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「モザイクな夜V3」の版間の差分

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出演者の大半は道内のタレント・劇団員で構成されていた。
出演者の大半は道内のタレント・劇団員で構成されていた。


後に番組制作に深く関わる[[鈴井貴之]]はもともと[[OOPARTS (劇団)|OOPARTS]]主宰としてのトークゲスト出演{{efn|出演時の肩書は「自称:<b>ハイパーメディアパーソナリティ</b>」であり、「過去の秘蔵VTR&NG集」では大泉にイジられてしまった。}}だった。[[1994年]]4月よりレギュラーに昇格し、終了まで当時HTBアナウンサーだった[[森田政仁]]と共に番組を牽引していく。鈴井の妻(当時)である[[伊藤亜由美]]も出演者の一人で、藤村Dとコンビで企画に出演したこともある。
後に番組制作に深く関わる[[鈴井貴之]]はもともと[[OOPARTS (劇団)|OOPARTS]]主宰としてのトークゲスト出演{{efn|出演時の肩書は「自称:'''ハイパーメディアパーソナリティ'''」であり、「過去の秘蔵VTR&NG集」では大泉にイジられてしまった。}}だった。[[1994年]]4月よりレギュラーに昇格し、終了まで当時HTBアナウンサーだった[[森田政仁]]と共に番組を牽引していく。鈴井の妻(当時)である[[伊藤亜由美]]も出演者の一人で、藤村Dとコンビで企画に出演したこともある。


大学の演劇研究会からも出演者が集められ、後の[[TEAM NACS]]はこの番組でテレビデビューを果たす。末期にはメンバー全員が旗揚げ解散公演『LETTER』のPRを兼ねて合コン企画に出演した。
大学の演劇研究会からも出演者が集められ、後の[[TEAM NACS]]はこの番組でテレビデビューを果たす。末期にはメンバー全員が旗揚げ解散公演『LETTER』のPRを兼ねて合コン企画に出演した。

2020年9月29日 (火) 00:03時点における版

モザイクな夜
mosaic nights
ジャンル バラエティ番組
出演者 森田政仁
鈴井貴之
大泉洋
ほか
オープニング 坂本九ステキなタイミング
製作
プロデューサー 土井巧
制作 北海道テレビ放送
放送
放送国・地域日本の旗 日本
モザイクな夜
放送期間1993年10月4日 - 1995年6月29日
放送時間月曜日 - 木曜日 24:50 - 25:20
放送分30分
モザイクな夜V3
放送期間1995年7月3日 - 1996年9月30日
放送時間月曜日 - 木曜日 24:50 - 25:20
放送分30分
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モザイクな夜』(モザイクなよる・mosaic nights)は、北海道テレビ放送(HTB)で放送されていた深夜バラエティ番組1993年10月4日から1996年9月30日まで、月曜日から木曜日までの週4日間放送されていた帯番組であった。

1995年7月3日からは『モザイクな夜V3』(モザイクなよる ブイスリー)と改題。タイトルは『仮面ライダーV3』を模して“V3”を付け足した番組名になった。

概要

タイトルの『モザイクな夜』は「いろいろな物が混ざり合ってモザイク状になった番組」という意味が込められており[1]、バラエティ番組の枠組みではあるが、トークやコントドキュメンタリーと「なんでもあり」の構成であった。

録画放送の帯番組というタイトなスケジュールに加え、スタッフもキャリアの浅い若手が中心だったため、ドキュメンタリーやスタンダードなコントだけでは尺を埋められず、放送から約半年で自転車操業状態に陥る。「とにかく思いつく事は何でも」しなければ放送に間に合わない程[2]で、ほぼ撮って出しの低品質な企画が放送されることもしばしばだった。やがて、法令違反ギリギリの度を越したゲリラパフォーマンスや安直なパロディ、「おっぱいを出せば視聴率が上がる」を合言葉にしたお色気企画に傾倒していく。この傾向は『V3』に改題後、より顕著になっていき、局内外から「低俗番組」の烙印を押される[3]

後に『水曜どうでしょう』のディレクターとなる藤村忠寿嬉野雅道は番組後期に東京から北海道に移って参加[注釈 1]。藤村はコントを演出するだけでなく自ら出演もするなど、早くも出たがりの片鱗を見せていた[1]。また、大泉洋は『V3』時代にすすきのレポーター「元気くん(2代目)」でデビュー[4][5][注釈 2]を果たし、間もなくレギュラーに近い扱いとなる。末期に作られた『古畑任三郎』のパロディコント「占畑任三郎」は、現在のどうでしょう班が初めて顔を揃えた伝説の作品となっている。[注釈 3]

1996年9月30日の放送をもって終了。改編期に合わせた形ではあったが、実情は打ち切りそのものだったという。スタッフの大半は報道・情報番組に異動し、HTBの深夜枠は週1日(水曜深夜)に縮小。タレントの鈴井・大泉、編成担当の土井P、番組制作の経験が少ない藤村・嬉野両ディレクターが『モザイク』の企画を一部引き継ぎ、枠を維持する名目で『水曜どうでしょう』を立ち上げる[3]

番組単体での再放送やDVD化はされていない。但し、映像の一部は『水曜どうでしょう』『ドラバラ鈴井の巣』『ハナタレナックス』などの番組で度々放送されている[注釈 4]

主な出演者

出演者の大半は道内のタレント・劇団員で構成されていた。

後に番組制作に深く関わる鈴井貴之はもともとOOPARTS主宰としてのトークゲスト出演[注釈 5]だった。1994年4月よりレギュラーに昇格し、終了まで当時HTBアナウンサーだった森田政仁と共に番組を牽引していく。鈴井の妻(当時)である伊藤亜由美も出演者の一人で、藤村Dとコンビで企画に出演したこともある。

