基本編成   付属編成
クハ
165
サロ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
+ クハ
165
モハ
164
クモハ
165
急行「外房」 1978年 錦糸町
急行「外房」
1978年 錦糸町
急行「水郷」 1982年3月30日 成田
急行「水郷」
1982年3月30日 成田
急行「犬吠」 2002年のリバイバル運転
急行「犬吠」
2002年のリバイバル運転

1971年7月1日には房総西線電化区間が安房鴨川まで延長。夏ダイヤでは「うち房」も運転本数が下り7本・上り9本(うち2往復は季節列車)となり、従来の館山・千倉発着から一部列車の運転が安房鴨川まで延長された[75]

1972年7月15日ダイヤ改正では房総東線の蘇我 - 安房鴨川間の電化が完成し、同日に房総東線は外房線に、房総西線は内房線に改称された[108]。総武本線は東京 - 錦糸町間の地下線と津田沼までの複々線化が完成した。改正前の5月27日には房総東線大網駅スイッチバックが解消されたほか、7月5日には新たな車両基地として幕張電車区(現・幕張車両センター)を開設し、165系44両も津田沼電車区から転入した[108]

同改正では183系による特急列車が新設され、内房線特急「さざなみ」、外房線特急「わかしお」の運転が開始された[108]。急行列車は従来の内房線急行「うち房」と外房線急行「そと房」を廃止し、房総半島一周の循環急行外回り「みさき」(新宿・両国勝浦→館山→両国・新宿)と逆周りの「なぎさ」(新宿・両国→館山→勝浦→両国・新宿)、それぞれ2本ずつ計4本が設定された(両列車とも勝浦 - 館山間は普通列車)[108]

循環急行「みさき」「なぎさ」は内房線・外房線で一周して蘇我に戻った時点で編成が逆向きになるため、午前1周・午後1周で1日に房総半島を2周して元の向きに戻す運用が組まれた。

  • 運用A
    • 【みさき1号】新宿6:50(201M)8:54勝浦(281M)館山10:18(102M)12:42新宿
    • 【みさき3号】新宿12:52(205M)14:56勝浦(285M)館山16:08(106M)18:10両国
  • 運用B
    • 【みさき2号】両国8:04(203M)9:59勝浦(283M)館山11:32(104M)13:34両国
    • 【みさき4号】両国14:04(207M)15:50勝浦(287M)館山17:08(108M)19:29新宿
  • 運用C
    • 【なぎさ1号】新宿7:00(101M)9:18館山(282M)勝浦10:53(202M)12:38両国
    • 【なぎさ3号】両国13:30(105M)15:33館山(286M)勝浦17:00(206M)19:02新宿
  • 運用D
    • 【なぎさ2号】両国8:30(103M)10:33館山(284M)勝浦11:58(204M)13:58新宿
    • 【なぎさ4号】新宿14:13(107M)16:33館山(288M)勝浦18:02(208M)19:53新宿

1974年10月26日改正により、房総地区では北総3線(総武本線・成田線鹿島線)の電化が完成し、ローカル列車のダイヤ改正が実施された[108]。優等列車は翌1975年3月10日に改正が実施され、特急列車は183系増備で総武・成田・鹿島線特急「しおさい」「あやめ」が新設された[108]。急行列車は総武本線佐倉 - 銚子間に「犬吠」、成田線成田 - 松岸間に「水郷」、鹿島線に「鹿島」が新設された[108]。内房・外房線急行は循環急行「みさき」「なぎさ」が廃止となり、新宿・両国 - 館山間「内房」と新宿・両国 - 安房鴨川間「外房」各3往復に再編された[108]

運用増に対応するため、山陽新幹線博多開業による山陽本線急行廃止で下関運転所から、伊豆方面運用の見直し田町電車区から、サロ165形を含む153系が36両転入し165系と共通運用された[105]

1982年11月15日ダイヤ改正で「内房」は特急「さざなみ」に、「外房」は特急「わかしお」に、「犬吠」は特急「しおさい」に、「鹿島」は特急「あやめ」に、「水郷」は新設の特急「すいごう」に格上げされ総武・房総急行全廃となった[91][109]。運行末期にはヘッドマークの一部撤去や車両転配の関係でグリーン車を外した普通車のみ6両での運転もあり、一方で早期転入した183系1000番台が「鹿島」などに投入された。ダイヤ改正後の幕張電車区所属車は首都圏波動用の12両を残し新潟・新前橋・豊橋などに転出した。

1986年には169系3両が松本運転所から転入して総数は15両となった。3両編成x5本計15両が配置されていたが、1986年に和式電車「なのはな」へ6両、1990年に「シャトル・マイハマ」へ3両が改造された結果、165・169系3両編成x2本計6両が波動輸送対応で運用された。

1995年10・11月に運用されたホリデー快速「ときわ鎌倉号」では、取手 - 三河島 - 田端操車場(現・田端信号場) - 池袋 - 新宿 - 鎌倉が運転経路とされたため普段湘南色の電車が入線しない常磐線や貨物支線を走行したが、翌1996年3月の運転からは田町電車区の167系アコモデーション改造車が投入され、幕張配置車は同年8月に廃車された。

幕張電車区最終配置車一覧
 
← 新宿
銚子・安房鴨川 →
系列 クハ モハ クモハ
165系 165-201 164-859 165-136
169系 169-9 168-9 169-5

東海道本線東京口・中京地区

急行「東海」 1986年
急行「東海」
1986年
急行「東海」「ごてんば」 併結16両編成 1984年
急行「東海」「ごてんば」
併結16両編成
1984年
急行「比叡」 1983年 山崎
急行「比叡」
1983年 山崎
関西本線普通列車 1987年
関西本線普通列車
1987年
臨時大垣夜行
臨時大垣夜行
急行「東海」最終運行 1996年3月15日
急行「東海」最終運行
1996年3月15日

東海道本線系統での運用は、1963年から1970年に伊東 - 日光間で運転された不定期準急「湘南日光」に新前橋電車区所属車を充当したのが最初である[110]

田町区には1964年10月1日付で新前橋電車区→三鷹電車区に配置された波動輸送対応用4両編成x5本が転入したほか、1965年から153系10両編成に組み込まれていたサロ153形・152形置換え用としてサロ165形が配置された[注 56]。サロ置換えにより1等車冷房化とリクライニングシート化が図られ、急行「なにわ」から順次サロ165形が組み込まれた[74]

1968年4月27日に御殿場線電化が完成し、東京 - 御殿場間で急行「ごてんば」の運転が開始された[89]。車両は新前橋電車区所属3両編成を田町電車区が借り入れ、東京 - 国府津間は153系急行「東海」または湘南急行「あまぎ」「はつしま」と併結された[111]。編成は「東海」との併結で15両編成、「あまぎ」「はつしま」との併結で13両編成での運転となった。

  • 新前橋区所属車は碓氷峠運用の関係からクモハ165形が下り側となる逆向きであり、運転開始当初は併結列車の153系が冷房改造前で両渡り構造であったためそのまま連結が可能であったが、冷房化改造後は片渡りとなったため「ごてんば」編成を正規の向きに反転させた。

「ごてんば」との併結列車のうち湘南急行は1968年9月30日の愛称統一で「伊豆」に集約されたが、1971年2月1日からは併結列車が「東海」のみとなった。

1973年10月ダイヤ改正で上野 - 東京間の回送線が使用停止[注 57]となったため「ごてんば」充当車は田町電車区に正式転属となり、新前橋電車区と大垣電車区からモハ164形500番台組み込みの3両編成が1本ずつ転入した。「ごてんば」1往復は1980年10月1日ダイヤ改正で廃止となったが[78]、1981年10月ダイヤ改正で「ごてんば」は167系唯一の定期運用である4両編成に変更された[78]

  • このため東京 - 国府津間では16両編成となりホーム有効長の関係で一部駅では最後部車両ドアカットを実施したが、御殿場線へのアクセスは新宿発着で小田急電鉄を経由する「あさぎり」が中心となり「ごてんば」は1985年3月ダイヤ改正で廃止された[112]。「東海」「ごてんば」の併結16両編成は消滅し、残存した「東海」単独の12両編成となった[112]

中京圏では1971年から東海道本線名古屋地区で快速列車が運転開始されたが、1972年3月ダイヤ改正から153系と混用で大垣電車区の165系8両編成を充当。運用は神領区と共管で間合いで中央西線中津川以南運用にも充当された。

中京圏での急行運用は長らく153系が主力であったが、1982年11月15日ダイヤ改正より松本運転所や神領電車区から165系が大垣電車区へ転入し、153系12両編成を組成する「東海」と共通運用の大垣夜行、153系8両編成の名古屋 - 大阪間「比叡」を置換えた[91]。快速列車は117系の投入により置換えられ、「比叡」は1984年2月1日ダイヤ改正で廃止された[93]。1986年11月ダイヤ改正で「東海」は12両編成から1両が減車され、11両編成となった[100]

また1985年3月ダイヤ改正で関西本線名古屋 - 亀山間ローカル列車運用に大垣区3両編成が充当されたが、1988年3月ダイヤ改正で神領区に移管され中央西線ローカルと共通運用になったが、1990年には213系電車に置換えられた。

JR化後の1989年末からの多客期に大垣夜行臨時列車運転が開始され、JR東海神領電車区の165系とJR東日本田町電車区の167系が交互に充当された[113]

