「立石 (葛飾区)」の版間の差分
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[[File:Tateishi 2006 4.jpg|thumb|400px|古代道路と推定される道(立石道)<br />[[国土地理院]] 地図・空中写真閲覧サービスの写真CKT20064X-C4-8 を元に加工]] |
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[[File:Tateishimura Tateishi.jpg|thumb|200px|right|江戸名所図会 19巻 立石村 立石]] |
[[File:Tateishimura Tateishi.jpg|thumb|200px|right|江戸名所図会 19巻 立石村 立石]] |
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[[File:Tateishi old photo.jpg|thumb|200px|right|『上代の東京と其周囲』に掲載されている立石祠の写真<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189441/95 鳥居竜蔵『上代の東京と其周囲』1927、p.160] </ref>]] |
[[File:Tateishi old photo.jpg|thumb|200px|right|『上代の東京と其周囲』に掲載されている立石祠の写真<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189441/95 鳥居竜蔵『上代の東京と其周囲』1927、p.160] </ref>]] |
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[[File:Tateishi 1944 river.jpg|thumb|200px|right|立石付近の中川河道の変更の様子 (写真撮影は1944年) <br />[[国土地理院]] 地図・空中写真閲覧サービスの写真8912-C3-216 を元に加工]] |
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[[File:Tateishi 2006 taishakudo.jpg|thumb|200px|right|江戸時代・明治時代の帝釈詣の主要道。<br />[[国土地理院]] 地図・空中写真閲覧サービスの写真CKT20064X-C4-8 を元に加工]] |
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[[江戸時代]]、[[葛西|西葛西領]]のうち主に新田開発前から田畑のあった立石地域は隣接する[[向島 (墨田区)|向島]]地域とともに'''本田'''筋に区分されていた<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/9_2%E7%AB%A03%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.113、2017年]</ref><ref>[http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h10/terasima_yanagisawa.html "寺島と柳島 隅田川が育んだ村の伝承"、墨田区ホームページ]</ref>。『葛西誌』によれば、立石村は当初広大だったため、江戸時代の初め頃、川端村、原村、梅田村、四ツ木村、篠原村、中原村、淡ノ須村の7村が分村したという<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0000/M0000027106.JPG 葛飾区 『葛飾区史料』 p.160、1958年]</ref>。また、[[享保]]年間には立石村の東端にあたる中川の河道を現在のように短絡させる工事が行われている<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/9_2%E7%AB%A03%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』 第2章3節 p.138、2017]</ref>。 |
[[江戸時代]]、[[葛西|西葛西領]]のうち主に新田開発前から田畑のあった立石地域は隣接する[[向島 (墨田区)|向島]]地域とともに'''本田'''筋に区分されていた<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/9_2%E7%AB%A03%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.113、2017年]</ref><ref>[http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h10/terasima_yanagisawa.html "寺島と柳島 隅田川が育んだ村の伝承"、墨田区ホームページ]</ref>。『葛西誌』によれば、立石村は当初広大だったため、江戸時代の初め頃、川端村、原村、梅田村、四ツ木村、篠原村、中原村、淡ノ須村の7村が分村したという<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0000/M0000027106.JPG 葛飾区 『葛飾区史料』 p.160、1958年]</ref>。また、[[享保]]年間には立石村の東端にあたる中川の河道を現在のように短絡させる工事が行われている<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/9_2%E7%AB%A03%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』 第2章3節 p.138、2017]</ref>。 |
