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[[1955年]]に大学を中退し、[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]へ入団。二年目の[[1956年]]には、レギュラー二塁手であった[[箱田淳]]が[[三塁手]]に回り、その後継として定位置を獲得。初の規定打席(18位、打率.238)にも達するが、同年にチームで規定打席をクリアしたのは佐々木、箱田、[[鵜飼勝美]]の3人のみであった。[[1958年]]までレギュラー二塁手として活躍し、その後も内野の[[ユーティリティプレイヤー]]として起用されるが、[[1961年]]限りで現役を[[引退]]。現役時代は「巨人戦になると打った」と言われた<ref>[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200705130051.html 再出発、遅れてきた“中堅” 葛原妙子賞の酒井佑子さん]</ref>。 |
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父は[[千葉銀行]]専務を務め、「月に向かって打て」の[[飯島滋弥]]は叔父にあたる<ref>神宮球場ガイドブック2002年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典</ref>。< |
父は[[千葉銀行]]専務を務め、「月に向かって打て」の[[飯島滋弥]]は叔父にあたる<ref>神宮球場ガイドブック2002年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典</ref>。<br /> |
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妻の[[酒井佑子]](本名:靖子)は[[防衛庁長官]]などを歴任した[[増原恵吉]]の三女。[[葛原妙子賞]]を受賞した[[歌人]]でもあり、またその叔母は[[沢村栄治]]の妻である<ref>同上</ref>。妻の長姉がのちの[[丸井グループ]]名誉会長・[[青井忠雄]]に嫁いでいたため、引退後は[[丸井]]に入社。自らの人脈を用いて、[[秋山登]]・[[土井淳]]バッテリーなど有名選手を新規開店イベントに招いた。のちに[[取締役]]、常勤[[監査役]]を務めた。 |
妻の[[酒井佑子]](本名:靖子)は[[防衛庁長官]]などを歴任した[[増原恵吉]]の三女。[[葛原妙子賞]]を受賞した[[歌人]]でもあり、またその叔母は[[沢村栄治]]の妻である<ref>同上</ref>。妻の長姉がのちの[[丸井グループ]]名誉会長・[[青井忠雄]]に嫁いでいたため、引退後は[[丸井]]に入社。自らの人脈を用いて、[[秋山登]]・[[土井淳]]バッテリーなど有名選手を新規開店イベントに招いた。のちに[[取締役]]、常勤[[監査役]]を務めた。 |
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長女の空丸恵子はフリーの俳優。 |
長女の空丸恵子はフリーの俳優。 |
2021年5月29日 (土) 00:04時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県夷隅郡大原町 |
生年月日 | 1934年4月21日(90歳) |
身長 体重 |
173 cm 66 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1955年 |
初出場 | 1955年 |
最終出場 | 1961年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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佐々木 重徳(ささき しげのり、1934年4月21日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは二塁手。
来歴・人物
千葉第一高校では、1952年春季関東大会県予選決勝に進むが、船橋高に惜敗。夏も予選で敗れ甲子園には届かなかった。卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは1年上のエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め在学中2度の優勝を経験。大学同期に田村満(中退)、関口一郎、荻孝雄、横山昌弘がいた。
1955年に大学を中退し、国鉄スワローズへ入団。二年目の1956年には、レギュラー二塁手であった箱田淳が三塁手に回り、その後継として定位置を獲得。初の規定打席(18位、打率.238)にも達するが、同年にチームで規定打席をクリアしたのは佐々木、箱田、鵜飼勝美の3人のみであった。1958年までレギュラー二塁手として活躍し、その後も内野のユーティリティプレイヤーとして起用されるが、1961年限りで現役を引退。現役時代は「巨人戦になると打った」と言われた[1]。
父は千葉銀行専務を務め、「月に向かって打て」の飯島滋弥は叔父にあたる[2]。
妻の酒井佑子(本名:靖子)は防衛庁長官などを歴任した増原恵吉の三女。葛原妙子賞を受賞した歌人でもあり、またその叔母は沢村栄治の妻である[3]。妻の長姉がのちの丸井グループ名誉会長・青井忠雄に嫁いでいたため、引退後は丸井に入社。自らの人脈を用いて、秋山登・土井淳バッテリーなど有名選手を新規開店イベントに招いた。のちに取締役、常勤監査役を務めた。
長女の空丸恵子はフリーの俳優。
2009年11月29日、スワローズの元同僚であった根来広光の葬儀の席に現れて、金田正一の弔辞を代読した[4]。2010年までスワローズOB会の副会長も務めていた[5]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955 | 国鉄 | 7 | 10 | 9 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | .111 | .200 | .111 | .311 |
1956 | 127 | 464 | 429 | 33 | 102 | 16 | 3 | 9 | 151 | 34 | 10 | 14 | 12 | 1 | 21 | 0 | 1 | 47 | 9 | .238 | .275 | .352 | .627 | |
1957 | 110 | 426 | 377 | 36 | 92 | 10 | 1 | 8 | 128 | 48 | 16 | 10 | 4 | 7 | 34 | 0 | 4 | 47 | 4 | .244 | .313 | .340 | .653 | |
1958 | 120 | 386 | 352 | 27 | 78 | 13 | 4 | 4 | 111 | 25 | 10 | 9 | 8 | 2 | 23 | 1 | 1 | 45 | 13 | .222 | .271 | .315 | .587 | |
1959 | 101 | 278 | 256 | 21 | 63 | 14 | 1 | 0 | 79 | 22 | 2 | 4 | 3 | 2 | 17 | 0 | 0 | 27 | 8 | .246 | .293 | .309 | .602 | |
1960 | 60 | 116 | 110 | 8 | 24 | 2 | 0 | 0 | 26 | 3 | 2 | 2 | 1 | 1 | 3 | 0 | 1 | 17 | 2 | .218 | .246 | .236 | .482 | |
1961 | 9 | 6 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:7年 | 534 | 1686 | 1539 | 129 | 360 | 55 | 9 | 21 | 496 | 132 | 43 | 40 | 28 | 13 | 99 | 1 | 7 | 186 | 37 | .234 | .283 | .322 | .606 |
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 43 (1955年 - 1956年)
- 1 (1956年 - 1960年)
- 17 (1961年)
脚注
- ^ 再出発、遅れてきた“中堅” 葛原妙子賞の酒井佑子さん
- ^ 神宮球場ガイドブック2002年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典
- ^ 同上
- ^ サンケイスポーツ 2009年11月30日付記事。
- ^ 週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2011年、P20