コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「浦和宿」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
冒頭・スタブの追加。
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m cewbot: ウィキ文法修正 16: Unicodeの制御文字
1行目: 1行目:
{{Pathnav|主要カテゴリ|[[:Category:技術|技術]]・[[:Category:社会|社会]]・[[:Category:歴史|歴史]]|交通|[[:Category:テーマ史|テーマ史]]・[[:Category:技術史|技術史]]・[[:Category:交通史|交通史]]|[[:Category:各国の交通史|各国の交通史]]|[[:Category:日本の交通史|日本の交通史]]|街道|中山道|frame=1}}
{{Pathnav|主要カテゴリ|[[:Category:技術|技術]]・[[:Category:社会|社会]]・[[:Category:歴史|歴史]]|交通|[[:Category:テーマ史|テーマ史]]・[[:Category:技術史|技術史]]・[[:Category:交通史|交通史]]|[[:Category:各国の交通史|各国の交通史]]|[[:Category:日本の交通史|日本の交通史]]|街道|中山道|frame=1}}
[[ファイル:Kisokaido03 Urawa.jpg|thumb|320px|『支蘇路ノ[[wikt:ja:驛|驛]] 浦和宿 浅間山遠望』<ref>「きそじ-の-えき うらわ-しゅく あさまやま-えんぼう」と読む。当時[[木曽街道]]と呼ばれた[[中山道]]の名所を描いた[[名所絵]]([[浮世絵#浮世絵の種類|浮世絵]][[風景画]])『[[木曽街道六十九次]]』の1枚。</ref><br />[[天保]]6年([[1835年]])、[[渓斎英泉]] 画。<br />絵師が選んだのは[[蕨宿]]から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる[[茶屋|立場茶屋]]である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた[[浅間山]]は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ[[wikt:ja:まご#名詞:馬子|馬子]]と、後ろに付いて馬[[糞]]を掻き集める子供がいる。男は[[馬子唄]]を歌っているのであろうか。]]
[[ファイル:Kisokaido03 Urawa.jpg|thumb|320px|『支蘇路ノ[[wikt:ja:驛|驛]] 浦和宿 浅間山遠望』<ref>「きそじ-の-えき うらわ-しゅく あさまやま-えんぼう」と読む。当時[[木曽街道]]と呼ばれた[[中山道]]の名所を描いた[[名所絵]]([[浮世絵#浮世絵の種類|浮世絵]][[風景画]])『[[木曽街道六十九次]]』の1枚。</ref><br />[[天保]]6年([[1835年]])、[[渓斎英泉]] 画。<br />絵師が選んだのは[[蕨宿]]から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる[[茶屋|立場茶屋]]である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた[[浅間山]]は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ[[wikt:ja:まご#名詞:馬子|馬子]]と、後ろに付いて馬[[糞]]を掻き集める子供がいる。男は[[馬子唄]]を歌っているのであろうか。]]



2016年11月29日 (火) 00:51時点における版

主要カテゴリ > 技術社会歴史 > 交通 > テーマ史技術史交通史 > 各国の交通史 > 日本の交通史 > 街道 > 中山道 > 浦和宿
『支蘇路ノ 浦和宿 浅間山遠望』[1]
天保6年(1835年)、渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。

浦和宿(うらわ しゅく)は、日本近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸日本橋から数えて3番目の宿場[2]武蔵国のうち、第3の宿[3])。

また、北は日光街道と連絡し、南の府中通り大山道相模大山および大山石尊〈現:大山阿夫利神社〉詣での道の一つ)とは荒川の渡し場2箇所、羽根倉の渡し(現・埼玉県志木市内)と秋ヶ瀬の渡し(現・埼玉県さいたま市内)によって繋がっていた。現在の埼玉県さいたま市浦和区(旧・浦和市)にあたる。

