「ジョホールバルの歓喜」の版間の差分
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1998年W杯のアジア地区の出場枠は3.5。アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれ[[ホーム・アンド・アウェー|ホーム&アウェー方式]]にてリーグ戦を行い、まず各組1位の2ヵ国が本大会出場権を獲得。各組2位同士で第3代表決定戦を行い、この勝者が3番目の本大会出場権獲得。敗者はアジア4位として[[オセアニアサッカー連盟|オセアニア]]1位との大陸間プレーオフに回ることとなった(このプレーオフに勝てば本大会出場権獲得)。 |
1998年W杯のアジア地区の出場枠は3.5。アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれ[[ホーム・アンド・アウェー|ホーム&アウェー方式]]にてリーグ戦を行い、まず各組1位の2ヵ国が本大会出場権を獲得。各組2位同士で第3代表決定戦を行い、この勝者が3番目の本大会出場権獲得。敗者はアジア4位として[[オセアニアサッカー連盟|オセアニア]]1位との大陸間プレーオフに回ることとなった(このプレーオフに勝てば本大会出場権獲得)。 |
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最終予選の形式は当初、アメリカ大会予選と同様の[[セントラル方式]]が予定されていたが、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国は[[バーレーン]]での開催を主張し対立が起きたため、[[国際サッカー連盟|FIFA]]が直前の7月21日の総会でホーム&アウェー方式への変更を発表<ref>[https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201711140002-spnavi?p=1 1997年 ジョホールバルとJの危機<後編> |
最終予選の形式は当初、アメリカ大会予選と同様の[[セントラル方式]]が予定されていたが、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国は[[バーレーン]]での開催を主張し対立が起きたため、[[国際サッカー連盟|FIFA]]が直前の7月21日の総会でホーム&アウェー方式への変更を発表<ref>[https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201711140002-spnavi?p=1 1997年 ジョホールバルとJの危機<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」]</ref>。予選の終盤までもたつくも、強豪[[サッカーアラブ首長国連邦代表|アラブ首長国連邦]](以下「UAE」)を逆転してグループ2位に滑り込んだ日本は、結果的にこの変更による恩恵を受けた。 |
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シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」]</ref>。予選の終盤までもたつくも、強豪[[サッカーアラブ首長国連邦代表|アラブ首長国連邦]](以下「UAE」)を逆転してグループ2位に滑り込んだ日本は、結果的にこの変更による恩恵を受けた。 |
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== グループ展開 == |
== グループ展開 == |
2017年11月29日 (水) 00:05時点における版
大会名 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 | ||||||
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(延長ゴールデンゴール) | |||||||
開催日 | 1997年11月16日 | ||||||