  • 神領所属車は当初3両編成x2本の6両から後に3両編成x3本からクハ165形1両を抜いた8両へ、最繁忙期は8両編成に3両編成を増結した11両編成で運転された。これは田町区の167系と極力編成両数を合わすための意味も含まれていたが、JR東日本車は各車または2両に1両の割合でトイレ使用ができるが、神領車は3両編成中1箇所、編成全体でも2 - 3箇所しかトイレが使用できず混雑する傾向があった。また、回送運転台付きのモハ164-504が組成されていたT7編成は編成組換などに使い勝手がよいことから、トイレ使用可能なクハ165形を抜き中間に組み込むケースが多く、結果としてトイレ混雑に拍車をかけた。

同年には「東海」運用が大垣電車区から静岡運転所に移管された[112]。11両編成x3本がK編成となり、K編成は急行「東海」2往復・大垣夜行・入出所に関連する東京 - 静岡間普通列車1往復で運用されたほか、ジョイフルトレイン「ゆうゆう東海」3両編成が静岡運転所に配置された。1990年に静岡運転所K編成は8両+3両の組成に変更され、貫通幌は従来の下り向きクハ165形から上り向き先頭に組成されるクモハ165形またはクハ165形へ装備に変更された。8号車のクハ165形が原型前照灯車に、静岡方MM'ユニットとK2編成東京方のモハ164形を最終増備車の81 - 84に集約された。

「東海」「大垣夜行」編成
← 大垣・静岡
東京 →
1983年3月 - 1986年10月の編成
クハ
165
モハ
164
モハ
165
サロ
165
サロ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
クハ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
1986年11月 - 1990年3月の編成
クハ
165
モハ
164
モハ
165
サロ
165
サロ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
 

1992年3月ダイヤ改正で「東海」1 - 3号が8両編成に短縮されたことに伴いK編成は基本8両編成と付属3両編成に分割された。基本編成はK1 - K4編成の3編成24両、付属編成はK1-1 - K4-1編成の4編成12両となった[114]。付属編成は「東海」4号→大垣夜行→東京発静岡行き普通列車1本のK編成東京寄りに増結されたほか、大垣夜行の間合い運用で大垣 - 米原間普通列車にも充当された[114]

1996年3月16日ダイヤ改正で「東海」は特急に格上げ[注 58]、大垣夜行は座席指定快速「ムーンライトながら」への格上げにより373系へ置換えられ、東海道本線での165系定期運用が終了した。「東海」格上げ直前となる3月1日 - 15日の運用では以下の変更を実施した。

  • 前面にヘッドマークを掲出し、方向幕を「急行」表示に戻したほか、最終日に充当されたK3編成では先頭車のスカートを黒く塗り直し、グリーン車帯を復活させるなどできる限り国鉄時代の状態に戻した[115]

さらにK1編成は5号車に組成されるサロ165-126を予備のユニット窓化車であるサロ165-108に、K3-1編成とK4-1編成のクハ165形を組換を実施し、同月15日の最終日は以下の運用が組まれた。

K3編成
  • 「東海」1号 - 2号 - 3号 - 4号 - 東京→大垣375M
K2-1編成
  • 「東海」4号 - 東京→大垣375M - 大垣→米原

本編成はヘッドマークおよびサボは特製品を取付。K2-1編成のローカル運用終了後は11両で西浜松へ回送された、後日一旦静岡運転所へ帰所。廃車準備後再び西浜松へ回送され解体された。

K1編成
K2編成+K1-1編成

大垣→東京372M - 東京→静岡323M - 身延線西富士宮留置線へ回送 この3編成のほかK3-1編成・F23編成・サロ165-126も廃車となり。後日西浜松へ回送され1996年5月末までに解体されモハ165形は形式消滅したが、残存したK4-1編成は神領へ転出し同区の3両編成1本を置換えた。

グリーン車帯復活車サロ165-106は解体を逃れ、車籍を有したまま浜松工場静態保存されていたが、2008年度末に廃車となり、JRグループの165系は全廃となった[116]

また一般用車両全廃後もゆうゆう東海編成は引き続き配置されたが、1999年11月11日に運転された急行「静岡葵博号」をもって営業運転を終了した。同月15日に浜松工場へ回送され廃車となった。

静岡運転所165系東海道本線K編成(運用終了直後)
 
← 大垣・静岡
東京 →
 
  K編成(基本編成)   K-1編成(付属編成)  
編成
番号
クハ
165
モハ
164
モハ
165
サロ
165
サロ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
+ クハ
165
モハ
164
クモハ
165
編成
番号
K1 106 84 21 132 108 831 9 135   134 807 59 K1-1
K2 110 829 7 112 125 82 19 175   126 830 86 K2-1
K3 128 83 20 107 106 836 14 177   124 68 104 K3-1
予備   126   182 863 140 K4-1

身延線

山陽新幹線岡山暫定開業による1972年3月15日ダイヤ改正では、山陽本線急行改廃が行われた結果捻出された下関運転所所属車を大垣電車区へ転入させ、身延線ではそれまで80系電車で運転されていた急行「富士川」を165系で置換えた。当初は定期4往復・臨時1往復で充当されたが、同年10月から定期5往復となった。

「富士川」では5両編成が組成されたが、両端がクハ165形もしくは164形、電動車ユニット1組2両とされたが、身延線は建築限界の低い狭小トンネルのためモハ164形は低屋根構造の800番台に、クハ165形に搭載されるMGの冷房電源容量が4両までしか確保できないことからサハ153形はMG・CP付の200番が限定された。さらに25 ‰勾配が連続する身延線では、165系といえども2M3Tの電動車1ユニット編成では駆動力不足で、乗務員は勾配起動時・通勤時間帯運用の低加速や雨天時空転に悩まされた[注 59]

「富士川」充当開始時編成
← 静岡・甲府
クハ165
or
クハ164
モハ164
800番台
モハ165 サハ153
200番台
クハ165
or
クハ164

1983年3月までに老朽化のためクハ164形・サハ153形が廃車となりクハ165形に置換え、1985年3月ダイヤ改正で4両に減車された。

1986年11月に実施された国鉄最後のダイヤ改正で、運用を大垣電車区から80系電車以来の静岡運転所に移管[118]。4両編成x7本のF編成を組成し「富士川」5往復のほか、間合いで静岡地区や甲府 - 鰍沢口間普通列車や「花の木金号」や静岡発着身延線直通臨時快速にも充当された。

「富士川」用F編成は後に7本から5本に減少し、余剰車は神領へ転出または廃車となった。予備車としてK編成用サロ165形1両と共通予備のモハ165-1+モハ164-801が残ったが、MM'ユニットは1994年12月に間合い運用の縮小見直しにより廃車となった。

1995年10月1日ダイヤ改正では「富士川」が373系による特急「ワイドビューふじかわ」に格上げされ、165系を置換えた[118]。従来の「富士川」用165系F編成は5本中4本が廃車となり、「花の木金号」「ホームライナー」371系検査入場時代走と朝の菊川 - 興津間普通列車にのみ充当された。

  • 「富士川」営業運行終了直前には国鉄時代のヘッドマークが掲出され、間合い運用時は列車名を隠した状態で運転された。また373系投入前に編成番号をF1 - F5からF11 - F15へ変更し、残存後にF13編成は373系増備車投入に伴いF23編成に再変更された。F編成とK編成で以下の車両交換が行われた
  • K1編成クハ165-183⇔F14編成クハ165-135
  • K2編成モハ165-18+モハ164-81⇔F11編成モハ165-7+モハ164-829

1996年8月1日 - 8月3日には、高校総体大会中輸送力増強のためF23編成が鰍沢口折り返しの定期列車として充当され、その翌4日は主に富士折返しの運用を担当し東海道線にも入線した。なお、本運用時には電動車ユニットが不調であったため神領区T9編成のクモハ-モハユニットに差し換えて対応した[119]

1998年4月4日・5日にが身延線全線開通70周年記念として、「なつかしの急行富士川」が静岡 - 甲府間で運転された。静岡運転所の両端クハ4両編成は全廃済みのため3両編成でクモハ165形を組み込む神領電車区T10編成が投入された。

  • 本イベントの一環で115系B4編成が身延色へ復刻されたが、手違いで本来のワインレッドではなく茶色に塗装されたためワインレッドへの塗り直し施工中に165系T10編成が代走で運用された。「富士川」でも取り付けられた「身延線全通70周年」のヘッドマークを取り付けたまま1998年3月7日 - 11日の729M・624Mにも充当された。
静岡運転所165系身延線F編成(最終時)
 
← 静岡・甲府
富士・三島 →
  F編成
編成
番号
クハ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
F23 174 835 13 133

飯田線豊橋口

急行「伊那」
1978年

飯田線豊橋口へは、身延線と同じく1972年3月15日ダイヤ改正により捻出された車両の大垣電車区転入からであり、80系電車を置換えた。急行「伊那」は普通車のみの3・4・6・7両編成での4往復運転とされ、飯田線のみならず出入区を兼ねた大垣美濃赤坂(臨時延長では米原)発着[注 60]も設定され、辰野口では上諏訪まで運転する運用も存在したが、「伊那」は1983年7月5日に全廃された。

また、これとは別に飯田線では、豊橋口ローカル列車で運用されていた80系電車が老朽化してきたために1982年から置換え用の3両編成が、新前橋電車区や幕張電車区などから豊橋機関区に3両編成単位で転入した。JR移行後の1988年3月改正で車両配置基地集約化により運用は豊橋運輸区から静岡運転所に移管されたが、車両は引き続き豊橋常駐のままで充当された。しかし初期製造車が多く老朽化も著しかったことから徐々に119系電車などに置換えられ、1991年までに神領区へ転出もしくは廃車となった。

1992年末に神領電車区所属車を充当して豊橋もしくは名古屋 - 飯田間臨時急行「伊那路」が運転を開始した。運用開始時は主にT1編成が充当されたが、後に原型ライト車を含むT8編成に変更され末期まで限定充当された。1996年には373系電車による定期特急「ワイドビュー伊那路」に格上げされた。

