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*村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年 |
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*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年 |
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2019年2月11日 (月) 01:17時点における版
ケテ(モンゴル語: Kete,中国語: 客帖,? - ?)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたフーシン出身の千人隊長。1206年にケテ率いる千人隊はチンギス・カンの長男ジョチに分封され、ジョチ・ウルスの基盤となった。『モンゴル秘史』では客帖(kètiē)と記される。
また、後述するようにペルシア語史料の『集史』に登場する、フーシダイ(Hušidai >hūshītāī,هوشیتای)と同一人物ではないかと考えられている。
『モンゴル秘史』のケテ(Kete >kètiē,客帖)
ケテに関する記録は史料上に少なく、その出自やチンギス・カンに仕えるに至った経緯については不明である。1206年、ケテはチンギス・カンにより千人隊長に任じられ、『モンゴル秘史』の功臣表では50位に列している[1]。
また、『モンゴル秘史』によるとケテはゲニゲスのクナン(Qunan >hūnán,忽難)、シジウトのモンケウル(Mönggü'ür >mēnggǔwūér,蒙古兀児)とともにチンギス・カンの長子ジョチの王傅に任ぜられており、その千人隊はジョチ・ウルスの基盤となったと考えられている[2]。
『集史』のフーシダイ(Hušidai >hūshītāī,هوشیتای)
『集史』ではジョチに分封された4人の千人隊長の名前を、キンキトのクナン・ノヤン(Qunan noyan >qūnān Nūyān,قونان نویان)、シジウトのモンケウル(Möngke'ür >Mungkūr,منگکور)、フーシンのフーシダイ(HuŠidai >hūshītāī,هوشیتای)、[原文欠落]のバイク(Baiqu >bāīqū,بایقو)、と記録している。この内、クナン・ノヤン(قونان نویان,qūnān Nūyān)とモンケウル(منگکور,Mungkūr)が『モンゴル秘史』におけるクナン(hūnán,忽難)とモンケウル(mēnggǔwūér,蒙古兀児)に相当することは間違いないが、ケテ(Kete >kètiē,客帖)のみは対応する人名が記されない。
しかし、「フーシダイ」とは「フーシンの人」を意味する名称であり、この「フーシダイ」こそがケテの別名ではないかと推測されている。ただし、ケテ=フーシダイ説はあくまで推論に過ぎず、この推論に対して批判的な意見も存在する。なお、『集史』「フーシン部族志」では「フーシダイ・バイク(hūshīdāī bāīqū,هوشیدای بایقو)」という人物について記録しているが、これは基本的にバイクの事を指すと考えられている。
ジョチの死後、ジョチの4千人隊は2分されてモンケウルとバイクの2千人隊はバトゥが、クナンとフーシダイの2千人隊はオルダが、それぞれ継承したと考えられている[3]。
初期ジョチ・ウルスの4千人隊
- ゲニゲス部のクナン・ノヤン(Qunan >忽難/hūnán,قونان نویان/qūnān Nūyān)
- フーシン部のケテ(フーシダイ)(Kete >客帖/kètiē,هوشیتای/hūshītāī)
脚注
参考文献
- 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年
- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年