コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「国吉源次」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m cewbot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反
28行目: 28行目:


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[1930年]]、[[沖縄県]][[宮古郡]]城辺村(後に[[城辺町 (沖縄県)|城辺町]]→[[宮古島市]])に生まれる。幼い頃から歌うことが好きで、四六時中「歌ってばかり」の少年だったという。</br>[[1945年]]、15歳で[[新城青年会]]に入会。20歳の頃から地域の演芸会で歌・[[三線]]を披露するようになる。その後、24歳の若さで新城青年会会長に就任し、宮古島内の大会で活躍した。</br>[[1965年]]、[[宮古民謡]]の道に生きることを決意して[[宮古丸]]で[[那覇]]へ渡る。翌年、[[琉球放送]]の番組「[[金の歌銀の歌]]」に出演。[[伊良部トーガニー]]を歌った。その翌年には第20回[[NHKのど自慢]]沖縄地区大会・民謡の部優勝を果たし、沖縄本島においても類稀なる才能を発揮する。</br>[[1968年]]から25年連続で琉球放送の番組「[[新春民謡紅白歌合戦]]」にも出演した。この年、戦前の[[友利明令]]に次ぐ戦後初めての宮古民謡のレコードを発売。</br>[[1969年]]に初のリサイタルを故郷宮古島で開催するも、昼夜2回、2日間の公演予定が、超満員で収容できず、3日間に延長された。以後、これまで5回宮古でリサイタルを開催。</br>[[1971年]]には、那覇市内で民謡研究所を開設し、[[沖縄テレビ]]の「[[東西民謡歌合戦]]」に出演。以後、同番組には20年連続して出演した。</br>[[1990年]]、芸道40周年を記念し、リサイタル「芸道四十年 国吉源次の世界」を開催するも、[[1991年]]と[[1993年]]の2度にわたって[[脳腫瘍]]で手術を受けた。2度目の手術の半年後より、本格的に演奏活動再開。 [[1995年]]、初のCDアルバム「初恋」を発売。[[1999年]]には芸道50周年記念リサイタル「芸道五十年 国吉源次の世界-宮古民謡の真髄を20世紀ヘー」 を開催。</br>過去に[[琉球民謡協会]]理事長(2期)、[[宮古総合芸能協会]]会長、[[琉球民謡保存会]]理事長(2期)等の重役を務めた。</br>妻は同じく宮古民謡歌手の[[国吉義子]]。
[[1930年]]、[[沖縄県]][[宮古郡]]城辺村(後に[[城辺町 (沖縄県)|城辺町]]→[[宮古島市]])に生まれる。幼い頃から歌うことが好きで、四六時中「歌ってばかり」の少年だったという。<br />[[1945年]]、15歳で[[新城青年会]]に入会。20歳の頃から地域の演芸会で歌・[[三線]]を披露するようになる。その後、24歳の若さで新城青年会会長に就任し、宮古島内の大会で活躍した。<br />[[1965年]]、[[宮古民謡]]の道に生きることを決意して[[宮古丸]]で[[那覇]]へ渡る。翌年、[[琉球放送]]の番組「[[金の歌銀の歌]]」に出演。[[伊良部トーガニー]]を歌った。その翌年には第20回[[NHKのど自慢]]沖縄地区大会・民謡の部優勝を果たし、沖縄本島においても類稀なる才能を発揮する。<br />[[1968年]]から25年連続で琉球放送の番組「[[新春民謡紅白歌合戦]]」にも出演した。この年、戦前の[[友利明令]]に次ぐ戦後初めての宮古民謡のレコードを発売。<br />[[1969年]]に初のリサイタルを故郷宮古島で開催するも、昼夜2回、2日間の公演予定が、超満員で収容できず、3日間に延長された。以後、これまで5回宮古でリサイタルを開催。<br />[[1971年]]には、那覇市内で民謡研究所を開設し、[[沖縄テレビ]]の「[[東西民謡歌合戦]]」に出演。以後、同番組には20年連続して出演した。<br />[[1990年]]、芸道40周年を記念し、リサイタル「芸道四十年 国吉源次の世界」を開催するも、[[1991年]]と[[1993年]]の2度にわたって[[脳腫瘍]]で手術を受けた。2度目の手術の半年後より、本格的に演奏活動再開。 [[1995年]]、初のCDアルバム「初恋」を発売。[[1999年]]には芸道50周年記念リサイタル「芸道五十年 国吉源次の世界-宮古民謡の真髄を20世紀ヘー」 を開催。<br />過去に[[琉球民謡協会]]理事長(2期)、[[宮古総合芸能協会]]会長、[[琉球民謡保存会]]理事長(2期)等の重役を務めた。<br />妻は同じく宮古民謡歌手の[[国吉義子]]。


== ディスコグラフィー ==
== ディスコグラフィー ==

2018年1月29日 (月) 00:39時点における版

国吉 源次
出生名 国吉 源次
生誕 (1930-06-10) 1930年6月10日(94歳)
出身地 日本の旗 日本
沖縄県宮古郡城辺村(現在の宮古島市
ジャンル 民謡
職業 歌手、三線奏者

国吉 源次(くによし げんじ、1930年6月10日 - )は、沖縄民謡(主に宮古民謡)の歌手。宮古島歌謡の第一人者と称されている。

来歴・人物

1930年沖縄県宮古郡城辺村(後に城辺町宮古島市)に生まれる。幼い頃から歌うことが好きで、四六時中「歌ってばかり」の少年だったという。
1945年、15歳で新城青年会に入会。20歳の頃から地域の演芸会で歌・三線を披露するようになる。その後、24歳の若さで新城青年会会長に就任し、宮古島内の大会で活躍した。
1965年宮古民謡の道に生きることを決意して宮古丸那覇へ渡る。翌年、琉球放送の番組「金の歌銀の歌」に出演。伊良部トーガニーを歌った。その翌年には第20回NHKのど自慢沖縄地区大会・民謡の部優勝を果たし、沖縄本島においても類稀なる才能を発揮する。
1968年から25年連続で琉球放送の番組「新春民謡紅白歌合戦」にも出演した。この年、戦前の友利明令に次ぐ戦後初めての宮古民謡のレコードを発売。
1969年に初のリサイタルを故郷宮古島で開催するも、昼夜2回、2日間の公演予定が、超満員で収容できず、3日間に延長された。以後、これまで5回宮古でリサイタルを開催。
1971年には、那覇市内で民謡研究所を開設し、沖縄テレビの「東西民謡歌合戦」に出演。以後、同番組には20年連続して出演した。
1990年、芸道40周年を記念し、リサイタル「芸道四十年 国吉源次の世界」を開催するも、1991年1993年の2度にわたって脳腫瘍で手術を受けた。2度目の手術の半年後より、本格的に演奏活動再開。 1995年、初のCDアルバム「初恋」を発売。1999年には芸道50周年記念リサイタル「芸道五十年 国吉源次の世界-宮古民謡の真髄を20世紀ヘー」 を開催。
過去に琉球民謡協会理事長(2期)、宮古総合芸能協会会長、琉球民謡保存会理事長(2期)等の重役を務めた。
妻は同じく宮古民謡歌手の国吉義子

ディスコグラフィー

映画出演