中央西線

1973年3月28日に篠ノ井線が、同年5月27日には中央西線中津川 - 塩尻間がそれぞれ電化され、名古屋 - 長野間完全電化が完成した[120]。この電化に伴うダイヤ改正が同年7月10日に実施され、381系電車特急「しなの」が運転開始した[120]。急行列車ではキハ91系・キハ58系で運転されていた名古屋 - 松本・長野間の急行「きそ」2往復(ほか季節夜行1往復)、名古屋 - 南小谷間急行「つがいけ」1往復が165系電車化された[99]

中央西線急行運用充当車は神領電車区(現・神領車両区)に配置され、基本編成8両+付属4両の12両編成が組成されたが、既に急行形電車の新製投入が抑制されたため他区所からの転入車により賄われたことから、編成は数種類のバリエーションが存在した[99]

神領電車区中央西線用12両編成(1973年運転開始時)
 
← 名古屋・松本・長野・南小谷
塩尻 →
  基本編成   付属編成
号車 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
通常
編成
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
サハ
165
サハ
165
モハ
164
クモハ
165
+ クハ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
基本
変則A
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
サハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
 
基本
変則B
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
サハ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
 
基本
変則C
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
クハ
165
モハ
164
モハ
165
クハ
165
 
基本
変則D
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
サロ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
 
付属
変則A
  クハ
165
クハ
165
モハ
164
クモハ
165
付属
変則B
  クハ
165
サハ
165
モハ
164
クモハ
165
付属
変則C
  クハ
165
モハ
164
クモハ
165
クハ
165
備考
  • 基本・付属編成ともに通常と変則A・B・C・Dがランダムに組み合わされる。
  • クハ165形はクハ164形、サハ165形はサハ153形の場合がある。

1975年3月10日ダイヤ改正では、山陽新幹線博多開業に伴う山陽本線急行廃止捻出車を中央本線系統に転用した[120]。中央西線では「きそ」「つがいけ」が増発されたほか、付属編成が「天竜」と共通運用となったほか[105]、「きそ」の下り1本は「天竜」用4両編成の送り込みを兼ねた運用で中津川始発で帰区は普通列車での運用された。「きそ」2往復と「つがいけ」は付属編成を持たない8両編成に編成替えが実施された。

1978年10月2日ダイヤ改正では「きそ」1往復を特急「しなの」に格上げ。転用で気動車急行として残っていた「きそ」「ちくま」の各1往復を電車化[78]。夜行を除く「きそ」「つがいけ」は165系電車化が完了し、大阪 - 長野間急行「ちくま」には宮原電車区(→宮原総合運転所→現・網干総合車両所宮原支所)の167系が投入された[78][120]。これにより中央西線気動車急行は名古屋 - 新潟間「赤倉」1往復のみとなった[78]

「きそ」「つがいけ」編成(1978年10月改正)
 
← 名古屋・松本・長野・南小谷
塩尻 →
号車 8 7 6 5 4 3 2 1
  クハ
165
モハ
164
クモハ165
or
モハ165
クハ
165
サハ165
or
サハ153
サロ
165
モハ
164
クモハ
165

1982年11月15日ダイヤ改正では「つがいけ」を特急「しなの」に格上げ。「きそ」昼行列車は名古屋口から撤退した[91][120]。「きそ」は「天竜」と併結を行う中津川→長野の下り列車1本のみが残ったが、運用は「きそ」「天竜」ともに松本運転所に移管され、神領の165系配置は無くなった[91]。また、名古屋 - 新潟間気動車急行「赤倉」が新潟運転所所属165系10両編成により「佐渡」と共通運用となった[91]

1983年7月5日ダイヤ改正では昼行「きそ」は快速へ格下げとなった[120]。「赤倉」も1985年3月ダイヤ改正で名古屋 - 松本間が廃止され「南越後」へ改称[93]。中央西線の定期急行は全廃となり、12系客車による夜行「きそ」のみが残存した。

JR化後の1989年には中津川 - 松本間普通列車運用を115系から165系に変更。関西本線名古屋 - 亀山間で運用されていた大垣電車区所属の3両編成x15本計45両を神領電車区へ運用と共に移管し、同所での配置が復活した[121]

  • 編成番号はT1 - T15を付番。モハ164形には回送運転台付き500番台の最後の1両となる504も含まれていた[122]

1990年に関西本線運用を213系5000番台へ置換え。その後に運用見直しと老朽化車両の整理が行われ2本が廃車、1本が急行「東海」付属編成用として静岡に転出し、3両編成x12本計36両となった。

1992年3月時点ではT編成12本が在籍。中央西線中津川 - 松本間普通列車が主運用で、出入区を兼ねた夜間の松本発名古屋行普通列車運用にも充当された[113]。臨時列車では繁忙期の東海道本線で臨時大垣夜行ならびに中央西線・飯田線で春と秋の「さわやかウォーキング」に合わせて運転される臨時快速として最大9両編成で運用された[113]

1995年10月ダイヤ改正ではラッシュ時間帯に限り関西本線運用を103系電車とともに再開[123]。本運用では中央西線松本発名古屋行は、6両で名古屋到着後に3両に減車して名古屋発亀山行普通列車に充当[123]

1996年3月に静岡運転所定期運用終了に伴い同所のK4-1編成がT13編成として神領電車区へ再転入した。代替としてT9編成のクモハ165-36+モハ164-839+クハ165-31[注 61]が廃車となった。この結果3両編成はT1 - T8・T10 - T13の12本となり、従来の運用に加え中央西線名古屋口通勤快速に充当された。このほか1998年2月に開催された長野オリンピックに対応して名古屋 - 松本間で運転された臨時急行「安曇野」にも充当された。

1999年7月16日ダイヤ改正で中央西線中津川 - 塩尻間のワンマン運転化に伴い、313系3000番台が投入され全運用が置換えられた。この時点で3両編成x7本が順次廃車された。残存したT1・T6・T8・T11・T13の5編成は波動輸送用で運用されたが、2001年5月の臨時運用を最後に全車廃車された。

その後はT8編成のみ保存目的で美濃太田車両区へ回送・保管された以外は全車解体された。現状は#保存車を参照。

神領電車区最終配置車一覧
 
← 大垣・名古屋
塩尻・東京 →
編成番号 クハ165 モハ164 クモハ165
T1 122 843 113
T6 172 845 115
T8 120 72 108
T11 87 832 46
T13 182 863 140

山陽本線・京阪神地区

山陽本線では宮原電車区(→宮原運転所→宮原総合運転所→現・網干総合車両所宮原支所)所属の153系10両編成が大阪・新大阪京都 - 宇野間「鷲羽」ならびに大阪 - 三原間「びんご」の準急列車のほか、運用効率の面から1961年3月1日ダイヤ改正以降東海道本線系統との共通運用も組まれており、神戸大阪 - 名古屋間「比叡」「伊吹」、名古屋 - 沼津間「するが」でも同編成が充当されていたが[110]、増結用としてクモハ165形+モハ164形500番台11組22両を新製配置し、1963年10月1日から運用を開始した。

  • この時点で153系は製造終了しており予備車も少ないために165系のクモハ+モハユニットを153系10両編成の下り方に増結する方法が取られた[110]
  • 「鷲羽」「びんご」の増結ユニット増解結岡山で実施されたが[注 62]、増結ユニットは運用上の都合から本来の向きとは逆の東海道本線基準下り偶数向きになる下関方に連結された[注 63]
宮原電車区165系増結ユニット込み153系準急編成
← 三原・宇野・大阪
名古屋・沼津 →
クモハ
165
モハ
164
-500
+ クハ
153
モハ
152
モハ
153
サロ
153
サハ
153
サハ
153
サハ
153
モハ
152
モハ
153
クハ
153

増結ユニットの車号は当初「増1・増2」とし153系編成から1号車とされたが、1964年10月1日ダイヤ改正からは、増結ユニットから1号車とする変更ならびに神戸・大阪 - 名古屋間「伊吹」は廃止された。東海道新幹線への乗客転移で153系の運用に余裕ができたため1965年10月1日ダイヤ改正では宮原区の準急編成は一部クハ165形・サロ165形を混用するものの原則153系での組成に変更され、同区のクモハ165形+モハ164形500番台ユニットは全車下関運転所に転出した。

宮原区には1964年以降も何度か新製配置された。このうち4両編成x8本計32両の波動対応用編成は[注 18]、大阪 - 富士宮身延線)間創価学会団体臨時列車に充当され、1966年3月25日ダイヤ改正より宇野まで延長された[74]。しかし定期列車充当車は165系単独・主体の編成ではなく153系の置換えもしくは補完的な意味合いで編成組成されるケースが多く、1965年にはクハ165形が先頭車補完用として、サロ165形が「なにわ」「いこま」等の急行編成1等車冷房化用として配置され、捻出されたサロ152形は大垣区に転出し準急「東海」用サロ153形置換えに転用された。また、サロ165形は1967年から1968年にかけても配置され、捻出されたサロ152形はサロ112形改造種車にされた。

下関運転所(現・下関総合車両所)には1965年10月にクモハ165形+モハ164形ユニット1組2両・クハ165形4両の新製車6両ならびに宮原電車区よりクモハ165形+モハ164形500番台ユニット11組22両・153系からサロ153形6両・クハ153形8両の転入車36両で計42両が配置された[74]。山陽本線の80系電車と準急用気動車が置換えられ、岡山 - 下関間急行「みずしま」1往復・岡山 - 広島間準急「とも」3往復・広島 - 下関間準急「やしろ」2往復広島 - 小郡(現・新山口)間準急「周防」1往復に充当された[74]。同所での運用は山陽本線瀬野 - 八本松間(通称:瀬野八)に介在する連続急勾配区間への対応のため電動車ユニットは165系で統一されたが、抑速ブレーキ使用の融通性向上を目的にクハ153形8両は1966年にクハ164形へ幡生工場で改造された。また、サロ153形は1966年以降サロ152・165形のリクライニングシート装備車に置換えられた。