会場 | ラルキン・スタジアム(ジョホールバル) | ||||||
主審 | マヌエル・ディアス・ベガ |
ジョホールバルの歓喜(ジョホールバルのかんき)は、1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルでサッカー日本代表が1998 FIFAワールドカップ・フランス大会のアジア最終予選のアジア第3代表決定戦をイラン代表と戦い、勝利を収めたことによりFIFAワールドカップ本戦初出場を決めたサッカーの試合の日本における俗称である[1][2][3]。
背景
1998年W杯のアジア地区の出場枠は3.5。アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、まず各組1位の2ヵ国が本大会出場権を獲得。各組2位同士で第3代表決定戦を行い、この勝者が3番目の本大会出場権獲得。敗者はアジア4位としてオセアニア1位との大陸間プレーオフに回ることとなった(このプレーオフに勝てば本大会出場権獲得)。
最終予選の形式は当初、アメリカ大会予選と同様のセントラル方式が予定されていたが、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国はバーレーンでの開催を主張し対立が起きたため、FIFAが直前の7月21日の総会でホーム&アウェー方式への変更を発表[4]。予選の終盤までもたつくも、強豪アラブ首長国連邦(以下「UAE」)を逆転してグループ2位に滑り込んだ日本は、結果的にこの変更による恩恵を受けた。
グループ展開
日本(B組)
日本は、ダブルセントラル方式の1次予選第4組で5勝1分けとし、オマーンを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。
日本はB組に入った。経過は以下のとおり。
節 | 対戦チーム | 結果 | 勝 | 分 | 負 | 日本の勝点 | UAEの勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
第1節 | v. ウズベキスタン (Home) | ○ 6 - 3 | 1 | 0 | 0 | 3 | (試合なし) |
第2節 | (試合なし) | - | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 |
第3節 | v. アラブ首長国連邦 (Away) | △ 0 - 0 | 1 | 1 | 0 | 4 | 4 |
第4節 | v. 韓国 (Home) | ● 1 - 2 | 1 | 1 | 1 | 4 | 7 |
第5節 | v. カザフスタン (Away) | △ 1 - 1 | 1 | 2 | 1 | 5 | 7 |
第6節 | v. ウズベキスタン (Away) | △ 1 - 1 | 1 | 3 | 1 | 6 | (試合なし) |
第7節 | (試合なし) | - | 1 | 3 | 1 | 6 | 7 |
第8節 | v. アラブ首長国連邦 (Home) | △ 1 - 1 | 1 | 4 | 1 | 7 | 8 |
第9節 | v. 韓国 (Away) | ○ 2 - 0 | 2 | 4 | 1 | 10 | 9 |
第10節 | v. カザフスタン (Home) | ○ 5 - 1 | 3 | 4 | 1 | 13 | 9 |
9月7日、ホーム国立競技場で行われた初戦のウズベキスタン戦を三浦知良の4ゴールなどで6-3と大勝し、約2週間後の9月19日、気温40度のアブダビで行われたUAE戦を0-0で引き分けた日本は、9月28日、このグループ最大のライバルとされた韓国をホーム国立競技場に迎えた。日本は後半22分、山口素弘のループシュートで先制するも、この日日本代表として初出場だったFW呂比須ワグナーをDF秋田豊と交替させ守りに入ったことが裏目に出て、後半39分に徐正源、42分に李敏成にゴールを許し、1-2で逆転負け、3試合を終了して1勝1分1敗の勝点4にとどまった。同じく3試合を消化した韓国は3連勝で勝点9の1位、2位にUAEが勝点7で続く状態となり、1位通過が危ぶまれた。
