「大塚 (花街)」の版間の差分
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[[1944年]](昭和19年)、花街の営業が停止され、芸妓らは勤労奉仕に駆り出され、1945年(昭和20年)4月13日、2回目の[[東京大空襲]]の被害を受け灰燼に帰す<ref name="uemura93">『東京 花街 粋な街』p.93</ref>。 |
[[1944年]](昭和19年)、花街の営業が停止され、芸妓らは勤労奉仕に駆り出され、1945年(昭和20年)4月13日、2回目の[[東京大空襲]]の被害を受け灰燼に帰す<ref name="uemura93">『東京 花街 粋な街』p.93</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2019年3月29日 (金) 00:07時点における版
沿革
1903年(明治36年)、山手線大塚駅が開業、周辺が開発され商業地となる。料理屋、飲食店が相次いで開業し花街開設を要望した。
1920年(大正9年)、清元の遊芸師匠が料理屋を開業、賑わいの中心地となっていた天祖神社付近に同業者が集まり、池袋から来た同業者と共に3つの組合が結成された。これが大塚花街の原型であった[1]。
花街開設に尽力した大井玄道、白山花街開設者・秋本平十郎の協力を得て1922年(大正11年)4月、巣鴨町字平松(現・南大塚)に指定地許可を得た。当初は天祖神社付近を望んでいたが谷端川北側に指定された。芸妓組合も結成され、芸妓100名程度であった。関東大震災(1923年)の被害を免れ、1924年(大正13年)9月28日、待合の許可を受け正式な花街となる。待合18軒、芸妓200名であった[2]。大塚は軍関係者に利用され、1931年(昭和6年)は芸妓260名、料理屋22軒、待合61軒、置屋68軒とある[2]
1944年(昭和19年)、花街の営業が停止され、芸妓らは勤労奉仕に駆り出され、1945年(昭和20年)4月13日、2回目の東京大空襲の被害を受け灰燼に帰す[3]。
戦後、花街は復興、1950年(昭和25年)には料亭50軒、1956年(昭和31年)で68軒であったが1965年(昭和40年)、客層の変化で料亭50軒、芸妓150名に減じ、1972年(昭和47年)には料亭40軒、芸妓50名、お酌芸者150名、置屋30軒[4]、1977年(昭和52年)には料亭30軒、芸妓約50名となり、2008年(平成20年)には料亭が7数軒、芸妓10数名となった[3]。現在、谷端川跡の三業通り周辺に花街があり、マンション一階に検番がある。
脚注
参考文献
- 上村敏彦 『東京 花街 粋な街』街と暮らし社 2008年