「ルチアーノ・スパレッティ」の版間の差分
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故郷[[トスカーナ州]]でブドウ農園を営んでおり、オフ期間には自ら農機械を運転し労働に勤しむ<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/829098?page=4 またも名将に認められた長友佑都。 |
故郷[[トスカーナ州]]でブドウ農園を営んでおり、オフ期間には自ら農機械を運転し労働に勤しむ<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/829098?page=4 またも名将に認められた長友佑都。 インテルで先発奪回の要因とは何?] Number Web 2017/10/18</ref>。 |
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インテルで先発奪回の要因とは何?] Number Web 2017/10/18</ref>。 |
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== 所属クラブ == |
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2017年10月29日 (日) 00:00時点における版
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Luciano Spalletti | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1959年3月7日(65歳) | |||||
出身地 | チェルタルド | |||||
身長 | 180cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1986 | エンテッラ | 27 | (2) | |||
1986-1990 | スペツィア・カルチョ | 120 | (7) | |||
1990-1991 | ヴィアレッジョ | 29 | (1) | |||
1991-1993 | エンポリFC | 60 | (3) | |||
通算 | 236 | (13) | ||||
監督歴 | ||||||
1995-1998 | エンポリFC | |||||
1998-1999 | UCサンプドリア | |||||
1999-2000 | SSCヴェネツィア | |||||
2001 | ウディネーゼ・カルチョ | |||||
2001-2002 | ACアンコーナ | |||||
2002-2005 | ウディネーゼ・カルチョ | |||||
2005-2009 | ASローマ | |||||
2010-2014 | FCゼニト・サンクトペテルブルク | |||||
2016-2017 | ASローマ | |||||
2017- | インテル | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ルチアーノ・スパッレッティ(Luciano Spalletti、1959年3月7日 - )は、イタリア・フィレンツェ県チェルタルド出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現在はセリエAのインテルの監督を務めている。
来歴
現役サッカー選手時代は3部リーグに当たるセリエCでプレーしていた。ポジションは守備的MFで主に相手のエースを追いかけまわす役割をしていた。
引退後、所属クラブであったエンポリFCで指導者の道を歩み始め、下部組織のコーチなどを経て、1995/1996シーズンに昇格する形で監督に就任した。その後、UCサンプドリア、ヴェネツィアの監督を歴任するが、いずれもセリエB降格の憂き目に遭っており、続くウディネーゼでも降格の危機に瀕したことから「降格請負人」という有り難くない異名を持ってしまった。
監督としての評価を確固たるものにしたのは、2002年の2回目のウディネーゼの監督就任以降である。2004-2005シーズン、ウディネーゼは3位でシーズンを終え、クラブ史上初のUEFAチャンピオンズリーグ出場権を手にしたが、スパッレッティ自身はそのシーズンで監督を辞した。その後、監督交代を繰り返して同シーズン7位に沈んだASローマの監督に就任した。
- ASローマ
ASローマでは、トップ下の攻撃的MFとして地位を固めていたフランチェスコ・トッティをセンター・フォワード(CF)にコンバートし、代わりにシモーネ・ペッロッタにトップ下を任せた。さらにダニエレ・デ・ロッシやアルベルト・アクイラーニといった若手を積極的に起用、チームの再建を成功させた。生粋のストライカーを起用せず細かなパス回しとMFの走り込みを組み合わせた攻撃サッカーは、0トップと呼ばれ、セリエAで最も美しいサッカーと言われた。そしてその新戦術はFCバルセロナなど現在の強豪クラブにも大きな影響を与えている。