1965年には岡山電車区に波動用4両編成x4本計16両が配置された[74]。これらとは別にクモハ165-68+モハ164-815のユニットのみが1965年1月から5月にかけて広島運転所に所属した。

1968年10月1日ダイヤ改正では、新大阪・大阪 - 三原間の「びんご」を「とも」に、従来の「みずしま」「とも」は岡山 - 広島・下関間急行「山陽」に改称された[97]。広島 - 小郡間急行「周防」は廃止となった[124]。また、一部の編成を向日町運転所(→京都総合運転所→現・吹田総合車両所京都支所)に転出させ、宮原電車区と急行運用を分担した。

1969年にはモハ165+164ユニット5組10両・サハ165形10両の18両が宮原電車区に新製配置され、赤穂線が全線電化された同年10月1日ダイヤ改正より「とも」「鷲羽」増発用に153系との混結で充当された[98]。この改正で「とも」2・4号と「鷲羽」9・2号が赤穂線経由での運転に変更された[98]

呉線電化に伴う1970年10月1日ダイヤ改正で急行「吉備」が165系化され、岡山 - 広島間を呉線経由で運転[98]。新大阪・大阪 - 三原間急行「とも」1往復はまで延長され「安芸」に改称された[75]。この改正で最終増備車となるクモハ165-139+モハ164-862+サハ165-11+クハ165-204が新製され下関運転所に配置された。

山陽新幹線岡山開業による1972年3月15日ダイヤ改正では、岡山以東の昼行急行は原則全廃となった。山陽急行は岡山以西での運転となり、山陽本線経由を「山陽」、呉線経由を「安芸」に統合。「とも」「やしろ」の愛称は消滅した。運用は宮原電車区と向日町運転所から153系120両を下関運転所に転属移管させ充当[75]。玉突きで下関所属165系はサロ165形8両を除いて大多数が大垣電車区へ転出し、飯田線急行「伊那」や身延線急行「富士川」ならびに名古屋地区快速列車などに転用した[75]

同改正では京阪神地区新快速に153系が投入されたが、クハ153形の不足を補完する形で塗装を灰色9号に青22号の帯を巻いた「ブルーライナー」色としたクハ165形10両が充当された[125]。また、岡山電車区波動用編成は、クハ165形4両を除き大垣電車区へ転出した。入換の形で下関運転所からMcM'ユニット4組8両とサロ165形2両、宮原電車区からサハ153形4両が転入、残存したクハ165形4両と引続き波動運用対応編成とされたが、翌年までサロ165形は網干電車区(現・網干総合車両所)に、残りの車両は神領電車区に転出した。

山陽新幹線博多開業に伴う1975年3月10日ダイヤ改正により山陽本線の昼行特急・急行は全廃となった。167系が本来の修学旅行用から波動用に転用され、下関運転所から宮原電車区に転出。宮原区では不足するクハ167形補完と新快速用クハ165形、153系編成に組み込むサロ165形が引き続き配置となったほかは多くの車両は関東・中部へ転出した。

1980年には京阪神地区新快速に117系電車への置換えが開始され、153系・165系新快速運用を終了した。クハ165形はブルーライナー色から順次元の湘南色に戻した[注 64]上でクハ164形非冷房車置換えに転用された。また、1961年から継続していた「比叡」運用は1982年11月ダイヤ改正より宮原電車区配置の153系から大垣電車区配置の165系に移管されたが、1984年2月ダイヤ改正で廃止となった。

紀勢本線

天王寺発新宮行き夜行列車
天王寺発新宮行き夜行列車
「ありがとう165系号」
「ありがとう165系号」
「リバイバル鷲羽」 日根野所属車最終運用
「リバイバル鷲羽」
日根野所属車最終運用

1986年11月に実施された国鉄最後のダイヤ改正では、紀勢本線に残る客車列車置換え用として、松本運転所から3両編成x11本計33両が日根野電車区(現・吹田総合車両所日根野支所)に転入した[106][注 65]。165系投入により113系24両が捻出され福知山線宝塚 - 福知山間電化用などに転用された[126]。165系の編成番号はF300番台となり、電動車ユニットの番号が若い順にF301 - F311まで付番された[106]

モハ164形は全車とも低屋根の800番台である[106]。先頭車の前照灯はクハ165-45が唯一の原型白熱灯で、それ以外の先頭車は松本運転所時代にシールドビーム改造車である[106]。紀勢本線はカーブでホームの見通しの悪い駅が多いため同線用に配置された113系と同じく紀勢スイッチ[注 66]を追設した[127]

定期運用は、紀勢本線和歌山 - 新宮間を中心に紀伊田辺以南ほぼすべての普通列車に充当されたほか、阪和線経由天王寺発新宮行夜行に充当された[106]。編成は3両編成が基本で、新宮行き夜行列車では途中の紀伊田辺まで2編成併結6両編成で運転された。一方で優等列車への充当は1995年夏期まで多客期臨時急行列車のみとされた。

新宮行夜行は、客車列車時代の寝台車付き普通列車「南紀→はやたま」からの流れを汲むもので、釣り客に多く利用されたことから太公望列車と通称された[82]。客車時代末期は寝台車の連結や列車愛称が無くなり、天王寺 - 新宮間1往復で運転されていたが、天王寺行きは利用客が少ないため165系化を機に天王寺発新宮行きの片道運転となった[82]

1987年6月21日には父の日にちなんで阪和線で運転された臨時列車「お父さん感謝大漁号」は、165系3両編成を103系3両編成の中間に挟んだクモハ103+モハ102-クモハ165+モハ164+クハ165-クハ103の6両編成[128]により天王寺 - 和歌山 - 和歌山市間で運転された[129][92]

1990年3月10日ダイヤ改正で、新宮行夜行始発駅を天王寺から新大阪に変更した。経由線区となる大阪環状線ATS-Pが整備されたためF306 - F311編成の3両編成x6本にATS-P搭載改造が施工されており、新大阪発夜行列車以外にも大阪環状線への乗入にはATS-P搭載車限定運用となった[106]

日根野電車区F編成一覧(1997年4月1日現在[106]
 
← 新大阪・和歌山
紀伊田辺・新宮 →
 
編成番号 クモハ165 モハ164 クハ165 備考
F301 67 814 88  
F302 68 815 68
F303 71 818 74
F304 75 822 73
F305 83 824 45
F306 110 840 78 ATS-P搭載
F307 112 842 79
F308 114 844 30
F309 124 847 71
F310 125 848 111
F311 141 864 18

1997年のゴールデンウィークには、宮原運転所所属の165系・167系に代わって日根野電車区所属車で臨時急行「ちくま(81・82号)」「くろよん」に充当を実施した[106]

1999年10月2日ダイヤ改正では165系が運用縮小。紀伊田辺以南運用を105系電車に置換えた[115]。新宮行夜行の定期運転区間も紀伊田辺までに短縮。前日のみ臨時列車扱いで新宮まで延長運転とされたが、これも2000年10月1日ダイヤ改正で終了した[82]。末期は3両編成x4本計12両が配置されていたが、117系電車などの投入により2002年3月22日で定期運用を終了した[130][115]。新大阪発紀伊田辺行は221系へ置換えられた[82]

定期運用終了後の2002年3月24日、白浜→天王寺・和歌山 - 新宮で快速「ありがとう165系号」が運転された[130]。さらに同月30日には山陽新幹線新大阪 - 岡山間開業30周年記念として新大阪 - 宇野間「鷲羽」のリバイバル運転が実施され全運用が終了した[115]

日根野電車区F編成一覧(最終期)
 
← 新大阪・和歌山
紀伊田辺・新宮 →
編成番号 クモハ165 モハ164 クハ165
F301 110 840 78
F302 112 842 30
F303 124 847 71
F304 125 848 111

修学旅行列車

1965年7月に167系4両編成x4本計16両を田町電車区に配置し同年10月より品川 - 京都間「わかくさ」で、1966年1月から2月に4両編成3本・6両編成4本計36両を下関運転所に配置し、同年4月より下関 - 広島間「なかよし」(小学生向け)・下関 - 京都間「友情」(中学生向け)・下関 - 東京間「わこうど」(高校生向け)で運転を開始した。

オフシーズンには「わこうど」と同時刻で運転された臨時急行「長州」のほか、各地の臨時列車運用にも投入された。

修学旅行列車の新幹線移行に伴い波動輸送用に転用。下関所属車は1974年から1975年にかけて田町区に4両編成5本20両、宮原電車区にクハ167形4両とモハ167・166形ユニット6組12両の計16両が転出。主に山陽・信州・上越方面への臨時列車のほか、神奈川県内から日光への小学校向け団体列車運用にも充当された。

波動用

JR東日本では三鷹電車区・田町電車区、JR西日本では宮原運転所が定期運用を持たない波動輸送対応に特化した車両基地とされた。

三鷹電車区

169系三鷹色M4編成 クハ169-23
169系三鷹色M4編成
クハ169-23
165系三鷹色M6編成(右) クハ165-98 原型ヘッドライド車
165系三鷹色M6編成(右)
クハ165-98
原型ヘッドライド車

