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2019年10月29日 (火) 00:12時点における版
東昏侯 蕭宝巻 | |
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斉 | |
第6代皇帝 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 | 498年 - 501年 |
姓・諱 | 蕭明賢→蕭宝巻 |
字 | 智蔵 |
諡号 | 昭粛皇帝(蕭宝寅による) |
廟号 | 烈宗(蕭宝寅による) |
生年 | 永明元年(483年) |
没年 | 永元3年(501年)12月 |
父 | 明帝 |
母 | 敬皇后 |
后妃 | 褚皇后 |
年号 | 永元 : 499年 - 501年 |
蕭 宝巻(しょう ほうかん)は、南朝斉(南斉)の第6代皇帝。明帝の次男。同母弟に和帝、蕭宝寅がいる。斉の3人の廃帝の一人で東昏侯(とうこんこう)と呼ばれる。
生涯
永泰元年(498年)、明帝の死去に伴い即位する。明帝の葬儀の際、太中大夫の羊闡が激しく慟哭するあまり、帽子が脱げて禿頭を露出させたのを見るや、大笑いしたという逸話が『南史』に伝わる。
即位後は明帝の遺命により皇帝の輔佐を命じられていた6人の重臣を殺害し、独裁体制を作ると奸臣を近づけ、民衆から収奪して享楽的な生活を送る暴君であったといわれている。内向的な性格であり、重臣との接触を避け、多くの宮殿を造営するなどして国家財政を破綻させた。また、通行人を馬蹄で踏みつける奇行があり、妊婦もその対象となり、母子共に命を落とす事件を頻発させた。後宮では幼馴染であった潘玉児を寵愛し、足の小さかった彼女のために庭園の歩道を黄金で作った蓮の花で敷き詰めその上を歩かせたという逸話が残されている[注釈 1]。『南史』斉本紀に、東昏侯は裸足の潘妃が金色の蓮の花の上を歩く姿に陶然となった、として故事「歩歩蓮華を生ず」の記載がある[注釈 2]。
このような皇帝に不満が続出し、心ある人々により諫言が行われるが、逆にそれが元で殺害される者もあり、ついには反乱の発生となった。その反乱も同族である豫州刺史・蕭懿の活躍により鎮圧されるが、これを妬んだ茹法珍らの讒言により、蕭懿を賜死による自害に追い詰めた。これに危惧した蕭懿の弟の雍州刺史蕭衍が、蕭宝巻の弟で荊州刺史の蕭宝融(和帝)をかついで挙兵した。この状態でも宮廷で享楽的な生活を送っていた蕭宝巻は衛兵に殺害され、首は蝋で固められて、蕭衍のもとに送り届けられた。死後、諸侯に落とされて、前漢の海昏侯劉賀にちなんで「愚かな東の侯」という意味で東昏侯の号を与えられた。
南斉が滅亡した後の527年、弟の蕭宝寅が北魏に反乱を起こして自立、斉の皇帝を称した。その際、蕭宝寅は兄の蕭宝巻に対し、烈宗の廟号と昭粛帝の諡号を贈った。
余話
『水滸伝』や『金瓶梅』に登場する美女潘金蓮の名前は、潘玉児の故事に由来する。
宗室
妻妾
子女
- 蕭誦(太子、499年前 - 501年)、母は淑儀黄氏
- 公主(夭逝)、母は貴妃潘玉児
- 蕭綜(蕭宝巻の遺児を自認した)、母は美人呉景暉
注釈
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