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このとき中川の外側に残された地域は「立石新畑」と呼ばれており<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0000/M0000027107.JPG 葛飾区 『葛飾区史料』 p.162、1958年]</ref>、 |
このとき中川の外側に残された地域は「立石新畑」と呼ばれており<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0000/M0000027107.JPG 葛飾区 『葛飾区史料』 p.162、1958年]</ref>、 |
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===大正時代から終戦=== |
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[[File:Tateishi 2006 honden-cho.jpg|thumb|200px|right|立石2丁目および3丁目の様子 (2006)。< |
[[File:Tateishi 2006 honden-cho.jpg|thumb|200px|right|立石2丁目および3丁目の様子 (2006)。<br />[[国土地理院]] 地図・空中写真閲覧サービスの写真CKT20064X-C4-8 を元に加工]] |
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[[ファイル:東立石児童遊園記念碑.jpg|thumb|200px|right|浜野繊維工業の跡地にある記念碑(東立石児童遊園内)]] |
[[ファイル:東立石児童遊園記念碑.jpg|thumb|200px|right|浜野繊維工業の跡地にある記念碑(東立石児童遊園内)]] |
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一方、近代化に伴い、それまでの農村地帯は急激に変貌を遂げていった。[[1912年]]([[大正]]元年)11月には[[京成電鉄|京成電気軌道]]が開業し、[[京成立石駅]]が開設されたことで、[[東京市]]部との移動が容易になった<ref name="station">石本祐吉 『京成の駅 今昔・昭和の面影』p.146、2014年</ref>。次いで[[1914年]](大正3年)4月には中川に木製の奥戸橋(旧橋)が架橋されて、奥戸村との間を渡船を利用せずに移動可能になった<ref name="bridge">葛飾区教育委員会 『かつしかの橋 葛飾区橋梁調査報告書』、p.11 1989年</ref>。また、[[1923年]](大正12年)9月に発生した[[関東大震災]]では[[本所 (墨田区)|本所]]、[[深川 (江東区)|深川]]、[[浅草]]などから発生した罹災民が比較的距離の近い本田村へ流入し、以降地域は急速に人口増加・宅地化した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053979/39 本田町編 『本田町誌』p.23、1929年]</ref>。なお現在でも、立石2丁目や3丁目には方形に整然と区画整理されている地域がみられるが、これらは[[1922年]](大正11年)頃から昭和初年にかけて、宅地化を目的に行われた耕地整理事業の産物である<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053979/213 本田町編 『本田町誌』p.363、1929年]</ref>。 |
一方、近代化に伴い、それまでの農村地帯は急激に変貌を遂げていった。[[1912年]]([[大正]]元年)11月には[[京成電鉄|京成電気軌道]]が開業し、[[京成立石駅]]が開設されたことで、[[東京市]]部との移動が容易になった<ref name="station">石本祐吉 『京成の駅 今昔・昭和の面影』p.146、2014年</ref>。次いで[[1914年]](大正3年)4月には中川に木製の奥戸橋(旧橋)が架橋されて、奥戸村との間を渡船を利用せずに移動可能になった<ref name="bridge">葛飾区教育委員会 『かつしかの橋 葛飾区橋梁調査報告書』、p.11 1989年</ref>。