1964年 - 1965年に中央東線急行「たてしな」充当車11両が暫定配置されたが、一旦は全車が松本運転所へ転出。以降は1986年11月1日ダイヤ改正で昼行「アルプス」ならびに「こまがね」「かいじ」「かわぐち」「みのぶ」全廃に伴い松本運転所から余剰となった波動輸送対応用3両編成x5本18両が転入[注 67]。分割民営化直前にはパノラマエクスプレスアルプス編成6両も落成配置された。一般車はその後に何度か廃車や他車両基地からの転入で車両の入換を実施。1999年12月時点ではパノラマエクスプレスアルプス編成6両と一般車は三鷹色[注 68]に塗装された169系M1 - M5編成・165系M6編成の3両編成x6本18両の配置となった。

  • 一般車のうち松本・上沼垂から転入したM4 - M6編成は2000年度までにパンタグラフをPS35D形シングルアーム式に換装[49]、長野から転入したM1 - M3編成は引き続きPS23A形パンタグラフを搭載し、いずれも中央本線高尾以遠の狭小トンネル区間への入線に対応したほか、座席もR51系簡易リクライニングシート装着・セミクロス改造・従来からのボックスシートの3仕様が存在した。またヘッドライトも169系はシールドビーム改造施工車であるが、165系のM6編成のみ原型の白熱灯車である。

運用面では波動輸送対応とされ定期列車運用はなく、パノラマエクスプレスアルプス編成が団体ならびに通常の臨時列車に、一般車は臨時列車扱いとして1997年から八王子 - 大宮間を武蔵野線経由で毎日運転された「こまちリレー号」(→「新幹線リレー号」→快速「むさしの号」)や各種「ホリデー快速」ならびに東京 - 大垣間増発夜行列車の最混雑時増結車のほか、シーズン中の臨時急行「アルプス」への充当が主とされた。

2001年9月にパノラマエクスプレスアルプス編成が富士急行へ廃車譲渡。一般車は上述主運用のうち「むさしの」が2002年12月に豊田電車区(現・豊田車両センター)の115系に、「ホリデー快速」が183・189系に置換えられたほか、大垣夜行増結も同年中に終了。2003年1月2日の臨時列車充当を最後に全運用終了[注 69]。同年1月30日付でM5編成は廃車となり部品取りとして富士急行へ譲渡。他の5編成は同年4月15日付で廃車となり配置が終了した。

三鷹電車区M編成一覧
 
← 新宿
松本 →
備考
号車番号 1 2 3 全編成ATS-P搭載
M1 - M3編成:PS23A形パンタグラフ搭載
M4 - M6編成:PS35D形パンタグラフ搭載
編成番号 クモハ
169
モハ
168
クハ
169
M1 19 1 1998年に長野総合車両所から転入
R51系簡易リクライニングシート装着
PS35D形シングルアーム式パンタグラフ搭載
M2 21 14
M3 26 24
M4 15 23 1998年に松本電車区から転入 クロスシート
M5 27 18 1998年に松本電車区から転入 セミクロスシート
M6 5-103 4-67 5-98 1999年に上沼垂運転区から転入 クロスシート

田町電車区

H11編成 湘南色 クハ165-3
H11編成 湘南色
クハ165-3
H14編成 アコモ改善車 クハ167-8 角型ヘッドライド改造施工済
H14編成 アコモ改善車
クハ167-8
角型ヘッドライド改造施工済
H16編成 アコモ改善車 クハ167-12
H16編成 アコモ改善車
クハ167-12
アコモ改善車車内
アコモ改善車車内
H17編成 メルヘン車 クハ167-9 落成当初の塗装
H17編成 メルヘン車
クハ167-9
落成当初の塗装
角型ヘッドライド改造施工後 パノラマエクスプレス塗装
角型ヘッドライド改造施工後
パノラマエクスプレス塗装
メルヘン車車内
メルヘン車車内
H19編成 湘南色 クハ167-17 角型ヘッドライド改造施工車
H19編成 湘南色
クハ167-17
角型ヘッドライド改造施工車

167系4両編成x9本計36両が配置され、定期運用は「ごてんば」廃止に伴う1985年3月15日ダイヤ改正で終了。以後は波動用として運用された。

  • ただしクハ167-2は事故のため1984年に廃車となり、代車として神領電車区から転入したクハ165-3が組成される[131]

編成番号は波動輸送対応を示すアルファベット記号Hと組成される電動車ユニット車両番号+10で付番された[注 70]。また分割民営化後に全制御車へ前面強化ならびにシールドビーム化工事施工・ATS-P搭載・モハ166形のパンタグラフをPS21形へ交換など行ったほか、編成によって特化した改造を施工しており、以下の4タイプに分類された。

H11編成 一般車
湘南色で先頭車の前面改造以外は原型を留めた編成。
客席は通常のボックスシートであることから後述するH19編成と共に8両編成を組成して主に神奈川県内 - 日光方面の修学旅行列車や臨時大垣夜行(列車番号9375M・9372M)運用[注 71]に充当された。
H12 - 16編成 アコモデーション改善車
座席をR51形簡易リクライニングシートに換装。塗装もアイボリーをベースに窓下をオレンジと赤、裾部を黄緑の帯という通称「田町色」に変更された。
改造当初は「JR東日本ジョイフルトレイン」と表記したヘッドマークを先頭車の前面に掲出し、臨時快速「葉ッピーきよさと」などに投入された。
H14編成のみ角型ヘッドライトへの改造を施工。
H17・18編成 メルヘン車
1988年に東京ディズニーランドへの行楽客輸送を目的とした快速「メルヘン」に投入するため廃車発生品のグリーン車用R24系リクライニングシートに交換した編成。
後に田町色へ変更されたが、H17・18編成とも角型ヘッドライトへの改造を施工。1993年に臨時急行「しんせん・やまなし」でパノラマエクスプレスアルプスと併結で運用されることから準じた塗装に変更された。
  • 同列車ではパノラマエクスプレスアルプスがグリーン車。本系列が普通車として運転された。
H19編成 一般・角形ヘッドライト改造施工車
湘南色。H11編成と同様に客席はボックスシートであるがバケットタイプに改装。
他編成のモハ167形と偶数向クハ167形ではトイレ・洗面所は撤去されたが本編成は残存。

上述した波動輸送や臨時列車のほかに「ホリデー快速むさしの」「ホリデー快速ピクニック」「ホリデー快速河口湖」などの準定期とも呼べる運用も存在した。

  • これらの運用にはアコモ改造車・メルヘン車が主に充当される一方で、座席定員が少ないため臨時大垣夜行には例外的に数回のみ充当された。逆にH11・H19編成は臨時大垣夜行ならびに神奈川県から日光への修学旅行運用が中心で、オフシーズンは田町区で留置されるケースが多かった。
  • 首都圏中心の運用であったが、北長野運転所(→長野総合車両所→現・長野総合車両センター)所属165・169系4両編成の臨時列車運用で、新宿から小海線直通の「葉ッピーきよさと」と小諸・松本地区から能生への海水浴臨時列車「かもめビーチ」が同時運転となり、定期運用充当編成が不足したため1編成が貸し出され快速「みすず」で飯田線への入線実績もある。

2003年春期臨時大垣夜行での運用を最後に同年5月から9月にかけて老朽化のため同年内に全車廃車となった。

田町運転区H11 - H19編成一覧
 
← 大垣
東京 →
編成別形態
編成
番号
クハ
167
モハ
166
モハ
167
クハ
167
タイプ 塗装 座席 前照灯
H11 5-3 1 一般 湘南 BOX
H12 4 2 3 アコモ
改善
田町 R51
簡リク
H13 5 3 6
H14 7 4 8
H15 15 5 16
H16 11 6 12
H17 9 7 10 メルヘン パノラマ
EXP
R24
リク
H18 13 8 14
H19 17 9 18 一般 湘南 BOX

宮原運転所

国鉄時代から配置されていたモハ167+166-10 - 15とクハ167-19 - 22の計16両がJR西日本へ継承され、以下の編成が組成されていた。

  • クハ167形は全車奇数(東海道本線基準で東京方)向へ方向転換した上で偶数(同神戸方)向にクハ165形を連結する4両編成x4本
  • 両端先頭車にクハ165形を連結する4両編成x2本

計6本の4両編成は波動輸送対応で宮原所属でありながら、通常は京都総合運転所野洲派出所(現・網干総合車両所宮原支所野洲派出所)もしくは吹田工場高槻派出所(現・網干総合車両所高槻派出所)に留置され、大阪 - 長野・南小谷間夜行急行「ちくま」「くろよん」などの臨時列車や団体列車などへ充当された。

  • 1988年9月から年末まで本系列初の四国乗入れりとなる岡山 - 高松間臨時快速運用を担当。充当車両は瀬戸大橋線通過対策として下段窓固定化を施工。

1997年にクハ167形全車とMM'モハ167+166-12・13を除いて廃車となり、両先頭車にクハ165-167・168を組成する6両のK1編成に組み替えられたが、2001年に廃車となった。

宮原総合運転所K1編成
← 下関・大阪
長野・東京 →
クハ165
-168
モハ166
-13
モハ167
-13
モハ166
-12
モハ167
-12
クハ165
-187

他社譲渡車

JRでの運用終了後に一部車両が他社に譲渡されたが、いずれも運用を終了している。

富士急行

クロ2002 クモロ2002 2001号編成 ラストランイベント
クロ2002
クモロ2002
2001号編成
ラストランイベント

2001年にパノラマエクスプレスアルプス富士急行へ2000形として譲渡され、6両を2本に分割のうえフジサン特急運用に投入された。編成方向の統一を実施しなかったため2001号編成と2002号編成では展望席の方向はそれぞれ逆向きとなる。また2003年に廃車となった三鷹電車区M5編成3両が部品取り名義で譲渡された。

