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2016年11月29日 (火) 00:41時点における版
栗橋宿(くりはしじゅく)は、江戸時代に整備された奥州街道・日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場町である。当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。現在の埼玉県久喜市栗橋区域に相当する。
背景
この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。
江戸時代以前の街道(および整備される以前の日光街道)は幸手宿から北東に向かった先に、古くから旧渡良瀬川(現利根川)を渡る渡船場があり、房川渡し(ぼうせんのわたし)と呼ばれていた。渡河した左岸には旧栗橋村(現在の茨城県猿島郡五霞町元栗橋)があった。そこから北上して現在の古河市へ入った[1]。
沿革
栗橋宿の成立
慶長年間に、地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、上河辺新田(現栗橋地区)が開墾された。その後、元和2年(1616年)に日光・奥州街道筋が付け替えられ、その地に利根川渡河の宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿は利根川対岸の中田宿と合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、本陣を代々務めた。
栗橋宿から中田宿につながる奥州街道・日光街道の間には利根川が交差している。しかし、軍事上の目的から架橋されなかっため、代わりに渡船場が置かれ房川渡しと呼ばれていた。また、利根川沿いには、房川渡中田関所が設置された[2]関所は、当初中田側に設置されていたが、寛永元年(1624年)に栗橋に移設した。正式名称は「房川渡中田御関所」であるが、通称「栗橋関所」とされた[3]。
栗橋は「日本六十余州国々切絵図」によると幸手、杉戸、吉川を含み、下総国の国絵図にて描かれている[4]。この地域に残される区域の国郡名によると、寛永11年(1634年)10月までは下総国猿島郡または葛飾郡と記されるが, 寛永14年(1637年)7月には武蔵国葛飾郡に編入されていていた[5]。
栗橋河岸は、元禄3年(1690年)に、利根川右岸、利根川と権現堂川との分流点である分岐部近隣に成立した。
栗橋宿の規模は、天保14年(1843年)の記録によると人口1,741人、本陣1、脇本陣2、旅籠25軒、家数404軒、であったという[6]。
栗橋河岸
栗橋河岸の成立は、『徳川禁令考』によると、元禄3年(1690年)との記述がある[7]。 日光・奥州街道(陸羽街道)と利根川が交差しており、栗橋河岸は栗橋宿の東方、利根川右岸、利根川と権現堂川との分流点である分岐部近隣にあり、対岸に中田宿が位置していた。栗橋河岸の呼称は、明和・安永~文化年間にかけて栗橋宿河岸であったが、寛政以降には栗橋河岸となった[8]
天保14年(1843年)の記録によると、栗橋河岸の舟数は公儀渡し舟2艘、茶舟5艘、馬舟2艘があった[9]。利根川筋で「輸送物資の積み降ろしをするため、その際に輸送物資の確認をするために関所や番所が併設された」河岸場には、栗橋の他、関宿があった[10]。
房川渡中田関所(栗橋関所)と房川渡
房川渡中田関所(ぼうせんのわたしなかたせきしょ)とは、江戸時代に奥州街道・日光街道の利根川筋(現大落古利根川)に設置された関所の一つである。奥州街道・日光街道の栗橋宿から中田宿の間、利根川筋古利根川沿いにあった。日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、関宿と並ぶ江戸の北方を守る要地であった。
概要
江戸幕府は防衛上の理由から、大河川に橋を架けず、奥州・日光街道の利根川筋に渡船場が設置された。これは、古名を引き継ぎ、房川渡と呼ばれた。そして「江戸の治安を図る爲・・・(中略)・・・設けられたのが関所がある」[11]。
寛永元年(1624年)に房川渡中田関所が創設された[12]当初は中田宿側に関所が置かれていたが、対岸の栗橋宿側に移された。正式名称は「房川渡中田御関所」であるが、「栗橋関所」を通称とした[3]。『房川渡中田関所文書』の「嘉永元申年十月」によると、関所の面積が縦14間1尺、横15間1尺であり、その中に約16坪の番所があったという[13]。また、関所内には、三道具(突棒、刺股、袖搦)が置かれていた[14]。