また、[[1923年]](大正12年)9月に発生した[[関東大震災]]では[[本所 (墨田区)|本所]]、[[深川 (江東区)|深川]]、[[浅草]]などから発生した罹災民が比較的距離の近い本田村へ流入し、以降地域は急速に人口増加・宅地化した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053979/39 本田町編 『本田町誌』p.23、1929年]</ref>。なお現在でも、立石2丁目や3丁目には方形に整然と区画整理されている地域がみられるが、これらは[[1922年]](大正11年)頃から昭和初年にかけて、宅地化を目的に行われた耕地整理事業の産物である<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053979/213 本田町編 『本田町誌』p.363、1929年]</ref>。 |
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また、これに先立つ[[1932年]]([[昭和]]7年)3月には中川に鉄橋の本奥戸橋(旧橋)が架橋されている<ref name="bridge"/>。更に同年、立石で最初の活動常設館([[映画館]])である立石富士館が開館している<ref name=newspaper>木村千恵子 『占領下の東京下町―『葛飾新聞』にみる「戦後」の出発』p.145、日本経済評論社、(2014)</ref><ref>立石富士館の跡地は、1976年([[昭和]]51年)より立石一丁目児童遊園になっている。</ref><ref>この立石富士館は[[1936年]]([[昭和]]11年)2月29日未明、火災に遭ったことが1936年3月1日付『朝日新聞』夕刊で報じられている</ref>。また[[1937年]]([[昭和]]12年)には大衆演芸場の金剛座(現・立石1-22-11)が開設されている<ref name=newspaper/><ref>金剛座は戦後、花比姿劇場、次いでミリオン座と名前を変え、洋画専門映画館として1986年まで続いた</ref>。そして、教育の面では[[1932年]]([[昭和]]7年)4月には、本田尋常小学校から本田第三尋常小学校(現・葛飾小学校)が独立<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0010/M0001010277.JPG 葛飾区役所編 『新修葛飾区史』p.461、1951年]</ref>、[[1939年]]([[昭和]]14年)1月には、梅田尋常小学校(現・梅田小学校)が開校している<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0010/M0001010278.JPG 葛飾区役所編 『新修葛飾区史』p.462、1951年]</ref>。<br /> |
また、これに先立つ[[1932年]]([[昭和]]7年)3月には中川に鉄橋の本奥戸橋(旧橋)が架橋されている<ref name="bridge"/>。更に同年、立石で最初の活動常設館([[映画館]])である立石富士館が開館している<ref name=newspaper>木村千恵子 『占領下の東京下町―『葛飾新聞』にみる「戦後」の出発』p.145、日本経済評論社、(2014)</ref><ref>立石富士館の跡地は、1976年([[昭和]]51年)より立石一丁目児童遊園になっている。</ref><ref>この立石富士館は[[1936年]]([[昭和]]11年)2月29日未明、火災に遭ったことが1936年3月1日付『朝日新聞』夕刊で報じられている</ref>。また[[1937年]]([[昭和]]12年)には大衆演芸場の金剛座(現・立石1-22-11)が開設されている<ref name=newspaper/><ref>金剛座は戦後、花比姿劇場、次いでミリオン座と名前を変え、洋画専門映画館として1986年まで続いた</ref>。そして、教育の面では[[1932年]]([[昭和]]7年)4月には、本田尋常小学校から本田第三尋常小学校(現・葛飾小学校)が独立<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0010/M0001010277.JPG 葛飾区役所編 『新修葛飾区史』p.461、1951年]</ref>、[[1939年]]([[昭和]]14年)1月には、梅田尋常小学校(現・梅田小学校)が開校している<ref>[https://www.lib.city.katsushika.lg.jp/CLISImageM/M0/0010/M0001010278.JPG 葛飾区役所編 『新修葛飾区史』p.462、1951年]</ref>。<br /> |
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[[第二次世界大戦]]中も軍需景気などの影響もあり、葛飾区への人口流入や工場進出は続いた<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/tourism/1000066/1004930/1004951.html 葛飾区公式サイト 『葛飾区工業の歴史2』]</ref>。このころ玩具産業は輸出先のボイコットに始まり、金属やゴムの使用の制限や軍需工場への転換が求められ大きな打撃を受けていた。このような中、[[向島区]]にあった富山工場(後の[[タカラトミー]])が、[[1941年]]([[昭和]]16年)、木製玩具製造のための「太陽木工場」を本田立石町に設立した<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/11_4%E7%AB%A01%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区編 『葛飾区史』第4章1節、p.192、(2017)]</ref>。< |