169系部品取り車
元・三鷹電車区M5編成

2013年10月に老朽化のため後継車両として小田急20000形RSE車の譲渡導入を発表[132]。これに伴い2002号編成の車体色をパノラマエクスプレスアルプス色へ復元し、同年11月30日の富士急電車まつりからさよなら運転を開始した。同編成は2014年2月9日のイベントで運用終了の予定であったが、記録的な大雪により中止となったまま営業運転を終了した。

一方の2001号編成も2015年度中にJR東海371系電車による譲渡置換えが発表され[133]、2016年2月7日に運用を終了した[134][135]。これにより国鉄急行形直流電車は全廃となった。

譲渡車両一覧
 
号車 1 2 3
2001号編成
(2016年廃車)
クロ2001
(クロ165-3)
モロ2101
(モロ164-803)
クモロ2201
(クモロ165-3)
2002号編成
(2014年廃車)
クモロ2202
(クモロ165-4)
モロ2102
(モロ164-804)
クロ2002
(クロ165-4)
部品取り クハ169-18 モハ168-27 クモハ169-27

秩父鉄道

秩父鉄道3000形

1992年秩父鉄道へ3000系として3両編成x3本計9両が譲渡され、急行「秩父路」で運用されていたが、2006年11月25日限りで営業運転を終了し6000系(元西武鉄道新101系)へ置換えられた[注 72]

譲渡車両一覧
 
羽生
第1編成 デハ3001
(クモハ165-91)
デハ3101
(モハ164-55)
クハ3201
(クハ165-93)
第2編成 デハ3002
(クモハ165-82)
デハ3102
(モハ164-50)
クハ3202
(クハ165-86)
第3編成 デハ3003
(クモハ165-93)
デハ3103
(モハ164-57)
クハ3203
(クハ165-95)

しなの鉄道

しなの鉄道色S53編成

1997年の北陸新幹線長野暫定開業に伴い信越本線横川 - 軽井沢間は廃止となり、軽井沢 - 篠ノ井間は第三セクター化されしなの鉄道に転換された[136]。本転換に際しJR東日本から115系と169系3編成が譲渡され、1998年には1編成の追加譲渡が行われた[137]

169系は4編成ともJR時代に快速「みすず」充当用アコモ改良工事施工車からサハ165形を徐外した車両であり、移籍に伴う車両番号変更は未実施である。

  • これらとは別に車籍のない部品取りとして松本運転所A6編成に組成されていたクモハ169-17・モハ168-17・クハ169-7が譲渡された。部品取り車は2代目長野色・特別保全工事施工・全席クロスシートと譲渡車との差異がある。この3両は2001年夏に西上田で解体された。

譲渡に伴う変化

しなの鉄道開業時には、JR東日本長野総合車両所所属車でATS-Pを搭載しないN31・N32・N35編成が付随車を外した3両編成で譲渡され、編成番号はS51・S52・S53がそれぞれ付番された[136]。保安装置はATS-SNである。車体色は当初長野色のまま譲渡されたが、まもなく赤とガンメタリックを基調とするしなの鉄道塗装(通称:しなてつカラー)への塗替を施工。客室ではリクライニングシートがそのままとされたが、トイレは使用停止となった[138]

  • 115系ならびに169系の共通事項として、小諸駅では2番線・3番線ホームに長野方面・軽井沢方面の列車が並ぶことから階段付近となる長野方先頭車助士席側に案内用行先表示札が掛けられた[139]。また115系を主体にワンマン運転を行う関係から、ホーム上ミラーで後方確認時に視界を遮らないよう運転室列車番号表示器が撤去された[139]

1998年には輸送力増強のためさらに1編成3両が追加譲渡され、編成番号はS54が付番された[136]

  • 同編成はE127系100番台投入により余剰となったN33編成から付随車を外した3両編成で、小海線で運転された「葉ッピーきよさと」のほか京葉線に直通する「ファンタジー舞浜」で首都圏乗入する運用に充当されることからATS-Pを搭載していたが、譲渡時に撤去された[136]。塗装はガンメタリック部分を通常の灰色に変更を実施[136]。これに併せてS51 - S53編成も灰色に変更された。

また種別幕の「普通」表示は原則白字に黒文字で表記されるが、S53編成のクハ169-20とS54編成のクモハ169-13は青地に白文字表記と相違点がある。

このほか冬期にはモハ168形のパンタグラフ集電舟にを取り除くカッターを装着した通称カッターパンへ換装された[注 73]

譲渡後の変化

2004年から2005年にかけて、S52編成を除く3編成で110 kVAの冷房用電源MGがSIVに換装された[136]。SIVは4台を確保して1台を予備品とし、換装されたMGもS52編成の予備品として確保された[140]

2005年のJR福知山線脱線事故を受けて対応する運転状況記録装置やEB装置などの搭載を行う省令が施行され、しなの鉄道では115系に順次搭載工事を施工したが、169系では老朽化を考慮して搭載を見送った[136]

運用

1997年のしなの鉄道線開業時に譲渡されたS51・S52・S53編成は、戸倉 - 軽井沢間のローカル列車が運用主体で、朝は小諸→長野の快速列車しなのサンライナー」として6両編成で運転された[136]

1998年12月ダイヤ改正では平日の「しなのサンライナー」は9両編成化による輸送力増強を行い、さらにS54編成が譲受された[136]。2002年12月ダイヤ改正で「しなのサンライナー」は「しなのサンライズ」に改称され、夕方時間帯に長野→上田の「しなのサンセット」を設定[136]。169系は両列車に充当されたが、土休日の「しなのサンライズ」と「しなのサンセット」は3ないし6両での運転とされた。

S52編成湘南色塗装 2008年の復元(上) 2010年の復元(下)
S52編成湘南色塗装
2008年の復元(上)
2010年の復元(下)

2008年9月の信越本線軽井沢 - 関山間開業120周年記念イベントの一環として、S52編成を湘南色に塗装変更。同年10月 - 2009年3月に快速「リバイバル信州」などに投入された。S52編成は2009年3月末にしなの鉄道色へ復元されたが、2010年9月に再び湘南色に変更された[136]

省令改正により、2011年7月1日から信越本線篠ノ井 - 長野間に適用される新たな保安基準適合に必要な装置を搭載しない169系はJR東日本管内への乗入営業運転を終了した。これにより運用区間は戸倉 - 軽井沢間のみとなり、「しなのサンライズ」「しなのサンセット」運用は同日より長野総合車両センター所属の189系電車に置換えられた[136]

2011年7月31日には快速「169系初の12両編成号」が軽井沢 - 屋代間で運転され、し移籍後初の12両編成で本線を走行した[141]

  • 12両での運転は軽井沢→戸倉とされ戸倉 - 屋代間は6両編成で運転されたほか[141]、始発の軽井沢まで送り込みもそれぞれ6両編成の快速列車として戸倉→軽井沢・屋代→軽井沢で運転。軽井沢では「169系共演イベント」として湘南色としなの鉄道色を並べての展示された[141]

2012年にはS54編成が廃車となり、以後はS51・S52・S53編成の3編成のみでの運用となった[136]。S54編成は2012年1月21日に営業運転終了イベントを屋代駅で開催し[142]、同年2月2日にJR東日本長野総合車両センターへ廃車回送された[143]

運用終了と保存

しなの鉄道169系ファイナルイベント2013年4月29日最終日 (左)急行「信州」S52+S51編成 (右)急行「さよなら・ありがとう169系」S53+S52+S51編成 しなの鉄道169系ファイナルイベント2013年4月29日最終日 (左)急行「信州」S52+S51編成 (右)急行「さよなら・ありがとう169系」S53+S52+S51編成
しなの鉄道169系ファイナルイベント2013年4月29日最終日
(左)急行「信州」S52+S51編成
(右)急行「さよなら・ありがとう169系」S53+S52+S51編成

JR東日本から115系2両編成の譲渡に伴いS51 - S53編成は2013年3月15日に定期運用を終了した[136]。以後は臨時列車での運用のみとなり、S51編成は湘南色に復元[144]。同年4月27 - 29日の「ファイナルイベント」で運転された臨時列車を最後にすべての運用を終了した[145]

  • 午前中は屋代→軽井沢を急行「志賀」として、折返しの軽井沢→篠ノ井を急行「信州」として湘南色のS51+S52編成を併結した6両編成で運転[145]
  • 午後は当日受付団体列車として急行「さよなら・ありがとう169系」が篠ノ井→軽井沢と折返しの軽井沢→屋代で、戸倉→軽井沢と折返しの軽井沢→屋代はしなの鉄道色のS53編成を増結した9両編成で運転[145]

その後は、2013年7月22日にS52編成が留置されていた屋代駅構内から軽井沢駅へ自力回送を実施[146]。クモハ169-6を同駅で切り離し[147]、編成を解かれたモハ168-6・クハ169-19は115系S5編成に牽引され屋代駅に回送後、同月31日に115系S5編成とともに長野総合車両センターに廃車回送された[148]

S51編成の3両が坂城駅で[149]、S52編成に組成されていたクモハ169-6が軽井沢駅で静態保存された[150]。クモハ169-6は軽井沢駅リニューアルに伴い「森の小リスキッズステーション」に移設し黄色単色に塗装変更されたものの[151]、2021年に撤去された。

しなの鉄道譲渡車両一覧

編成番号 クモハ169 モハ168 クハ169 最終塗装 座席 冷房電源 静態保存・廃車
S51 1 27 湘南 D21 SIV 編成保存[144]
S52 6 19 D23 MG Mcのみ保存後撤去
S53 23 20 しなの鉄道 D21 SIV 2013年廃車
S54 13 D23 2012年2月廃車
部品取り 17 7 新長野 クロス MG 2001年解体

