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2019年3月1日 (金) 00:05時点における版
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1945年の日本プロ野球では、1945年に起きた日本の職業野球での出来事について説明する。
1944年11月、太平洋戦争の戦況悪化から、日本野球報国会は公式戦の休止を発表した。これにより、1945年の公式戦は開催されないことが決定したが、阪神が非公式戦の正月大会を企画した。阪神は、阪神・阪急・産業・朝日所属で関西近辺に残留している選手をかき集めて、1月1日から1月5日にかけて、兵庫県西宮市の2球場(西宮球場・甲子園球場)で大会を開催した。この大会が終戦前最後の職業野球であるとされている[1]。
8月15日に終戦を迎えたが、兵役によりチームを離れた者や休止をきっかけにユニフォームを脱ぐ者が多かったため、職業野球の各チームは崩壊状態であった。終戦を機に各チームは再建に奔走し、終戦からちょうど100日目の11月23日に巨人・名古屋・セネタース(終戦後創立)の選手で編成された東軍と阪神・南海・阪急の選手で編成された西軍との「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」が神宮球場で開催された。その後も、群馬・兵庫で東西対抗戦が開催され、計4試合の職業野球の試合が開催された[2]。
正月野球大会
→詳細は「1945年の正月大会」を参照
- 1月1日(甲子園球場)
- 猛虎軍:9 - 3:隼軍
- 猛虎軍:8 - 3:隼軍
- 1月2日(阪急西宮球場)
- 猛虎軍:12 - 3:隼軍
- 猛虎軍:6 - 1:隼軍
- 1月3日(甲子園球場)
- 中止
- 1月4日(阪急西宮球場)
- 隼軍:3 - 2:猛虎軍
- 猛虎軍:6 - 1:隼軍
- 1月5日(甲子園球場)
- 猛虎軍:6 - 3:隼軍
- 猛虎軍:9 - 2:隼軍
日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦
第1戦(11月23日)
- オーダー
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第2戦(11月24日)
- オーダー
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第3戦(12月1日)
- オーダー
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第4戦(12月2日)
○東軍 4-0 西軍●(西宮球場)
- オーダー
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できごと
- 1月1日 - 日本職業野球は「正月野球大会」を阪神甲子園球場と西宮球場で1月5日まで開催。選手不足からチームは混成となり、阪神軍・産業連合が「猛虎軍」、阪急軍・朝日軍連合が「隼軍」であった。これが非公式戦も含めた太平洋戦争中最後のプロ野球試合となる。
- 4月3日 - 元大阪タイガースの西村幸生がフィリピンのバタンガスで戦死。
- 5月11日 - 元名古屋軍の石丸進一が神風特別攻撃隊の隊員として出撃し、戦死。
- 5月20日 - 元阪神軍の景浦將がフィリピン戦線で戦死(戦死公報では死亡地は「ルソン島のカラングラン」とされるが、正確性には疑問が出されている[3])。
- 9月15日 - 明治神宮野球場・競技場、進駐軍に接収され『ステートサイド・パーク』と名付けられる(1952年3月31日解除)[4]。
- 11月6日 - 日本野球連盟復活。
- 11月14日 - 進駐軍、後楽園野球場を接収。
- 11月23日 - 神宮球場において、戦後初のプロ野球の試合となる「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」が開催される。また職業野球連盟発足後、神宮球場で開催された最初のプロ野球試合であった。このあと11月24日に群馬・新川球場、12月1~2日に西宮球場で開催。