概要

さいたま市緑区に移築された浦和宿本陣表門

所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡浦和浦和宿[4]。浦和宿は上町(のちに常盤町)・中町・下町(のちに高砂町)からなり、現在は区画整理を経て常盤仲町高砂がそれぞれ対応している。 1591年(天正19年)までは大宮宿は馬継ぎ場で、宿場は無く、北隣の宿場は上尾宿であった。

浦和宿の特徴

浦和御殿

浦和宿は幕府直轄領(通称:天領)であった。 徳川将軍家鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・浦和区常盤1丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社玉蔵院門前町として栄えていた。 施設はしかし、近隣の鴻巣宿文禄2年(1593年)に鴻巣御殿(結城御殿)が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。 当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。

宿場より市場の賑わい

道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2km)。宿内人口1,230人(うち、男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)。 [note 1]

現在は埼玉県の県都として大都市に発展している浦和であるが、江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく[5]、江戸期の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち、8番目と少なかった。

宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり[6]、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社(じけい-いなり-じんじゃ)の鳥居を中心として南北2町(約0.2km)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。市は昭和初期までは続いていた。常盤公園へ向かう道の入り口にあって野菜を売る姿の農婦の銅像も、かつての市場の様子を伝えている。六斎市とは、中世において、一定の地域にて月のうち6回開かれた定期市であり、日は1と6、2と7などといった組み合わせで開かれるものである。六斎市が語源とする六斎日八斎戒に由来する仏教習俗[7]で、特に身を慎み、清浄であるべき日とされた6日を言う。毎月の8日・14 日・15日・23日・29日・30日がそれであった。

星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。しかし、明治のうちに星野家が断絶し、建物は緑区大間木の大熊家に移築された表門以外ことごとく破却されてしまった。「明治天皇行在所」の碑が往時を偲ばせる。その後は公園化され、さいたま市の史跡となっている。

大山道との追分

浦和宿は、北は日光街道と連絡し、南は府中通り大山道と結ぶ、追分の地勢にあった。 詳しくは導入部で既に述べているので参照のこと。

鰻の食い納め

江戸方に一つ手前の蕨宿の項目でも述べているが、この界隈を越えて上方(京側)へ向かうと、しばらくの間、(うなぎ)を食せる店が無くなってしまう。 そのため、ここで食べていく客が多く、蕨宿と浦和宿はともに鰻で有名な宿場町であった。また、江戸に向かう旅人は、戸田の渡しを越えればついに江戸という立地であるため、宿泊し、精をつけるため鰻を食することも多かった。仕入れていたのは別所沼(現・さいたま市内)で獲れた鰻である。現在でも浦和区を中心に鰻の老舗が軒を連ねており、浦和うなぎまつり浦和うなこちゃんなど鰻に関する文化が残る。

浦和宿近隣の地域

この節は浦和宿ではなく、近隣の解説である

焼米坂

蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある[8]。 江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。 当時の焼き米というのは、(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。 これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。 旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。

浮世絵師渓斎英泉が浦和宿を描くにあたって着目したのは、この焼き米売りの茶屋であり、焼米坂手前を視点として浦和宿と浅間山を望む構図であった(右上の画像を参照)。

調神社と兎の神使

手水舎にも兎

浦和宿の少し手前にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。 その後、「調(つき)」は音韻によって「(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。 それゆえ(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ならぬ兎である。 また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるともしている。 [note 1]

六国見

『木曽路名所図会』に「富士 浅間 甲斐 武蔵 下野日光 上州伊香保など あざやかに見えたり」とある全方位的に見晴らしのよい名所として知られ、「六国見(ろっこくけん)」と呼ばれていた。

