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*村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
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2019年2月11日 (月) 01:18時点における版

コルコスン(Qorqosun, ? - ?)は、モンゴル帝国オッチギン王家に仕えた千人隊長の一人。『元史』などの漢文史料では火魯和孫(huŏlŭhésūn)、『モンゴル秘史』では豁児豁孫(huōérhuōsūn)と記される。

概要

コルコスンの出自・来歴については全く史料上に記載がないが、チンギス・カンモンゴル高原を統一しモンゴル帝国を建設した際には95人の千人隊長(ミンガン)の一人に数えられた[1]。なお、『集史』「チンギス・カン紀」ではテムゲ・オッチギンに対して「オロナウル・ケレングト部の2千人隊と、ベスト部の1千人隊と、ジャジラト部などからなる3つの千人隊を与えた」と記されているが、コルコスンの千人隊がこの内のどれに属するかは不明である[2]

その後、チンギス・カンが95の千人隊の内5つを末弟のテムゲ・オッチギンに分与した際、コルコスンの千人隊もそこに含まれ、コルコスンはオッチギン王家の王傅に任ぜられた。チンギス・カンによるテムゲ・オッチギンへの分封とオッチギン・ウルスの成立について『モンゴル秘史』は以下のように述べている。

さて、母上とオッチギンに万(トゥメン)の民を与えられ、ノヤンたちのうちから、クチュココチュジュスクコルコスンの四人を[王傅に]任じたもうた — 『モンゴル秘史』第243節[3]

テムゲ・オッチギンの死後、その長子ジブゲンが早世したため、その息子タガチャルがオッチギン・ウルス当主に就くこととなった。ところが「庶兄」のトデ(脱迭)はタガチャルが未だ幼いことを理由にこれを廃して自らがオッチギン・ウルスの当主になろうと企んだ。これに対してオッチギン家の王傅たるコルコスンとウイグル人サルギスは当時先代カーングユクの寡婦として実権を握っていたドレゲネに直訴したため、タガチャルは「皇太弟宝」を与えられて正式にオッチギン・ウルス当主就任を認められた[4]

コルコスンとサルギスはこの功績によってオッチギン・ウルス内で重きをなし、ウルスを南北に分断してカラウン・ジドゥン(「黒山」の意,現在の大興安嶺山脈)の北側をコルコスンが、南側をサルギスが治めることになった[5]。カラウン・ジドゥンの北側とは肥沃な遊牧地帯たるフルンボイル地方を指し、オッチギン・ウルスの初封地でもあったため、生粋のモンゴル人将軍たるコルコスンに管理が任せられたのだと考えられている[6]

初期オッチギン・ウルスの5千人隊長

脚注

  1. ^ 村上1972,342/363頁
  2. ^ 杉山2004,39頁
  3. ^ 村上1976,105-106頁
  4. ^ >『元史』巻134列伝21撒吉思伝「斡真薨、長子只不干蚤世、嫡孫塔察児幼、庶兄脱迭狂恣、欲廃嫡自立。撒吉思与火魯和孫馳白皇后、乃授塔察児以皇太弟宝、襲爵為王」。なお、『元史』巻134列伝21撒吉思伝に記される「火魯和孫」が『モンゴル秘史』に記されるオッチギン家王傅のコルコスンと同一人物であろうと最初に指摘したのは那珂通世であった(村上1972,342/杉山2004,47頁)
  5. ^ 『元史』巻134列伝21撒吉思伝「撒吉思以功与火魯和孫分治、黒山以南撒吉思理之、其北火魯和孫理之」
  6. ^ 杉山2004,46-48頁

参考文献

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年