房川渡中田関所の通過は、寛永8年の『御関所改之儀書上候覚』にて規定され、同時代の他の関所とほぼ同様であった[15]。中山道の木曽福島関所、碓氷関所や東海道の箱根関所、北国街道の関川関所、甲州街道の小仏関所と同様に「入鉄砲に出女」を取り締まっていた[16]。
房川渡中田関所における「入鉄砲に出女」
本関所の武器類の搬送には、「入り鉄砲」には老中証文を定法とされ、房川渡中田関所最古の鉄砲手形(寛文3年(1663年))が『元禄十年、享保六年迄御関所御諸記』[17]に記されている[18]。房川渡中田関所における武器類の搬送は、天保8年(1837年)の『文化三寅年同四年夘六月迄、御関所御用書抜』[19]から鉄砲勘過規定の指示が残されている[20]。房川渡中田関所での鉄砲搬送方法は、老中裏印証文、留守居衆断状、勘定奉行証文、老中の宿継証文、そして持ち主・家来証文による5つの方法があった[21]。
本関所の女子の通過には、元和2年(1616年)幕閣連署による『船渡定』にて『惣別江戸え相越もの不可改事』と規定されたことから、「江戸へ入る女性の場合は女手形を必要とせず、口上で断って通ることができた」[22]という。
関所廃止以降
1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続した。1924年(大正13年)の利根川橋の完成によって、房川渡はその役割を終えた。
1924年(大正13年)、旧堤上に「栗橋関所址」の記念碑が旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により建碑された。
1961年(昭和36年)9月1日には「栗橋関跡」として、県の旧跡に指定された。
交通
- 隣の宿
- 日光街道、奥州街道
脚注
- ^ 小手指・前林・釈迦を経由し赤堀川開削以前の微高地を北上した。
- ^ 加藤(1996)26・27頁。
- ^ a b 大島(1938)a、381頁。
- ^ 白井(1998)、121頁。
- ^ 白井(1998)、122頁。
- ^ 加藤(1996)27頁。
- ^ 加藤(1996)27・28頁。
- ^ 加藤(1996)、26頁。
- ^ 加藤(1996)27頁。
- ^ 小林・苦瀬・橋本(1999)、127・128頁。
- ^ 大島(1938)a、382頁。
- ^ 大島(1938)a、382頁。
- ^ 大島(1938)a、382頁。
- ^ 大島(1938)a、383頁。
- ^ 大島(1938)b、461頁。
- ^ 金井(2000)、59・60頁
- ^ 栗橋町、『足立正路家文書』に拠る。
- ^ 金井a(2000)、60-62頁。
- ^ 栗橋町、『足立正路家文書』に拠る。
- ^ 金井a(2000)、69-72頁。
- ^ 金井a(2000)、81頁。
- ^ 金井b(2000)、102頁。
参考資料
古文書(一次資料)
- 『日光道中宿村大概帳』天保14年(1843年)。
- 「元禄十年、享保六年迄御関所御諸記」『足立正路家文書』寛文3年(1663年)。
- 「文化三寅年同四年夘六月迄、御関所御用書抜」『足立正路家文書』天保8年(1837年)。
- 「嘉永元申年十月」、『房川渡中田関所文書』巻2
和書
- 大島延次郎a「房川渡中田關所の研究 (其一)」『地学雑誌』第50巻第8号、東京地学協会、1938年、381-386頁。
- 大島延次郎b「房川渡中田關所の研究 (其二)」『地学雑誌』第50巻第10号、東京地学協会、1938年、461-467頁。
- 加藤光子「利根川改修計画による栗橋河岸の変化」『文教大学教育学部紀要』第30巻、文教大学教育学部、1980年、26-33頁。
- 金井達雄a「鉄砲証文-老中裏印証文及び留守居断状の存在と役割: 房川渡中田 (栗橋) 関所を事例として」『駒澤史学』第56巻、駒澤大学、2000年、58-87頁。
- 金井達夫b「房川渡中田関所(栗橋関所)における関所破りと磔刑」『交通史研究』第46号、交通史学会、2000年、99-106頁。
- 小林高英、 苦瀬 博仁、橋本一明「江戸期の河川舟運における川舟の運航方法と河岸の立地に関する研究」『日本物流学会誌』第11号、日本物流学会、1999年、121-128頁。
- 白井哲哉「「日本六十余州国々切絵図」の地域史的考察-下総国絵図を事例に」『駿台史学』第104号、駿台史学会、1998年、117-130頁。