[[第二次世界大戦]]中も軍需景気などの影響もあり、葛飾区への人口流入や工場進出は続いた<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/tourism/1000066/1004930/1004951.html 葛飾区公式サイト 『葛飾区工業の歴史2』]</ref>。このころ玩具産業は輸出先のボイコットに始まり、金属やゴムの使用の制限や軍需工場への転換が求められ大きな打撃を受けていた。このような中、[[向島区]]にあった富山工場(後の[[タカラトミー]])が、[[1941年]]([[昭和]]16年)、木製玩具製造のための「太陽木工場」を本田立石町に設立した<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/11_4%E7%AB%A01%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区編 『葛飾区史』第4章1節、p.192、(2017)]</ref>。<br /> |
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葛飾区の戦争における被害は東京都区部の他の地域に比べ少なかったといわれているが、[[1945年]](昭和20年)2月19日午後の空襲で葛飾区役所やその周辺の寺院、家屋や葛飾小学校(現・[[青戸]]1-3)が全焼または半焼している<ref> 葛飾区 『葛飾区史 下巻』 p.1406、1970年</ref>。3月10日の[[東京大空襲]]の際には、大きな被害はなかったが立石の婦人会が数日間[[荒川]]を超えてきた被災民の救護にあたったという<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/10_3%E7%AB%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.174、2017年]</ref>。 |
葛飾区の戦争における被害は東京都区部の他の地域に比べ少なかったといわれているが、[[1945年]](昭和20年)2月19日午後の空襲で葛飾区役所やその周辺の寺院、家屋や葛飾小学校(現・[[青戸]]1-3)が全焼または半焼している<ref> 葛飾区 『葛飾区史 下巻』 p.1406、1970年</ref>。3月10日の[[東京大空襲]]の際には、大きな被害はなかったが立石の婦人会が数日間[[荒川]]を超えてきた被災民の救護にあたったという<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/10_3%E7%AB%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.174、2017年]</ref>。 |
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一方で、戦争の激化に伴い、立石地域の小学生も新潟県へ集団疎開を行っている。 |
一方で、戦争の激化に伴い、立石地域の小学生も新潟県へ集団疎開を行っている。 |
2018年3月1日 (木) 00:00時点における版
立石 | |
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立石全景(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの写真を元に加工、2006年) | |
北緯35度44分22.7秒 東経139度51分20.2秒 / 北緯35.739639度 東経139.855611度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 葛飾区 |
地域 | 立石・四つ木地域 |
人口 | |
• 合計 | 23,076人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
124-0012[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 足立 |
※座標は立石様付近 |
立石(たていし)は、東京都葛飾区の地名。現行行政地名は立石一丁目から八丁目。郵便番号は124-0012[2]。
地理
葛飾区中西部、中川の西岸に位置し、亀有の約3km南方にある。葛飾区役所の所在地でもあり、葛飾区の行政の中心地を担っている。町域は西は国道6号を、南西部は東京都道308号千住小松川葛西沖線(平和橋通り)を境に四つ木に接している。南は奥戸街道を境に東立石に、東は中川を境に奥戸にそれぞれ接している。町の北東にある京成本線は青戸との町界になっている。
