「多賀城駐屯地」の版間の差分
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2017年7月29日 (土) 00:15時点における版
多賀城駐屯地 JGSDF Camp Tagajo | |
---|---|
位置 | |
所在地 | 宮城県多賀城市丸山2-1-1 |
座標 | 北緯38度17分42.08秒 東経141度1分31.9秒 / 北緯38.2950222度 東経141.025528度 |
概要 | |
駐屯地司令 | 第22普通科連隊長 |
主要部隊 |
第22普通科連隊 第38普通科連隊 ほか |
| |
開設年 |
1942年(昭和17年)(旧海軍) 1954年(昭和29年)(陸上自衛隊) |
多賀城駐屯地(たがじょうちゅうとんち)は、宮城県多賀城市丸山2-1-1に所在し、第22普通科連隊等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。
最寄の演習場は、王城寺原演習場。駐屯地司令は、第22普通科連隊長が兼務[1]。
沿革
- 1942年(昭和17年):海軍工廠の建設が始まる。工事は大林組や菅原組などが行い、北側の丘陵地(松島丘陵の一部)から土砂を採取して田圃を埋め立てて造られた。
- 1943年(昭和18年)11月:「多賀城海軍工廠」(横須賀鎮守府所属)が開廠。
- 1945年(昭和20年):終戦に伴い閉廠。占領期に工廠跡地は進駐軍の駐屯地「キャンプ・ローパー」(Camp Loper) として使用[2]。
- 1954年(昭和29年)12月5日:多賀城市民の誘致運動により第6管区総監部が福島から移駐、工廠跡地の一部を用いて「多賀城駐屯地」が開設[3]。
- 1961年(昭和36年):第22普通科連隊が仙台駐屯地から移駐、東北補給処多賀城燃料支処が新設。
- 1999年(平成11年)3月:第38普通科連隊が八戸駐屯地から移駐。
- 2006年(平成18年)3月27日:第1教育連隊が廃止され東北方面混成団の新設により第119教育大隊の新編と第38普通科連隊の一部が八戸駐屯地へ移駐。
- 2011年(平成23年)3月11日:東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。災害派遣準備中に津波が襲来し、駐屯地内の南側が冠水。派遣準備を整えグラウンド等に整列していた車列も水没した[4]。東北方面区での新入隊員教育は不可能となり、平成23年度新規採用者の教育は他方面隊に振り分けて実施。
駐屯部隊
第6師団隷下部隊
東北方面総監直轄部隊
- (東北方面混成団)
- 第119教育大隊
- 第38普通科連隊(連隊本部・本部管理中隊・第1中隊・第2中隊・重迫撃砲中隊)
- (東北方面後方支援隊)
- 第301普通科直接支援中隊多賀城派遣隊
- 東北補給処多賀城燃料支処
- 東北方面会計隊
- 第381会計隊
- 東北方面通信群
- 第303基地システム通信中隊
- 多賀城派遣隊
- 第303基地システム通信中隊
- 多賀城駐屯地業務隊
防衛大臣直轄部隊
最寄の幹線交通
- 高速道路:三陸自動車道仙台港北IC
- 一般道路:国道4号、国道45号、宮城県道10号塩釜亘理線、宮城県道23号仙台塩釜線、宮城県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線
- 鉄道:JR東日本仙石線 多賀城駅
- 港湾:仙台塩釜港(特定重要港湾)、石巻港(重要港湾)
- 飛行場:仙台空港(第二種空港)松島基地、霞目飛行場(その他の飛行場)
重要施設
- 原燃マシナリー(ウラン濃縮遠心分離機の開発・設計・製造)(仙台市宮城野区)
- JXTGエネルギー仙台製油所(原油処理能力は日量14.5万バレル)(仙台市宮城野区)
- コスモ石油塩釜油槽所(貯蔵容量は3.7万kl)(塩竈市)
- 東京航空局石巻航空路監視レーダー事務所(石巻市)
- 国見浄水場(仙台市青葉区)
- 中原浄水場(仙台市青葉区)
- 茂庭浄水場(仙台市太白区)
- 南蒲生浄化センター(仙台市宮城野区)
その他
- 1943年(昭和18年) 多賀城海軍工廠およびその家族住宅に給水するために上水道施設が設置された。これを基幹として、現在の多賀城市の上水道は整備されている[5]。多賀城海軍工廠の施設であった天の山配水池は、現在、多賀城市と塩竈市の一部に給水している[6]。
- 1945年(昭和20年)4月 慶應義塾大学工学部が空襲を受けて校舎が焼失したため、機械工学科学生が多賀城海軍工廠に約2ヶ月間動員された[7]。
- 多賀城村(現在の多賀城市)の1/4の面積を占めたとされる多賀城海軍工廠は、進駐軍から返還されると、多賀城駐屯地のほかに東北管区警察学校、東北学院大学多賀城キャンパス、仙台港北部の工場地帯などになった[8][9]。1984年(昭和59年)10月31日に多賀城市に払い下げられた17,543m2(土地7億8984万4千円、立木竹31万9千円)には、現在、多賀城市文化センターが設置されている。
- 仙台臨海鉄道臨海本線は、多賀城海軍工廠専用線の路盤の一部を用いている。両線の経路は仙台北港駅までほぼ同じであるが、海軍工廠専用線は同駅から北に現在の多賀城駐屯地まで繋がっていた[8]。
- 宮城県宮城郡松島町に、多賀城海軍工廠の支廠があり、地下工場もあった[10][11]。
アクセス
脚注
- ^ 第1教育連隊が駐屯時は1佐の序列が下位であったが司令職を兼ねていた
- ^ 「『仙台市史』 通史編8 現代1」137頁
- ^ 自衛隊法施行令の一部を改正する政令(昭和29年11月30日政令第299号)
- ^ 東日本大震災活動状況(第22普通科連隊ホームページ)
- ^ 多賀城市の水道(多賀城市)
- ^ しおがまの水道(塩竈市)
- ^ 写真で辿る理工学部の歴史(慶應義塾大学)
- ^ a b 多賀城海軍工廠(藤原益栄 多賀城市議会議員)
- ^ 平成18年第2回多賀城市議会定例会会議録(第2号)(多賀城市)
- ^ 4. 6 その他の毒ガス弾等に関連する情報(環境省)
- ^ 多賀城海軍工廠松島地区(藤原益栄 多賀城市議会議員)