事故廃車

本系列は、余剰・老朽化以外で事故廃車になった車両が8両存在する。

サロ165-24
1968年11月23日に籠原電車区(現・高崎車両センター籠原派出)で脱線事故を起こし1969年5月8日付で廃車。なお、サロ165形で非冷房のまま廃車になったのは当車のみである。詳細は日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#籠原電車区構内脱線事故を参照のこと。
クハ165-202
1970年7月1日に房総西線保田 - 浜金谷間で発生した脱線転覆事故の被災車。詳細は日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#房総西線保田 - 浜金谷間急行「うち房」脱線転覆事故を参照のこと。
クモハ165-3+モハ164-3+クハ165-58
1977年3月8日に上越線津久田 - 岩本間で発生した脱線事故の被災車。詳細は日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#上越線急行「佐渡」脱線事故を参照のこと。
モハ168-5
1977年7月25日に信越本線(現・しなの鉄道線上田 - 西上田間で異常高温のためレールが歪む障害により発生した脱線事故の被災車。1978年3月10日付で廃車。詳細は日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#信越本線急行「信州」脱線事故を参照のこと。
ユニット相手方であったクモハ169-5は復旧後は休車となったが、1982年にクモハ169-9の故障廃車で余剰となったモハ168-9とユニットを組み直し運用に復帰した[注 74]
クハ165-190
1979年6月2日に発生した篠ノ井駅列車衝突事故の被災車。詳細は日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#信越本線篠ノ井駅列車衝突脱線事故を参照のこと。
クハ167-2
1982年9月14日に伊豆急行伊豆急行線川奈駅構内で、回送列車で運用中の167系8両編成がポイント故障により脱線。先頭車両だった当車両は台枠を大きく歪ませたことや床下機器を損傷させたことで使用不能となり、長期間伊豆高原車両基地で留置されたが、1984年3月19日付で廃車となった。本件は日本の修学旅行用車両としては唯一の事故廃車例である。

保存車

クモハ169-27
カットボディ
クモハ165-108 サロ165-106[注 75]
リニア・鉄道館で保存。クモハ165-108は2001年の神領車両区廃車後は美濃太田車両区で、サロ165-106は浜松工場で保管されていたが、2011年3月の開館時より移設展示。
クモハ169-1+モハ168-1+クハ169-27
坂城駅脇の旧横取線跡にて2013年5月から静態保存[149]
クモハ169-27
富士急行2000形の部品取り用として同社に譲渡後は富士山駅に留置。2000形廃車と同時に正面部のみカットボディとされ下吉田駅で保存。
クロ165-3(→クロ2001)
富士急行2000形第1編成として同社に譲渡された車両。「フジサン特急」塗装のまま下吉田駅で展示保存。

保存・民間再利用後解体

クヤ165-1
1987年2月3日の廃車後は大垣電車区で保管。その後は1991年にオープンした佐久間レールパークで静態保存されたが、2009年11月の閉園により2010年7月に解体。
クロ165-1
千葉県内で保存後に解体。解体時期は不明。
クハ165-3・5・8・119
三重県桑名市レストランとして使用されたが既に解体済。
クハ165-16
飯田線平岡駅前で軽食喫茶店として使用されたが、駅周辺の再開発のため1998年10月に解体。
クハ165-80
長野県上高井郡小布施町でレストランとして使用されたが、2006年10月に解体。
クハ165-120 モハ164-72
浜松運輸区で保存。上述したクモハ165-108のリニア・鉄道館移設後も引き続き美濃太田車輌区で保管されていたが、クハ165-120が2013年2月に[152]、モハ164-72が同年3月に[153]浜松運輸区へ陸送。後に解体。
サロ165-33
長野県北安曇郡白馬村のペンション[154]にて施設の一部として使用されていたが、2015年7月に解体。側窓のユニット窓化改造施工車であった。
クモハ169-6
しなの鉄道での運行終了後、2013年7月から「旧軽井沢駅舎記念館」の展示品として静態保存された[150]。その後同駅リニューアルに伴い「森の小リスキッズステーション」に移設。幼児用遊具に改造のうえ塗装を変更したが、2021年に撤去された。