町域内を京成押上線が貫いており、その中間付近に京成立石駅がある。駅前は現在、立石仲見世商店街の他、立石駅前通り商店街、スーパーマーケット(イトーヨーカドー立石店)などがひしめく状態であるが、周辺の路地は車の通行が困難なほど狭く、駐車スペースもほとんどない。一方、建物の老朽化などの観点より京成押上線の高架化に合わせた駅前の大規模再開発も検討されている。
町内の商業エリアとしてはこのほか、区役所周辺(オリンピックやサミット・コジマなど)、奥戸街道沿いなどがある。周辺は、もともとは中小の工場が多い土地柄であったが、近年はその跡地を利用したマンション建設が盛んである。
町内には葛飾区役所、葛飾税務署、葛飾警察署、かつしかシンフォニーヒルズ(文化会館)、葛飾エフエム放送などの公共施設が集中しており、葛飾区の行政上の中心地である。町名の由来となった立石様、安倍晴明が勧請したと伝えられる立石熊野神社などの史跡がある。
一方、東立石は中川湾曲部に囲まれた袋状の地域で、町内には本田消防署、渋江公園などがある。
なお、現在の立石・東立石・四つ木・東四つ木・宝町を合わせた地域は、1965年から1966年に住居表示が実施されるまで本田(ほんでん)と呼ばれていた。消防署の名はこれに由来している。
地価
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、立石5-23-2の地点で30万4000円/m2となっている[4]
歴史
古墳時代から中世
古墳時代後期には既に拓けていたと考えられており、立石様のある立石八丁目の周辺には南蔵院裏古墳(明治時代に破却)や熊野神社古墳といった古墳跡の存在が確認されている[6]。
立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており[7]、このころ千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれ、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている[8][9]。
室町時代の1398年(応永5年)に記された「葛西御厨田数注文」に地名としての立石が初めて登場する[10]。
江戸時代
江戸時代、西葛西領のうち主に新田開発前から田畑のあった立石地域は隣接する向島地域とともに本田筋に区分されていた[11][12]。『葛西誌』によれば、立石村は当初広大だったため、江戸時代の初め頃、川端村、原村、梅田村、四ツ木村、篠原村、中原村、淡ノ須村の7村が分村したという[13]。また、享保年間には立石村の東端にあたる中川の河道を現在のように短絡させる工事が行われている[14]。 このとき中川の外側に残された地域は「立石新畑」と呼ばれており[15]、 この跡は2018年現在、奥戸総合スポーツセンター(奥戸7-17-1および高砂1-2-1)などになっている。
この時代、この地域は米やその他の農産物を江戸に供給する農村地帯であった。また本田ウリ[16]と呼ばれるウリが当地の特産物であった[17]。また、農産物の生育のため江戸で発生した下肥を利用するだけでなく、立石にはこれを運搬、販売することを生業とするものもいた[18]。
また、江戸後期より明治時代ごろまでは庚申の日に江戸(東京)市中より、柴又帝釈天に徒歩で参詣する帝釈詣が行われており、立石はその通り道となっていた。亀戸方面からの薬師道"と浅草方面からの"立石道"の合流点が現在の本奥戸橋西詰にあり、立石様の付近で"諏訪野渡”方向に左折する経路であった。
明治時代
明治に入り、行政上、東京府南葛飾郡に属することとなる。1889年(明治22年)4月、町村制施行によって江戸時代より続く立石村、梅田村、川端村、原村、中原村、淡之須村、篠原村、渋江村、四ツ木村、宝木塚村の十カ村を合わせて南葛飾郡立石村が成立した[19]。この際、合併前の村名は大字名として存続した。その後立石村は1890年(明治23年)に本田村と改称したのち、1928年(昭和3年)3月1日には町制を施行し、本田町となった[20]。
村役場は当初、現在の東立石3丁目にあったが[21]、明治35年(1902年)頃に立石道(立石大通り)と江戸川上水の交点にあたる、現在の葛飾区立立石図書館の位置に移転した。
また、明治35年(1902年)には村役場の隣接地に本田尋常小学校が移転されている[22]。
大正時代から終戦
一方、近代化に伴い、それまでの農村地帯は急激に変貌を遂げていった。1912年(大正元年)11月には京成電気軌道が開業し、京成立石駅が開設されたことで、東京市部との移動が容易になった[23]。次いで1914年(大正3年)4月には中川に木製の奥戸橋(旧橋)が架橋されて、奥戸村との間を渡船を利用せずに移動可能になった[24]。また、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災では本所、深川、浅草などから発生した罹災民が比較的距離の近い本田村へ流入し、以降地域は急速に人口増加・宅地化した[25]。なお現在でも、立石2丁目や3丁目には方形に整然と区画整理されている地域がみられるが、これらは1922年(大正11年)頃から昭和初年にかけて、宅地化を目的に行われた耕地整理事業の産物である[26]。
