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=== 警察・機動隊 ===
=== 警察・機動隊 ===
堀田大隊が襲撃を受けたことは代執行最前線にいる機動隊にも即座に無線で伝わった。警察官死亡の一報が入ると現場の隊員たちはいきり立ち、警視庁機動隊と千葉・埼玉県警機動隊は功を競うようにして、それぞれの受け持ちである駒井野と天浪にある反対派の砦に殺到した。その日の内に砦は制圧されたが、駒井野では砦を解体する際に学生約10人を載せたまま高さ15メートルの鉄塔が倒れ、火炎瓶の燃料に引火して激しく燃え上がった(学生らは火だるまとなり、1人が危篤状態となったが命はとりとめた)<ref>大坪景章(1978年)134-135頁</ref><ref>稲毛新聞『[http://www.hanae.ne.jp/inage/0502_02.htm
堀田大隊が襲撃を受けたことは代執行最前線にいる機動隊にも即座に無線で伝わった。警察官死亡の一報が入ると現場の隊員たちはいきり立ち、警視庁機動隊と千葉・埼玉県警機動隊は功を競うようにして、それぞれの受け持ちである駒井野と天浪にある反対派の砦に殺到した。その日の内に砦は制圧されたが、駒井野では砦を解体する際に学生約10人を載せたまま高さ15メートルの鉄塔が倒れ、火炎瓶の燃料に引火して激しく燃え上がった(学生らは火だるまとなり、1人が危篤状態となったが命はとりとめた)<ref>大坪景章(1978年)134-135頁</ref><ref>稲毛新聞『[http://www.hanae.ne.jp/inage/0502_02.htm 千葉の歴史検証シリーズ30 成田国際空港「血と涙の歴史」8]』、2017年3月閲覧。</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/068/1080/06804181080009c.html 第068回国会法務委員会第9号 1972年4月18日]、2017年3月閲覧。</ref>。この時周囲にいた機動隊からは歓声が上がったという。
千葉の歴史検証シリーズ30 成田国際空港「血と涙の歴史」8]』、2017年3月閲覧。</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/068/1080/06804181080009c.html 第068回国会法務委員会第9号 1972年4月18日]、2017年3月閲覧。</ref>。この時周囲にいた機動隊からは歓声が上がったという。


その後警察側では警備計画の不備により甚大な被害をこの事件で出した反省から、
その後警察側では警備計画の不備により甚大な被害をこの事件で出した反省から、

2017年7月29日 (土) 00:39時点における版

東峰十字路事件
東峰十字路事件現場周辺の約500メートル四方を写した航空写真。画像中央が東峰十字路。1974年度撮影。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
場所 日本の旗 日本 千葉県 成田国際空港建設予定地
座標
北緯35度47分18.08秒 東経140度23分45.58秒 / 北緯35.7883556度 東経140.3959944度 / 35.7883556; 140.3959944座標: 北緯35度47分18.08秒 東経140度23分45.58秒 / 北緯35.7883556度 東経140.3959944度 / 35.7883556; 140.3959944
日付 1971年昭和46年)9月16日
概要 成田国際空港建設予定地で行政代執行が行われた際に、建設反対派の集団が機動隊を襲撃した。
武器 火炎瓶竹槍角材丸太
死亡者 3名(神奈川県警察特別機動隊員)
負傷者 80名以上(神奈川県警察特別機動隊員)
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東峰十字路事件の位置(成田国際空港内)
東峰十字路事件
東峰十字路事件の現場

東峰十字路事件(とうほうじゅうじろじけん)とは、新東京国際空港建設予定地内の空港反対派が所有する土地に対して千葉県が行った第二次行政代執行初日である1971年昭和46年)9月16日に、現地に応援派遣されて周辺警備に当たっていた神奈川県警察特別機動隊がゲリラ集団による襲撃を受け、警察官3名が殉職した傷害致死事件である。2017年現在も事件現場には慰霊碑が残されている。

