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「韋皇后 (唐中宗)」の版間の差分

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* 女子:長寧公主、永寿公主、[[李仙蕙]](永泰公主)、[[安楽公主|李裹児]](安楽公主)
* 女子:長寧公主、永寿公主、[[李仙蕙]](永泰公主)、[[安楽公主|李裹児]](安楽公主)


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2019年10月29日 (火) 00:15時点における版

韋皇后
の皇后
在位 684年705年 - 710年

死去 710年7月21日唐隆元年6月20日
配偶者 中宗
子女 李重潤
長寧公主
永寿公主
永泰公主
安楽公主
父親 韋玄貞
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韋皇后(いこうごう、? - 唐隆元年6月20日710年7月21日))は、中宗の皇后。韋玄貞の娘。京兆万年(現在の陝西省西安)出身。しばしば韋后と呼ばれる。

生涯

中宗が即位すると、皇后となったが、やがて中宗が廃位され、湖北に流されそれに随行。夫婦は苦難の日々を送ったが二人の仲は良かったという。

神龍元年(705年)、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。景雲4年(710年)には自らの即位を意図し、娘の安楽公主とともに中宗を毒殺、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。しかし間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。

子女