脚注

注釈

  1. ^ 1時間定格回転数を比較すると全界磁ではMT46形が1,655 rpm、MT54形が1,630 rpm、弱め界磁ではMT46形は35 %、MT54形は40 %で2,620 rpmとされる。
  2. ^ 運転曲線がノコギリ状になることから、これを「ノコギリ運転」と呼び運転士にとっては取り扱いが煩雑で上り勾配でのスムーズな運転の妨げにもなっていた。
  3. ^ 153系では出力5 kVAのMH81-DM44形MGが搭載されていたが、機器増加で出力が不足気味であったため20 kVAに向上させた[12]
  4. ^ a b 房総地区での閑散期となる冬期に臨時列車への充当で狭小トンネル区間への入線が考慮されたため800番台で落成。
  5. ^ a b c 1970年に製造された時点で定期運用充当区間に狭小トンネルは存在しないが、後の車両転配を考慮して800番台で落成。
  6. ^ a b 1965年製造車は車両落成後に本来配置される松本運転所開設までの仮配置。
  7. ^ a b c d e f 普通車冷房化時の松本運転所基本編成は、自車給電用MGを搭載するサロ165形2両とサハシ165形もしくはサハ164形を除くとクモハ165+モハ164形ユニット2組とクハ165形1両の8両で組成された。そのため給電容量を確保できなくなることから、同所のサハシ165形もしくはサハ164形は110 kVA MGを搭載する必要に迫られた。なお、同様にビュフェ車を組込む長野運転所基本編成はクハ169形2両組込の9両編成、新潟運転所基本編成はサロ165形2両+サハシ165形の前後に3両ないし4両の普通車で挟み込み形態であるためサハシ165・169形のMG交換は必要ない。
  8. ^ 1964年から1975年までは田町区に所属。
  9. ^ 閉館直前は「さよなら交通博物館」に取り替えられた。
  10. ^ ただし8両編成以下の場合は協調運転を実施せずEF63形重連による牽引・推進運転となる。
  11. ^ 189系・489系ではベースとなった183系1000番台・485系と総括制御回線は共通のKE70形ジャンパ連結器を使用し、協調制御回線は別途敷設されたKE76形ジャンパ連結器を介する方式を採用した。
  12. ^ 信越急行廃止後に波動輸送対応用として松本・三鷹・幕張へクモハ169+モハ168+クハ169の3両編成単位で転出が行われたが、いずれの車両基地も165系と混合配置であったことや横軽区間での協調運転が事実上皆無となったことから、本系列のみの編成もKE70形ジャンパ連結器は使用を停止しKE64形2基による総括制御を行ったほか、本系列のみの編成単位での譲渡となったしなの鉄道でも同様の措置が採られた。
  13. ^ 横軽区間を通過する定期運用は1986年11月ダイヤ改正による「妙高」189系化で終了した。
  14. ^ a b クモハ165-8・9・27・36・57・91・93・97/クハ165-17・18・33・39・50・93・95・102
  15. ^ a b c d e 900番台は169系化改造後の1971年に冷房化。
  16. ^ a b c d 1968年利用債増備車。
  17. ^ a b c d e 1968年4次債務負担以降増備車が該当。
  18. ^ a b 翌1966年から1968年にかけて向日町運転所に一時的な転属を実施。
  19. ^ MH113A-C2000M形は既にモハ102形・モハ114形への搭載実績があり、以後はモハ454・456・474形へも波及する。
  20. ^ 500番台は1963年のみの製造。0番台は1967年で一旦製造が終わっていたこともあり、両番台区分の冷房準備車は存在しない。
  21. ^ モハ164-8・9・27・36・43・55・57・61。後に一部車両はAU72形に換装された。
  22. ^ ただし、後年に#クハ165形方向転換改造を施工した車両が存在する。
  23. ^ 房総西線電化用最終増備車。
  24. ^ a b c 同車はクモハ165-139+モハ164-862+クハ165-204と共に1970年5月30日に落成したが、呉線電化によるダイヤ改正は同年10月1日であったことから、同年7月1日から9月2日まで夏ダイヤが設定される房総地区用として津田沼電車区へ貸渡的な転属が実施された。
  25. ^ 制御回路引き通しのジャンパ連結器に関しては153系のKE57A形と165系のKE64形では互換性があり混用も可能。付随車では抑速ブレーキを制御するための制御器ならびに動作に必要な機器も搭載されていないこと。制御車も編成中間組込みや最後尾などの制御を行わない場合に限り、混結されていても制御回路が結線されていれば、編成全体で抑速ブレーキの使用は可能である[30]
  26. ^ 宮原電車区転入後は修学旅行専用列車廃止後に下関運転所から転入してきた冷房化改造前の167系と編成を組み波動輸送運用に投入された。167系冷房化後はそれまで新快速運用に投入されていたクハ165冷房改造車と差換え。
  27. ^ 名鉄パノラマカー小田急ロマンスカーとは異なり、完全な2階建て構造とはなっていない。
  28. ^ 実際には183系との併結による営業運転は行われていない。
  29. ^ 変わった運用では、2000年に日本テレビクイズ番組『第20回全国高等学校クイズ選手権』全国大会で、"特Qファイアー号"として中央本線・篠ノ井線・信越本線・上越線などで運転された。
  30. ^ 越後湯沢にある「アルプの里」にちなんだ愛称。中央東線の急行「アルプス」とは無関係。
  31. ^ a b c 碓氷峠区間で粘着運転への切替直前に実施された165系電車9両編成とEF63形による下り勾配での試験運転で、非常ブレーキを作動させたところ機関車次位のクハ165形の軽井沢方にあたる車体後部が垂直座屈で浮上し、車体と台車が分離するという現象や上り勾配での客車牽引で縦勾配の変曲点で軽井沢方の台車が脱線する現象が発生したことに由来する[43]
  32. ^ 運用は下り6号で夜間は甲府滞留、翌朝の立川快速2530Mで戻る形態とされた[50]
  33. ^ 。岡多線は1988年1月に愛知環状鉄道へ転換。
  34. ^ 本転用により、それまで充当されていた115系1000番台が飯田線へ転用された。
  35. ^ 共通予備車であったモハ165-1+モハ164-801のトップナンバーMM'ユニットは、廃車まで汚物処理装置を未装備。
  36. ^ 1963年2月23日夜にクモハ165-1+モハ165-1+クハ165-1のトップナンバー3両が長岡第二機関区に到着した[67]
  37. ^ 「佐渡」が5月15日から、「弥彦」が5月16日から、「ゆきぐに」が5月18日から運用変更との報道がある[70]
  38. ^ 新前橋区では、三鷹電車区で115系による急行運用が発生した際にサロ165-14に引通線改造と横須賀色塗装を施工して長期貸渡した実績がある。
  39. ^ 本来上野口で夜間滞留となる編成を間合い運用で投入するもので、下りは前日の普通列車により送り込まれた。
  40. ^ 157系は伊豆急下田直通特急「あまぎ」に転用された[90]
  41. ^ 横川 - 軽井沢間は連絡バス。
  42. ^ 当初は11両編成での投入が計画されたが[95]、保安上かつ事故防止の観点から連結両数を8両までに制限された[注 31][43]
  43. ^ 2002年に通称だった屋代線に改称し、2012年に廃止。
  44. ^ 駅名改称は1969年10月1日付。
  45. ^ a b クモハ169+モハ168-18・19 クハ169-10・13・14 サロ169-12
  46. ^ 1978年にユニットペアを失ったクモハ169-5は、4年近く保留車とされた後の1982年にこれまたペアを失ったモハ168-9とユニットを組成した直後に松本に転出。さらに1986年にはクハ169-9とともに幕張電車区へ再転出した。
  47. ^ クハ165-73 -76・モハ164-820 - 823の電動車ユニット4組8両とクハ165-79・80は一旦浦和電車区(現・さいたま車両センター)に配置されてから早期に松本へ転出の記録がある。
  48. ^ 大糸線乗入列車用にサロ85形を改造した1等展望車の導入が計画されていたが、諸般の事情で中止となった。
  49. ^ 中央東線から身延線に入線する場合、一旦新宿方にスイッチバックするため双方の列車に遅延防止という点から付属編成位置を逆転させた。上り列車では「みのぶ」が甲府に先着後に一旦引き上げ線へ転線後に基本編成と併結作業を行った。
  50. ^ 165系化後の1975年4月24日付で廃車され、同年7月に有田鉄道へ譲渡。
  51. ^ 下りは中込行。上りは小諸始発で中込までは普通列車で運転。
  52. ^ 「アルプス」はキロ58形2両組込5両基本編成+3両付属編成とされ、1往復が松本発着。もう1往復は基本編成が松本転回、付属編成が大糸線糸魚川直通とされたが、165系化で南小谷発着に変更。「こまがね」と富士急行所有のキハ58形[注 50]を充当する「かわぐち」は165系松本所属車付属編成での運用となったほか、小海線へ直通する「八ヶ岳[注 51]」は廃止された[104]
  53. ^ 定期列車では1970年10月1日ダイヤ改正で設定された下り「かいじ6号」は1975年3月10日ダイヤ改正まで三鷹電車区の115系が充当されたほか、臨時列車では「かいじ」「かわぐち」「たてしな」などに1978年10月ダイヤ改正まで充当された。また夏期や冬期スキーシーズンに設定される臨時「アルプス」「たてしな」は、両定期列車が廃止されるまで165系のみならずEF64形牽引の客車列車での運転も行われ、旧型・10系12系14系座席車などが充当された。
  54. ^ 新製時からの冷房車で最終製造ユニットのクモハ165-141+モハ164-864は新潟→大垣→松本で転入。
  55. ^ a b クモハ169-17+モハ168-17+クハ169-7は部品取りとしてしなの鉄道へ譲渡。
  56. ^ サロ153形は非冷房非リクライニングシート車の置換えでサロ110形改造種車としての捻出名義。サロ152形はサロ112形改造種車としての捻出名義である。最終的にこちらは1975年に下関運転所から転入のサロ165形によって冷房化改造済サロ152形の置換えが完了した。
  57. ^ この回送線は、JR化後の2015年3月に上野東京ラインとして約42年ぶりに復活。
  58. ^ 特急格上げ後の「東海」は2007年3月18日に廃止、「ムーンライトながら」も2009年3月14日をもって臨時列車化のうえ車両も田町車両センター配置の183・189系電車、後に大宮配置の185系電車)に変更されたが、373系は2012年3月ダイヤ改正まで普通列車として東京まで乗り入れた。
  59. ^ 田城郁JR東労組出身で自身も電車運転士経歴のある元参議院議員)のブログに寄せられた「富士川」乗務経験者の運転士の弁による[117]
  60. ^ ただし、東海道本線内は快速もしくは普通列車で運転。
  61. ^ 廃車直前にT10編成に組成されていたクハ165-132と車両交換を実施。
  62. ^ 「鷲羽」運用で乗入れる宇野線変電所容量の関係から電動車は4両までの制約があった。
  63. ^ 当時非冷房のクハ153形は両渡り構造であったため逆向きでの連結も可能。
  64. ^ 過渡期には湘南色のクハ165形が新快速編成への組成が確認された。
  65. ^ ただし転入は1986年11月ダイヤ改正前から行われており、名古屋地区の117系短編成化に伴う代走で同年7月から10月まで、また紀勢本線新宮 - 御坊間ホーム嵩上げ工事の進捗もあり特急「くろしお」用485系の九州地区・北近畿地区転用改造に伴う代走で同年10月1日 - 31日まで充当された実績がある。
  66. ^ 戸閉めしても運転台の知らせ灯が点灯せず、車掌がスイッチを動作させて初めて知らせ灯が点灯するようにした改造である。
  67. ^ このうちクモハ165-58+モハ164-806・クハ165-56は1964年の三鷹暫定新製配置車である。
  68. ^ 白ベースに窓周りをグレーとし、窓下に沿線の山梨県が主産地となる葡萄をイメージしたラインを入れた塗装。また前面貫通路は濃い青色としたほか、先頭車前面客室扉戸袋窓下にINTER CITY TRAIN 169(M6編成のみ165)のロゴが入る。
  69. ^ 同日に三鷹区まで回送された際には「急行」の種別幕が表示された。
  70. ^ その後田町区では本系列と入換に波動輸送対応用で配置された183系1000番台・189系にHの記号を使用した。
  71. ^ シーズン中には新前橋区や三鷹区などの165・169系も投入された。
  72. ^ 3001(最終運用投入編成)・3003編成は、1968年に施工された試作冷房改造車の最終残存車でありデハ3101(旧・モハ164-55)は当初AU71形を搭載していた。
  73. ^ 換装はモハ168形のみに行われ、115系のモハ114形へは未実施である[140]。また霜対策は特に軽井沢 - 小諸間で必要とされており、冬期は霜切り列車が早朝始発前の小諸 - 軽井沢間で1往復運転された[140]
  74. ^ 被害が大きくなかったことと製造から10年以内で減価償却資産の耐用年数等に関する省令(昭和40年3月31日大蔵省令第15号)に定められた鉄道用車両における電車の償却年数である13年に満たない状態であったことが理由である。これには当時の長野鉄道管理局(現・東日本旅客鉄道長野支社)では、1975年にクハ180-1 - 3を製造から9年で廃車解体としたこと。また国鉄全体でも事故・故障が多発したDD54形が最長でも約10年、最短4年10ヶ月で全車廃車になり、1976年に国会で問題として取り上げられ会計検査院からも不適切な処理と指摘されたことも関係する。
  75. ^ 帝國車輛工業が唯一製造したサロ165形で同社が製造した直流急行形電車唯一のサロでもある。

出典

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参考文献

  • イカロス出版
    • イカロスMOOK『国鉄型車両の系譜シリーズ04 形式165系』(2006年) ISBN 4871498670
  • JTBパブリッシング
  • ジェー・アール・アール
    • 『国鉄車両シリーズ1 直流急行形電車』 (1982年)
  • 交友社鉄道ファン
    • 1977年9月号 No.197・1978年2月号 No.202 大井広「東海道電車急行ものがたり」
    • 1993年3月号 No.383 福原俊一「修学旅行電車のあゆみ―その5―
    • 1995年9月号 No.413 特集:「急行形」スペシャル
    • 1998年12月号 No.452 特集:直流急行形
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル
    • 1984年6月号 No.433 特集:165・169系急行形電車
    • 1994年3月号 No.588 特集:JR165系電車の現状
    • 1997年7月号 No.639 特集:165系電車の興味
    • 2009年11月号 No.826・2009年12月号 No.827 特集:鉄道と修学旅行I・II
    • 2012年10月号 No.867 特集:165・169系電車
    • 2019年12月号別冊 国鉄形車両の記録 165系急行形電車
  • プレス・アイゼンバーン『レイル』
    • No.52(2005年) 三宅俊彦「大垣電車区のクイーン物語」

関連項目

外部リンク

  1. ^ 地球環境保全への貢献”. 東海旅客鉄道. 2023年11月29日閲覧。