続く10月4日、アルマトイで行われたカザフスタン戦は、コーナーキックから秋田豊のヘディングで先制するも、ロスタイムに同点ゴールを決められて引き分け。同日、首位の韓国がホームでUAEに3-0で快勝したため、2位UAEとの勝点差こそ2に縮まったものの、首位韓国との勝点差は7に開いた。ここで加茂周監督は更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が監督に就任した。
岡田監督の初戦、かつアウェー連戦となった10月11日、タシケントでのウズベキスタン戦では前半30分に先制され、敗戦直前まで追い詰められるが、終了間際にDFも前線に上げるパワープレーを敢行した結果、呂比須ワグナーのヘディングで後半44分ようやく同点とし、そのまま引き分けとなった。同節、韓国はアウェーでカザフスタンと引き分け、UAEは試合がなかったため、韓国との勝点差こそ7のままながら、UAEとの勝点差はUAEが1試合少ないとはいえ1に縮まり、首の皮一枚繋がった形での引き分けとなった。
次の試合は10月26日、UAEをホームの国立競技場に迎えた2位争いの直接対決で、UAEが10月18日の第7節でカザフスタンにアウェーで敗れたためUAEと日本の勝点差1はそのまま、日本が勝てば2位浮上となる試合だった。呂比須が前半4分に先制ゴールを挙げるも、前半37分に追いつかれそのまま追加点を挙げられず引き分けた。この試合ではUAE寄りだったジャッジと、異様に短いロスタイムが問題になり、試合後に国立競技場周辺で日本のサポーターが暴動を起こす事態となった[要出典]。この試合の結果、上位3チームがいずれも2試合を残した状態で、同節試合がなく既に勝点16を得ていた韓国と2位UAEとの勝点差が8となり、韓国のグループ1位およびW杯本戦出場が決定するとともに、日本の自力による2位からのプレーオフでの最終予選通過が消滅した。
もうあとがなくなった日本。11月1日、アウェーでの韓国戦で日本は、既にワールドカップ出場を決め、主力DFの洪明甫を累積警告で欠いた韓国守備陣を試合開始から翻弄し、前半1分に名波浩、前半37分に呂比須がゴールを決め2-0と快勝、勝点を10とする。翌日、UAEがホームで最下位ウズベキスタン相手に引き分けたため、UAEの勝点は9にとどまり、日本は逆にUAEに勝点差1をつけ2位に浮上した。
日本は、勝てばB組2位が確定する11月8日の最終戦、アウェーで終了間際引き分けに持ち込まれたカザフスタンをホームに迎えた1戦でも、秋田のヘディングで先制、代表復帰した中山雅史や高木琢也のゴールなどで5-1で快勝し、第3代表決定戦への出場権を得た。
最終予選B組の最終順位は以下のとおり。
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 韓国 | 19 | 6 | 1 | 1 | +12 | 19 |
2 | 日本 | 13 | 3 | 4 | 1 | +8 | 17 |
3 | アラブ首長国連邦 | 9 | 2 | 3 | 3 | -3 | 9 |
4 | ウズベキスタン | 6 | 1 | 3 | 4 | -5 | 13 |
5 | カザフスタン | 6 | 1 | 3 | 4 | -12 | 7 |
- (勝点は勝利3、引き分け1、敗戦0。勝点が同じ場合、まず得失点差、次いで総得点の優劣で順位を決した。
- なお、2006年ドイツ大会の予選では、勝点が同じ場合、まず直接対決の結果、次いでリーグ戦全体の得失点差、総得点の優劣で順位を決した)
イラン(A組)
一方、A組には前大会ベスト16のサウジアラビアと強豪イランが所属していた。当初はイランがA組の首位を走っていたが、第9節にて最下位のカタールに0-2で敗れ、9節終了時点で勝点12の暫定首位で、最終節の第10節に試合がないため一足早く全日程を終了。第10節のサウジアラビア(勝点11)-カタール(勝点10)戦が引き分けに終われば、勝点でサウジアラビアと並ぶものの得失点差で1位となるが、いずれかが勝利した場合、もう1試合の中国対クウェートがいずれかの大勝に終わらない限り2位となるため、サウジアラビア対カタールの結果待ちとなった。この試合を1-0で制したサウジアラビアが首位となって本戦出場権を獲得、イランは2位に転落して第3代表決定戦にまわることとなった。
A組2位が決まるまでの間、日本では、第3代表決定戦の相手としてはサウジアラビアの方が与しやすいとの論が主流であったが、期待に反して第3代表を争う相手はイランとなった。
