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*『[[南史]]』巻11 列伝第1 |
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2019年10月29日 (火) 00:24時点における版
王皇后 | |
---|---|
南朝宋の皇后 | |
在位 | 453年6月5日 - 464年7月12日 |
全名 | 王憲嫄 |
別称 | 文穆皇后 |
出生 |
元嘉5年(428年) |
死去 |
大明8年8月23日 (464年10月9日) |
埋葬 | 景寧陵 |
配偶者 | 孝武帝 |
子女 | 前廃帝、劉子尚、劉楚玉(山陰公主)、劉楚佩(臨淮康哀公主)、劉楚琇、劉修明(康楽公主) |
父親 | 王偃 |
王 憲嫄(おう けんげん、428年 - 464年10月9日)は、南朝宋の孝武帝劉駿の皇后。本貫は琅邪郡臨沂県。
経歴
王偃の娘として生まれた。443年(元嘉20年)、武陵王妃に封じられた。劉駿の寵愛を受け、前廃帝劉子業・豫章王劉子尚・山陰公主劉楚玉・臨淮康哀公主劉楚佩・皇女劉楚琇・康楽公主劉修明を産んだ。453年(元嘉30年)2月、劉駿が劉劭を討つと、憲嫄は路恵男とともに尋陽に留まった。5月、反乱が平定されると、憲嫄は建康に入って、皇后に立てられた。
460年(大明4年)3月、憲嫄は六宮を率いて西郊で躬桑の儀式をおこない、皇太后の路恵男がその儀礼を観覧した。464年(大明8年)閏5月に劉子業が即位すると、7月に憲嫄は皇太后となり、永訓宮と称された。8月23日、含章殿で死去した。享年は38。9月、景寧陵に陪葬された。諡は文穆皇后といった。