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2019年10月29日 (火) 00:10時点における版
明帝 蕭巋 | |
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後梁 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 後梁 |
在位期間 | 562年 - 585年 |
姓・諱 | 蕭巋 |
字 | 仁遠 |
諡号 | 明皇帝 |
廟号 | 世宗 |
生年 | 大同8年(542年) |
没年 | 天保24年(585年)5月 |
父 | 宣帝 |
母 | 曹貴嬪 |
后妃 | 張皇后 |
陵墓 | 顕陵 |
年号 | 天保 : 562年 - 585年 |
蕭 巋(しょう き)は、南朝後梁の第2代皇帝。諡号は明皇帝で、明帝と呼ばれる。
生涯
大定18年(562年)、父宣帝の崩御により皇位を継ぐ。後梁は事実上北周の傀儡政権であり、北周とともに南朝の陳と対峙した。
天保16年(577年)に北周が北斉を滅ぼした際には、自ら北周の都長安に出向いて当時の皇帝たる武帝(宇文邕)に祝賀の言葉を述べた。このふたりの皇帝はほぼ同年代であった。その際、武帝は明帝の優美な立ち居振る舞いに魅せられ、一方の明帝は武帝に後梁建国以来の恩義を語り、ふたりはともに涙ぐんだ。明帝が後梁に帰る際には、武帝自らが琵琶を弾いて盛大に見送り、2人で軽口を叩き合った。このように個人的にも親密な関係を築いていったから、明帝は傀儡政権の皇帝という不安定な立場ではあるものの、北周と友好的な関係を築くことに成功した。その結果、北周は後梁の都江陵に駐在させていた将軍を引き上げさせ、後梁の自治が回復された。
その後、宗主国が北周から隋へと変わった後もその親密な関係は続き、明帝が再び長安を訪れた際には、隋の文帝(楊堅)は自ら明帝の手を取り「必ず梁の旧地を取り戻して送り届ける」と言ったと伝えられる。また、明帝の娘は楊堅の次男の楊広(後の煬帝)に嫁ぎ、楊広が皇帝に即位した際には皇后となっている(煬愍蕭皇后)。
このような安定した政権の下、江陵では梁から受け継いだ文化が花開いた。また、明帝自身も学才があり、『孝経』、『周易義記』、『大小乗幽微』などを著した。
妻子
后妃
- 張皇后
男子
女子
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