最終予選A組の最終成績は以下のとおり。
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | サウジアラビア | 14 | 4 | 2 | 2 | +2 | 8 |
2 | イラン | 12 | 3 | 3 | 2 | +5 | 13 |
3 | 中国 | 11 | 3 | 2 | 3 | -3 | 11 |
4 | カタール | 10 | 3 | 1 | 4 | -3 | 7 |
5 | クウェート | 8 | 2 | 2 | 4 | -1 | 7 |
開催地決定
第3代表決定戦をホーム・アンド・アウェー方式のもとで2試合開催することは日程的に難しく、中立地での一発勝負の実施が前提とされた。当時のB組の展開から、UAEがB組2位になることが想定されたため、第3代表決定戦はバーレーンで開催されることとなっていた。しかし移動距離や気候などで著しい不利を被ることになる日本協会はこれに反発。AFCでは、西アジア勢同士ならバーレーン、東アジア勢同士[5]なら韓国、西アジア勢対東アジア勢の対戦ならマレーシア(イスラム教国であり、かつAFC本部がある)で開催するという案に落ち着いた。
イランは時差の点で不利を受け(日本とマレーシアの時差1時間、イランとマレーシアの時差4時間半)、さらにイランは直行便が確保できず、試合直前にやっと確保できたのはドバイや香港を経由した約36時間の移動であった。加えて飛行機の遅延でクアラルンプールでの乗り継ぎに失敗し、ジョホールバルへの到着がさらに6時間も遅れることとなった[6]。そのため体調を崩す選手が続出し、準備もできなかった。時差や移動の面で日本に有利に働き、また、日本の第3代表決定戦出場がイランよりも先に決定したこともあり、マレーシアには日本のサポーターが多数観戦に訪れ、またクアラルンプールの日本企業や日本人学校を練習場として使用できた上に日本人会の支援を受けるなど、日本にとってはホーム同然の環境であった[7]。
試合2日前の練習では、イランの選手達がコーランを大音量で流したり、日本選手の真横をランニングするなどのあからさまな挑発行為に出たが、並木磨去光は「肩でハアハアと息をしていて、明らかに疲れていた」とイラン代表の余裕の無さが既に現れていたと振り返った[6]。
試合展開
日本はアウェー韓国戦から機能している北澤豪をトップ下に置いたダイヤモンドの4-4-2のフォーメーションを継続。FWはそれまでレギュラーながら前節カザフスタン戦で出場停止だった三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止から復帰したが、直前に実母を亡くしたばかりの呂比須はベンチスタートにして、三浦とカザフスタン戦で代表復帰ゴールを決めた中山雅史が2トップを組んだ。一方、イランはアジア予選で19得点と活躍したMFカリム・バゲリを累積警告による出場停止で欠いていたが、前日練習で車椅子に乗っていたコダダド・アジジが平然とスタメンで出場し、エースのアリ・ダエイ、ドリブラーのメフディ・マハダビキアと変則3トップを組む。それまで右サイドMFだったマハダビキアをウイングの位置まで高くしたのは、日本の攻守の要となっていた左SB相馬直樹のオーバーラップを牽制する狙いであった。
試合は前半39分、日本がMF中田英寿のスルーパスに反応した中山がGKアハマド・レザ・アベドザデの脇を抜くシュートを決めて先制。前半はこのまま1-0と日本がリードして折り返すも、イランは後半開始25秒にダエイのシュートのこぼれ球をアジジが押し込んで同点とし、後半14分にはダエイがヘディングシュートを決めて2-1と逆転した。
後半18分、後のない日本の岡田監督は2トップの三浦と中山に代えて城彰二と呂比須を同時投入し[8]、同時に3バックに変更した。この積極策が功を奏し、後半31分に中田のクロスボールを城がヘディングでゴールに突き刺し、2-2の同点に追いつく。コンディショニングに失敗したイランの選手は時間経過とともに運動量が落ち、接触プレーで倒れた後起き上がれない場面が目立つようになる。しかし、両チーム決勝点を奪えないまま後半を終了し、得点が決まった時点で試合終了となるゴールデンゴール方式の延長戦に突入した。
