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「武王 (百済)」の版間の差分

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'''武王'''(ぶおう、[[580年]]? - [[641年]])は、[[百済]]の第30代の王(在位:[[600年]] - [[641年]])。先代の[[法王 (百済)|法王]]の子。[[諱]]は璋、『[[三国遺事]]』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『[[隋書]]』には'''余璋'''の名で現れる
'''武王'''(ぶおう、[[580年]]? - [[641年]])は、[[百済]]の第30代の王(在位:[[600年]] - [[641年]])。


第29代[[法王 (百済)|法王]]の子。諱は璋、『[[三国遺事]]』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『[[隋書]]』には'''余璋'''の名で現れる。
最初、[[新羅]]と[[高句麗]]と戦っていたが、[[隋]]の[[煬帝]]の高句麗征伐([[隋の高句麗遠征]])に参加せず、二面外交を行い、高句麗と和解し、新羅を盛んに攻め立てた。


== 治世 ==
== 治世 ==
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても[[新羅]]においても、[[高句麗]]への対抗のために[[隋]]の介入を求める動きが活発となっていた。武王は[[607年]]及び[[608年]]に、隋に[[朝貢]]するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、[[611年]]には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。しかしその陰高句麗とも手を結ぶ二股外交しており、[[612年]]に隋高句麗遠征軍が発せられたときに、百済は隋の遠征軍に従軍なかった。一方で新羅とは南方の[[伽耶]]諸国の領有をめぐって争が絶えず、[[602年]]8月に新羅の阿莫山城([[全羅北道]][[南原市]])を包囲したが、新羅[[真平王]]の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には{{lang|zh|椵岑城}}([[忠清北道]][[槐山郡]])を奪い、[[616年]]にも母山城(忠清北道[[鎮川郡]])め入った。618年に{{lang|zh|椵岑城}}は新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても[[新羅]]においても、[[高句麗]]への対抗のために[[隋]]の介入を求める動きが活発となっていた。武王は[[607年]]及び[[608年]]に、隋に[[朝貢]]するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、[[611年]]には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。一方で高句麗と外交関係も維持しており、[[612年]]に隋高句麗を攻撃したときに、百済事的隋に協力することはなかった。新羅とは[[伽耶]]諸国の支配権をめぐって争が絶えず、[[602年]]8月には出兵して新羅の阿莫山城([[全羅北道]][[南原市]])を包囲したが、新羅[[真平王]]の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には{{lang|zh|椵岑城}}([[忠清北道]][[槐山郡]])を奪い、[[616年]]にも母山城(忠清北道[[鎮川郡]])撃した。618年に{{lang|zh|椵岑城}}は新羅に奪されが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。


隋が滅びて[[唐]]が興ると[[621年]]に朝貢を果たし、[[624年]]に帯方郡王・百済王に冊封されている。その後[[626年]]に高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って[[太宗 (唐)|太宗]]に仲裁を求めたが、武王は甥の[[鬼室福信]]を唐に送っを受け、表面的には勅に従う素振りを見せたのの、新羅との争いはやまなかった。
隋が滅びて[[唐]]が興ると[[621年]]に朝貢、[[624年]]には「帯方郡王・百済王に冊封されている。[[626年]]に高句麗と和親を結び、新羅をたびたび撃した。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って[[太宗 (唐)|太宗]]に仲裁を求め、武王は甥の[[鬼室福信]]を唐に派遣し仲裁を受け入れたがその後も新羅とのは続いた。


先代の法王が建立を開始した[[王興寺]]([[忠清南道]][[扶餘郡|扶余郡]])を[[634年]]に完成させ、また[[弥勒寺 (百済)|弥勒寺]](全羅北道[[益山市]])を建立した。
の法王が建立を開始した[[王興寺]]([[忠清南道]][[扶餘郡|扶余郡]])を[[634年]]に完成させ、また[[弥勒寺 (百済)|弥勒寺]](全羅北道[[益山市]])を建立した。


在位42年にして[[641年]]3月に死去し、武と[[]]された。この後に使者を派遣して唐に報たところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には光禄大夫の爵号が追贈された。
在位42年にして[[641年]]3月に死去し、武と諡された。に使者を派遣してその死をたところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には光禄大夫の爵号が追贈された。


