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2019年10月29日 (火) 00:15時点における版
宣帝 蕭詧 | |
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後梁 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 後梁 |
在位期間 | 555年 - 562年 |
都城 | 江陵 |
姓・諱 | 蕭詧 |
字 | 理孫 |
諡号 | 宣皇帝 |
廟号 | 中宗 |
生年 | 天監18年(519年) |
没年 | 大定18年(562年) |
父 | 蕭統 |
母 | 元太后 |
后妃 | 宣静皇后 |
陵墓 | 平陵 |
年号 | 大定 : 555年 - 562年 |
生涯
梁の昭明太子蕭統の三男。中大通3年(531年)に岳陽郡王、東揚州刺史に任命され、会稽で勢力を伸ばした。中大同元年(546年)には雍州刺史となり襄陽に移っている。太清3年(549年)に次兄の長河東王蕭誉が叔父の湘東王蕭繹(後の元帝)の攻撃を受ける事件が発生すると、蕭詧は救援の兵を起こすが失敗、窮して西魏へ降ることとなった。大統16年(550年)に西魏によって梁王に冊封されるなど優遇された。承聖3年(554年)に西魏が江陵を攻撃すると元帝は投降、蕭詧はこれを殺害した。
その後555年に梁皇帝を自称し、元号を大定と定めて自立した。しかし江陵の周囲800里の地以外、襄陽を含めすべて西魏に併呑されており、国勢は振るわなかった。大定18年(562年)に崩御し、次男の蕭巋がその地位を継承した。
伝記資料
- 『梁書』巻55(列伝第49)
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