延長戦開始と同時に、日本はMF北澤に代えて5人目のFW岡野雅行を投入。岡野は最終予選においてそれまで一度も出場機会を与えられていなかったが[9]、中田からのパスに俊足を活かして何度もゴールに迫る。しかし、GKと1対1になる絶好機でシュートを打たず、ゴール前へ走りこんできた中田へのパスを選択してチャンスをつぶし、次のチャンスではシュートを打ったもののゴールのはるか上に打ち上げてしまう。城はゴールへ迫った際にアベドザデと接触、この時から岡野の決勝ゴールの場面までの記憶が全くないという[10]。
イランも反撃を見せ、ゴール前でフリーでクロスを受けたアリ・ダエイのシュートがバーの上を通過するなど両チームとも決定的なチャンスをものにできなかった。そのピンチの直後、PK戦への突入も近づいた延長後半13分、呂比須が中盤で奪取したボールを中田がドリブルで持ち上がり、ペナルティエリア直前からミドルシュート。アベドサデがはじいたルーズボールに岡野が走りこみ、スライディングしながら右足でゴールに押し込んだ。決勝点を決めた岡野は「これを外したらもう日本に帰れないと思った」と後に語っている。試合終了直後、岡田監督を始めスタッフ・ベンチメンバーが一斉にピッチへ飛び出し、岡野を祝福した。
シーソーゲームの末に、日本はこのゴールデンゴールでW杯本戦初出場を決めた。1954年のW杯スイス大会予選に参加して以来43年目、10回目の挑戦での出場権獲得となった。なお、ワールドカップの予選及び本大会でゴールデンゴール方式が採用されたのはフランス大会および日韓大会(2002年)のみで、2004年をもってゴールデンゴール方式は廃止されたので、この方式でW杯出場を決めたのはこの試合に勝った日本だけである。
なお、この一戦に敗れたイランはオセアニア地区代表オーストラリアとの大陸間プレーオフに勝ち、ワールドカップ本戦進出を決めた。
放送
この試合は地上波ではフジテレビ(実況:長坂哲夫、解説:清水秀彦[11])、衛星放送ではNHK-BS1(実況:山本浩、解説:松木安太郎)が生中継した。日曜日の深夜の放送にもかかわらず、フジテレビの平均視聴率は47.9%という高視聴率だった。「フジテレビが中継する試合で日本代表は負けない」という、当時の不敗神話はこの試合でも継続された。
岡野のゴールデンゴールの瞬間、フジテレビの中継で解説を務めていた清水は「やったー!」という歓声をあげ、実況の長坂は「最後は、岡野ー!日本、勝った!ワールドカップ!」と叫んだ。ラジオで実況を務めたニッポン放送の師岡正雄は「岡野だぁーっ!岡野! 岡野!」と絶叫。翌日の新聞・ニュースには「日本中が歓喜した」との言葉が躍った。
試合後は興奮したり泣きながらインタビューに応じる選手が多い中で、中田は落ち着いてインタビューに応じ、「代表はうまく盛り上がったんで、あとはJリーグをどうにか盛り上げてください」とコメントした。
翌日放送の『ニュースステーション』(テレビ朝日)ではサブキャスターの小宮悦子と、サッカーコーナー担当の川平慈英がその喜びを伝えた[12]。特に小宮は現地に赴き、試合を観戦[13]するほどの熱の入れようで、岡野のゴールデン・ゴールの瞬間は絶叫で後のことは覚えていないと述べている。また、川平は自由が丘のスポーツバーで兄であるジョン・カビラとこの試合をテレビ観戦し、日本が勝利(出場権獲得)した際は嬉し涙を浮かべ、「(日本に)生まれてよかったよ。生きててよかった!」と絶叫。最後はバーの客とともに「日本サッカーの曙だ!」と勝ち鬨を挙げた[14]。
試合データ
GK | 20 | 川口能活 | ||||
DF | 2 | 名良橋晃 | ||||
DF | 3 | 相馬直樹 | ||||
DF | 4 | 井原正巳 | ||||
DF | 17 | 秋田豊 | ||||
MF | 6 | 山口素弘 | ||||
MF | 8 | 中田英寿 | ||||
MF | 10 | 名波浩 | ||||
MF | 13 | 北澤豪 | 90分 | |||
FW | 11 | 三浦知良 | 63分 | |||
FW | 32 | 中山雅史 | 63分 | |||
サブメンバー: | ||||||
FW | 18 | 城彰二 | 63分 | |||
FW | 30 | 呂比須ワグナー | 63分 | |||
FW | 14 | 岡野雅行 | 90分 | |||