事件概要

行政代執行の概要

反対派と警察の作戦計画

警察側では、警備本部が第二次代執行に際しては「三重丸作戦」として団結小屋の外周を三重に包囲し、支援の反対派のみならず一般市民をも代執行現場に近づけない方針を立てた。これは、同年2月~3月に行われた第一次代執行時、数千人単位の一般市民(野次馬)が現場に押しかけて支援学生らのアジテーションを受けて投石を行う等の機動隊への妨害を行い、警備に著しい支障が出た教訓によるものである。そのため警備する地域は広範囲に及び、総勢約5500名もの警備部隊が動員されることとなった。

警備部隊の主な配置計画は以下の通りである[1][2]

  • 約3000名を拠点周辺に割くこととし、"最強"とされる警視庁機動隊約2500名を強固に固められた団結小屋がある駒井野一帯から西側の大清水三叉路にかけて、千葉・埼玉県警察機動隊は一坪用地と天浪方面にそれぞれ配置する
  • 残りの約2500名を8個大隊に分けて空港周辺地域に投入することとし、本警備実施のために千葉県へ応援派遣される神奈川県警察特別機動隊(神奈川連隊)第2大隊については、団結小屋の包囲部隊の東側(三重丸の一番外側の円に当たる)の東峰・天神峰方面に配置し、後方警備や道路封鎖を実施させる

一方の反対派は、第一次行政代執行および7月に行われた農民放送塔仮処分阻止闘争の経験から、実力闘争に参加する全員が団結小屋や地下壕に立て篭もる第一次行政代執行までの戦術を転換し、「ゲリラ部隊」を結成して外周警備の警察による阻止線を突破し、機動隊の規制によって足止めされた野次馬と篭城部隊を合流させて機動隊と対峙するという計画を立てた。

対峙

9月16日からの新東京国際空港建設に伴う第二次行政代執行警備のため、千葉県警察代執行警備本部は千葉県警察機動隊の他、警視庁機動隊、関東管区機動隊など、総勢5300人の警備部隊を動員した。

当日早朝6時45分に代執行が宣言される。一坪共有地では日本社会党議員など一坪地主が座り込みを続けており、「」と呼ばれた3カ所の団結小屋には反対派住民(三里塚芝山連合空港反対同盟)と支援グループが立て篭もっていたが、警備部隊は行政代執行法に基づいてこれらを排除すべく、行動を開始した。

一方、前日15日には中核派など新左翼の活動家約2000人が現地入りしており、翌日の代執行当日には5000人を越すとみられていた。中核派は代執行に先立つ9月10日に東京で開かれた総決起集会席上で、代表が「権力の手先である機動隊を殲滅、北総地帯を解放区とする」と宣言していた[3]。また過激派グループの間では、「警察は権力の手先であり、すきあらば殺せ」が合言葉になっていた[4]

代執行が開始された直後から、「ゲリラ部隊」が計画に従って団結小屋周辺の後方警備を担当する部隊を次々と襲撃した。

事件までの反対派と堀田大隊の動き

神奈川連隊第2大隊は、大隊長が神奈川警察署次長の堀田(警視)であることから堀田大隊と呼称された。

堀田大隊261人は当日、午前4時前に集結地点であった川崎臨港警察署から幌付きトラック等14台の車両に分乗して出発し、代執行が宣言される直前の午前6時30分頃、駒井野団結小屋の東側、小見川県道の東峰十字路に到着した。

東峰十字路付近の草むらの中に火炎瓶等の反対派の武器・爆発物などが隠されているとの情報に基づき、検索のため、東峰十字路を中心に第1中隊が二手に分かれて南北に、第2中隊が西側に展開した。

一方、地元青年行動隊を始めとする空港反対派と学生集団からなるゲリラ部隊は、午前3時頃に東峰十字路南方の芝山町横堀地区に集合、途中火炎瓶竹竿などを補給しながら、東峰地区に向かっていた。十字路南方の県有林で休憩していたところ、東峰十字路に機動隊が入り始めているとの情報がゲリラ部隊にもたらされた。ゲリラ部隊はこれを挟撃すべく、集団を青年行動隊を含む先発隊と支援グループ中心の後発隊の2つに分けることとした。先発隊は東峰十字路を一旦迂回して北方へ回りこみ、後発隊は少し遅れて東方から十字路に向けて西進するかたちで現地へ向かった。