2005-2006シーズンには、セリエA新記録となる11連勝を成し遂げた。2006-07、2007-08シーズンと2年連続でローマをセリエA2位、チャンピオンズリーグベスト8の好成績に導くが、2008-09シーズンは怪我人の続出や新戦力の不発などで6位に後退。「(チャンピオンズリーグ出場圏内の)4位以内に入れなかったら辞任する」との考えを示しており、ユヴェントスFCへの監督就任の噂もされたが、選手やフロントの強い支持もあり残留を表明した。しかし新たに迎えた2009-10シーズンでは開幕から2連敗。その責任を取り辞任した。選手補強に対するセンシ会長や、一部選手への試合スタイルへの非難などを、辞任後に発言していることから、チームとの確執はシーズン前からあったと見られている。しかしながら、悲願のリーグ優勝はならなかったものの、ローマのティフォージに常に支持され、それは辞任後も変わっていない。
- FCゼニト
2009年12月からロシアサッカー・プレミアリーグのFCゼニト・サンクトペテルブルクの監督に就任。個に依存していたチームに戦術を植え付け、連動性に優れた組織的完成度の高い集団へと生まれ変えた。結果にこだわる「イタリア式」も取り入れ、イタリア式をよく知るアレッサンドロ・ロジーナ、ウディネーゼ時代の教え子アレクサンダル・ルコヴィッチ(2010年8月加入)を獲得した。2008年夏のUEFAスーパーカップ制覇を機に下降線を辿っていたゼニトに早速効果が表れ、ロシア・カップ制覇に導くと、過去2年優勝争いにすら絡めなかったリーグ戦でも好調をキープし、3年ぶり3度目となるリーグ制覇へと導いた。しかし、2014年になると不振が続き、3月に解任された。
- ASローマ(2回目)
2016年1月13日、成績不振により解任されたリュディ・ガルシアの後任として、約7年ぶりに古巣ASローマの監督に復帰した[1]。2015-16シーズンはチームを3位に導き、チャンピオンズリーグプレーオフへの出場権を勝ち取った。2016-17シーズンはチャンピオンズリーグプレーオフで敗退、ヨーロッパリーグに回るもベスト16で敗退。リーグ戦ではクラブ最多勝ち点となる勝ち点87でチームを2位に導き、チャンピオンズリーグ出場権に導いた。2016-17シーズン終了後、ローマからの退団を発表した。
- インテル・ミラノ
監督として
鋭い戦術眼でゲーム展開を読み、その時々の状況に対して的確な指示を出し、勝利を目指すことのできる戦術家である。ASローマ時代に、生粋のセンターフォワードを置かない戦術「ゼロトップ・システム」を考案した第一人者でもある[2]。
そのASローマ監督として采配を振るった、07-08チャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦では、強豪レアル・マドリードとの対戦を鋭い戦術眼で2戦とも制し、元チェルシー監督のジョゼ・モウリーニョや元マンチェスター・ユナイテッドFC監督のアレックス・ファーガソンを大いにうならせた。
前日の対戦相手のビデオなどによる戦術的分析をかかさず、手持ちの駒で非常に効果的な戦いを見せることが多い。それが裏目に出ることもあり、読みをはずしてシーズンに1度か2度は格下相手に足をすくわれることもある。彼の非常にプロフェッショナルな発言やチームに尽くす姿勢から、フロントをはじめ選手からの信頼が非常に厚い。
エピソード
故郷トスカーナ州でブドウ農園を営んでおり、オフ期間には自ら農機械を運転し労働に勤しむ[3]。
所属クラブ
- エンテッラ 1985-1986
- スペツィア・カルチョ 1986-1990
- ヴィアレッジョ 1990-1991
- エンポリFC 1991-1993
指導歴
- エンポリFC 1995-1998
- UCサンプドリア 1998-1999
- SSCヴェネツィア 1999-2000
- ウディネーゼ・カルチョ 2001
- ACアンコーナ 2001-2002
- ウディネーゼ・カルチョ 2002-2005
- ASローマ 2005-2009
- FCゼニト・サンクトペテルブルク 2010-2014
- ASローマ 2016-2017
- インテル 2017-
タイトル
- ローマ
- コッパ・イタリア 2回 (2006-2007, 2007-2008)
- スーペルコッパ・イタリアーナ 1回 (2007)
- ゼニト
- ロシアカップ 1回 (2010)
- ロシア・プレミアリーグ 2回 (2010, 2011-12)
- ロシア・スーパーカップ 1回 (2011)
脚注
- ^ ゼロトップ・システム」の生みの親。5年半ぶり復帰のスパレッティはローマをどう変える? - サッカーダイジェスト
- ^ ルチアーノ・スパレッティ - ゲキサカ
- ^ またも名将に認められた長友佑都。 インテルで先発奪回の要因とは何? Number Web 2017/10/18