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*『[[南史]]』巻11 列伝第1 |
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2019年10月29日 (火) 00:24時点における版
江皇后 | |
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南朝宋の皇后 | |
在位 | 472年 - 477年 |
全名 | 江簡珪 |
配偶者 | 後廃帝 |
江簡珪(こう かんけい、生没年不詳)は、南朝宋の後廃帝劉昱の皇后。本貫は済陽郡考城県。
経歴
北中郎長史江智淵の孫娘にあたる。469年(泰始5年)、明帝が太子妃となる候補を探させたが、名家の娘には不都合が多く、門閥の後ろ盾を持たない江氏が卜筮により最も吉とされて、簡珪は東宮に入った。470年(泰始6年)、皇太子妃として立てられた。472年(泰豫元年)4月に劉昱が即位すると、その年の6月に簡珪は皇后に立てられた。477年(昇明元年)、劉昱が廃位されると、簡珪は蒼梧王妃に降格された。
逸話
簡珪が皇太子妃に立てられると、朝士や州刺史・郡太守たちはこれを祝って贈り物を献上し、多くは値百金に近いものであった。始興郡太守の孫奉伯は琴と書を献上しただけだったため、明帝の怒りを買って、毒薬を与えられて死を命じられた。