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'''3代目 笑福亭福松'''([[1884年]] - [[1962年]][[10月25日]])は、本名: 山田福太郎。享年79。 |
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[[桂文之助#上方各代|2代目桂文之助]]([[京都]][[東山 (京都府)|東山]]の甘味茶屋「文の助茶屋」の創業者)の実子。幼少時3、4歳([[1888年]]?)のころに福太郎([[1904年]]には文の家、[[1912年]ころには再度笑福亭福太郎)の名で父の親友であった初代福松に預けられ、京都新京極幾代亭で父が踊った後自身も現れ真似で踊ったのが好評となり高座に出ていた、以降父の三友派や寿々会などの寄席に出演、[[1914年]]に京桂派に移籍の際に父の名であった[[艶文亭かしく|2代目艶文亭かしく]]([[亭号]]は後に「文の家」)を名乗る。一時廃業し舞踊に転じていた時期もあったが、戦後復帰し、晩年には師匠の50回忌を機に[[1955年]]9月3代目福松を襲名。なお、襲名の経緯に関しては[[桂文吾#5代目|5代目桂文吾]]の項を参照。 |
[[桂文之助#上方各代|2代目桂文之助]]([[京都]][[東山 (京都府)|東山]]の甘味茶屋「文の助茶屋」の創業者)の実子。幼少時3、4歳([[1888年]]?)のころに福太郎([[1904年]]には文の家、[[1912年]]ころには再度笑福亭福太郎)の名で父の親友であった初代福松に預けられ、京都新京極幾代亭で父が踊った後自身も現れ真似で踊ったのが好評となり高座に出ていた、以降父の三友派や寿々会などの寄席に出演、[[1914年]]に京桂派に移籍の際に父の名であった[[艶文亭かしく|2代目艶文亭かしく]]([[亭号]]は後に「文の家」)を名乗る。一時廃業し舞踊に転じていた時期もあったが、戦後復帰し、晩年には師匠の50回忌を機に[[1955年]]9月3代目福松を襲名。なお、襲名の経緯に関しては[[桂文吾#5代目|5代目桂文吾]]の項を参照。 |
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子供のころ、父が寄席の高座で踊っている時に背後からそっと現れ、父の物真似をして踊ったことで喝采を受けた。それがきっかけで子役ながら高座に上がるようになる。子供時分から修行をしていたこともあり、踊、[[三味線]]、[[胡弓]]、[[琴]]、鳴り物など何でもこなした。[[山村流]]の踊りの名手としても知られ、舞踊家としては'''山村福彌'''を名乗った。諸芸に通じていたが、自称「落語が一番下手」で、高座では噺を手短に切り上げ、得意の踊りで締めくくることが多かった。 |
子供のころ、父が寄席の高座で踊っている時に背後からそっと現れ、父の物真似をして踊ったことで喝采を受けた。それがきっかけで子役ながら高座に上がるようになる。子供時分から修行をしていたこともあり、踊、[[三味線]]、[[胡弓]]、[[琴]]、鳴り物など何でもこなした。[[山村流]]の踊りの名手としても知られ、舞踊家としては'''山村福彌'''を名乗った。諸芸に通じていたが、自称「落語が一番下手」で、高座では噺を手短に切り上げ、得意の踊りで締めくくることが多かった。 |
2017年11月29日 (水) 00:12時点における版
笑福亭 福松(しょうふくてい ふくまつ)は、上方落語の名跡。3代目の死後は空き名跡となっている。
初代
初代 笑福亭 福松 | |
本名 | 国島 福松 |
---|---|
生年月日 | 1858年 |
没年月日 | 1904年10月14日 |
出身地 | 日本・大坂 |
師匠 | 桂梅丸 2代目笑福亭松鶴(後の2代目笑福亭圓笑) |
弟子 | 福二(後の2代目立花家花橘) 2代目福松、璃喜松(後の末廣家扇蝶 初代圓若(後の初代三遊亭圓若) 松光 勢楽(後の川上秋月) 3代目福松 福寿(後の桂塩鯛) 福楽(後の桂米若) 福助 小福松(後の5代目桂文吾) 福我(後の3代目桂文昇) 初代笑福亭福團治 |