大学の演劇研究会からも出演者が集められ、後のTEAM NACSはこの番組でテレビデビューを果たす。末期にはメンバー全員が旗揚げ解散公演『LETTER』のPRを兼ねて合コン企画に出演した。

東京進出のため降板した初代「元気くん」こと田中護(当時OOPARTS所属。番組では亡くなったという設定)の穴を埋めるため、伊藤が当時のチーフディレクターである杉山順一に大泉洋を紹介。デビュー時こそカメラに目線を合わせられず、たどたどしい進行ぶりだったが[注釈 6]、指示待ちでない態度と笑いに貪欲な姿勢を藤村Dに買われ、後の『水曜どうでしょう』レギュラー起用に繋がった。

『雅楽戦隊ホワイトストーンズ』の出演者は当該項目を参照

主なコーナー

  • 占畑任三郎(1996年3月20日・出演:鈴井貴之・大泉洋(「大泉元気」名義で出演)・嬉野雅道)
  • 男と男のショート・ストーリー
  • Barモザイク(森田政仁・鈴井貴之)
  • ドキュメント・プラモデル(プラモデルを作る様子を追うドキュメンタリー)
  • 黄金の仏像を探せ!(ディレクター:嬉野、出演:藤村・大泉)
  • ザ・スプーク(テレビ朝日系列の報道番組『ザ・スクープ』のパロディ)
  • 大スターの電話出演(藤村が地声でスターになりきってデタラメに話をする)
  • 人間将棋(札幌市街地が碁盤目状となっていることに着目し、全身タイツに将棋の駒を背負った森崎博之安田顕が駒の動きに合わせて札幌市街を走り回る)
  • おはよう元気くん(森田政仁・鈴井貴之・大泉洋などによる早朝情報番組のパロディ)
  • テレビショッピング(おはよう元気くんの1コーナー。鈴井がテレビショッピング風に大人のオモチャなどを大真面目に紹介する。画面の2/3ほどは常にモザイクであった)
  • 裏ゴイス(鈴井貴之・北川久仁子によるAIR-G'のラジオ番組『GO・I・S』のテレビ版)
  • 浅草ロック座すすきのマドンナ密着ドキュメント(憂木瞳桜樹ルイなどの来札公演を取材。桜樹の回は番組通しての高視聴率をたたき出した)

以下の企画は『水曜どうでしょう』でも開始から1年間継承された。

など多数

スタッフ

テーマ曲

番組初期はビーインググループ、後期はエイベックス・グループのアーティストの楽曲がエンディングに流れることが多かった。

編成

初回は直前の番組『トゥナイト』を休止して23:55からの拡大版として放送が開始された。

プロ野球中継延長時は放送時間が繰り下がることがあり、その際番組冒頭や後続番組の放送開始予定時刻に「野球中継延長のため予定の番組は○分繰り下げて放送します」というテロップが局送出されていた。

脚注

注釈

  1. ^ 藤村は1995年春の人事異動で、嬉野は1996年2月の中途入社でそれぞれ番組に加わった。
  2. ^ 大泉は番組出演を親に告げておらず、テレビ局へ行くという用事も「ケーブル捌きのアルバイト」と偽っていた。しかし、親戚が集まった際、親戚の一人が「元気君、元気君」と呼んだことを不審に思った両親に追及され、無断出演が発覚してしまったという。
  3. ^ タイトルは「うらはた にんざぶろう」と読む。鈴井は占畑任三郎(田村正和役で脚本も担当)、大泉は今泉(西村雅彦役)、嬉野は向島(小林隆役。実際はエキストラ同然)としてそれぞれ出演し、音効は工藤、演出は藤村が担当していた。
  4. ^ 現在ごく僅かながら公式な手段で見ることのできるものは「大泉洋デビュー(元気くん初登場)」「人間将棋」「鈴井貴之の変わり風呂体験」の3本。
  5. ^ 出演時の肩書は「自称:ハイパーメディアパーソナリティ」であり、「過去の秘蔵VTR&NG集」では大泉にイジられてしまった。
  6. ^ この時の演出プランは「緊張している人」だったが、大泉自身が本当に緊張してしまい、カメラマンに「コイツカメラ見れないよ!」と罵倒されてしまったという。
  7. ^ 番組終了後に退社してコスタリカへ移住。『水曜どうでしょう』のコスタリカのロケでは現地案内人として登場した。

出典

  1. ^ a b 『水曜どうでしょう放送事典 1996.OCT~1998.APR』北海道テレビ放送、2009年、p23-p27 土井巧インタビュー
  2. ^ 番組スタッフからのメッセージ(段落11辺りから)”. 水曜どうでしょう. 北海道テレビ放送. 2014年10月2日閲覧。
  3. ^ a b 『水曜どうでしょう放送事典 1996.OCT~1998.APR』北海道テレビ放送、2009年、p18-p21 初期の「水曜どうでしょう」
  4. ^ NACS年表”. TEAM NACS Official Site. CREATIVE OFFICE QUE. 2014年10月2日閲覧。
  5. ^ 大泉洋 下積み時代のススキノの思い出を語る”. Ameba News [アメーバニュース]. アメーバブログ (2011年9月9日). 2014年10月16日閲覧。

参考サイト

外部リンク

『モザイクな夜』について書かれている北海道テレビのページ

関連項目

  • 派手〜ずナイト - かつてHTBで放送されていた深夜番組。スタッフ等の直接的なつながりは無いが、『モザイク』以上の過激な内容で話題を集めた。
  • 水曜どうでしょう - 事実上の後継番組。
  • 鈴井の巣 - 鈴井とCDの杉山が立ち上げた深夜番組。『水曜どうでしょう』の成功により、HTBの深夜番組枠が再度拡大するきっかけとなった。