==薯童説話==
==薯童説話==
『[[三国遺事]]』紀異・武王条には、武王についての異説が[[薯童説話]]として収められている。ここでは武王は[[古朝鮮]]の[[武康王]]と混同されているほか、第24代[[東城王]]の新羅との通婚、第25代[[武寧王]]が即位前に[[益山市|益山]]地域を治めたこと、武王時代の弥勒寺創建縁起説話など、多くの時代の言い伝えが複合して形成されたものと考えられている。詳しくは[[薯童説話]]を参照。
『[[三国遺事]]』紀異・武王条には、武王についての異説が[[薯童説話]]として収められている。ここでは武王は[[古朝鮮]]の[[武康王]]と混同されているほか、第24代[[東城王]]の新羅との通婚、第25代[[武寧王]]が即位前に[[益山市|益山]]地域を治めたこと、武王時代の弥勒寺創建縁起説話など、多くの時代の言い伝えが複合して形成されたものと考えられている。詳しくは[[薯童説話]]を参照。


==武王を演じた俳優==
==武王を演じた俳優==
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*父:第29代[[法王 (百済)|法王]]
*父:第29代[[法王 (百済)|法王]]
*母:不詳
*母:不詳
*王妃:善花公主(新羅第26代国王[[真平王]]の娘)
*王妃:沙宅王后(百済貴族沙宅積徳の娘)
**嫡男:[[義慈王]](第31代国王。母は不詳)
*王妃:沙宅王后(百済貴族・沙宅積徳の娘。)
**王子:翹岐(母は沙宅王后)
**嫡男:[[義慈王]](第31代国王。母は不詳。一説に善花公主。)
他にも、翹岐と同母の姉妹が4人いたという(これに従えば、王女4人は沙宅王后の所生子となる)
**王子:翹岐(母は沙宅王后)
他にも、翹岐と同母の姉妹が4人いたという(これに従えば、王女4人は沙宅王后の所となる)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2017年12月22日 (金) 11:37時点における版

武王
各種表記
ハングル 무왕
漢字 武王
発音 ムワン
日本語読み: ぶおう
ローマ字 Mu-wang
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武王(ぶおう、580年? - 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 - 641年)。

第29代法王の子。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋の名で現れる。

治世

朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のためにの介入を求める動きが活発となっていた。武王は607年及び608年に、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、611年には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。一方で高句麗との外交関係も維持しており、612年に隋が高句麗を攻撃したときにも、百済が軍事的に隋に協力することはなかった。新羅とは伽耶諸国の支配権をめぐって紛争が絶えず、602年8月には出兵して新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅の真平王の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には椵岑城忠清北道槐山郡)を奪い、616年にも母山城(忠清北道鎮川郡)を攻撃した。618年に椵岑城は新羅に奪回されたが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。

隋が滅びてが興ると、621年に朝貢、624年には「帯方郡王・百済王」に冊封されている。626年に高句麗と和親を結び、新羅をたびたび攻撃した。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求め、武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して仲裁を受け入れたが、その後も新羅との紛争は続いた。

父の法王が建立を開始した王興寺忠清南道扶余郡)を634年に完成させ、また弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。

在位42年にして641年3月に死去し、武王と諡された。唐に使者を派遣してその死を告げたところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には光禄大夫の爵号が追贈された。

薯童説話

三国遺事』紀異・武王条には、武王についての異説が薯童説話として収められている。ここでは武王は古朝鮮武康王と混同されているほか、第24代東城王の新羅との通婚、第25代武寧王が即位前に益山地域を治めたこと、武王時代の弥勒寺創建縁起説話など、多くの時代の言い伝えが複合して形成されたものと考えられている。詳しくは薯童説話を参照。

武王を演じた俳優

家族

  • 父:第29代法王
  • 母:不詳
  • 王妃:沙宅王后(百済貴族・沙宅積徳の娘)
    • 嫡男:義慈王(第31代国王。母は不詳)
    • 王子:翹岐(母は沙宅王后)

他にも、翹岐と同母の姉妹が4人いたという(これに従えば、王女4人は沙宅王后の所生子となる)。

参考文献

外部リンク