名跡 | 初代笑福亭福松 |
活動期間 | 1864年 - 1904年 |
活動内容 | 古典落語 寄席舞踊 |
所属 | 桂派 三友派 |
主な作品 | |
『紙屑屋(浮かれの屑より)』 | |
初代 笑福亭福松(安政5年(1858年) - 明治37年(1904年)10月14日)は、本名: 国島福松。享年47。出囃子は『新かじや』。
大坂交野町梅ケ枝(現 大阪府交野市梅が枝)生まれ。生家は銅細工師で母は産婆をしていたという。3、4歳から芸事に親しみ軽業師や歌舞伎俳優に弟子入りするも器に会わず、元治元年(1864年)の数え7歳の時、初代桂文枝門下の桂梅丸(『落語系圖』には桂慶治)門下となる。翌年、2代目笑福亭松鶴(後の2代目笑福亭圓笑)門下に移り、福松(本名にちなみ)を名乗る。子役として活躍し、世の賞賛をさらった。青春時代長らく1884年まで約10年間京都の笑福亭で真打を張り活躍したが芸妓とふしだら関係を持ったことで京都にいられなくなり大阪に戻った。
1893年10月、桂派に対抗し、2代目月亭文都、3代目笑福亭松鶴、2代目桂文團治(後の7代目桂文治)らと共に三友派を結成し、最後まで派の主力として活躍した。三友派の芸風そのままの華やかな高座で、人気実力ともに最高を極め、法善寺紅梅亭の席亭・原田ムメの覚えが最もめでたかった。その後松屋町神明社内の吉福亭の経営など政治的手腕も発揮し三友派の看板として活躍。
1903年に一門約20数名を引きつれ上京し睦会の各主要席に出演、この頃から笑福亭松鶴の襲名の準備をしていたが、翌年、1904年に死去した。3回忌には銅像が建てられたが第二次世界大戦の真っ只中に金属不足にて供出されて現存しない。墓所は一心寺。
十八番は『紙屑屋(浮かれの屑より)』。踊りの名手でもあり、『大文字屋』を得意とした。
主な門下には福二(後の2代目立花家花橘)、2代目福松、璃喜松(後の末廣家扇蝶)、初代圓若(後の初代三遊亭圓若)、松光、勢楽(後の川上秋月)、3代目福松、福寿(後の桂塩鯛)、福楽(後の桂米若)、福助、小福松(後の5代目桂文吾)、福我(後の3代目桂文昇)、初代笑福亭福團治らがいる。
2代目
2代目 笑福亭 福松 | |
本名 | 河合 福三郎 |
---|---|
生年月日 | 不詳年 |
没年月日 | 1945年1月 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 3代目笑福亭松鶴 初代笑福亭福松 |
名跡 | 1. 笑福亭里キ松(1886年 - ?) 2. 笑福亭璃幸(時期不明) 3. 2代目笑福亭璃鶴(? - 1902年) 4. 笑福亭福圓(1902年 - 1913年) 5. (亭号不明)左文治(1913年 - 1914年) 6. 桂福松郎(1914年 - 1918年) 7. 2代目笑福亭福松(1918年 - 1945年) |
活動期間 | 1886年 - 1945年 |
活動内容 | 上方落語 |
家族 | 3代目笑福亭圓笑(兄) |
所属 | 京桂派 |
2代目 笑福亭 福松(1868年ないし1869年 - 1945年1月)は、本名: 河合福三郎。享年不詳。3代目笑福亭圓笑の実弟。
明治元年の生まれ、生家は大阪島の内の「魚源」という料理屋、初め1886年3代目笑福亭松鶴門下で、里キ松、璃幸、2代目璃鶴を名乗る。後、1902年ころ初代福松門下となり、福圓(本来は3代目)から、1913年東京へ出て門下不明で左文治。後に京桂派に移籍して、1914年9月に福松郎と改名し、さらに1918年に2代目福松を襲名。
主に神戸、京都の寄席で活躍。後に5代目笑福亭松鶴の主催する「楽語荘」同人となり、「上方はなしを聴く会」で高座に上がった。芸風は地味で、華やかさには欠けていたようである。
『味噌蔵』『夢八』『狸茶屋』などを得意とし、余興の踊りで『逢いたさ』を愛嬌よく踊っていた。
ある日、自宅に泥棒が入り、着物などを盗まれた。後に近所を歩いている時、同じ着物を着ている人物を発見し「こいつはドロボーだ」と思い尾行し、その人物が交番の近くを歩いた時に大声で『ドロボー!!』と叫び、捕まえたという。
