「明治天皇」の版間の差分
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2018年9月29日 (土) 00:11時点における版
明治天皇 | |
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明治天皇 | |
即位礼 |
1868年10月12日(慶応4年8月27日) 京都御所 |
大嘗祭 | 1871年12月28日(明治4年11月17日) |
元号 |
慶応 : 1867年 - 1868年 明治 : 1868年 - 1912年 |
摂政 | 二条斉敬 |
征夷大将軍 | 徳川慶喜 |
総裁 | 有栖川宮熾仁親王 |
輔相 | 岩倉具視・三条実美 |
左大臣 | 有栖川宮熾仁親王 |
右大臣 | 三条実美 |
太政大臣 | 三条実美 |
内閣総理大臣 | |
先代 | 孝明天皇 |
次代 | 大正天皇 |
誕生 |
1852年11月3日(嘉永5年9月22日)13時頃 日本 山城国 平安京(現:京都)、中山忠能邸 |
崩御 |
1912年(明治45年)7月30日午前0時43分(宝算59) 日本 東京府東京市、明治宮殿 |
大喪儀 | 1912年(大正元年)9月13日 於帝国陸軍青山練兵場 |
陵所 | 伏見桃山陵 |
追号 |
明治天皇 1912年(大正元年)8月27日追号勅定 |
諱 |
睦仁 万延元年9月28日命名 |
別称 | 日本領台湾天皇(1895年 - 1912年) |
称号 | 祐宮 |
印 | 永 |
元服 | 1868年2月8日(慶応4年1月15日) |
父親 | 孝明天皇 |
母親 | 中山慶子 |
皇后 |
一条美子(いちじょう・はるこ)(昭憲皇太后) 1869年2月9日(明治元年12月28日)大婚 |
子女 | |
皇居 |
京都御所 青山御所 東京城・皇城・宮城 |
栄典 | 大勲位 |
親署 |
明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日(嘉永5年9月22日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。
略歴
生誕から即位まで
孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に京都石薬師・中山邸にて出生。出生8日目の9月29日(11月10日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名。中山邸で暮らし、安政3年9月1日(1856年9月29日)に宮中に転居。
予定より2年遅れて万延元年閏3月16日(1860年5月6日)に、深曽木の儀を行う。7月10日(8月26日)、儲君と定められ、准后・九条夙子の実子とされる。9月28日(11月10日)、親王宣下を受け睦仁の諱名を賜る。
元治元年7月19日(1864年8月20日)、朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒する。長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父・中山忠能に蟄居処分が下る。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚の儀を行い皇位に即く。元服前の践祚であったので立太子礼を経ずに天皇になっている。父・孝明天皇と同じく中沼了三を信頼し初の侍講にする。
慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服。同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣下する(詳細は明治天皇の即位の礼・大嘗祭を参照。大嘗祭は明治4年11月17日<1871年12月28日>に東京で挙行)。12月28日、一条美子を皇后に冊立する。
幕末の動乱
践祚から間もなく、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。薩長両藩に討幕の密勅が下されそうになっているのを察知した征夷大将軍・徳川慶喜は、討幕の大義名分を消滅させるために慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を奏上し、翌15日(11月10日)に明治天皇は奏上を勅許した。討幕の大義名分が消滅したため、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言した。新政府軍は、12月11日(1月5日)に下坂した旧幕府勢力と慶応4年(1868年)正月に京都南郊で衝突し、鳥羽・伏見の戦いが発生した。この戦いに勝利した新政府軍は徳川慶喜を「朝敵」とし、翌明治2年(1869年)にかけての内戦(戊辰戦争)において旧幕府勢力を鎮圧した。
新時代・明治
この間、慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用するとした)。
江戸開城から半年を経た明治元年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸を東京に、江戸城を東京城に改称(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、崩御まで東京に居住。
明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。
他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)[1]を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の涵養に尽くした。
征韓論を勅旨で収める
明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。
近代国家の確立
宇多天皇による寛平御遺誡以降、天皇が外国人に直に面会することはなかったが[注釈 1]、明治天皇は外国要人と頻繁に会談している。
まず明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの子・アルフレートが英国王族として初めて訪日し会談。明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントがアメリカ大統領経験者として初めて訪日し会談。明治14年(1881年)に、ハワイ国王カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談する。
明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定する軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊を統率し軍備増強に努める。
明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行った。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となった。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語(教育ニ関スル勅語)を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。共和演説事件では、文部大臣・尾崎行雄に辞表を提出させた。
列強との同盟
外交上は1894年の日英通商航海条約、1902年の日英同盟など大国との条約を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。他方、日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、信教の自由と戦争の不幸を強調していたが、大臣らの署名がないまま交付されなかった[注釈 2]。
日英軍事同盟と日露戦争での働きにより、英国首相バルフォアの許可を得、1906年にガーター勲章を授与される[2]。また、日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。
