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[[亀淵迪]]は以下のような事跡を記している<ref>亀淵迪「{{PDFlink|[http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~soken.editorial/sokendenshi/vol18/yy-pt-by-sk-v3.pdf 山口さんと相転移]}}」『素粒子論研究』京都大学基礎物理学研究所、2013年</ref>。 |
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{{quotation|(1953.10~1955.11)の期間、\Y andy" さんこと山口夫妻はIllinois 大学に滞在された。お二人の共著論文が書かれたのはこのときである。当時そこには(G. F.) Chew や(F. E.) Low が居たが、Low の言葉として伝説になっているのが、「いま日本から来ているYamaguchi は大変shy な男だ」である。初の外遊でまだ英語に不自由だったためであろうか。さぞかしご本人は腹ふくるる状態だったろうと想像する。< |
{{quotation|(1953.10~1955.11)の期間、\Y andy" さんこと山口夫妻はIllinois 大学に滞在された。お二人の共著論文が書かれたのはこのときである。当時そこには(G. F.) Chew や(F. E.) Low が居たが、Low の言葉として伝説になっているのが、「いま日本から来ているYamaguchi は大変shy な男だ」である。初の外遊でまだ英語に不自由だったためであろうか。さぞかしご本人は腹ふくるる状態だったろうと想像する。<br /> |
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その山口さんが、である:突如として現在私どもの知るYY さんへと変身したのであった。言うなれば、初々しい相" から猛々しい相" への相転移である。< |
その山口さんが、である:突如として現在私どもの知るYY さんへと変身したのであった。言うなれば、初々しい相" から猛々しい相" への相転移である。<br /> |
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学会では最前列にデンと腰を下ろし、登壇する講演者を次々と撫で切りにするのである:あのドスの利いた声で。まことにYY" とはピッタリの形容詞である。その発案者は誰だったのか、遅れ馳せながら改めて喝采を贈りたい。因みに、[[朝永振一郎|朝永(振一郎)]]先生もこの通称を愛用しておられた。いかにも朝永ユーモア的であり、発案者はあるいは朝永先生だったのかもしれない。|亀淵迪|「山口さんと相転移」}} |
学会では最前列にデンと腰を下ろし、登壇する講演者を次々と撫で切りにするのである:あのドスの利いた声で。まことにYY" とはピッタリの形容詞である。その発案者は誰だったのか、遅れ馳せながら改めて喝采を贈りたい。因みに、[[朝永振一郎|朝永(振一郎)]]先生もこの通称を愛用しておられた。いかにも朝永ユーモア的であり、発案者はあるいは朝永先生だったのかもしれない。|亀淵迪|「山口さんと相転移」}} |
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2018年5月29日 (火) 00:07時点における版
山口嘉夫 (やまぐち よしお) | |
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プロジェクト:人物伝 |
山口 嘉夫(やまぐち よしお、1926年 - 2016年8月12日[1])は、日本の理論物理学者。
経歴
第四高等学校を経て、1947年に東京大学理学部を卒業[1]。
大阪市立大学助手、助教授、教授を経て、1962年に東京大学原子核研究所教授に就任する[1]。1968年、東京大学理学部に転任[1]。1983年に東京大学原子核研究所長となり、1986年に定年退官[1]。退官後は東海大学理学部教授となる[1]。
この間、1987年には日本物理学会会長、1993年には国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)の会長(日本人初)を務め、1993年のIUPAP総会を初めて日本(奈良市)で開催した[1]。
業績
山口と小川修三は独立に、坂田昌一の提唱したハドロンの複合模型(坂田模型)の基本粒子は互に同等で、粒子間の入れ替えに対し理論は不変となることを発見している。この研究で坂田モデルは新たな段階に入った。大貫義郎は、山口らの見出した対称性から3次元のユニタリー群によって記述できることを見い出す。大貫が創り出したこの新しい粒子の枠組SU(3) は、一般的観点からの新しい粒子の枠組みとなり新しい出発点となった。
1959年、名古屋模型にヒントを得て3個のレプトンm, e, nでまずオクテットを作り,それに重粒子要素を結合する模型を作る。重粒子オクテット説のおそらく最初のものであるが、公表されていない[2]。
賞典
エピソード
(1953.10~1955.11)の期間、\Y andy" さんこと山口夫妻はIllinois 大学に滞在された。お二人の共著論文が書かれたのはこのときである。当時そこには(G. F.) Chew や(F. E.) Low が居たが、Low の言葉として伝説になっているのが、「いま日本から来ているYamaguchi は大変shy な男だ」である。初の外遊でまだ英語に不自由だったためであろうか。さぞかしご本人は腹ふくるる状態だったろうと想像する。
その山口さんが、である:突如として現在私どもの知るYY さんへと変身したのであった。言うなれば、初々しい相" から猛々しい相" への相転移である。
学会では最前列にデンと腰を下ろし、登壇する講演者を次々と撫で切りにするのである:あのドスの利いた声で。まことにYY" とはピッタリの形容詞である。その発案者は誰だったのか、遅れ馳せながら改めて喝采を贈りたい。因みに、朝永(振一郎)先生もこの通称を愛用しておられた。いかにも朝永ユーモア的であり、発案者はあるいは朝永先生だったのかもしれない。 — 亀淵迪、「山口さんと相転移」