コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「シラ・オグル」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m cewbot: ウィキ文法修正 1: Template contains useless word template
36行目: 36行目:
*宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
*宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
{{Template:チンギス・カンの御家人}}
{{チンギス・カンの御家人}}
{{DEFAULTSORT:しらおくる}}
{{DEFAULTSORT:しらおくる}}
[[Category:モンゴル帝国の将軍]]
[[Category:モンゴル帝国の将軍]]

2019年2月11日 (月) 01:20時点における版

シラ・オグルモンゴル語: Šira Oγul,中国語: 昔剌斡忽勒,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたケレイト部出身のビチクチ(書記官)。『元史』などの漢文史料では昔剌斡忽勒(xīlàwòhūlè)と記される。

モンゴル秘史』で千人隊長の一人に数えられるシラクル(Širaqul >失剌忽勒/shīlàhūlè)と同一人物と見られる[1]

概要

『元史』によると兄弟が4人おり、長男がトク・ブカ(脱不花)、次男がケレゲイ(怯烈哥)、三男がシラ・オグルで、四男にカラ・オグル(哈剌阿忽剌)がいた。次男のケレゲイは早くからモンゴル部のチンギス・カンと誼を通じており、4兄弟はこの縁を頼って部属を率いチンギス・カンに臣従した。チンギス・カンはケレゲイとの古くからの縁を重んじ、朝会や宴会で常に上列に座らせるなどその一族を厚遇した。

ケレイト部はモンゴル部に先んじてウイグル文字を導入しており、シラ・オグルもまたウイグル文字を用いたモンゴル諸語の記述に通じていた。チンギス・カンに臣従したシラ・オグルはこの能力を買われてビチクチ長(必闍赤長)に任ぜられ、シラ・オグルはモンゴル帝国における最初のビチクチの一人となった。同じ頃、ケレイト部出身のアビシュカやケレイト部に縁のあるウイグル人チンカイもビチクチに任ぜられており、これらの元ケレイト・ウルス関係者がモンゴル帝国のビチクチ制度の原型を形作ったと考えられている[2][3]

シラ・オグルは早くに亡くなったため、息子のブルガイがその地位を引き継いだ。ブルガイは第4代皇帝モンケの治世においてジャライル部のモンケセルとともにモンケの最側近として国政を取り仕切ったが、モンケの死後の帝位継承戦争ではアリク・ブケを擁立してクビライと争ったため、クビライに敗れて処刑された。 [4]

ケレイト部シラ・オグル家

脚注

  1. ^ 村上1972,383頁
  2. ^ 坂本1970,106-107頁
  3. ^ 宮2018,498頁
  4. ^ 『元史』巻134列伝21也先不花伝,「也先不花、蒙古怯烈氏。祖曰昔剌斡忽勒、兄弟四人、長曰脱不花、次曰怯烈哥、季曰哈剌阿忽剌。方太祖微時、怯烈哥已深自結納、後兄弟四人皆率部属来帰。太祖以旧好、遇之特異他族、命為必闍赤長、朝会燕饗、使居上列。昔剌斡忽勒早世、其子孛魯歓幼事睿宗、入宿衛……。

参考文献

  • 坂本勉「モンゴル帝国における必闍赤=bitikci:憲宗メングの時代までを中心として」『史学』42巻、1970年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年