明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。
崩御
明治天皇が崩御した公式の日時は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり、同月30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御。
天皇は明治45年7月11日の東京大学卒業式に出席した。気分は悪かった。侍医では対応できなくなって、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、また、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典侍)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、天皇は自分の寝室である御内儀で休むことができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった[3]。看護婦も勲5等以上でなくてはいけないので、5位以上の女官が看護した[4]。
宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝(新天皇)になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めたという[5]。
天皇崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子は、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、伊都子ら皇族は二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが、時計が10時半を打つ頃には、天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった。
同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われた。崩御からこの日までの約1ヶ月半の間、宮中では様々な儀式が執り行われていた。澵大葬終了後、明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。大喪のためにしつらえた葬場殿の跡地には、『聖徳記念絵画館』が建てられた。
世界における天皇崩御
明治天皇の崩御は世界各国で報道された。天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全二十八章二十余国からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。イギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、フランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、ドイツ、オーストリア、ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、アメリカは「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖」などを「憧憬仰慕」として感心していると述べた。そして、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と明治天皇を高く評価したことを特記した。当時日本に併合されていた朝鮮などの論調は掲載されていない。またこれは、1926年(大正15年)12月の大正時代の終わりにあたっても再刊されている[要検証 ]。
人柄と影響
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
- 明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を脱がずに執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。
- 皇女の東久邇聡子の証言では、「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通したあと朱筆で疑問点を書きいれ、内容をすべて暗記して次の書類と違いがあると必ず注意し、よく前言との違いで叱責された伊藤博文はごまかしが効かないと困っていた」とある。
- 「残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れる」という態度を示した。乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。蹴鞠も好み、自身でも蹴鞠をし、教えもした。蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い「蹴鞠を保存せよ」との勅命と下賜金でもって明治40年(1907年)5月7日に飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会を梅渓道善(うめたにみちとう)を初代会長に発足させた。
- 一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。
- 私生活では、日本酒を好み、夜は女官たちと楽しそうに宴会をすることが多かった。晩年は糖尿病を患い酒量は減退したが、健康のためにそれでもワインなどを飲んでいた。また当時の最新の技術であったレコードをよくかけ、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいた。機嫌のいい時は琵琶歌を歌っていたが、周囲の証言ではあまり上手ではなかったとある。
- 兵たちと苦楽を共にするという信念を持っていた。例えば日清戦争で広島大本営に移った際、暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続ける、といった具合であった。こうした態度は、晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかった。
- 若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
- 奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。
- 散髪脱刀令が出された後の明治6年(1873年)3月、明治天皇が西洋風に断髪したことで、国民も同様にする者が増えたという。
- 無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14年(1881年)の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞である)。以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、自身も「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に帯刀していた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として名刀の散逸が防がれることとなった。反面、集めるだけでなく試し斬りを好み、数多くの名刀を試し斬りにて損傷させてもいる。
- 明治34年(1901年)に伊藤博文が内閣総理大臣の辞表を提出した時は「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」と述べた(1889年に制定された旧皇室典範と登極令で退位禁止が明文化されていた)。