両者は間もなく十字路付近で接触した。3時間程かけて現地に到着して展開を終えたばかりの堀田大隊からすれば、側面の孟宗竹等が茂る藪の中から総勢700名以上のゲリラ集団が部隊を分断するように突如現れたかたちとなった。堀田大隊は検索のために各小隊を分散させた状態のままで襲撃を受けることとなる。

反対派と堀田大隊の衝突

福島誠一警部補が率いる第1中隊第1小隊30人は東峰十字路の北側に展開していたが、十字路北東のガサ藪を順次抜けてきた200人以上のゲリラ部隊の先発隊集団に中隊本隊との間を分断され、孤立してしまう。

圧倒的に不利な状況下に陥った第1中隊第1小隊からの救援要請の警察無線を傍受した大隊本部は、警備本部に対して警察無線で救援部隊を要請すると同時に、付近を検索中の第2・第3中隊を包囲された第1中隊第1小隊の救援に向かわせようとした。しかし、直後に両中隊も大隊本部もゲリラ部隊の後発隊集団と南下してきた先発隊集団に襲撃されて指揮系統は混乱に陥り、大隊は総崩れとなった。さらに車両故障のため20分遅れて到着した第3中隊も別の300名の集団に襲撃され、パトカー・指揮車・輸送車が炎上した。この襲撃により、大隊長の堀田が腕を骨折したほか、大隊全体で80名以上が負傷した。この中には全身火傷や右眼失明などの重傷者も含まれる。若い隊員の中には、あごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫った者もいた[5]

他の部隊からの救援が来ないまま、完全に孤立した第1中隊第1小隊(福島小隊)は、包囲するゲリラ部隊から火炎瓶角材丸太・投石などで激しい攻撃を受け、小隊は総崩れとなり、本隊と反対の十字路北方への退却を余儀なくされた。

この衝突の中で、逃げ遅れた小隊長・福島誠一(神奈川警察署外勤第一課係長、警部補、当時47歳)、第1分隊長・柏村信治(巡査部長、神奈川警察署外勤第一課主任、当時35歳)、隊員・森井信行(巡査、神奈川警察署外勤第一課、当時23歳)の3名が死亡し、隊員20名以上が重傷を負った。

本記事の座標地点にある、福島警視の慰霊碑。他の2名の慰霊碑もそれぞれ付近に設置されている。

福島小隊の惨劇

以下は、当時の報道など。

火炎瓶を投げつけられた隊員たちは火だるまになり、のた打ち回っている所を竹槍を打ち込んだ角材などで滅多打ちにされた[3]。またその場から撤退しようとした隊員らも、土地鑑がない上に付近にあるのは反対派の農家ばかりで助けを求められる民家もなく[6]、ゲリラに取り囲まれると次々と脇の林や茂みに引きずり込まれてやはり滅多打ちにされ[7]土下座を強いられたり[8]裸にされて手錠で木の幹に繋がれる[9]などした。

福島警部補も火炎瓶を受けて火だるまになり、炎を消そうと苦悶しながら転げまわっていたところをゲリラ集団が襲いかかった。無抵抗の福島警部補は他の隊員から奪った手錠をかけられた上、ゲバ棒や鉄パイプで滅多打ちにされて殺害された。柏村巡査部長と森井巡査も倒れたまま滅多打ちにされ殺害された[10]。これらの暴行を行った者達の積年の恨みを晴らさんとするかのような容赦ない仕打ちは周囲にいた仲間の反対派からも制止が入るほどの激しさであり、事件を目撃した反対派シンパであるとする地元住民も後日マスコミのインタビューでやりすぎだったと語った。被害にあった警官があとで証言できないように、ゲリラ部隊は意識的にアゴや顔を集中攻撃し、さらには倒れた隊員に濃硫酸をかけ、火炎瓶で放火したとの警察側の主張もある[11]