また同時期に工業化も進み、1914年(大正3年)には現在の渋江公園の位置で、千種セルロイド工場が操業を始めた。これがこの地域における玩具産業の嚆矢となり、その後多くのセルロイド工場が立石、四つ木地域に集まってきた。現在でも、玩具産業の割合が高いのがこの地域の工業の特色の一つとなっている。更に中川の水が利用できたことから、江戸友禅を中心に染色工業なども発達した[27]。
1932年(昭和7年)10月の東京市への編入、葛飾区の誕生により本田町は近隣の4町2村と合併した。それまで本田町内にあった各地域(以前の大字)はそれぞれ本田立石町、本田梅田町などと「本田」を冠して呼ばれるようになった。区役所は当初、旧本田町役場を使用していたが、1937年(昭和12年)、本田立石町365[28]の現在のかつしかシンフォニーヒルズの位置に新築移転した。
また、これに先立つ1932年(昭和7年)3月には中川に鉄橋の本奥戸橋(旧橋)が架橋されている[24]。更に同年、立石で最初の活動常設館(映画館)である立石富士館が開館している[29][30][31]。また1937年(昭和12年)には大衆演芸場の金剛座(現・立石1-22-11)が開設されている[29][32]。そして、教育の面では1932年(昭和7年)4月には、本田尋常小学校から本田第三尋常小学校(現・葛飾小学校)が独立[33]、1939年(昭和14年)1月には、梅田尋常小学校(現・梅田小学校)が開校している[34]。
第二次世界大戦中も軍需景気などの影響もあり、葛飾区への人口流入や工場進出は続いた[35]。このころ玩具産業は輸出先のボイコットに始まり、金属やゴムの使用の制限や軍需工場への転換が求められ大きな打撃を受けていた。このような中、向島区にあった富山工場(後のタカラトミー)が、1941年(昭和16年)、木製玩具製造のための「太陽木工場」を本田立石町に設立した[36]。
葛飾区の戦争における被害は東京都区部の他の地域に比べ少なかったといわれているが、1945年(昭和20年)2月19日午後の空襲で葛飾区役所やその周辺の寺院、家屋や葛飾小学校(現・青戸1-3)が全焼または半焼している[37]。3月10日の東京大空襲の際には、大きな被害はなかったが立石の婦人会が数日間荒川を超えてきた被災民の救護にあたったという[38]。
一方で、戦争の激化に伴い、立石地域の小学生も新潟県へ集団疎開を行っている。
戦後から1950年代
立石の戦後復興は早く、ほどなく駅周辺の空き地に闇市が自然発生的に現れた。また、低湿地帯に属する立石地域は過去幾度もの洪水に見舞われる地域でもあった。その災害史の中でよく知られるのが1947年(昭和22年)9月に発生したカスリーン台風による被害であり、町域の多くが水没した。このとき、同年6月に架橋された木製の平和橋がわずか3ヶ月で半壊し、奥戸橋も破損によって1949年まで渡橋停止になった[39]。
このような中、1949年(昭和24年)には、本田小学校の隣りに葛飾区初の区立図書館(現・葛飾区立立石図書館)が開設されている。
また更なる人口流入に伴って、駅前にアーケード付きの商店街(現在の仲見世商店街)が形成されたり映画館が相次いで開館したのもこの時期である[40][41]。
1960年代
1960年(昭和35年)になると、京成電鉄が都営地下鉄1号線(現・浅草線)との相互直通運転を開始し、浅草や国鉄駅(浅草橋駅)への鉄道での直接アクセスが可能になった。同じ頃、京成立石駅南側の駅前商店街にアーケードが設置されている [42]。 また、1963年(昭和38年)6月には京成立石駅前に葛飾区内初のスーパーマーケットであるイトーヨーカドーがオープンしている[43]。 更に、1968年(昭和43年)、京成立石駅が改築されて橋上駅になり、プラットホームが4両対応から8両対応に延長されている [23]。
1962年(昭和37年)5月には、葛飾区総合庁舎(葛飾区役所、区議会議事堂など)が落成した。跡地には。1965年(昭和40年)12月に体育館が開館し[44]、区役所に隣接していた公会堂(1958年11月開設)[45]と、東京都より移管された生活館(のちに区民会館に改築される)を合わせて「総合区民センター」と称していた。この「総合区民センター」の跡地に1992年、かつしかシンフォニーヒルズが開館している。
1966年(昭和41年)、住居表示の実施により、従前の本田梅田町、本田町、本田立石町、本田中原町などの区域をもって現行の立石一丁目から八丁目が成立した。また、前年の1965年(昭和40年)には従前の本田原町、南立石町、本田川端町などの区域をもって東立石一丁目から四丁目が成立した。
1970年代
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高度成長期が終わり安定成長期に入った1970年代には、地価の高騰などを原因に葛飾区の人口は減少に転じたが、 立石も例外ではなく、1967年(昭和42年)に28,576人だった人口が、11年後の1977年(昭和52年)には23,128人と 5,000人以上減少している[46][47]。 一方、1972年(昭和47年)には立石8丁目の奥戸橋が現在ある鉄橋に改築された[48]。1977年(昭和52年)には葛飾区役所の近くに駐車場を備えた長崎屋立石店(現・オリンピック立石店)がオープンしている [49]。
1980年代
1988年(昭和63年)、本奥戸橋が現在の橋梁に改築された[48]。改築前の本奥戸橋では1980年代半ばまで正月に「都民寒中水泳大会」が開催されていた[50][51]。