- 大の写真嫌いであったことは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)による肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。しかしながら明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見された[7]。また最晩年の明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが生前最後に撮影された姿といわれている。
- 最晩年は体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いたり、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまい「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴るなど、これまでの壮健な天皇に見られなかったことが起こり、周囲を心配させた[8]。
- 大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死した。
- 貧困層に対する医療政策として明治44年(1911年)2月11日、『済生勅語』によって、皇室からの下付金150万円を済生会創設に下付された。
- 諸外国では切手や貨幣に国家元首の肖像が数多く用いられていることから、エドアルド・キヨッソーネが明治天皇の肖像図案を提案したが拒絶された。そのため明治天皇の肖像切手は一度も発行されていなかったが、セルビアで2007年に発行された「セルビア・日本相互関係125年」記念切手の図柄に、関係樹立当時のセルビア国王ミラン1世と、若き明治天皇の肖像(右の画像1枚目)が描かれている[9]。
- 日露戦争で勝利した日本に列強支配打倒の希望を持った一部のイスラム教徒により、明治天皇カリフ化計画が「イジュティハート」誌上の論文にて主張された。イランからはタバタバーイーらの立憲派学者が明治天皇に電報を打ち、イスラム社会への保護と支援を求めた[10]。
著名な御製
明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、 九万三千首余り[11] [注釈 3]といわれる。
よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな
よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
わが國は神のすゑなり神まつる昔の手ぶり忘るなよゆめ
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは人の心のまことなりけり
系譜
父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明天皇の女御・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。その姪で、息子・大正天皇の后でもある九条節子(貞明皇后)は義理の従兄妹でもある。乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。
明治天皇の系譜 |
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系図
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇子女
皇后との間に子女なし。5人の側室(典侍・権典侍)との間に5男10女を儲けるが、成人した男子は大正天皇だけである。女子は4人が成人を迎え、それぞれ子女を儲けている。
- 皇后:一条美子(昭憲皇太后)- 左大臣一条忠香三女
- 権典侍:葉室光子(緋桃権典侍)- 権大納言葉室長順次女
- 権典侍:橋本夏子(小桜権典侍)- 大納言橋本実麗末女、実は外孫、実父は少納言東坊城夏長
- 第一皇女:稚高依姫尊(わかたかよりひめの みこと、1873)死産
- 典侍:柳原愛子(早蕨典侍)- 権中納言柳原光愛次女、はじめ権典侍
- 権典侍:千種任子(花松権典侍)- 右近衛権少将千種有任長女
- 権典侍:園祥子(小菊権典侍)- 右近衛権中将園基祥次女
- 第五皇女:久宮静子内親王(ひさのみや しずこ、1886-1887)
- 第四皇子:昭宮猷仁親王(あきのみや みちひと、1887-1888)
- 第六皇女:常宮昌子内親王(つねのみや まさこ、1888-1940)- 竹田宮恒久王妃
- 第七皇女:周宮房子内親王(かねのみや ふさこ、1890-1974)- 北白川宮成久王妃
- 第八皇女:富美宮允子内親王(ふみのみや のぶこ、1891-1933)- 朝香宮鳩彦王妃
- 第五皇子:満宮輝仁親王(みつのみや てるひと、1893-1894)
- 第九皇女:泰宮聡子内親王(やすのみや としこ、1896-1978)- 東久邇宮稔彦王妃
- 第十皇女:貞宮多喜子内親王(さだのみや たきこ、1897-1899)
昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||||||||
子女無し | |||||||||||||||
葉室光子 (1853-1873) | |||||||||||||||
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||||||||
橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||||||||
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||||||||
明治天皇(第122代天皇) | |||||||||||||||
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||||||||
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||||||||
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||||||||
柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||||||||
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||||||||
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||||||||
千種任子 (1856-1944) | |||||||||||||||
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||||||||
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||||||||
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||||||||
竹田宮恒久王 | |||||||||||||||
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||||||||
北白川宮成久王 | |||||||||||||||
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||||||||
朝香宮鳩彦王 | |||||||||||||||
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||||||||
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||||||||
東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||||||||
園祥子 (1867-1947) | |||||||||||||||
栄典
日本
外国
- イギリス : ガーター騎士団員
- スペイン : 金羊毛騎士団員
- スウェーデン : セラフィム勲章騎士
- ギリシャ : 救い主勲章大十字章
