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シンドバーグ氏は当時、[[南京]」郊外のセメント工場でドイツ人とともに警備員として働いていた。シンドバーグ氏はこの工場に、6000~1万人の市民をかくまい、治療などをほどこしたという。 |
シンドバーグ氏は当時、[[南京]]」郊外のセメント工場でドイツ人とともに警備員として働いていた。シンドバーグ氏はこの工場に、6000~1万人の市民をかくまい、治療などをほどこしたという。 |
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中国は、シンドバーグ氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。シンドバーグは、[[1937年]]12月の[[南京戦]]で日本軍によって南京が陥落したあと、1938年2月の手紙で、[[棲霞山寺]]の高僧からの手紙をドイツ語に翻訳した |
中国は、シンドバーグ氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。シンドバーグは、[[1937年]]12月の[[南京戦]]で日本軍によって南京が陥落したあと、1938年2月の手紙で、[[棲霞山寺]]の高僧からの手紙をドイツ語に翻訳した |
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<ref name=sind>第六十号文書 棲霞山寺よりの覚書 「南京大残虐事件資料集第2巻」p194-195「以下は中国語からの翻訳であるから、正確には原文通りではないかもしれない。この手紙は私のすまいから五マイル離れたところにある棲霞山寺から受けとったもので、高僧の一人によって書かれ、二〇人の地元の有力者が署名している。B.A.Sindberg 1938年2月3日」</ref><ref name=seinen>[http://pipponan.fc2web.com/143photos/seikasan/seikasan.htm 貴重な歴史写真を本紙が独自で初公開 日本の南京大虐殺の動かぬ証拠をまたひとつ暴く『中国青年報』2001-09-15]</ref>。 |
<ref name=sind>第六十号文書 棲霞山寺よりの覚書 「南京大残虐事件資料集第2巻」p194-195「以下は中国語からの翻訳であるから、正確には原文通りではないかもしれない。この手紙は私のすまいから五マイル離れたところにある棲霞山寺から受けとったもので、高僧の一人によって書かれ、二〇人の地元の有力者が署名している。B.A.Sindberg 1938年2月3日」</ref><ref name=seinen>[http://pipponan.fc2web.com/143photos/seikasan/seikasan.htm 貴重な歴史写真を本紙が独自で初公開 日本の南京大虐殺の動かぬ証拠をまたひとつ暴く『中国青年報』2001-09-15]</ref>。 |
2019年9月29日 (日) 00:02時点における版
ベルンハルト・アルプ・シンドバーグ(デンマーク語: Bernhard Arp Sindberg、中国語: 伯恩哈尔·阿尔普·辛德贝格、1911年2月19日 - 1983年)[1]は、デンマーク出身の実業家。南京戦の際にドイツ人のカール・ギュンターと難民を保護した[2]。
経歴
オーフス生まれ。1934年中国に渡り、1937年12月南京市郊外のセメント工場に赴任した。のちアメリカ合衆国に移民し、カリフォルニア州で没した[1]。
南京事件に関して
シンドバーグ氏は当時、南京」郊外のセメント工場でドイツ人とともに警備員として働いていた。シンドバーグ氏はこの工場に、6000~1万人の市民をかくまい、治療などをほどこしたという。 中国は、シンドバーグ氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。シンドバーグは、1937年12月の南京戦で日本軍によって南京が陥落したあと、1938年2月の手紙で、棲霞山寺の高僧からの手紙をドイツ語に翻訳した [3][2]。
棲霞山寺の高僧の1938年1月25日付報告は以下の通り[3]。
- 2万4000人の難民が寺にいて、大半は女子供である。男は射殺されたか、拉致された。
- 1938年1月4日。日本兵がトラック一台にのってやってきて、牝牛を九頭盗み、中国人に屠殺させた。ひまつぶしに近所で数軒の家を焼いた。
- 1月6日。河岸から多くの日本兵が来て、ロバ一頭と寝具18枚を盗んだ。
- 1月7日。日本兵が一人の婦人と14歳の少女を強姦し、寝具を5枚奪った。
- 1月8日・9日。婦人6人が日本兵に銃剣で脅され強姦された。
- 1月11日。婦人4人が強姦され、酔っぱらった兵隊が寺をかけまわって、小銃を乱射し、多くの者を負傷させた。(民族名無記名)
- 1月13日。多くの兵隊が食糧を大量に没収し、母と娘を強姦。(民族名無記名)
- 1月15日。多くの日本兵が若い女10人を寺で強姦した。一人の泥酔した日本兵が酒と女を出せと要求した。酒は出したが、女は出さなかった。 彼は立腹して銃を乱射しはじめ、少年2人を殺し、また道ばたの一軒の家で70歳の老農婦を殺し、ロバを一頭盗み、家に火をつけた。
- 1月16日。強姦と略奪がくりかえされた。(民族名無記名)
- 1月18日。ロバが三頭盗まれた。(民族名無記名)
- 1月19日。日本兵が寺中を暴れまわり、戸や窓や家具をこわし、ロバを七頭盗んでひきあげた。
- 1月20日頃、別の分遣隊が到着して棲霞山鉄道駅の警備を交替しました。新しい中尉がきてから事態は改善され、寺にも警備兵が一人ついた。
南京大虐殺紀念館の朱成山館長は、シンドバーグは日本軍による南京大虐殺の目撃者であると主張する[4]。ただし、シンドバーグは掠奪や強姦の被害を受けた僧侶の報告を翻訳したにとどまる[3]。南京大虐殺紀念館は、シンドバーグの写真や書簡は、日本による南京大虐殺を告発する重要な記録・証拠であるとし、展示にも使われており、訪中したデンマーク女王も閲覧した[4][5][6]。
脚注
- ^ a b Sindberg. The Good Dane in Nanjing 1937. by Hans J. Hinrup, Senior Advisor, State and University Library, Aarhus, Denmark NACS 8th Biennial Conference in Stockholm, June 11-13, 2007 Archived 2011年7月14日, at the Wayback Machine.
- ^ a b 貴重な歴史写真を本紙が独自で初公開 日本の南京大虐殺の動かぬ証拠をまたひとつ暴く『中国青年報』2001-09-15
- ^ a b c 第六十号文書 棲霞山寺よりの覚書 「南京大残虐事件資料集第2巻」p194-195「以下は中国語からの翻訳であるから、正確には原文通りではないかもしれない。この手紙は私のすまいから五マイル離れたところにある棲霞山寺から受けとったもので、高僧の一人によって書かれ、二〇人の地元の有力者が署名している。B.A.Sindberg 1938年2月3日」
- ^ a b “デンマーク女王,南京大虐殺記念館を訪問”. 中華人民共和国駐日本国大使館中日関係ニュース. (2014年4月27日) 2014年4月28日閲覧。
- ^ “デンマーク女王が南京大虐殺記念館を見学”. 人民網日本語版. (2014年4月28日) 2014年4月28日閲覧。
- ^ “デンマーク女王が南京大虐殺記念館を訪問”. 朝鮮日報日本語版. (2014年4月28日) 2014年4月28日閲覧。