地名の由来
地名は、立石八丁目にある立石様という石に由来する。この立石様は、現在児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様、千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本(兎園小説、明細帳、江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたこと、また地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。
世帯数と人口
2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
立石一丁目 | 1,071世帯 | 1,990人 |
立石二丁目 | 1,460世帯 | 2,835人 |
立石三丁目 | 1,211世帯 | 2,272人 |
立石四丁目 | 1,347世帯 | 2,685人 |
立石五丁目 | 1,476世帯 | 2,996人 |
立石六丁目 | 1,670世帯 | 3,431人 |
立石七丁目 | 996世帯 | 1,841人 |
立石八丁目 | 2,658世帯 | 5,026人 |
計 | 11,889世帯 | 23,076人 |
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[52][53]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
立石一丁目 | 全域 | 葛飾区立本田小学校 | 葛飾区立本田中学校 |
立石二丁目 | 全域 | 葛飾区立梅田小学校 | 葛飾区立大道中学校 |
立石三丁目 | 全域 | 葛飾区立立石中学校 | |
立石四丁目 | 全域 | ||
立石五丁目 | 1~9番 | 葛飾区立大道中学校 | |
10〜12番 | 葛飾区立立石中学校 | ||
その他 | 葛飾区立清和小学校 | ||
立石六丁目 | 全域 | ||
立石七丁目 | 全域 | ||
立石八丁目 | 全域 | 葛飾区立葛飾小学校 |
交通
鉄道
現在の駅舎は1968年に改築された橋上駅舎であり[23]、2018年には築50周年を迎えるが高架化工事が予定されている。京成押上線京成立石駅を中心とした生活エリアをまとめて立石または京成立石(けいせいたていし)と呼ぶこともある。この場合、行政上の町名でいえば立石や東立石などがほぼ該当する[要出典]。
路線バス
都営バス、京成タウンバス、京成バスの各バス路線がある。京成バス新小53系統を利用した新小岩駅、亀有駅からの所要時間はいずれも15-30分程度である。
道路・橋梁
道路
- 国道6号(水戸街道)
- 東京都道60号市川四ツ木線(奥戸街道)
- 東京都道308号千住小松川葛西沖線(平和橋通り)
橋梁
- 奥戸橋
- 本奥戸橋
- 平和橋
施設
- 区役所等
- 葛飾区総合庁舎(区役所、都税事務所、区議会議事堂など)
- 国、都の施設
- 集会施設
- 立石地区センター
- 文化施設
- 医療・福祉施設
- 立石休日応急診療所(葛飾区医師会館)
- 葛飾区保健所
- シニア活動支援センター
- 勤労福祉会館
- ウィメンズパル(男女平等推進センター、消費生活センター、障害者就労支援センター)
- 葛飾赤十字産院
- 社会福祉法人原町成年寮
- 保育園
- 本田保育園
- 梅田保育園
- 立石駅前保育園
- 幼稚園
- 葛飾こどもの園
- 麻耶幼稚園
- 熊野幼稚園
- 小学校
- 葛飾区立本田小学校
- 葛飾区立梅田小学校
- 葛飾区立清和小学校
- 中学校
- 葛飾区立石中学校
- 高等学校
- 銀行
- スーパーマーケット
- イトーヨーカドー立石店
- サミット葛飾区役所前店
- 家電量販店
- 産業振興
- 葛飾区伝統産業館
- 商店街
- 立石駅通り商店会
- 立石大通り商店会
- 立石勉強会
- 立石中央通り商店会
- 立石仲見世共盛会
- 立石2丁目ハッピー商店会
- 本田商栄会
- 立石すずらん通り商店会
- 区役所通り商店会
- 立石西町商栄会
- 立石通り商和会
- 立石デパート商店会
-
葛飾警察署
-
かつしかシンフォニーヒルズ
-
葛飾区立立石図書館
-
葛飾赤十字産院
-
渋江公園
-
イトーヨーカドー立石店
-
葛飾区伝統産業館
-
立石駅通り商店街
その他
- かつての立石を舞台として、つげ義春・忠男兄弟が漫画を描いている。
- かつては日本製薬葛飾工場が存在しており、血液製剤の製造が行われていた。この原料確保のために売血が実施されており、売血制度が廃止される1990年まで売血目的に訪れる人も絶えなかった。
- 立石七丁目は玩具メーカーのタカラトミーの本社所在地である。2006年2月までは同地はトミーの、隣町の青戸はタカラの本社所在地であった。
- イトーヨーカドー立石店は6号店であり、創業の地(1号店)であったザ・プライス千住店(足立区千住、北千住駅前)が2016年4月10日に閉店して以降は現存最古のイトーヨーカドーとなった。
- 2003年より、毎年9月の第1土曜日に「立石サンバカーニバル」(2007年に「立石フェスタ」と名称を変更)を開催している。これは京成立石駅周辺の商店会が協力して開催しているものであり、立石地域最大のイベントである。
