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[[八木氏]]は、もと[[但馬国|但馬]]の[[豪族]]で[[日下部氏]]の流れを汲む。[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけてに[[山名氏]]に仕えた。宗直は八木氏の庶流にあたる。[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]に仕えて4,000石を知行する旗本に列した。[[豊島信満]]の刃傷事件により、その領地であった[[武蔵国]][[久良岐郡]]富岡村を[[寛永]]5年([[1628年]])に拝領し、明暦2年([[1656年]])には村内の[[富岡八幡宮 (横浜市)|富岡八幡宮]]に子の高豊らと梵鐘を寄進している。 |
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寛永13年([[1636年]])に将軍[[徳川家光|家光]]の命令で、[[江戸]][[浅草]]にあった[[今戸神社|今戸八幡宮]]の再建を[[船越永景]]らと指揮。その後[[万治]]2年([[1659年]])より山田奉行の任に就く。[[鳥羽藩]]の管理下にあった[[伊勢神宮]]の[[伊雑宮]]の[[式年遷宮]]を、[[神人]]の訴えにより寛文元年([[1661年]])から幕府の手当と改めた。さらに[[神宮文庫#豊宮崎文庫|豊宮崎文庫]]へ修繕のために20石の所領をあてがい、文庫の維持管理を助成している。寛文5年([[1666年] |
寛永13年([[1636年]])に将軍[[徳川家光|家光]]の命令で、[[江戸]][[浅草]]にあった[[今戸神社|今戸八幡宮]]の再建を[[船越永景]]らと指揮。その後[[万治]]2年([[1659年]])より山田奉行の任に就く。[[鳥羽藩]]の管理下にあった[[伊勢神宮]]の[[伊雑宮]]の[[式年遷宮]]を、[[神人]]の訴えにより寛文元年([[1661年]])から幕府の手当と改めた。さらに[[神宮文庫#豊宮崎文庫|豊宮崎文庫]]へ修繕のために20石の所領をあてがい、文庫の維持管理を助成している。寛文5年([[1666年]] |
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伊勢市柏町 「真福寺」「臨済宗 妙心寺派」にて葬儀 、寛文3年7月8日亡 過去帳に記載有 |
伊勢市柏町 「真福寺」「臨済宗 妙心寺派」にて葬儀 、寛文3年7月8日亡 過去帳に記載有 |
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戒名 常光院殿利峰了貞大居士 |
戒名 常光院殿利峰了貞大居士 |
2017年9月29日 (金) 00:20時点における版
八木 宗直(やぎ むねなお、慶長8年(1603年) - 寛文5年(1666年))は江戸時代初期の幕府の旗本。山田奉行第9代。子に高豊。通称は勘十郎。別名は守直。官位は従五位下、但馬守。
八木氏は、もと但馬の豪族で日下部氏の流れを汲む。室町時代から戦国時代にかけてに山名氏に仕えた。宗直は八木氏の庶流にあたる。将軍徳川秀忠に仕えて4,000石を知行する旗本に列した。豊島信満の刃傷事件により、その領地であった武蔵国久良岐郡富岡村を寛永5年(1628年)に拝領し、明暦2年(1656年)には村内の富岡八幡宮に子の高豊らと梵鐘を寄進している。
寛永13年(1636年)に将軍家光の命令で、江戸浅草にあった今戸八幡宮の再建を船越永景らと指揮。その後万治2年(1659年)より山田奉行の任に就く。鳥羽藩の管理下にあった伊勢神宮の伊雑宮の式年遷宮を、神人の訴えにより寛文元年(1661年)から幕府の手当と改めた。さらに豊宮崎文庫へ修繕のために20石の所領をあてがい、文庫の維持管理を助成している。寛文5年(1666年 伊勢市柏町 「真福寺」「臨済宗 妙心寺派」にて葬儀 、寛文3年7月8日亡 過去帳に記載有 戒名 常光院殿利峰了貞大居士