その後、血まみれで倒れうめく機動隊員らを残し、ゲリラ集団は入り組んだ地形を利用して逃げ去った[10]

午前7時15分頃に、大隊本部からの救援要請の無線を傍受した警備本部は、警視庁第二機動隊を第1中隊第1小隊の救援に向かわせたが、警視庁第二機動隊が東峰十字路北側の現場に到達した時には、ゲリラ部隊は逃げ去った後であった。また、堀田大隊のうち36名が一時的にゲリラ部隊によって連れ去られたが、警視庁第二機動隊によって救出された。

16日午後から成田警察署特別捜査本部が行った現場検証では、現場付近で叩き割られた隊員たちのヘルメットや、引きちぎられた血染めの上着やズボン、血まみれの竹槍などが多数発見され、砂利道の石ころや道の両脇にあるススキには血の跡がべっとりと付着していた[7][12]

また、交差点周辺には一升瓶の破裂跡が数百カ所も残されていた。これは、通常火炎瓶はコーラ瓶やビール瓶等で作るところ、この時の襲撃では一升瓶を使用したことによるもので、それが発火すると十数mもの高さに火柱が噴き上がるほどの威力があったという[13]。また、火炎瓶は農薬を用いて触発式に改良されていた[14]

襲撃を受けた堀田大隊について

事件当時、神奈川県警察では常設の警備部第一・第二機動隊の他、関東管区機動隊が設置されており、関東管区機動隊も成田の行政代執行警備に派遣されていた。関東管区機動隊員は、平素は地域部集団警ら隊として、各警察署で活動に従事するが、定期的に集合して部隊訓練を行っており、第一・第二機動隊と同様に、錬度の高い部隊である。

しかし、襲撃を受けた堀田大隊はそれらの部隊とは異なり、代執行最前線への反対派支援勢力と武器供給の遮断等後方支援を目的として臨時編成された特別機動隊であった。 隊員らは刑事・防犯・交番・パトカー勤務等を普段している若手警察官であり機動隊の訓練を積んでいないばかりでなく、隊長にも機動隊勤務の経験が無く、武術の有段者もいるとはいえ部隊の練度は低かった。さらには隊員の装備も警棒と作業着といった程度[1]であり、非常に貧弱な状態で現地に投入されていた。大隊は150人前後のゲリラに対応できるように編成されており、「必要なら撤収しても良い」との指示も受けていたが、500人を超える大集団に襲われることは全くの想定外であった[15]

結果として、機動隊の精鋭が行政代執行の最前線で警備実施をしている間に、後方支援に当たっていた現地に慣れない臨時編成部隊が反対派の大集団に襲撃される構図となり、衆寡敵せず堀田大隊は潰走することとなった。

また、代執行時には、警視庁航空隊ヘリコプター2機が上空から反対派の襲撃を警戒していたが、東峰十字路付近を警戒中だったヘリコプターの無線機が飛行中に故障したため、反対派の襲撃隊の動静を警備本部が把握できなかったことも被害を大きくした要因であった。

司法解剖

事件後行われた司法解剖の結果、死亡した3名の機動隊員のうち小隊長の福島誠一は、頭蓋骨亀裂骨折、頭頂部から後頭部にかけ脳内出血、12対の肋骨のうち胸部1本、背中16本が折れ、折れた骨はに突き刺さっていた。このほか顔、頭、左右胸部などに28ヵ所の打撲傷があった。同小隊隊員の柏村信治は、顔から左肩にかけて2度(水ぶくれができる)から3度(皮膚がただれたり、黒く焦げる)の火傷、頭蓋骨亀裂骨折、胸肋骨2本折損、頭頂部5ヵ所に打撲傷、左右腕、背中に多数の打撲傷があった。また、同じく同小隊隊員の森井信行は、頭蓋底骨折、頭部に多数の打撲傷。顔、アゴ、および胸から肩にかけて3度の火傷、左肩および左右の足に打撲傷があった。3名とも死因は脳挫傷と、脳内出血であった[16]