監督 | ||||||
岡田武史 |
GK | 1 | アハマド・レザ・アベドザデ | ||||
DF | 4 | モハマド・ハクプール | ||||
DF | 5 | モハマド・ペイラヴァニ | ||||
DF | 15 | オスタド・アサディ | 55分 | |||
MF | 2 | メフディ・マハダビキア | ||||
MF | 24 | ジャヴァド・ザリンチェ | 65分 | |||
MF | 9 | ハミド・エスティリ | ||||
MF | 7 | アリ・マンスーリアン | ||||
MF | 8 | ナムジュ・モトラグ | 80分 | |||
FW | 10 | アリ・ダエイ | ||||
FW | 11 | ホダダド・アジジ | ||||
サブメンバー: | ||||||
25 | メフルダード・ミーナーヴァンド | 55分 | ||||
20 | メフディ・パシャザデ | 65分 | ||||
17 | アリアスガル・モディルースタ | 80分 | ||||
監督 | ||||||
ヴァルデイル・バドゥ・ヴィエイラ |
両監督の再会
2007年2月3日、長野市サッカーフェスティバルの講演会で、1997年当時日本代表を率いていた岡田とイラン代表を率いていたバドゥ・ヴィエイラが、ジョホールバルでの試合以来約9年ぶりに再会し対談を行った。バドゥは当時AC長野パルセイロで監督を務めており、その縁もあって長野での対談が実現した。対談の内容はやはりジョホールバルに関する話題が殆どで、当時話題になった情報戦的な駆け引きなど采配についての裏話も語られた。
脚注
- ^ “「ジョホールバルの歓喜」両雄再会”. 京都新聞 (2014年4月22日). 2015年5月14日閲覧。
- ^ “写真特集:ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜、そして・・・サッカー日本代表W杯出場をかけた戦い”. 毎日新聞 (2013年6月4日). 2015年5月14日閲覧。
- ^ “厳しい環境の中で「適応力」を磨け サッカー元日本代表・井原正巳さん”. 朝日新聞デジタル (2015年3月27日). 2015年5月14日閲覧。
- ^ 1997年 ジョホールバルとJの危機<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
- ^ 最終戦までの結果次第で中国と対戦する可能性があった。
- ^ 飯尾篤史 (2017年10月26日). “クアラルンプールでの戦闘準備 集中連載「ジョホールバルの真実」(3)”. スポーツナビ 2017年11月13日閲覧。
- ^ のちにフジテレビ製作「FAIR PLAYの記憶」に出演した岡田は、当初は呂比須のみを投入するつもりだったが、選手のがっくり来た様子を見てショックを与えるため咄嗟に城の投入を決断したと語り、そのため城はウォーミングアップをせずにピッチに立ったと述べた。
- ^ 岡野は試合翌日のインタビューで「僕はあんまり緊張とかしない方なんですけど、さすがに昨日の出されかたはちょっとビビりましたね。今まで一回も出てないのに、突然延長で"行くぞ"と言われても」と苦笑した。
- ^ 飯尾篤史 (2017年11月13日). “キックオフから118分、歴史が動いた 集中連載「ジョホールバルの真実」(18)”. スポーツナビ 2017年11月13日閲覧。
- ^ フジテレビのスタジオでは青嶋達也が進行を担当し、解説は田島幸三、ゲストに長谷川健太(当時清水エスパルス、現・ガンバ大阪監督)、武田修宏、ラモス瑠偉(ともに当時京都パープルサンガ。元ヴェルディ川崎)、森保一(当時サンフレッチェ広島、現・同チーム監督)が出演した。
- ^ このときは川平と読売クラブ(ユース)時代の同僚だった都並敏史(当時ベルマーレ平塚)がゲスト出演。
- ^ 実際、前年のアトランタオリンピックの日本-ブラジル戦を観戦し、日本の勝利を見届けたことから、川平から「スーパー・ラッキー・ヤングガール」と称された。試合後の取材で川口能活に対して「顔がやっとほころびましたね」問うたところ、川口は「小宮さん、勝利の女神でしょ。ここ2、3ヶ月笑ってなかったから」と返した。
- ^ VTR終了後、川平はそのときの自身について「危ない奴ですね」と述べている。