- イタリア王国 : 聖アヌンツィアータ騎士団員
- ハワイ王国 : カメハメハ勲章
- プロイセン : 黒鷲勲章
- イタリア王国 : 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字騎士章
- イタリア王国 : イタリア王冠勲章大十字騎士章
- タイ : 大チャクリー勲章
元号・追号
在位中の元号は、慶応と明治である。在位期間の元号から採って、明治天皇と追号された。明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない(追号も諡号の一種とする説もあるが[要出典]、厳密には異なる)。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方[13]。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族と共にその御霊は祀られている。
大正9年(1920年)、明治神宮の造営に伴い御祭神として祀られた。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀された。
著書
- 「明治天皇・昭憲皇太后御全集」全157冊中110冊が明治天皇御製[11]
明治天皇を主題とした作品
小説
映画
- 明治天皇と日露大戦争(新東宝、1957年、演:嵐寛寿郎)
- 天皇・皇后と日清戦争(新東宝、1958年、演:嵐寛寿郎)
- 明治大帝と乃木将軍(新東宝、1959年、演:嵐寛寿郎)
- 明治大帝御一代記(大蔵映画、1964年、演:嵐寛寿郎)、※上記の再編集版
- 二百三高地(東映、1980年、演:三船敏郎)
- 明治天皇宇宙の旅(神戸大学特殊撮影研究同好会、1988年)
- ラストサムライ(ワーナー・ブラザース、2003年、演:中村七之助)
テレビドラマ
- 明治天皇 第一部(よみうりテレビ、1966年、演:17代目市村羽左衛門)
- 明治天皇 第二部(よみうりテレビ、1967年、演:13代目片岡仁左衛門)
- 二百三高地 愛は死にますか(TBS、1981年、演:6代目市川染五郎)
- 翔ぶが如く(NHK大河ドラマ、1990年、演:岡部浩之)
- 徳川慶喜(NHK大河ドラマ、1998年、演:安藤一平)
- 新選組血風録(テレビ朝日、1998年、演:藤森周一郎)
- 走向共和(CCTV(中国)、2003年、演:矢野浩二)
- 新選組!(NHK大河ドラマ、2004年、演:中川景四)
- 坂の上の雲(NHKスペシャルドラマ、2009年、演:5代目尾上菊之助)
脚注
注釈
出典
- ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
- ^ #ミットフォード。
- ^ 米窪明美『明治宮殿のさんざめき』216項(文藝春秋、2011年)
- ^ 林栄子『近代医学の先駆者 三浦謹之助 明治天皇・大正天皇のお医者さん』166-176頁、(叢文社、2011年)
- ^ 栗原広太『人間明治天皇』1953年、p102-103。
- ^ 坂本一登『伊藤博文と明治国家形成-「宮中」の制度化と立憲制の導入-』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X
- ^ “隠し撮り?44歳の明治天皇を撮影した貴重な一枚”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2017年1月21日) 2017年1月21日閲覧。
- ^ 保坂正康『崩御と即位』(新潮文庫、2011年)
- ^ 両者の肖像が描かれた記念切手
- ^ 西尾 幹二 『新・地球日本史〈1〉明治中期から第二次世界大戦まで』 (産経新聞ニュースサービス、2005年)
- ^ a b 『類纂新輯明治天皇御集』 明治神宮、1990年。九万三千三十二首と記載している。うち八千九百三十六首謹撰.
- ^ #ミットフォード。
- ^ “-天皇陵-明治天皇 伏見桃山陵(めいじてんのう ふしみのももやまのみささぎ)”. www.kunaicho.go.jp. 2018年5月3日閲覧。
参考文献
- 宮内省臨時帝室編修局 編修『明治天皇紀』(全13冊、吉川弘文館、1968年~1977年)- 明治天皇百年祭記念出版で、『明治天皇とその時代 『明治天皇紀附図』を読む』(明治神宮監修・米田雄介編、吉川弘文館、2012年7月)が刊行された。五姓田芳柳による関連絵画を収録。
- 第1冊 嘉永5年から明治元年まで ISBN 4642035214
- 第2冊 明治2年から明治5年まで ISBN 4642035222
- 第3冊 明治6年から明治9年まで ISBN 4642035230
- 第4冊 明治10年から明治12年まで ISBN 4642035249
- 第5冊 明治13年から明治15年まで ISBN 4642035257
- 第6冊 明治16年から明治20年まで ISBN 4642035265
- 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273
- 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281
- 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X
- 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303
- 第11冊 明治38年から明治40年まで ISBN 4642035311
- 第12冊 明治41年から明治45年まで ISBN 464203532X
- 索引 ISBN 4642035338
- アルジャーノン・ミットフォード『The Garter Mission to Japan』(日本行きガーター勲章使節団)、マクミラン出版社、1906年。
- 『英国貴族の見た明治日本』長岡洋三訳、新人物往来社、1986年
- 『ミットフォード日本日記 英国貴族の見た明治』 講談社学術文庫、2001年
- 『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』(全9冊組、ゆまに書房、2003年) ISBN 484330901X
- ドナルド・キーン『明治天皇』(角地幸男訳、新潮社(上・下)、2001年)
- 新版:新潮文庫(全4巻、2007年)/「著作集 第14・15・16巻」(新潮社、2016年)
- 飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4061595709
- 笠原英彦『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』(中公新書、2006年) ISBN 4121018494
- 伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2006年) ISBN 4623047199
- 米窪明美『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書、2006年) ISBN 410610170X
- 中山和芳 『ミカドの外交儀礼 明治天皇の時代』(朝日選書、2007年)
- ジョン・ブリーン 『儀礼と権力 天皇の明治維新』(平凡社選書、2011年)
- 松本健一 『明治天皇という人』(毎日新聞社、2010年)ISBN 4620322172
- 坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X
- 堅田剛『独逸学協会と明治法制』。木鐸社、1999年。
- 『類纂新輯明治天皇御集』明治神宮、1990年。
- 西尾幹二 『新・地球日本史〈1〉明治中期から第二次世界大戦まで』(産経新聞ニュースサービス、2005年) ISBN 4594048935
関連項目
外部リンク
- 国柄探訪:変革の指導者・明治天皇
- ウィキソースには、明治天皇崩御の告示の原文があります。
- ウィキクォートには、明治天皇に関する引用句があります。
- ウィキメディア・コモンズには、明治天皇 (カテゴリ)に関するメディアがあります。