捜査

支援学生らが撤収し、捜査陣が現場に入れたのは事件の一週間後であった。地元住民らは基本的に用地を売却せずにその地にとどまる「空港反対派」であるため、捜査陣は機動隊に守られなければ現場に入ることもできず、捜査協力は望むべくもなかった。

したがって、機動隊員の死亡に空港反対派または支援者の中の何者かが関わっていることは明白であったが、その特定は難航した。当初警察側では、過去の言行から中核派によるものとの見立てで捜査を進めたが、当日の中核派の活動家らは駒井野と天浪の団結小屋に立て篭るか大清水にいたことが明らかとなり、現行犯逮捕者がおらず有力な物的証拠も得られないまま、警察による捜査は行き詰った。捜査本部は「コンピューター捜査」と称してあらゆる証言や物証を複合的に検証して犯人を特定しようとした[17]

捜査当局は、空港運動での逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に、同年12月8日から15次に亘って[18]地元住民や常駐学生らのべ153人を逮捕連行し、55名を起訴した。(凶器準備集合12名、凶器準備集合・公務執行妨害11名、凶準・公妨・傷害・傷害致死32名)

それまでに行われた第一次代執行や農民放送塔の撤去の際には警察側にもまだ同情的な雰囲気が残っており、反対同盟員を逮捕しても反対運動のいきさつや農作業への配慮等から起訴を見送り数日で釈放するなどしていたが[19]、事件後の警察の取り調べは厳しいものとなった[8]

反対同盟では家族会を結成し、逮捕者に対する支援を実施した[20]

裁判

なお、刑事裁判中に空港反対同盟「熱田派」と「北原派」に分裂し被告の大多数が「熱田派」に属すこととなったが、3名が「北原派」となった。これに伴い、被告団および弁護団も「熱田派系」と「北原派系」に分裂した。

1986年(昭和61年)10月4日千葉地方裁判所での判決(石田恒良裁判長)では、事件当日のアリバイを主張していた3名に無罪、他の52名が3年から5年の執行猶予が付いた懲役刑(10ヶ月から3年)となり、実刑判決は無かった。つまり、公務執行妨害と凶器準備集合などについては有罪であるが、傷害致死罪に関しては、共同共謀正犯以上は認定しなかったと解される。

これは、本事件の遺留品や目撃証言が殆どなく、捜査段階での被告自白には「信用性に疑問がある」こと等が最大の理由とされる。被告らはそもそも警察官への襲撃に全く関わっていなかったか、襲撃に関与していたとしても、数百人の多人数による騒乱状態の中で発生したため、誰が誰に対してどのような行為をしたかを具体的に示す証拠を千葉県警察千葉地方検察庁は提示できず、自供調書と大きな齟齬があったとされる。

この一審判決に対して、千葉地方検察庁側も控訴しなかったため、控訴をしなかった「熱田派」の被告らには上記判決が確定判決となった。

一方、「北原派」に属する3名の被告(うち2名は後に小川派として北原派を離脱)は無罪を求めて控訴した。二審東京高等裁判所は、一審判決を支持し(1990年(平成2年)12月17日判決)た。3名のうち1名だけがさらに上告したが、1995年(平成7年)2月28日最高裁判所においても一審判決が支持されたことにより、執行猶予付きの有罪判決が確定した。

事件の影響

マスコミ・世論

三里塚闘争開始以来マスコミは全般的に反対派に同情的な論調であり、反対派への情報提供などの便宜を図ったり代執行の際には反対派が立てこもる砦に中継車を横付けして機動隊が手を出せないようにするなどの実質的な支援もしていた[21]。また直接の反対運動や支援に関わらないが反対派農民に共感を持つ者も市井には少なくなく、空港建設に携わる労働者の中には工事車両を使って投石用の石を秘密裏に提供する者がいたほどであった[22]