立石にちなむ作品
- 映画『左ききの狙撃者 東京湾』 1962年 [54]
- 映画『警視庁物語 自供』 1964年 [54]
- 映画『間宮兄弟』江國香織・原作 森田芳光・監督 2006年 [54]
- 漫画『無頼平野』つげ忠男・作
- 映画『無頼平野』石井輝男・監督 1995年
- 小説『葛飾物語』半村良・作
関連項目
参考文献
- 本田町編 『本田町誌』、1929年
- 葛飾区 『葛飾区史』、2017年
- 葛飾区郷土と天文の博物館編 『かつしかの地名と歴史』 葛飾区郷土と天文の博物館、2005年3月。
外部リンク
脚注
- ^ a b “葛飾区の世帯と人口”. 葛飾区 (2017年12月1日). 2017年12月18日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月18日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月18日閲覧。
- ^ 。国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ 鳥居竜蔵『上代の東京と其周囲』1927、p.160
- ^ 葛飾区公式サイト 葛飾区の歴史 古墳時代
- ^ 谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.92
- ^ 谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.94
- ^ 葛飾区郷土と天文の博物館 「Ⅰ-2 立石様にまつわる歴史的な環境」『立石遺跡Ⅳ』 2010、p.5
- ^ 葛飾区 『葛飾区史』 第2章2節 p.86、2017
- ^ 葛飾区 『葛飾区史』p.113、2017年
- ^ "寺島と柳島 隅田川が育んだ村の伝承"、墨田区ホームページ
- ^ 葛飾区 『葛飾区史料』 p.160、1958年
- ^ 葛飾区 『葛飾区史』 第2章3節 p.138、2017
- ^ 葛飾区 『葛飾区史料』 p.162、1958年
- ^ 喜多村信節 『嬉遊笑覧』成光館出版部、1932年、p.319
- ^ "葛飾の伝統野菜" 葛飾区ホームページ
- ^ 日本下水文化研究会 『都市近郊農村の下肥利用』
- ^ 本田町編 『本田町誌』p.5、1929年
- ^ 本田町編 『本田町誌』p.7、1929年
- ^ 東京府 『東京府統計書』 p.16 (1900)
- ^ 本田町編 『本田町誌』p.133、1929年
- ^ a b c 石本祐吉 『京成の駅 今昔・昭和の面影』p.146、2014年
- ^ a b 葛飾区教育委員会 『かつしかの橋 葛飾区橋梁調査報告書』、p.11 1989年
- ^ 本田町編 『本田町誌』p.23、1929年
- ^ 本田町編 『本田町誌』p.363、1929年
- ^ 葛飾区 『葛飾区史』p.154、2017年
- ^ 葛飾区の事務所の位置変更に関する条例
- ^ a b 木村千恵子 『占領下の東京下町―『葛飾新聞』にみる「戦後」の出発』p.145、日本経済評論社、(2014)
- ^ 立石富士館の跡地は、1976年(昭和51年)より立石一丁目児童遊園になっている。
- ^ この立石富士館は1936年(昭和11年)2月29日未明、火災に遭ったことが1936年3月1日付『朝日新聞』夕刊で報じられている
- ^ 金剛座は戦後、花比姿劇場、次いでミリオン座と名前を変え、洋画専門映画館として1986年まで続いた
- ^ 葛飾区役所編 『新修葛飾区史』p.461、1951年
- ^ 葛飾区役所編 『新修葛飾区史』p.462、1951年
- ^ 葛飾区公式サイト 『葛飾区工業の歴史2』
- ^ 葛飾区編 『葛飾区史』第4章1節、p.192、(2017)
- ^ 葛飾区 『葛飾区史 下巻』 p.1406、1970年
- ^ 葛飾区 『葛飾区史』p.174、2017年
- ^ 葛飾区 『新修葛飾区史』p.678~683、1951年
- ^ 東京都葛飾区役所編 『葛飾区勢概要 昭和31年版』、巻頭写真 2枚目、1957年
- ^ 東京都葛飾区役所編 『葛飾区勢概要 昭和31年版』、巻頭写真 9枚目、1957年
- ^ 葛飾区役所編『区勢はやわかり帳-葛飾区制施行30周年記念-』 p.10、1968年
- ^ 葛飾区 『葛飾区史』 p.197、2017年
- ^ 葛飾区青少年問題協議会編 『ようこそ葛飾へ』p.32、1968年
- ^ 葛飾区青少年問題協議会編 『ようこそ葛飾へ』p.35、1968年
- ^ 葛飾区役所区民部経済課 『葛飾区統計書 第12回』
- ^ 葛飾区役所区民部経済課 『葛飾区統計書 第22回』
- ^ a b 葛飾区教育委員会 『かつしかの橋 葛飾区橋梁調査報告書』、p.19 1989年
- ^ 百瀬恵夫 『大型店進出にみる中小小売店の実態調査研究』p.3、1980年
- ^ 葛飾区 『広報 かつしか』 昭和59年1月20日号
- ^ 1984年(昭和59年)は第30回にあたる。
- ^ “葛飾区小学校通学区域一覧”. 葛飾区 (2015年12月16日). 2017年12月18日閲覧。
- ^ “葛飾区中学校通学区域一覧”. 葛飾区 (2015年12月16日). 2017年12月18日閲覧。
- ^ a b c キネマ旬報社 『キネマ旬報 2015-9上旬号』p.135、2015年