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「伊曽乃神社」の版間の差分

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== 歴史 ==
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=== 創建 ===
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社伝によれば、第13代[[成務天皇]]7年に伊予[[御村別]](みむらわけ)<ref>[http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/iyo-wake.htm <i>伊豫國[[和氣郡]]</i>]</ref>の祖の[[武国凝別命]]([[景行天皇]]の皇子)が[[東予地方]]を開拓するにあたり、[[皇祖神]]である[[天照大神]]を祀ったことに始まるという。武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて[[伊勢国]]から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いたという(「御船森」は[[御舟川]]沿いにある)。
社伝によれば、第13代[[成務天皇]]7年に伊予[[御村別]](みむらわけ)<ref>[http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/iyo-wake.htm ''伊豫國[[和氣郡]]'']</ref>の祖の[[武国凝別命]]([[景行天皇]]の皇子)が[[東予地方]]を開拓するにあたり、[[皇祖神]]である[[天照大神]]を祀ったことに始まるという。武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて[[伊勢国]]から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いたという(「御船森」は[[御舟川]]沿いにある)。


[[孝徳天皇]]の[[大化]]年中([[645年]]{{ndash}}[[650年]])にこの地方が「[[神野郡]]」(のちの新居郡)と命名されたのは、当時にこの神社がすでに栄えていたことに由来するとする説がある。
[[孝徳天皇]]の[[大化]]年中([[645年]]{{ndash}}[[650年]])にこの地方が「[[神野郡]]」(のちの新居郡)と命名されたのは、当時にこの神社がすでに栄えていたことに由来するとする説がある。

2016年11月29日 (火) 00:18時点における版

伊曽乃神社
拝殿
拝殿
所在地 愛媛県西条市中野甲1649
位置 北緯33度53分34.0秒 東経133度11分12.8秒 / 北緯33.892778度 東経133.186889度 / 33.892778; 133.186889 (伊曽乃神社)座標: 北緯33度53分34.0秒 東経133度11分12.8秒 / 北緯33.892778度 東経133.186889度 / 33.892778; 133.186889 (伊曽乃神社)
主祭神 天照大神荒魂
武国凝別命
社格 式内社名神大
国幣中社
別表神社
創建 (伝)第13代成務天皇7年
本殿の様式 神明造
例祭 10月15日16日
地図
伊曽乃神社の位置(愛媛県内)
伊曽乃神社
伊曽乃神社
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一の鳥居

伊曽乃神社伊曾乃神社[1](いそのじんじゃ)は、愛媛県西条市中野にある神社式内社名神大社)。旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社神紋は「御所車[2]。古くは「磯野宮」とも称した。

祭神

祭神は次の2柱。2柱をして「伊曽乃神」と総称する[3]

祭神は、はじめは1座で「伊曽乃神」といったとする。社伝および旧記によると、はじめの一座は天照大神の荒魂で、のちに武国凝別命を加えて2座となったとする。主神の天照大神は本殿内陣の正中に奉斎され、脇殿神の武国凝別命はその左に祀られている。

境内社

歴史

創建

社伝によれば、第13代成務天皇7年に伊予御村別(みむらわけ)[4]の祖の武国凝別命景行天皇の皇子)が東予地方を開拓するにあたり、皇祖神である天照大神を祀ったことに始まるという。武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて伊勢国から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いたという(「御船森」は御舟川沿いにある)。

孝徳天皇大化年中(645年 – 650年)にこの地方が「神野郡」(のちの新居郡)と命名されたのは、当時にこの神社がすでに栄えていたことに由来するとする説がある。

概史

文献では、古く『続日本紀天平神護2年(766年)条において、「伊曽乃神」に従四位下の神階を授けるとともに神戸5烟を充てる旨が記されている。『新抄格勅符抄大同元年(806年)牒では、当時の「伊曽乃神」には神戸として伊与国から15戸が充てられていたが、そのうち10戸は天平神護元年10月の符、5戸は天平神護2年12月3日の符によるとしている。

その後の国史では、貞観8年(866年)に正四位下、貞観12年(870年)に正四位上、貞観17年(875年)に従三位に昇叙された旨が記されている。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では伊予国新居郡に「伊曽乃神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

永治元年(1141年)には正一位に叙され、崇徳天皇より勅額を賜ったという。

天正13年(1585年)には豊臣秀吉の四国征伐により社殿・社宝等兵火にかかって一切焼失し、難を避けて土佐国へ遷座。慶長11年(1606年)旧地に復座する。

近代社格制度の発足に際しては、祭神不詳として官社の認可を受けられず、伊予国第一県社とされる。昭和15年(1940年)長年の昇格運動が実り、国幣中社に昇格した。

近年は「ISOの神社」の語呂合わせからISO取得・永続の祈願を行っている。

神階

  • 天平神護2年(766年)4月19日、従四位下 (『続日本紀』) – 表記は「伊曽乃神」。
  • 貞観8年(866年)閏3月7日、従四位上から正四位下 (『日本三代実録』) – 表記は「礒野神」。
  • 貞観12年(870年)8月28日、正四位下から正四位上 (『日本三代実録』) – 表記は「礒野神」。
  • 貞観17年(875年)3月29日、正四位上から従三位 (『日本三代実録』) – 表記は「礒野神」。

境内

文化財

重要文化財(国指定)

  • 与州新居系図 凝然筆 1巻(古文書)
    鎌倉時代の古系図。伊予地方の豪族の新居氏系図を、一族で東大寺の僧の凝然が弘安4年(1281年)頃に書写したもの。和気系図(滋賀県の園城寺蔵)・海部系図(京都府の籠神社蔵)と合わせて「日本三大古系図」と称される。昭和27年3月29日指定[5]

その他

  • 伊曽乃大社祭礼略図

例大祭

伊曽乃神社例大祭10月15日・16日[6]
楽車(だんじり)(舁き山車)77台、御輿屋台(みこし)(曳き山の太鼓台。氏子の奉納屋台で神輿(おみこし)とは違う)4台が奉納され、一つの神社に奉納される山車の数としては全国最多ともいわれ 他の地方に例を見ない大規模なものである。

伝承

地元の伝説によれば、その昔、伊曽乃の女神と石鎚山の男神が加茂川の畔で出会った。二人は恋仲となり、女神は結婚を迫った。しかし男神は、石鎚山で修行を続けなければならないために結婚はできないと断った。しかも石鎚山上は女人禁制のため、同行は許されない。「修行を終えれば結婚するのでそれまで待ってほしい。山頂から三つの大石を投げるので、真ん中の石が落ちた所に館を造って待つように」と言い残して山へ登った。間もなく、石鎚山から三つの石が飛んできたので、真ん中の石が落ちたところに営まれたのが伊曽乃神社だという。現在、伊曽乃神社の一の鳥居の脇には、石鎚の神の投げ石と伝えられる石が残っている。

著名な参拝者

脚注

  1. ^ 伊曾乃神社
  2. ^ 伊曽乃神社 由緒
    源氏車と同じ車紋の一種
  3. ^ 由緒(公式サイト)。
  4. ^ 伊豫國和氣郡
  5. ^ 与州新居系図〈凝然筆/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
    与州新居系図 (PDF) (愛媛県教育委員会)。
  6. ^ 「年中行事事典」p48 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版

関連図書

外部リンク