娘が5代目桂文吾(富士村彦次郎)の後妻となった。
3代目
3代目 笑福亭 福松 | |
本名 | 山田 福太郎 |
---|---|
別名 | 山村福彌 |
生年月日 | 1884年 |
没年月日 | 1962年10月25日 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 2代目桂文之助 初代福松 |
弟子 | 文の家恋しく(後に漫才に転じ文の家恋しく・たより) 文の家都枝・七五三 文の家文福 文の家速達 初代森乃福郎 |
名跡 | 1. 笑福亭福太郎(1888年 - 1904年) 2. 文の家福太郎(1904年 - 1912年) 3. 笑福亭福太郎(1912年 - 1914年) 4. 2代目艶文亭かしく(1914年 - ?) 5. 文の家かしく(? - 1955年) 6. 3代目笑福亭福松(1955年 - 1962年) |
活動期間 | 1888年 - 1962年 |
活動内容 | 古典落語 寄席舞踊 |
家族 | 2代目桂文之助(父) |
所属 | 三友派 寿々会 京桂派 |
主な作品 | |
『愛宕山』 『紙屑屋』 『ちよかね』 『大文字屋』 | |
3代目 笑福亭福松(1884年 - 1962年10月25日)は、本名: 山田福太郎。享年79。
2代目桂文之助(京都東山の甘味茶屋「文の助茶屋」の創業者)の実子。幼少時3、4歳(1888年?)のころに福太郎(1904年には文の家、1912年ころには再度笑福亭福太郎)の名で父の親友であった初代福松に預けられ、京都新京極幾代亭で父が踊った後自身も現れ真似で踊ったのが好評となり高座に出ていた、以降父の三友派や寿々会などの寄席に出演、1914年に京桂派に移籍の際に父の名であった2代目艶文亭かしく(亭号は後に「文の家」)を名乗る。一時廃業し舞踊に転じていた時期もあったが、戦後復帰し、晩年には師匠の50回忌を機に1955年9月3代目福松を襲名。なお、襲名の経緯に関しては5代目桂文吾の項を参照。
子供のころ、父が寄席の高座で踊っている時に背後からそっと現れ、父の物真似をして踊ったことで喝采を受けた。それがきっかけで子役ながら高座に上がるようになる。子供時分から修行をしていたこともあり、踊、三味線、胡弓、琴、鳴り物など何でもこなした。山村流の踊りの名手としても知られ、舞踊家としては山村福彌を名乗った。諸芸に通じていたが、自称「落語が一番下手」で、高座では噺を手短に切り上げ、得意の踊りで締めくくることが多かった。
噺も決して下手ではなかったが、早口で聞き取りにくく、客受けはしなかった。得意ネタは『愛宕山』『紙屑屋』など、踊では『ちよかね』『大文字屋』をよくやっていた。またライブ録音が数点現存しSPレコードでは唯一かしく時代に『やれやれ豆腐』が残されている。
世襲の芸人にありがちのことだが、若年時から遊里に出入りし、父の弟子を顎で使うなど傲慢な振る舞いが多く、周囲の憎悪を買うこともしばしばあった。しかし、戦後の上方落語界にあっては生き字引的な存在として重きを成し、3代目桂米朝らに『地獄八景亡者戯』や『天狗さし』を始め、多くの貴重なネタを伝えたことで知られる。初代森乃福郎は直弟子にあたる。その他にも、親子2代わたり稽古を付けてもらった文の家恋しく(後に漫才に転じ文の家恋しく・たより)、文の家都枝・七五三、文の家文福、文の家速達らがいる。
出典
- 『落語系圖』(月亭春松著)
- 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編、平凡社、1989年、ISBN 458212612X)
- 『続・米朝落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1985年)
- 『三集・上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1991年)p69 - 3代目福松襲名に関して