一本杉の仇討ち

文久4年(1864年)1月23日の朝に、水戸藩家臣・宮本鹿太郎とその後見人3名が、千葉周作門下の元・丸亀藩浪人・河西祐之助を父の仇として討ち、4年越しに本懐を遂げたという、「一本杉の仇討ち」の現場と伝えられる。 河西は乗り合わせた舟中で宮本の父と口論となり、その命を奪ってしまった者であったが、その後、僧となるために江戸へ下る途中であった。 河西を哀れんだ村人が供養塔を建てたが、今はそれも失われ、「一本杉」と刻まれた石碑が針ヶ谷3丁目の旧中山道脇にひっそりと建つばかりである。河西の墓は近くの廓信寺にある。

半里塚の欅

与野駅東口前の交差点に半里塚として推定樹齢300年高さ13メートルの欅があったが、2008年に樹木医の診断で根本部分に回復不能の腐食が見つかり、2010年5月19日深夜に管理者のさいたま市によって伐採された。与野駅構内に幹が展示されている。

お女郎地蔵と火の玉不動

江戸時代、隣の大宮宿に柳屋という飯盛旅籠があり、街道筋でも評判の千鳥・都鳥という美しい姉妹が旅人の相手をしていたという。 やがて千鳥が宿場の材木屋の若旦那と恋仲となり、末は夫婦にと固い約束を交わす。 ところが、関八州を荒らし回る大盗賊・真刀徳次郎が横恋慕し、何が何でも千鳥を身請けするとしつこく迫り、挙句の果てには宿に火を点けると凄んで手を付けられなくなった。 これを知った千鳥は思いあまって、高台橋から身を投げてしまったという。 今日、高台橋の傍らにひっそりと佇む女郎地蔵は、千鳥を哀れに思った町の人々による建立と伝えられる。

さて、千鳥の悲劇があった頃、高台橋付近では鬼火火の玉)が多く見られた。人々はこれを高台橋から身投げした千鳥の霊魂であるとか、傍らの不動明王像の悪戯であるなどと噂し合った。 そんなある日の夜、一人の男が松の陰に潜んでいると、谷間から鬼火が現れた。これに怖れおののいて、男は鬼火に向かって出鱈目に斬りつける。すると大きな悲鳴が聞こえ、そして、物凄い形相の男が姿を現わした。その男は 「俺は不動明王だ。お前に剣を斬り落とされた」 と言い残して消えてしまった。 この話を聞いた人々が翌日様子を確かめに行くと、怖ろしい顔をした不動明王像は剣を持っていなかったという話である。 以来、像は「火の玉不動」と呼ばれるようになった。

名所・旧跡

江戸方から上方へ、おおよそ道なりに記す。

根岸
かつての浦和宿内
  • 玉蔵院 :平安時代、空海によって開かれたと伝えられる古刹。所在地は浦和区仲町2丁目3。
  • (浦和御殿) :「#浦和御殿」参照。痕跡なし。所在地は浦和区常盤1丁目(常盤公園)。
  • 星野本陣跡 :「#宿場より市場の賑わい」参照。所在地は浦和区仲町2丁目6。
  • 慈恵稲荷神社 :『諸国道中袖鏡』に「宿の内 左にいなりの社あり」との記述あり。所在地は浦和区常盤1丁目。
  • 六斎市(二七の市)跡、市場杭跡 :「ニ七市場跡標柱」と「御免市場之杭」の石碑。「#宿場より市場の賑わい」参照。所在地は上に同じ。
  • 氷川女体神社大宮区氷川神社とともに武蔵国一宮とされる。社伝は崇神天皇の時代の創建とする。
  • 廓信寺岩槻藩主高力清長の追福のため、家来の中村吉照が慶長14年(1609年)に建立した寺。所在地は浦和区北浦和3丁目15。
  • 針ヶ谷陣屋跡 :幕府直轄領(天領)であっただけに浦和一帯に陣屋は多く設けられていた。
かつての浦和宿以北
  • 庚申塔
  • 一本杉の碑 :「#一本杉の仇討ち」参照。所在地は浦和区針ヶ谷3丁目2。
  • 半里塚跡 :一里塚と一里塚の間に作られた半里塚の跡。旅路の目印として植えられた(ケヤキ)が、古木となりながらJR京浜東北線与野駅東口前交差点の東側に今も残る。所在地は浦和区上木崎2丁目。
  • 六国見) :「#六国見」参照。現存せず。
  • 鴻沼用水(高沼用水)
    • 高台橋(たかだい-ばし) :享保14年(1729年)に見沼代用水を分水し、高台であった場所を掘り割って鴻沼用水に通水し、架橋したのが始まりである。当初は土橋であったが、老朽化にともない煉瓦造りのアーチ橋に架け替えられた。所在地は大宮区北袋町1丁目。観光は考慮されていないため、コンクリート壁とフェンスに隔てられており見づらくなっている。
  • お女郎地蔵、火の玉不動 :「#お女郎地蔵と火の玉不動」参照。所在地は高台橋と同じ。