しかし、初めての闘争での死者を出した今回の事件ではマスコミは一転して反対派への批判を行い、「三警官殺し」の犯人探しをするようになった[23]。また事件は大学紛争が収束し全共闘運動が急速に支持・勢力を失いつつある時期と重なり、さらに翌年にはあさま山荘事件の発生と山岳ベース事件の発覚によって新左翼全般に対する嫌悪が全国に伝播し、過激派と同列にみなされるようになった反対派から世論は急速に離れていった。

反対派・地元住民

反対派では、身内を殺害された警察の強硬な捜査や法廷闘争による疲弊に加えて、事件後に青年行動隊メンバーが精神的苦痛により自殺したことにショックを受けたことや被告の保釈金や裁判費用捻出のために出稼ぎに出なければならなくなったことなどで、反対同盟員である地元住民の実力闘争離れが進んだ。

この後、三里塚闘争に係る実力闘争の実行は反対同盟員に代わって新左翼活動家が行い、青年行動隊ほか反対同盟は指示役や調整役を担うこととなる。指示役となった反対同盟は時にセクト同士を競わせるようにして実力闘争をけしかけ、新左翼活動家の側も実力闘争の主体としての自負を持つようになり、各セクトは援農をだしに使うなどして反対派農家を自派へ囲い込むようになった。このことは地元住民と新左翼活動家の間の歪な力関係や反対派内部の党派争いを生む遠因ともなる[24]。条件派に移行した農家は「脱落」の烙印が押され、学生らに自己反省を書かされたり、言葉だけでなく暴力も振るわれたりもした[25]

警察・機動隊

堀田大隊が襲撃を受けたことは代執行最前線にいる機動隊にも即座に無線で伝わった。警察官死亡の一報が入ると現場の隊員たちはいきり立ち、警視庁機動隊と千葉・埼玉県警機動隊は功を競うようにして、それぞれの受け持ちである駒井野と天浪にある反対派の砦に殺到した。その日の内に砦は制圧されたが、駒井野では砦を解体する際に学生約10人を載せたまま高さ15メートルの鉄塔が倒れ、火炎瓶の燃料に引火して激しく燃え上がった(学生らは火だるまとなり、1人が危篤状態となったが命はとりとめた)[26][27][28]。この時周囲にいた機動隊からは歓声が上がったという。

その後警察側では警備計画の不備により甚大な被害をこの事件で出した反省から、

  • 外周警戒部隊をあまり遠方に配置しないこと
  • 機動隊を前日までに成田に集結させて、準備万端の形で投入すること
  • 特別機動隊は絶対に使わないこと

の3点を以後の警備計画での原則とするようになる[13]

事件後、機動隊は地元農民に「人殺し」などと罵声を浴びせるなど反対派への敵意をむき出しにするようになり、機動隊が巡回するようになった反対派の集落は戒厳下の如き様相となった[8]

新左翼・過激派

事件後の反対派支援の新左翼学生らは、「警察権力が加えてきた弾圧に対する労働者、農民側からの階級的復しゅうである。責任は佐藤首相と警察機動隊にある」「アメリカはベトナム人民を殺し続けているが、佐藤(首相)はこれに協力している。だから、われわれ人民にも佐藤を殺す権利がある」などと主張した[29]

また、この事件での警察官殺害のニュースは、大衆運動を離れ少数精鋭・過激化していく連合赤軍をはじめとした各地の極左暴力集団に強いインパクトを与えることとなる[30]。連合赤軍の元活動家である植垣康博は「先を越された」という気持ちだったと当時を回想している[31]

同じ年には朝霞自衛官殺害事件沖縄ゼネスト警察官殺害事件渋谷暴動事件といった警察官や自衛官を標的とした事件が相次いでいる。

事件のその後

1990年代頃から被告の多くが合流した「(旧)熱田派」が政府との対話を行い、事件の引き金となった空港建設時の強硬姿勢について政府からの謝罪を引き出し、1994年10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議で、警察官僚時代に事件の捜査の指揮を執っていた亀井静香運輸大臣と青年行動隊に所属していた元被告が握手を交わすに至った。その後、多数の地権者が移転に応じたことでB滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展した。