交通の基本情報

中山道の行程

  • 江戸・日本橋から三条大橋までの全行程 135248(約532.8km[9])中
    • 江戸・日本橋 - 浦和宿 6里6町(約24.2km[10]
    • 蕨宿 - 浦和宿 1里14町(約5.5km[11]
    • 浦和宿 - 大宮宿 1里10町(約5.0km[12]
    • 浦和宿 - 京・三条大橋 129里18町8間(約509.0km[13]
  • 江戸期の成人男性は通常、旅の1日におよそ10里(平地を8- 10時間で約40km、時速約4- 5km)を歩く。[14]

中山道の一里塚

(5里) - 浦和 《非現存》(6里) - 大宮 《不明》(7里)

隣の宿、分岐

本街道
  • 中山道
蕨宿 - 浦和宿 - 大宮宿
脇往還
相模大山詣での道の一つであり、浦和宿とは荒川の渡し場を通じて結ぶ。

現代の交通

脚注

  1. ^ 「きそじ-の-えき うらわ-しゅく あさまやま-えんぼう」と読む。当時木曽街道と呼ばれた中山道の名所を描いた名所絵浮世絵風景画)『木曽街道六十九次』の1枚。
  2. ^ 名所絵では起点と終点も数に入れるため、表記上の数がずれる。したがって、浦和宿は「第四」の画。
  3. ^ 現在では、埼玉県に属する第2の宿。
  4. ^ 宝亀2年(西暦771年10月27日以前は東山道武蔵国足立郡。
  5. ^ 中山道浦和宿と本陣・脇本陣 星野英一
  6. ^ 浅野長政によって出された喧嘩口論等に関する禁制などあり。
  7. ^ 斎戒と六斎日は神道にもあり、斎日はキリスト教にもあるが、本題の「六斎市」と関係しているのは仏教の八斎戒に由来の六斎日である。
  8. ^ その他さまざまな呼称を持ち、現在、公式には「浦和坂」という。
  9. ^ 1=3.9272727km1=0.1090909km=0.0018181818km。 135里=530.181814km、24町=2.6181816km、8間=0.0145454544km。135里+24町+8間=532.814541km
  10. ^ 6里=23.5636362km、6町=0.6545454km。6里+6町=24.2181816km。
  11. ^ 1里=3.9272727km、14町=1.5272726km。1里+14町=5.4545453km。
  12. ^ 1里=3.9272727km、10町=1.090909km、1里+10町=5.0181817km。
  13. ^ 129里=506.618178km、18町=1.9636362km、8間=0.0145454544km。129里+18町+8間=508.59636km。
  14. ^ 徒歩については「歩く」「徒歩旅行」を参照。短い距離を想定した現代の不動産業の基準値は、時速4.8km(「徒歩所要時間」参照)。

関連項目

参考文献

  1. ^ a b c 亀井千歩子ほか 『中山道を歩く』改訂版 山と溪谷社〈歩く道シリーズ 街道・古道〉、2006年、15-17頁、ISBN 4-635-60037-8 :一部を除く。

外部リンク