事件から36年後となる2007年、殉職した3警官の慰霊碑に元被告らが献花した[32]

反対派の主張

青年行動隊としてゲリラ部隊に加わっていた元反対同盟員は、青年行動隊と現地に常駐していた学生の間では致命傷になるようなことはやらないと意思統一していたとした上で、大学闘争で機動隊に破れ、恨みを抱きつつ全国の大学から急遽集まった学生による犯行であったことを仄めかしている[33]

関与した著名人

その後、日刊ゲンダイニュース編集部長やBS日本放送の取締役を歴任した二木啓孝はこの事件の発生時、学生運動リーダーとして反対運動の過激派と行動を共にしていた[34]

脚注

  1. ^ a b 第66回 衆議院 地方行政委員会 昭和46年9月23日 第4号、2017年3月閲覧。
  2. ^ 大坪景章(1978年)130頁
  3. ^ a b 読売新聞 1971年9月16日夕刊より
  4. ^ 毎日新聞 1971年9月17日朝刊より
  5. ^ 読売新聞 2007年12月26日付記事
  6. ^ 逃げ込んだ隊員に農薬用フォークで胸などを突いてリンチを加えた容疑で、反対同盟員が家宅捜索を受けている。
  7. ^ a b 読売新聞 1971年9月17日付朝刊より
  8. ^ a b c 東京新聞『<土の記憶 成田空港閣議決定50年> (2)対立激化』2016年6月12日、2017年3月閲覧。
  9. ^ 戸村一作『わが三里塚-風と炎の記録』田原書店(1980年)、75頁
  10. ^ a b 朝日新聞 1971年9月16日付夕刊より
  11. ^ 大坪景章(1978年)134頁
  12. ^ 大坪景章(1978年)134頁
  13. ^ a b 樋口晴彦『最悪の状況で踏みとどまらせるもの』2017年3月閲覧。
  14. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)45頁
  15. ^ 大坪景章(1978年)144頁
  16. ^ 毎日新聞 1971年9月17日付夕刊より
  17. ^ 大坪景章(1978年)144頁
  18. ^ 容疑者が処分保留で釈放されると再逮捕をしたため。
  19. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)38・42頁
  20. ^ 巨大開発とのたたかいを振り返る~「三里塚闘争50年の集い」”. レイバーネット日本 (2016年7月23日). 2017年3月27日閲覧。
  21. ^ 福田克彦(2001年)174頁
  22. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)48頁
  23. ^ 福田克彦(2001年)179頁
  24. ^ 福田克彦(2001年)194-196頁
  25. ^ 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、76頁
  26. ^ 大坪景章(1978年)134-135頁
  27. ^ 稲毛新聞『千葉の歴史検証シリーズ30 成田国際空港「血と涙の歴史」8』、2017年3月閲覧。
  28. ^ 第068回国会法務委員会第9号 1972年4月18日、2017年3月閲覧。
  29. ^ 山野車輪『革命の地図 戦後左翼事件史』イースト・プレス、 2016年、119頁。1971年9月17日付の朝日新聞からの引用として記載。
  30. ^ 8月21日に京浜安保共闘のメンバーが逮捕され、青年行動隊メンバーとのつながりを示すメモが見つかった。翌日に警察がその反対同盟員の家宅捜査が行ったところ、京浜安保共闘の女性オルグが滞在しているのが見つかった。京浜安保共闘と赤軍派は事件2日前に共同の集会を開き「三里塚で爆弾ゲリラを結合させよう」と公然と扇動していた。(大坪景章(1978年)127・129頁)
  31. ^ 植垣康博『兵士たちの連合赤軍』彩流社、2001年
  32. ^ 稲毛新聞『千葉の歴史検証シリーズ50 「成田国際空港反対闘争」続編』、2017年3月閲覧。
  33. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)46頁
  34. ^ TBSラジオ Sessio-22 2015年5月20日(水)「三里塚闘争とは何だったのか?」と公式サイト

参考文献

  • 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年。
  • 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年
  • 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年

関連項目

外部リンク